goo
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

マジックカットはダメダメなんだけど

matasaburo氏の文体に強烈に好意と嫉妬を感じてしまいました、仕事中に吹きそうになりました。おまけに知性を感じてしまったので敗北感1MPaです。悔しいのでこの思いを晴らすためネタにマジレスします、技術屋の根性を覚えとけ!

書評:マジックカットを抱きしめて~服従するが果たさない

matasaburo氏はマジックカットにかなり情熱を注いでいるが、筆者が確認するまでも無く何回も納豆のたれで開封ミスを犯している、万人に受け入れられる設計であればこのような事は無いはずだ。マジックカットの設計思想はmatasaburo氏に伝わっているが、設計思想が伝わっていて、かつ使いこなせていない現実がある。

ここで技術的な解説を行っておく。袋を構成する材はプラスティックフィルムで、この素材は伸び易い。なので易開封性を実現するにはせん断力が掛かり易いように、ノッチと呼ばれる切り欠きを設けるのが普通である。

その形態は単に切り込みを入れたIノッチ、V字状に入れたVノッチ、六角形状の亀の甲などがある。ノッチの底にきちんとせん断力を与えることによって開封できるのだ。また視認性を高めるためにVノッチや亀の甲を用いる。誤開封を防ぐにはせん断力をノッチ部に応力集中することである。フィルムをつまんだ指と指の距離が大きければ大きいほど、せん断力が分散すると同時に横に引きちぎる力が加わり、結果フィルムが伸びてしまって切れなくなる。失敗の多くはこの現象だ。

マジックカットはこのノッチの一形状で、微細なノッチが無数にあるため「どこでも切れる」というわけです。なのでマジックカットは開封に失敗しても再チャレンジの可能性が無数にあります。失敗は事実上ありません。コツがあるとすれば掴む指(爪)と指(爪)の間を短くし、せん断力の応力集中を意図することです。

ところがmatasaburo氏が誤開封をカミングアウトなされています、根性が無いと推察します。マジックカットにはノッチが無数にあるので失敗<再チャレンジであればマジックカットは無敗のはずでした、ところがmatasaburo氏がその掟を破りました、失敗→再チャレンジの否定です。

これは設計時にとても考えなかった事象でしょう。開封の原理が分かって、かつ設計思想が伝わらないと技術を活かせない典型例がここに存在します。おーまいごっど。

少し話がおちゃらけてしまいました、このエントリーはマジレスです。

マジックカットは応力集中に問題がある上、それをマジックカットだと認識できない人にとっては開けられない事態を招く、印刷が小さい上、その単語が普及していないので失敗者続出である事は容易に想像できる。

これに懲りてマジックカットを持ち上げすぎるのは遠慮していただきたい。見易いノッチを褒めましょう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

フリーターや派遣の矜持は政府によって妨げられている件

前回のエントリーで正社員と派遣はそもそも職種が違うと述べた。では派遣はどのような業態が好ましいのか、欧米やバブル期日本を想定して考えてみる。

派遣と言うシステムは昔からある。例えばとび職や高級飲食店のホールスタッフ、1人請負(自営業)も入れるとトラックの運ちゃんなど。どれも職業としての一定のスキルが期待されてそれに応えられる業態が多い。当然であるが彼らの日給は1万円以上で、リーダーは3万以上稼ぐであろう。リーダーを経て独立するのが王道ではないか。もちろんそこまで才覚が無ければ、職能者としてのスキルを磨き日給2万とか。ちなみに金額は職人の手取りなので実際に払われる金額はもっと多いはず。企業は人員の弾力性を派遣で賄うので実時給換算で言えば決して安くない、というか高い。日給2万稼げて月20日働けば若くても額面40万だ、残業したり休日を削ればもっと行く。若い大手サラリーマンよりは稼いでいる。人材派遣というシステムはプロフェッショナルを売りにした業態だと言うこと。

一方当時工場などメーカーではアルバイトやパートさんを使っていたような気がする。メーカーの労働ダンピングはすごくて、パートと言うのは収入の上限規制があるので、最低時給に近い価格で雇っていた。それでも人材確保が難しくなったり、メーカー工場の総務課がアルバイトやパートの面談をするのは大変で派遣会社にアウトソーシングしてきたということだ。多少は高くても総務課に1~3人貼り付けるよりも派遣会社に頼んだ方が安いのであろう。

就職氷河期世代が不幸なのは派遣というフリーターに成ったと言うことだ。フリーター等は前述のようにスキルが上がる訳でもなく、教育を受けられるわけでもないということ。しかもパートと言う労働ダンピング率先者との競争に晒されるので給料も上がらない。飲食店などのアルバイトは暇だけはある学生との競争なのでこれまた分が悪い。

そうであれば零細企業でも就職してなんらかのスキル(営業とか職人とか)を磨いた方が良かったと言うもの、スキルさえあればのちのち転職出来るじゃん。フリーターに誘導させたことが失敗だったといえる。まぁそんなこと後出しじゃんけんで言っても仕方が無いが。

少し整理しよう。派遣と言う名のフリーターはスキルが上がらない、またパートタイマー・学生による労働のダンピングに直面しているということ。

政府が面倒見るところといえばここしかないと思うのだ。派遣禁止などと寝言を言っている場合じゃない。「1つは主婦への減税→労働ダンピングの推奨」を辞めさせること。これは簡単だ。主婦の恩恵を全て取っ払い、浮いたお金で育児支援をすれば良いのだ。保育園~公立高校まで全て無料にするのもいいし、子供1人幾らのゲンナマでもいいし。企業も主婦の年金・健康保険を払わなくて済めば給料が上がる。

もう1つのモデルは欧米モデルであろう。以前も述べたが欧米ではどうも労働のダンピングしてまで働かなくてもいいじゃないかと思っているという節がある。失業率を見れば一目瞭然だ。生活保護や職業訓練が厚いと言うこともあろうが、失業率10%以上と言うのは日本人から見れば異常としか思えない。日本ではぶらぶらしているくらいなら労働のダンピングでも何でもして働け!「働かざる者食うべからず」となる。社会が労働ダンピングを許容(推奨・率先)しているのだ。これは先進国のモラルとして少し考え直してもいいのではないかとも思える。日本の税金が安いと言う実態はこの部分の支出が少ないからかもしれないし、失業率10%の国が良いとは思えないのも事実だ。

おまけに他にも弊害がある。賃金の上昇は確実に物価高騰を招く。その結果あんまり消費が変わらないなぁというのでは困るかもね。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

裁判員制度は誰のためにあるか

小ネタです。

標題の件、誰が裁判員制度を望んでいるのであろう。司法への不満もあまり聞こえないし、司法が国民の関与の仕方に不満があるとしてもなぜこのような大掛かりなシステムが必要なのか教えてエロイ人。

裁判員制度というか陪審員制度の起源は人種差別や階級差別に根ざしたものと理解している。例えばWASPとユダヤが利権を独占した新大陸でラテン系などが不利を受ける構図。日本にはそのてのものが存在するが(在日コリアンは)国籍からして疑問が湧くし、被差別も顔を見て分かる性質ではないし。

階級的だとか民族的だとかの不利が小さい日本では階級闘争の象徴のような気がする裁判員制度の存在価値が分からないのだ。法曹界がそれを望むなら分かるが費用がかかるだけで、法曹界にとっても面倒で、結局誰のためなのか、理論上の背景も全然伝わってこない。

麻生さん、これを潰せば「改革派」になれるよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

解雇規制で正規雇用・労働需要は語れない

池田氏が解雇規制が労働需要を妨げているという論陣を張っているが違和感がある。理論的には分かるのであるが実際とはかけ離れていると思う。

まず「派遣」に近い業態はそこかしこで見られる。とび職や大工などの建築従事者も施工主から仕事の依頼を受け、派遣されるというシステムであろう。建築需要が少なくなれば仕事が少なくなるのは当然のこと。トヨタなどで起きている請負派遣の契約延長が為されないのもこれと同義であろう。違うのはとび職は職人で手に職をもつということか。バブル時期などで需要>供給状態であれば賃金は高い、逆に需要<供給であれば賃金が下がるか仕事が無くなる。

池田氏はノンワーキング・リッチ(とくにこれ)が解雇規制の象徴として取り上げているのであるが、さすがに無理がある。企業の体力があれば社風として残すのもありだと思うし、解雇できなければ仕事に応じて給料を下げて、他に回せば良いだけだと思う。それを労働組合が認めるかどうかは別の問題だが(給料が下がらない保証というのは転職を考えないインセンティブになると思う)。

余談だが「腰掛OL」予備軍というのは最初から派遣や準社員でいいのかもしれない。バリバリの事務員を養成する気がないのであれば、少数の幹部候補生とあとは4~6年で入れ替わると割り切るのも手だ。言い方は悪いが社員へ嫁を斡旋する厚生と割り切るわけだ。

派遣に求められる仕事と社員に求められる仕事は質というか目的が違うので、代替不可能じゃないかと思うのだ。派遣は切られる代わりに辞める権利も有している(辞めるハードルも低い)ので、社員的な教育を施せない。なのでTVに出てくる派遣はいわゆる典型的な派遣で社員としての社会常識がちと欠けている。

大手企業(業界1位企業)でも最近は転職を受け入れていると聞く。私がお付き合いしているサプライヤーさんでも転職はしょっちゅうだ。社員は新卒だけでは無い事実を無視してもらっては困る。就職氷河期時代の世代は就職先が無かったというのは事実であろう、しかし探せばいくらでもあるのだ。もちろん大企業新卒エリートって訳にはいかないのであろうが。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

真っ暗闇での体験

真っ暗闇を体験してみないかと友人に誘われてDIALOG IN THE DARKというイベントと言うかエンターテインメントに行って来ました。

コンセプトは真っ暗闇を視覚障害者のアテンドのもと行動するということ。歩いたり、家に入ったり、飲食店に行くという日常の行為を視覚を遮断して体験するというものです。

実にすばらしかった、楽しい、異常体験であった。アテンドの方が面白いと言うのもあるかもしれないが。すばらしい体験を出来るだけ伝えたいと思います。

1回90分で実質の暗闇体験は70分ほどでした(あとは説明だったり質疑応答だったり意見交換だったり)、1チーム8人で1人のアテンドが付きます。私の場合は3-3-1の3チーム7人でした。料金は5~7千円です。

優先度が低いと言うかでも一般人の興味のある点から紹介したいと思います。

③ 仲良くなれる
チームが仲良くなるように名前を紹介し、ゲームを行いスキンシップへの抵抗感を拭い取ります。視覚が遮断されているとテレがないのが不思議。

視覚が利かないのでほんの少しでも周りから離れると不安になります。なので手の甲を前に突き出し周りに誰か居るかを確認しながら進みます。当たったら「○○です」と名前を名乗って存在をアピールします。

また水やテーブルに乗っている物を紹介しあったりするのですが、名前を確認しながら直接手渡しなので親近感は異常に増します。

別にスケベ心ではないですが、声の可愛い若い女性やきれいな女性ともスキンシップバリバリでした。ほんの1時間の共有体験でしたがもう全員と友達になったような気分でした。彼/彼女にしたい連れを誘えば親近感はぐっと増すのは保証します。私はすごく面白かったのですが、当然「そこまで面白いとは感じなかった」ことも想定できます。終わったあと「面白かったねぇ」と感想を強要しなければ、間違いなく親密になれます。実際、企業のチームの団結を目的とした利用もあるそうです。

②五感と四感の差異が楽しい
これはどういうことかと言うと、視覚での情報量が多過ぎていかに視覚に頼る=他の四感をスポイルしてるかと言う点を感じさせられる。「音を聞く」という行為1つにしても視覚を脳が処理すると相対的に四感は下がる。アテンドさんが言うには「視覚障害者は機能と言う点では聴覚・嗅覚・触覚に優れているわけではない」と言う。神経使い方だと。音楽を聴くとき目を瞑るのと同じでしょうね。

なのでびっくりするのだがアテンドさんは7人の居場所を常に把握している、全員の靴底の素材の違いや音が出易い地面と言うのもあるが。じっとしているとアテンドも分からなくなって名前を呼ばれる。声の方向などで場所を特定できるようだ。

暗闇でビールを頂いたのだが味がすごく良く分かる気がした。視覚に頼らない印象と言うのは奥が深い。

ちなみにバーと言う設定でサービスまでされたのだがはっきり言って異常。真っ暗闇で冷たいグラスを目の前に置かれ、缶ビールを注がれた。当然であるがこぼれなかった。

①視覚を奪われた不自由度とそれを克服しているひとの違い
当然これがすごい。へっぴり腰で分速2m/minくらいで移動をしているのだがアテンドさんはくるくると動き回る。まぁエリアの地図を把握している上、そもそもの(視覚無しの)トレーニングが為されているので当然であるが。なのでこの体験を行うと視覚障害者に愛を持てる。困っていれば手を差し伸べるなど。あと彼らは真っ暗闇の中ではスーパーマンなのだと自覚できる。

なんか高尚なイベントだと思うと敷居が高いですがエンターテイメントだと割り切れば非常に面白いと思います。グループ交際を発展させたい助平な男女にお勧めです。他のチームとも仲良くなってしまいますが。

 

感想というか印象

アテンドさんの個性が強いイベントだと友人は言っておりました。今回のアテンドさんは親密を盛り上げるのが上手い人だと思いました。他のアテンドさんは親密度よりも暗闇を克服するためのアテンドを行う人も居るようです。そういう人のアテンドを体験したいと思いました。

今回のアテンドさんは視覚がある人に分かり安い説明でした、多分もともとの全盲ではなくある次期に失明したのでしょう。そうでないと「視覚」という感覚をある場合と無い場合の説明は難しいでしょう。そのようなアテンドさんの方がこちらのもどかしさを分かってもらい易いのかもしれません。

是非体験して見てください。初めての方へと体験談

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

指示すら待たない部下を持つ上司

またDIAMONDonlineネタです。だってNBOnlineが面白くなくなっちゃったんだもん。

以前指示待ち部下を揶揄したエントリーを挙げた(これこれ)。この斜め上を行く記事があった。

マニュアル型部下は上司のせい? 部下を押さえ込む3つの要因~部下に悩む上司のための心理学

いやぁLink記事の内容を茶化してるわけじゃないんですよ、この記事は良い記事だと思います。しかし「良い記事」だと思って読んでいる人が痛いのです、記事の例が極痛です。 そこが笑いのツボです。

指示待ち社員の管理法~だめリーマンの思考法では指示待ち部下は上司が作っていると述べた。 要旨は部下の意見を聞かず、自分のやり方を押し付け、そのせいで指示待ちになっていると。自立・自律的に部下を育てられないのだからプログラマーに徹しろ、自分のプログラムミスを部下のせいにするとは何事だ。てな感じです。DIAMONDの記事でも前段の主張が全く同じなのが笑える。もちろん私の記事はネタ扱いなので対策案は180度違いますが。

引用します。

>「先生は話を聴けと言われますが、部下の未熟な話を聴いていたら、奴らの指導はどうなるんですか?」
>「でも、私たち上司の言っていることのほうが論理的でしょう?」
>「私は社会人としての経験を踏まえて発言しているんですよ」

このフレーバーは「ネタですか?」と聞きたくなる。上司側の立場に立った解説なのでネタ度としてはかなり低いのであろうが。重ねて言うが記事を馬鹿にしているのではない、この記事を真面目にうんうんとうなづいたり、反発する読者が居ると言うことがネタなのだ。

この上司、「指示待ち社員」作りとしてはかなりのボンクラだ。部下には気持ちよく仕事をしてもらうという視点が全く無い。是非私のエントリーを読んでもらいたい物だ。さらに非論理的だ。人の話も聴かずに指導するというのはありえないし、自分のやり方を押し付けているだけだ。指示を聞くように訓練しておきながら指示しないと動かないと嘆くのは全く論理的でない、プログラマさんに説教でも垂れられたら良いであろう。部下とのコミュニケーションが上手く行っていないことも読み取れる。ここまでくると部下は既に「指示すら聞かない部下」化しているであろう。指示待ち社員と言うのは良心的に考えると、「暇になったら『私は何をしましょうか』と質問」したり、「暇オーラを醸す」。ところがこの上司のボンクラ度合いから推定するに指示の内容も支離滅裂で部下は「聞くだけ損だ」と思っているに違いない。

多分このコラムはこのことを優しく丁寧に教えてくれるのであろう。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

小説に求めるモノ

軽い話題で。最近映画見て無いなぁ、徒歩1分で映画館があるというのに。

で、話は変わって作家開拓で、映画化されたりドラマ化されたりした小説を読むことが多い。古くは奥田英朗氏だったり最近は海堂尊氏だったり。

皆さんは小説家に何を求めますか?私は断然「文体」です。文体と言うのはその作家の個性そのものでプロットやストーリーよりも大事な部分だと思っています。なのでストーリーが面白くても文体に違和感を感じたり、嫌いな印象を持ってしまうとなかなかチャレンジする気がおこりません。

若い頃は村上龍のような乾いた文体を「かっこいい」と思う努力をしていたようですが無駄でした。というよりは現代文を拒否しているようです。

実は司馬がその典型でエッセイのような語り口が導入部にあるのが苦痛でした、現在は慣れましたが。「坂の上の雲」の正岡子規のくだりが苦痛で投げ出したくなりましたがやはり盛り上がりは戦争への突入期と現場の動きからですもの。どうも私は文学チックな、修辞的な表現が苦手なようです。そして海堂に男性的と言うか写実的に論理的に表現する手法に嵌っているようです。

その少し前は経済小説でした。事実ベースなのであとからならいろいろ書けたとはいえ高杉良氏の人間描写と写実的な人物描写にも嵌りました。そのおかげで幸田真音氏にも嵌りました。幸田は技術的な側面を縦に描いているので数年もしたら内容が陳腐化してしまうのですがそれでも面白いです。

文体重視なので海外モノは翻訳者に入れ込む事はあっても作家に入れ込む事は少ないようです。クライブ・カッスラーの冒険小説は面白いと思うのですが冒頭の歴史妄想やSF部分にはついていけません、まぁこれは訳者が悪いわけではありませんが。そういえば一時期シドニィ・シェルダンが流行ったことがあります。ミステリーなのですがストーリーが面白いのは当然として、超訳と名付けられた訳が良かったのだと思います。これも文体が本を読ませると言えるでしょう。

結局私は文体で作家を選んでいるんでしょう、あとジャンルもでしょうが。他の方々はどのような観点で小説を選んでいるのでしょう?流行、文体、対象、風俗、歴史?

意味の無さ過ぎる愚文でした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

世襲反対の機運

4月上旬に国会議員の世襲反対論への懐疑を述べた。与党と野党第1党の党首が世襲なのでこんなに盛り上がるとは当時思ってもみなかった。

鳩山兄氏が「世襲反対」と正面切って言うのは違和感あるよなぁ。

少し整理してみよう。自民党・民主党ともに世襲の定義は「地盤を引き継いでいる肉親」ということのようだ。政治家一家の鳩山党首は選挙区が違うから世襲ではないような言いっぷりであるが、定義がそうであれば問題ないのであろう。しかし世間一般では3バンと言うように、知名度・資金力・組織力があれば当選できると言う。違う選挙区であれば組織力だけが不足していると言うことになる。まぁその組織力も十分大事なのだと言うことであろう。

現在の世襲反対論の論点の多くは茶番だ。鳩山兄氏が「小泉新次郎氏が無所属で立候補して当選したら自民党に入るのは有権者をだましている」と述べるが有権者は小泉氏の境遇を分かっていて投票するであろう、別にだましてなんか無い。問題点はそこではないのだ。鳩山兄弟の選挙区民が鳩山一族と知らずに投票しているとでも思っているのか?不思議。党の姿勢として「世襲」を事実上認めていることを有権者が毛嫌いされ、選挙が不利になることを是正するためだとしたら、小泉氏を公認せずに対立候補を立てればよい。あとは横須賀市民の選択の問題だ。選ばれた議員の出自を問うのは逆差別主義だ。

それよりも何故そうなるのかという背景を考えた方が良いと思うのだ。その前に世襲で何が問題なのかを整理する。一義的には知名度が無いと参入できない市場なので意欲のある優秀な人材が参入する気をなくすと言うこと、その結果血統だけのボンクラが政治を行うと言う点だ。では何故ボンクラが牛耳れるかと言うと党は当選回数を能力よりも上位に見るからであろう。世襲は若いうちに立候補が可能なので当選回数で党の力関係が決まると言う事は有利に違いない。当選回数が少ない有能な人間を排除し、当選回数が多い人材の中で決めるシステムはよりボンクラ度合いが少ない程度の人材で政治を行っているということに他ならない。

また他国のリーダーに憧れてか若い人材を優遇する土壌もあるであろう、同程度の能力であれば若い方が有利だという。だとすれば世襲議員は若いうちから経験を積めるので有利だ、元首相の安倍氏はその典型であろう。

あれっ?どこぞの野党の党首の決め方がまさにそれだ。(論点は世襲でなかったが)党首立候補の資格を狭めるシステムで旧体制の影響力を残す論法はまさしく世襲の抱えている問題を明確にした。

では有権者はどうであろう。有権者は国が元気になることも重要ではあるが地元にお金を落す人が有能と言う考え方を取る方が自然だ。なので小選挙区では当選回数を増やして、地元に利益を還元する候補を作り出すことが重要なのだ。風とやらで候補を生かしたり殺したりする選挙区に議員はなんの力は無い、風のせいで党の力は盛衰したりするが。盛り上がった党の力は当選回数を重ねた人が牛耳るので都会(首都圏・関西圏・名古屋圏)の議員は存在価値が薄い。だから(安定した当選を行える)農村地域の政治家が地元・業界に利益誘導するのだ。当然だろそんなの。

政治家側からの論点を見てみよう。1票の重さを正せば(地方の方が1票の重さは重い)政治が変わると言うのは妄想だと思う。小泉チルドレンが権力を持たないのは馬鹿だからではなく次の選挙で落ちるのが分かっているから無視されるのだ。仮に次回当選してもその次はもう分からないので政治家自身の信条はなんの反映もされない、野田議員が復活したのは典型であろう。なので今回風に乗って新人民主党議員が増えても旧民社党や小沢氏近辺の意向が働くだけだ。

ということは世襲の問題点がボンクラ議員しか本質的な国政にタッチできないのはマズイと定義すると、問題点は明確になる。例えば衆議院議員が地元へ利益誘導する方法を無くすと同時に当選回数で発言力が決まるシステムを無くせばいいのだ。そうであれば論理的には世襲は全く関係ない。

 

ではこれを前提として少し案を提示してみる、幼稚なのは理解しているがなんの対案も出さないのも失礼だと思って。かなり飛躍してるが。

(1)衆議院は中選挙区制(地方ブロック制)にするか、全国区とする。

(2)ネットでの政治活動を認め、政治資金の流れをWebで全て公開する。

というのはどうであろう理由は参入障壁を低くすると同時に、2大政党性(小選挙区)を拒否するものだ。またWebで資金の流れが公開されており、倫理的な不正があれば、有能な自宅警備員が論理の矛盾を炙り出すであろう。

自民党のばら撒き政治はダメだけど民主党のばら撒き政治はもっとダメとなると投票できるのは公明党しか居なくなる。2大政党制はポピュリズムを増大させたと言う気がする。他国でも選挙の直ぐ後に連立を模索する記事が多い。キャスティングボートを握るであろう政党があっても良いと思うし、現在の2大ダメダメ党しか居ないと言うのはどうなのかしら、と思うのだ。また政治資金規正法が成熟し、(論理や政治力でなく)資金力で支配する構図はもう変わった。派閥の親分が資金をどうにかすると言う時代はもう終わったのだ。

連立を前提とした政治システムであれば、netで資金を公開すれば、新規参入の障壁も下がり、世襲も関係ないであろう。以上妄想でした。

 

ちなみに読もう読もうと思っていながら読んでないblogがあります。本当は政党(政治家)が地元を優遇して反発を買うリスクなどを相殺して考えなければ成らないと思うのですが省いています。

**DIAMONDonlineの政界への道が「閨閥」から「世襲」へ移った背景にある問題~政局LIVEアナリティクスに違和感を覚えたのもこのエントリーを挙げたきっかけであったが、次号(世襲より当選回数による人事システムこそが問題だ~政局LIVEアナリティクス)では同じ主張になっちゃった、上久保氏は当然前号の時期に今号も構想に入っていたであろう。。まぁ私の記事の方がほんの少し早いだけ良かった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

全知全能主義は来ないのか

標題の件、全知主義とは民主主義の対案としての存在で、全知全能の為政者がシステムを構築した方が効率的に成るであろうと言う妄想モードです。

民主主義がダメなのは明らかだ。私のように得意ジャンルが狭く、新聞やWebのネタを真に受け、あれこれ論ずるような奴は邪魔だ。馬鹿に懇切丁寧に教えるのは高コストだし、はたして本当に理解できるかと言うと全く自信が無い。その馬鹿が集団を拵え、耳障りのいい言説に唱えれば、カルト教団のように手におえなくなる。本人が正義感を持っているともうあっちの方向に行っているわけで。そもそも正義漢とは現実との調整が不可と言う存在なのだ。あっ、いえ、特定の誰かを指しているわけではありませn。あくまでも私がボンクラだと自覚しているのでこの段落の主語は「私」です。

そうなると北朝鮮のように、全能の独裁者がコントロールする世界の方が効率的だと言うものだ(北朝鮮の指導者が全能で無い事は明らかなのが泣ける)。もちろん指導者に私利私欲が無い事は当然のごとく求められる、北朝鮮の指導者もこれと無縁ではないであろう。

ある意味レーニン主義は全知全能の指導者であれば、社会主義が抱える矛盾(例えば生産性を上げるインセンティブが無いこと)を改革できたであろう。ところがソ連ス氏や中国モ氏などは人間臭かったようだ。人間臭いと言うのは批判では無い、私がそのポジションに居ても粛清されないように権力の構図に敏感であったであろう、そして権力を握れるなら握る活動を行ったであろう、当然国家は二の次だ。

ここで矛盾が生じる。人間とは旧ソ連のス氏や中国のモ氏のように全知全能はおろか、どちらかというと権力闘争に明け暮れる存在らしい。人間が指導者であれば全知全能主義は来ないということか。まぁそうなのだろう。

うーん、難しい。民主主義と言うのは非常に困ったシステムだ。自分が少数意見だと知らない正直者が、例えば少数派である平和主義者が「みんな分かって無い、我々の意見が正しいのに」と周りを嘆くし、日本民族主義者が「我々の意見は主流派だよね」と勘違いし、これまた根拠無く「日本は美しい」とか言うし。何故主義主張が濃い団体の意見が一般に受け入れられないのか自覚が無いように見える。というか彼らは全知全能の観点から「お前らなー、分かって無いよ」と述べているように見える。

全知全能の立場から述べているので理由は存在しないのだ。これまでのエントリーではそのような存在を理想主義とか観念主義と定義してきた。

そう考えるとやはり民主主義と言うのは非常に高コストだけど受け入れざるを得ないのであろう。選挙の日程とか、そのための党首選挙とか、非常に面倒くさい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

議論の成立する土壌

昨日の続きです。

ニュースサイトのコメント欄は荒れる、blog主が交通整理すれば荒れないと述べたのですが事例があります。

 消費税増税の代替財源として有効なのはタバコ税の増税でしょうか、それとも酒税の増税でしょうか? 二者択一なら、適当なのは酒税増税ではないか?~gooニュース畑

本当に煙草ネタばかりで申し訳ない。荒れるのが嫌好を土台にした議論が多い上、私自身がウォッチしている幅の狭さという点でご承知おき頂きたい。

で、Linkの記事の特筆はスレ主が交通整理をしていると言うことである。そして議論が成立している部分と言うのがID:c21965氏の下のツリーの部分だけなのである。それでもこの取り組みの中では出色だと思う。

スレ主は「年金財源として煙草税増税よりは酒税の方が適当では」という、目的税として煙草よりも酒税の方が薄く広く取り立てられるのではという主張だ。当然行き着く先は「煙草ウゼー、増税」と「(消費税負担の代替案が煙草税増税なのだが)安定財源としての薄く広くという観点では消費税しかない」という論点になる。そこで上記c21965氏以下のツリーのみが議論が成立していると感じた。反論・援護論、24稿の投稿があったが荒れていない。

話は変わるが土日の政治家を呼ぶTV番組に政治家はよく出ると思う。ゲストの主張を交通整理するわけではなく、司会者本人(番組)の意思を前提とした意見の押し付けを感じる。議論が成立するためには主観を排した論理的な意見を述べられる論者と、交通整理に徹した司会者が必要だと言うこと。流れを作るのが司会者であれば司会者が最初の意見を述べざるを得ず、中立性を担保するのは難しいとは思うが。

プロでもそんなのだから肩肘張らずに議論の勉強をしていきたいと思う。ヨロシクネ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

論理で議論を行うほどには成熟していない件

私が子供の頃CMが好きだったのであるが、専門誌は2ヶ月に1度の発行で雑誌が出る頃にはもう忘れているというほど情報が無かった。

また自動車雑誌を読んでいると「ワーゲンは最高の大衆車だ」との記述があり、その理由は本場(欧州)で認められていると言う物。今考えれば明らかな間違いであるが無知で無邪気な私は信じた。ちなみに明らかな間違いと言うのは当時欧州諸国は自動車輸入制限を行っており、日本車のシェアが決まっていた。保護貿易政策が消えて日本車が大量に流れ込み、北米で失敗続きのVWはトヨタに軽く置いてかれている。諸国の税制はよく知らないが、日本では排気量で自動車税が決まるため、日本車は単位排気量当たりの出力が大きい。

このような事象はインターネットで情報があふれ、反論も容易な現代では起こらないであろう。現代人はあまりにも多量な情報に対する処世術が発展し、役に立つのか本当なのか、信じられないのかということを瞬時に判断できる技術を身につけていると思うのだ。ところが振込み詐欺事件が一向に減らないところを見るとそうでもないようだ。

本題なのだが、ニュース欄のコラムにもコメントを載せられるようになった。これが荒れるというか釣れるのだ。情報へのアクセスは簡単になったが、議論するベースとしての論理が発達していないというか、そもそも国語力が足りない。なのでセンセーショナルな記事には脊髄反射して論理の構築に至らず、論理とは関係ないところで罵倒が始まる。

【眼光紙背】タバコが迷惑なら、子育てでも迷惑だ!コメント欄~Livedoorニュース

無粋だがネタバレを覚悟でプロットを紹介する。JR東日本が首都圏全面禁煙に踏み切った違和感を論じている。そのプロットとして喫煙は法で認められた個人の幸福の追求であり、法で認められた個人の幸福の追求と言う観点では育児も同じであり、喫煙が周りに迷惑をかけるので禁止と主張するなら育児も同様に税を使用するのは禁止とならないとおかしいということにならないかという主張である。

最後から2番目のセンテンス『「子供がうるさいから公園を撤去しろ!」などという主張が通ってしまうような社会を、私は許容したくはない。タバコもそれと同じである。』が筆者の主張であろう。

コメント欄では「読めてない」人があまりにも多いのでびっくりする。赤木氏は喫煙も育児も「個人の幸福の追求」であるとし、個人の幸福の追求で結果周りに迷惑(費用)をかけるのが反対なら育児も反対されてしかるべきというスジだ。また育児に社会通念上善の概念を持ち込むのは単身者にとってめいわくでしかないと述べている(追記で育児は義務で無いこと、育児をしない・出来ないひとを貶める事は許されないとも説く)。

この前提(育児と喫煙は共に個人の幸福を追求であり、迷惑・費用がかかってもいいじゃないか)に違和感を持つ事は議論として大いに結構だとは思うが、単に「喫煙と育児は違う」と述べても馬鹿を表明しているに過ぎない。反論には何故「喫煙と育児は違う」のかを述べなくてはならないがここに挑戦しているコメントが非常に少ない。

この反論のほとんどが「喫煙は下らなく、育児は社会的に善だ」、「育児は義務だ」という。前者の論理は赤木氏の論理では喫煙が個人の幸福である事は自明なので育児は「個人の幸福で無い」ことの宣言であり、後者は憲法に反する考え方だ。そのような指摘がコメント欄に無いのが残念だ。

例えば反対論者は「喫煙は他者に多大な迷惑を及ぼす可能性が高いので、公共エリアでは全面禁煙で然るべきだ、コーヒーショップなどの民間施設で喫煙すればよい」とか、「育児は個人の幸福の過程・結果ではあるが、国が必要と広く認められているから税の支出もある。喫煙は純然たる個人の嗜好なので公共エリアでの執行までも認める必要は無い。例えば食事と同じレベルだ」とか議論の方法はいくらでもあろうに。

そもそも論として赤木氏は喫煙を擁護しているのではなく、最後のセンテンスで「人は誰しも、他人に何らかの迷惑をかけながら生きている。人権を主張することも大切だけれども、だからこそまずは他人の権利を認めることから始めてみてはどうだろうか?」と述べているので育児を有料化しろと言うのはプロット構成上のたとえ話なのだが。

なので論理や議論云々の前に本文を読めて無いことがびっくりでした。読解力ってこの程度の物なのかしら。

ちなみにblogでも議論が行われている。blogのコメント欄はニュース欄より敷居が高かったり、blog主が交通整理をしたりするので議論が成立しているところもある

平和主義を唱える人たちへ~マーケットの馬車馬、はセンセーショナルな標題でも論理性が堅固なため、blogが荒れていない。

過去のエントリーの例のように成り立っていないのもある)。

 

最初この部分は性交と記していましたが食事に変更しました。食事は個人の幸福の追求の最高の事象の1つですが、場所によっては禁止されてます。個人の幸福の追求だから公共の場所での規制を受け付けないと言う論理を反故にするものです。当然性行為もは法律面(わいせつ)から規制されています。「個人の幸福の追求のためには迷惑がかかってもいい」という論理は一般的でなく、食事の例からも、性行為の例からも規制は不当ではありません。

**喫煙者である私がなんで非論理的な嫌煙論者に教えなくてはならないのか、アホだ私は。地雷を踏まないように誰もLink記事には肯定論を載せなかったのね、ここは場末だからいいや。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

肉じゃがに郷愁を覚えない件

いちいち例示しないが女子の好感度が上がるメニューのうち肉じゃががトップを長年占めている、挙句の果てに「お袋の味」のナンバーワンだ。

カレー・肉じゃががお袋の味ということが全く分からない、少なくとも私が幼少の頃、家で肉じゃがを食した事は20回以下であろう、本当は10回以下だと言いたいのだが少し自信が無い。

あくまでここでは喧嘩を売る、肉じゃがなどという料理は大して美味くもなく、肉種の違い以外は家庭間で違いが存在できない料理に何故「お袋の味」というレッテルを貼れるのかが理解できないのだ。居酒屋の肉じゃがとブラインドテストで発見可能なのかしら、煮込み時間が適正な居酒屋に軍配上げたりしないだろうな、おい。

脱線するが私の場合、「お袋の味」は断然「味噌汁」だ。出汁(鰹・煮干(鰯)・昆布・その他)、味噌(米・麦・豆)、具材(こんなの表現できないくらい多様だろ)、とマトリックスは深い。小学生の頃、味噌汁の具材を挙げていっていたら、自分の常識は他人の非常識であると深く理解した。もちろん逆もあって、出汁のない味噌汁を飲む家もあった。なので味噌汁は各家庭で本当に違うと思う。有名メーカーの出汁入り味噌を使用していた家庭は感じないかもしれないが私の年代(40代)だとまだ子供の頃は出汁入り味噌があまり普及しておらず、各家庭で出汁もとっていた。当然出身地などで全然違う物を「味噌汁」という単語で括ってるわけだ。

また「家の料理」または「親父の料理」は鍋でなかろうか。すき焼きも含むであろう。ちり鍋タイプか寄せ鍋タイプか、出汁(すき焼きであれば割り下)、具材(シンプルが好きかどうか)、付けダレ・薬味など。好みのバラエティが富む。なので忘年会などで鍋料理が出ると、イニシアティブ(鍋奉行)を誰が取り行うかと言う暗黙の駆け引きが始まる。下手奉行もいるだろうし、訳の分かってない若者が業務の一環で進み出ることがあったりして油断なら無い。そもそも鍋料理であれば勝敗は席取りから始まっているのだ。

話がずれた。単に「お母さんが作った料理」と言う意味での「お袋の味」では文化のおかしさ・深さは存在できない、まぁ存在しなくてもいいんだけど。それでも「お袋」という冠名が付くにはもうちょっと高級な理由が欲しい。同様の理由でカレーもお袋の味ではない。家庭でカレー粉の調合からスープ取りまで全部やる家は別であろうが、市販のルーを使うカレーに「お袋感」があるとすれば失敗以外は存在しない。あとは無茶アレンジとか、まぁそれは失敗の範疇なんで。

もっとも肉じゃが好きの男子がお母さんに肉じゃがをリクエストしたことが多く、かつ彼女に求めていることまでも否定することではない。肉じゃがというメニューを一般化していない私にとって違和感があったというに過ぎない。

私の家庭がメチャクチャ裕福だったからかもしれないが(嘘)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ルールが変わる瞬間

どんな事件でも被害者遺族は犯人に極刑を望むであろう、なので被害者にスポットを当て過ぎるキャンペーンには違和感を感じる。他の犯罪と比べて常識的な判断が必要だと思う。

3児死亡事故 両親の思い届く「厳罰」 2年9カ月…遺影抱き涙(産経新聞) - goo ニュース

刑法や裁判に詳しくないので私的な違和感を述べる。そもそも論として今林被告は血祭りに挙げられたのではないかという感じも受ける。どういうことかというと、「飲酒による事故」で悲惨な事件が起こり、飲酒運転を厳罰化するという法が整備され、それだけでは浸透しないので「飲酒運転事故」の加害者を血祭りに挙げる必要がある。それによって国民は真の意味で「飲酒運転」を犯罪であると認識するのだ。その前までも飲酒運転であろうが業務上過失致死では犯罪であったのであるが。

今林被告はこの事件で満額の懲役20年を食らった。もうどうしようもない犯罪者なのであろうか。

日経夕刊では加害者の弁護士の主張に「被害者側にも過失」とあった。事件の風化はよろしくないが当時詳細を読んでいるはずであるが細かい事実はもう忘れてしまっている。なのでこの記述はどの程度相殺するべきか分からない。

私見であるが今林被告は事件を軽く見ていたのであろう。法と言うかルールが変わったということを理解していなかったというに尽きる。それでも殺人の意思の無い人間に懲役20年は重い気がする。

たしかにルールの変わり目は誰かが損をするのだ。法律が変わっても運用は警察や司法が手綱を制御するというのはよくある話で、捕まって初めて「この法は守らなければならないのか」というの普通の話だと思う。

つらつらと主張無しに述べた、論理的に本当の事は分からずに。被害者を貶める意図は無い、ようはバランスは取れているのかと言う疑問があるというだけ、疑問は解決すれば済むことなので被害者を非難する気は全く無い。また加害者は被害者への罪は変わらないが、その量刑は妥当なのかどうかと、被害者の印象は全く交差しないと思う。その上でマスコミ各社が被害者の心情を述べるのはそれこそ議論を放棄した「原罪」だと思うのだ。

マスコミが東スポ化しているということか。

事実と違う読者が望む記事を作成する先駆者が東スポだから。東スポは完全に追い込められている、違う境地を模索しないと。もう東スポ社は与太記事作成能力では大手Y社・A社、中小S社・M社に抜かれたんじゃないの?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

NBOnlineとAssocie

あのー、日経BPオンラインがリニューアルしたのはいいです。でもアソシエに分割されて読みにくくなりました。

コンテンツが有料化したいのであればそれはそれでわかります。でも単に読者に不便をかける理由がわかりたくありません、だって毎度読んでいた記事の住所が単にアソシエに移ったということであり、その告知もないのですから。社内事情と言うことでしょうけど読者を馬鹿にしてます、金を払っていない読者に馬鹿にされる権利があるかは不明ですが。

現在はメールで記事をピックアップしていたのですがNBの方がスカスカになりました、そんでもってアソシエにわざわざアクセスしないと読めないのであれば、、、、。というより私はアソシエに移った記事を楽しみにしてたくらいで。

暇だったら別に苦じゃないのですが。単なる愚痴です。

Webの巡回って難しいですね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

倫理・道徳・貞操と言う概念は宗教的では無い件

宗教の必要性に疑問が多々生じることがある。やはり宗教の戒律と言うか宗教を守る行動がその宗教以外では理解できないときなどに。

例えばカソリックでは避妊禁止で中絶も禁止だという、これでは戒律を冒す者を作ることが目的ではないかと疑う代物だ。例えば仕事中に寝るのは禁止だが夜寝るのは構わないという倫理を作るというようには感じられない。まして強姦による妊娠の中絶を禁止するというに至っては論理をこねくりすぎだという印象がある。もうこうなれば宗教は害悪に片足を突っ込んでいる。

では宗教が機能しなければ道徳や倫理が機能しないかと言うとそんな事は無い。ご存知の通り「日本」がその典型であろう。

ということは倫理や道徳の必要十分条件として宗教は関係ないことが証明される。宗教が事実上機能していない日本でも道徳や倫理は機能しており、宗教が機能している国でも道徳や倫理は行き過ぎる事例がある。なので宗教は倫理や道徳の普及になんの意味も持たないことが分かる。

では何故宗教が普及し、重要視されるか。歴史から想像するに人権の軽い時代には人命は軽く、自分の命が軽く無い理由が欲しいということに尽きると思う。日本を見ると経済が発展し、人権が確立すれば宗教の存在理由は無くなったと断じて問題ないであろう。

不思議でもないが近現代日本は宗教との関わりが少なくても法・倫理・道徳の規律を維持できている。治安の良さや市街地のキレイさや親切さを賞賛する外国人が少なく無いことでも証明されるであろう。

法・倫理・道徳は「守らなければならない理由」と「守った方が得」ということを理解できれば「守れる」、別に宗教の力を借りる必要は無い。倫理や道徳の基準作成においても究極的には宗教は関係ない。もちろん日本の歴史において宗教が日本の道徳観や倫理観に影響が無かったとは言えない。それでも少なくとも現代日本は宗教が無くても法はもちろん倫理・道徳は機能している。

と言う事は貧困国は宗教を必要とする事例があるかもしれない、日本でもその歴史は存在した(中世)。しかし宗教は困った教義を抱えていることが多く無くても構わないのであれば無い方が良いのだ、それを日本が証明している。

政教分離という文言は宗教の害悪面を映し出している。政治には宗教は必要ないのだ、ということは人民の生活には必ずしも宗教は必要ないのだ。

 

宗教が必要不可欠では無いという主張で、存在が害悪だと主張しているわけではありません。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ