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便乗値上げを否定する正義についての雑感

この震災を始点としてビジネスや社会意義というのを考えていた。震災前後で旧貨でモノを納められない場合、震災後も高コストであっても旧貨で納めるのが商業倫理上常識であるかどうかとか。資材の量が足りない場合は値段で配分先を決めるのが合理的だと思うんだけど実際には従前の取引量と従前の価格で優先度が割り振られる。その結果助け合いの号令で利益を削っても許されるらしい、高くてもいいから量が欲しい顧客を虐げた事実があったとしても。

利益を削って、カネを出しても欲しい本当に必要としている企業が割りを食った。この現象は社会的に正義なのであろうか。その結果、スーパーやコンビニにはモノは無いけど物価が上がらないという奇妙な現象が起きている。平等や分配の正義理念を優先することによってカネを払ってでも欲しいものを買えない、事実上配給制みたいなことになっている。当然ながら流通は売り上げが低下しているであろうから損失を受けていると思われる。空気を読んで的な行動で社会理念とは違うと思われる。要は社会が要請したから対応をとったのか、要請を待っていたら次回のビジネスチャンスを逃すという判断なのか、多分その両方であろう。

そのことを批判したいのではない。企業は基本的には「儲け」という合理的な精神で行動するので、企業行動を行うかどうかも含めて社会が要請した結果だと思われる。

だから便乗値上げも物資不足も社会が要請した結果論だと思う。物価が上がっていない(便乗値上げが横行していない)というのは先進国的にはいいことだと評価されると思うんだけど、必要なのに金を払ってもモノは買えないというのと裏返しである。個人の財布の問題であれば我慢すればということなのかもしれないが企業では従業員に給料というか固定費を払わなくてはいけないわけで、金を払ってでも欲しいという状況があってもおかしくない。

僕が取引している企業でも便乗値上げは無かったが納期の遅れはあった、僕は納期と価格はトレードオフと考える。結果的にはビジネスの可能性を固定化したんだと思う。僕の企業は中小企業ではないので納期が遅れただけで済んだんだと思う。一方で「いつ入るか分からない」と宣告された小企業は多数にわたると思われる、彼らは金を積んでも買えない、金を積んで物資を調達できたら倒産しないですんだとしても。これは正義なのであろうか、そんな正義クソクラエだと思うんだけど。

サンデル教授は便乗値上げをする業者を紹介している。

有事の際の材・サービス価格の値上げを否定すると解は財・サービスを提供しないという行動になる。高コストで平時の価格での提供は利益を圧迫するからだ。サンデル教授が紹介した典型的な便乗値上げに対して消費者は「買わない」という選択が出来る。一方で便乗値上げを認めない法律や社会要請はサービスの提供を拒否しているわけで高コストでもいいから選択するという選択肢を否定することである。今現在の関東がそういう状況であり、欲しいものをプレミアを払って買うという選択肢がない。そんだけ貧乏な国かと思う。

僕はすごくストレスを感じている。電気などの社会インフラを除けば好きなように消費したいと感じているし、それが国の経済に貢献するという胡散臭い原論をもとに正当化しようとしている。ところがモノはない、金を出して済む問題でもない。

日本人がその状態を「正義」だと選択したのであれば許諾せざるを得ない、まぁそういうことなのであろう。

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政治と理念と倫理と

混雑したエレベータや電車で扉の付近に立つ人がけっこう多いことに憤りを感じる。中に詰めれば乗り降りに時間が掛からず、その方が全体的に見れば合理的だからだ。一方で僕は病的にテリトリー意識があり、そのためか他人やモノに身体を触れられるのを極端に嫌うという性質を有している。
次に乗る人のために詰めた方がいいと思いつつ、自分のテリトリーを確保したいという、量的に個人的な理想値を持っているというややこしい存在である。理想的にはこういう世界は築けるけどまぁ無理だ、なので悶々として不快感を毎日感じることになる。

この感覚は倫理観ではない。人間の行動は「こうあるべき」と規定することが多い倫理だけど、この感覚はさすがに倫理では規定できないであろう。僕の感覚では倫理ではなく合理的な範疇なんだけど共感が少ないのは認める。
まぁ扉の前に陣取りたい人は倫理的にはクズであろうと認定して構わないとは思う。まぁそういう輩には後ろからどついたり足を引っ掛けてとか鋭利な荷物を突きつけるとか転ばせて後ろから踏んづけてとか、そういう自分本位の行動が他人の恨みを買うという事実を教えてあげるのが合理的でないかと。自分本位で邪魔な行動をする人には罰を以って制裁するのがスマートだと思うのだ。それでも気付かない人は居ると思うけど、「私は被害を受けた」とか思うんだろう。


正直に告白すると僕は合理的、または生理的に嫌悪感を優先して、倫理ってやつを極端に軽視している。僕は常に座って通勤していて、肘を開いたり脚を開いたりで僕に接触することを僕は病的に嫌う。例えば行儀良く座って7人掛けのシートで他人に迷惑を掛けないように7人で座るのは倫理ではなく合理的に要求されると思っている。それを倫理に置き換えてしまうと7人で座るのが目的となっていしまう、迷惑なことこのうえない。だから倫理は害悪とすら思っている。不快な状況を合理的に考えると解はあるはずなんだけど倫理が登場すると倫理的な解を満たすとその時点で解決してしまうように見える。感覚や合理的には解決していない状態でも倫理屋は倫理を満たせばいいということになる。それが私が倫理を嫌悪する理由である。具体的な現象を述べると7人掛けシートで肘を突き出し、膝を広げ、大きい荷物を他人にぶつけても7人掛けシートに7人座れば問題は全くないという倫理的思考停止である。
だから迷惑じみた行動も倫理的には問題なければ堂々と行うのが常だ、それが冒頭に挙げたエレベータや電車で扉の前に立って邪魔をする人や電車のシートで自分のインキンぶりを晒すような開脚オヤジや、脇の下の肉を制御できない肘全開のおばさんとかが登場する。倫理は倫理が要求することを満たせばそれでOK的なところで思考停止してしまい、合理的な判断が行われない。倫理が規定していない問題は倫理屋に取ればすべて範疇外だから。なので本来倫理が規定する「他人に迷惑を掛けない」という大原則も個別には規定していなければOKなのだ。倫理屋は条例主義で柔軟性が完全に欠如している。僕は倫理は論理的に説明できることを面倒だったり小難しくなるので重宝したツールだと理解している、例えば子供に教えるような。倫理や道徳やモラルは便法で全て論理的な背景があるということ、倫理観が主目的となれば論理的背景は関係なくなって意味が空疎な主張が主体になるという危険性が濃厚に含まれる。常に倫理は論理的背景を意識したツールであるという意識が無いと危険極まりない。

 

前段というか枕が長くなりすぎだ。本題に入る。

政治の世界では倫理観が支配することが多い。「こうするべきである」という感情を主とした原理的な主張である。たとえば東電が原発事故をやらかしたけど、今現在事故の収束への対策を行動していて、本人たちの思惑通りに進んでいないという事実がある。それをべき論で「放射性物質を放出するのは辞めろ」という主張はヤクザが因縁をつけている構図だと思う。モノワカリがいい大人を演じろというわけではないけれど、出来ないことを要求しても始まらないと思う。それはパフォーマンスなんだと理解するか真性の馬鹿かどちらかに過ぎない。という観点で福島県農業界隈に嫌悪感を感じざるを得ない。出来ないことを要求するメリットが全く分からないのだ。安全という事実には政府が無駄でも経済的な支援だろうと思う程度に活動している。僕は安全厨でこの手の心配を全く理解できないんだけど、消費者がそういう判断をしたのであればその現実を受け入れるしかない。政府・東電批判をしたら現状が解決するのであれば理解できるけど批判をしても全く効果は無い。

現状から復興のシナリオや過去の反省を考える時期に居る。すごく違和感があるのが政治というか予算配分に倫理観が付随することだ。僕が大嫌いな「こうすべき論」だ。僕は前のエントリーで津波の被害があった地域にまた同様に市街を形成するのかなぁと疑問を投げかけた。要は住民の合理的な判断を知りたいというか、政府が介入して新たな都市計画を住民と議論するのかという感覚であった。ところが政府が理論先行で高台に住居地を移すような提言があった。これは提言としては特筆すべきで財産権を覆すような提言である、いや僕が頭で考えていたストーリーと同じなので割りと違和感はないんだけど、あくまで理論的過ぎる可能性が高い。批判ではないんです、何を言いたいかというと理想的な状況を目指して政治が先導して街造りを行うのは結構だと思う。あとは住民の賛同を得られるかということだ。どうも政治家は理論先行で費用や財産のことを忖度していない節があると感じる。政治はこのような大災害を機に街の再設計を担うことが本質的な機能というすごく雄大な組織であるが、住民との議論が必要だ。

 

この手の意思決定が政治の本質なんだろうけれど、そこに倫理が入り込むと、倫理の背景である論理的な本質が言語的に一人歩きする。例えば「考」という孔子が主張する儒学的な主張を論理背景を考えずに盲目的に行動すれば「老人は正しい・至高」ということへ純度を上げていく、そんなのはおかしいことになるのは自明である。幕末期に「尊皇攘夷」という思想があったらしいが当時の志士達は嘘っぱちだとわかっていてスローガンに掲げた。馬鹿はその倫理規定を素直に信じるという事実がある。もっとも扇動者はそのことを理解しているという事実がある。民主主義の現在はその手の天才的な政治家を否定するシステムである。
本質的に(倫理観を規定した人気のある)政治家を選ぶシステムとなっている。

例えばその典型が石原都知事である。倫理的なかつ論理背景が無い主張を都民は受け入れている。自動販売機やコンビニ、パチンコ屋は悪だという倫理観である。自動販売機はどうやらピークカット機能を積んでいるらしく、石原氏の主張は論理的には破綻しているけれども倫理的には受けがいいようだ。倫理的にガチンコなのはパチンコ屋と街の商店のどちらが悪かという議論であろう。

根拠の無い倫理観でとある産業が政治的に否定されるという恐怖は絶望的である。「昔の日本は姥捨て山文化なので福祉はゼロね」といったことも想定できるし、「食料自給率のためには畜産は産業として認めない」とかも有りうる。「子供は専業主婦が教育するのが常識だから保育園も幼稚園も学童も予算は要らない」も想定の範囲内である。まぁ上に挙げた産業は税支出に関連するので実はその程度の恐怖は問題ない。どちらかというと政府の庇護を受けないというか、税金を払っている産業の方が僕は同情する、例えば警察に上納金を納めていると噂される風俗産業である。

節電意識が高まって風俗産業を利用しなくなってしまってその業者が廃業するのはある意味仕方ないと思う。裕福だから存在する企業はそりゃあるであろう。しかし、べき論で排除すべきという言論は理解できない。極論であるがスーパー(病院でもいいんだけど)とパチンコはどちらが正しいのであろうか?社会インフラであるスーパーが物資を庶民に提供する高貴な存在でパチンコ屋は(非合法な)賭博組織でということなのかしら。

資本主義はお金を稼ぐことを美徳としている、その結果裕福になり社会的弱者が安心して生活できる社会を築いてきたわけだ。原則論として資本主義の否定であり、裕福の否定である。社会民主主主義は競争を除外して貧乏を奨励する。

 

政治に理念とか倫理という奴がはいりこむとどうもこういった構造を招く。倫理というのは伝家の宝刀的な便利なツールだけど大人まで信奉するのはどうかと思う。馬鹿養成システムであると思う。

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携帯ママと幼児

今まで五月蝿い赤子はママの責任とは考えていなかった、まぁ「社会は暖かく見守るべきだよね」と牧歌的な印象で居た。お母さんだって混雑した電車で赤子が泣き叫ぶのは迷惑だと知っていて、一生懸命すまなさそうにあやしているのを多数見てきたからだ。以下エントリーは特殊例を挙げています。

ところがここ何件か空いている電車での出張で割と赤子の叫ぶ声を聞いた。

 

空いているので状況はよく見えて、最初は微笑ましく見ていたのだけれど、どうも様相が違うのではないかという場面が相当数あると確信するに至った。携帯を見ているママの気を引こうとする赤子が相当数居るのではないかという疑問である。朝夕はさすがにそういう事例は少ないけれど、空いている午前午後(まぁイメージでは10時~16時)は携帯ママと叫ぶ赤子がけっこう多いのかなという感じがする。

五月蝿い赤子とそれを押えられないママを非難したいのではない。今日などはママ・幼児・乳児の組み合わせだったけど、ママは携帯を見ながらの乳児へのあやしで、それに頭にきた幼児が爆発するという劇場じみた展開だった。ママは忖度することなく携帯画面を見ながら幼児・乳児に対応する様子。ママにいじられれば静かになる乳児、しかしママは携帯画面を見ながらなのか、手を離した瞬間に叫ぶ。幼児が「うるさいよ」的に弟につつけばさらに火がつく。それを携帯ママが画面を見ながら乳児をたしなめる。乳児が切れて泣く。と言った状況であった。(言わせんなという事実:胸が開いているTシャツを着ていて、幼児・乳児に携帯画面を見ながら頭を上下に対応するので胸チラが、、、。あとママは割りと可愛いかった。)

なんかACの広告で子供に対して「構ってあげてる」を子供に伝えなさい的なのがあったけど、そういうことかと。一般化はできないけど個別的にはあるんだと感じた。

携帯画面をがん見ママでは赤子は叫ぶんだろうな、それは非常に理解できた。逆に言うと泣き叫ぶ赤子は「仕方が無い」ということはないということは存在する。
なんか割りけれない気分で一杯だけど。

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テレビ報道の日本語がかなり残念な件

福島県郡山市のとある基準値を超えた小学校で校庭の表土を削除したらしい、仮に放射性物質が少数表土に到達したとしても降雨があればという程度だと思う。もう安全へのお金の使い方が無茶苦茶だ。
郡山市の私立保育園・幼稚園・小学校では「校庭で遊ばせない」ことを決定したとのこと。安心の最大公約数がそういう決定を下したのであろう。別に費用も掛からないし公金補助の要求もしないし、事実としては理解できる。その判断を否定する気は全く無い。

安全というキーワードからは、多分父兄・教師・全ての関係者が禁煙・禁酒をして本品・道具を幼児・児童から排除した方が彼らへの安全性は放射線と比べて1兆倍以上安全に寄与すると断言できる。まぁ安全が問題ではなくて、安心が問題なのであろう。それはなんとなく理解できる、しかしそれは安全には全く寄与しないレベルであることで、あくまで『安心』というモノだということを理解する必要がある。なので安心に公金を支出するのはそぐわない。

 

まず安全と安心の定義をする。安全と安心は似て非なるモノで、安全は客観的な事象を扱い、安心は個人の心情の問題であると定義する。例えば安心な状態は「絶対安全」というちょっと有り得ない状態だと規定する。次元が違うので2×2のマトリクスが考えられる、例えば安心・安全な状態とか、安心・危険の状態だ。

ここで問題なのは安心・安全の状態の存在は『有り得ない』ということだ。良くて安心・危険か安全・不安の状態が存在できるということだ。というのは安全というのは「量」の概念で、危険か安全か色分けはしない。塩ですら取りすぎると危険だということを警告できるに留まる。分析機器が発展したので危険物質を排除するというのが絵空事になってしまった。一方、安心は「絶対」というのと親和性が高く、安全とは親和性が著しく低い。

なので、安心を求めると危険をもとめるのと同義であるということになる。論理的に安心安全はありえないのだ。ということは安心・危険を選択するか、不安・安全を選択するかという問題となる。人間は単純でないので食い物や化粧品、趣味のモノ、といった様々なモノへの反応は異なるであろう。しかし、一ついえるのは「安心・安全は無い」と考えればかなり風景が替わるということである。

 

僕は安全に費用効果を勘案して公金を遣うのに全く違和感は無いけれど、安心に公金を遣うのは犯罪だと思っている。まぁ安心屋(本人の自覚はともかく、というか自覚が無い方が強力であることは想像に難くない)は利権屋でありゴネ屋である。安心はその人に起因する内的な問題であり、客観性が全く無い。そんな自分の快楽の問題であれば自分で払えばいい。行政は安心に一切カネを払ってはいけない、(出納担当者がヤクザにお金を払ったら一時の安らぎがあるというのは間違いだという意味で)ヤクザ対策の必須である。安心屋は安心と安全の境目がグレーゾーンであることを利用して要求がエスカレートする、本人には自覚が無いのでヤクザよりもある意味性質が悪い。行政はきちんと公的な情報『だけ』を前提に空想力の産物は全否定する必要がある。

 

標題の件、4/28夜のTV報道で「児童が校庭で遊べなくなりました」と屋外運動不可という状況であると冒頭で述べた。詳細を聞くと前段のようなことで「児童が校庭で遊ぶのを自粛した」ということで、不可ではなく自粛である。まぁ小学校の国語のテストで言えば×である。TV報道では小学校程度の国語を間違っているわけで、政治家の失言とか背景を理解した上で言及する『知性』は全部疑っても問題ないレベルだと思う。ここまで文章力というか文法力に難があるのか。そこまでかとは正直信じられなかった。しかし事実だ。百歩譲ってセンセーショナルな文言を求められているとしても、馬鹿と断言してもいいと思う。馬鹿バーカ。

僕は研究所勤務で、実験結果の事実を伝えるというのにニュアンスを含めて難儀することもあるけど、間違った文法を使った事がない(そういうクレームは過去無い)。そういう点で頓着しない傾向がある理系の僕よりも、(正確に物事を伝えるという職業人である)報道のプロフェッショナルが小学生文法程度の間違いを冒頭で述べたのにはかなり驚いた。
一方で私は技術屋文法を用いる必然がある。それは言質をとられない為のという一般には分かりにくい表現方法を取る。だからこそなんだけど、ちょっと聞いて明らかな間違いを述べるのは表現を求められていない技術屋よりも、責任の欠如が明らからしい。分かり易さのためには誤報も辞さないのがプロフェッショナルなのかしら?

 

ちょっと彼らを擁護したいのは、彼らは容姿で選ばれたエリートなのかもということだ、論理よりも人気だということだ。なので彼らの知性が無いわけではないと思いたい(まぁ僕だって完璧な人間ではないし。ちょっと無理やりだなぁ、やはり彼らは小学生以下なのか。)、口が滑ったと。(でもそれだと構成がなぁ、ブツブツブツ、彼だけに責任を負わせるのも間違いかも)。
うーん、擁護できない、「文法が間違ってました」と宣言する以外は挽回不可能であろう。まぁ逆に言えば謝ってしまえばいいのだ。

 

そして報道の安心屋への援助攻撃である。この絶望感は異常であった。(相模原市にカネを払うのが気に入らないという不謹慎な動機もあるのだが)ふるさと納税をしようと思っていたのであるが、公金をこう遣うのであれば、、、、。いやそういう問題は理念や倫理が政治に反映される傾向のある日本ではどこでもそうなんですよね、そうですよね、そうだと思い込みます。現場の経理マンは真正公明ですよね、でも理念的な議会や首長に押し切られるのか。、、、、辞めようかなふるさと納税。

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米スター美形を思い出す件  (どさくさに紛れてドイツ系をプッシュした件)

Band Aid と USA for Africa のPVを見ていて素直な感想。すごく意味がないです。

ダイアナロス可愛い!!リードボーカルを貰ってないひとで可愛いのがシーラEとラトーヤ・ジャクソン。かわいいなぁ。当時ダイアナロスは40代だと思うんだけど黒人としては驚異的な可愛さを発揮していると感じたんだけどどうかしら。当時ドイツ系のアイドルバンドNENAとやらがいたのですがどうなったんでしょう。

写真を貼っとく、と思いましたが張るのは辞めておきます。興味がある人はPVを前記事で見ておいてください。まぁシュープリームスの看板張ってたわけで可愛いのはあたりまえですかね。

 

ドイツ語の楽曲ってあんまり見ないですよね、僕の場合フィルコリンズのジェネシスとこのNENAとピーターガブリエルと、、、なんか多いな。

 

 

どさくさまぎれに趣味を挿入。フィル・コリンズが当時大好きで、One more night とか。Sussudioとか超かっこいいっす。あとこれとか。まぁ映画音楽とかでも活躍していたからファンはご存知でしょうけれど。

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多くの批判に事実ベースがない点を嘆く~政府批判の本体

多くの報道で「菅おろし」があるとのこと。よくわかんないんだけど菅総理の「決定的な失政」があるとしたらなんだったんだろう?

というのは僕が考えるに官邸は報道官である枝野氏以外何もしていない、しかし中長期的な決定を情報が錯綜する中で何が出来たというのであろうということだ。まぁ結果論では何かもいえると思うが、原発事故は現在進行形であり、矢継ぎ早の政策というよりは事故に対しては戦争と違って「間違いが無い」ことが重要であり、批判があるとすれば思想や技術論の問題であり、逆に言うと失政はまだ無いんじゃないかと思う。
批判している人の文章を読むと極めて倫理性というか、論理や現実に即していないと感じられることが多いので、批判者の方が悪に見える。以前のエントリーで「菅氏は何をやったのだろう」というのを挙げたけど、何もやっていないことが悪いわけではないということをこのエントリで論じたい。

原発事故への対応は基本的には技術的な問題であり、官邸・政府に対応の間違いを述べるのは筋違いであろう。もちろんこまごまとした菅氏の人間性というか技術的背景を感じるエピソードは多いようであるが、「だからなんなんだ」というのが素直な印象である。震災当時、鳩山氏や谷垣氏が総理大臣であるならば問題が解決できたであろう相当の菅総理の行動に問題があれば糾弾すべきであろうが、的外れもいいところだと感じる。まぁイラカンらしいのでメディアがなんとなく忌避するのは分かるけど冷静に論理的に論じることが必要なのにセンセーショナルに語るのがマスコミの仕事だと感じているからマスコミもマスゴミとか言われるのであろう。

僕はマスコミの伝達能力の低さに驚いている。ベクレル・シーベルトという基本単位とミリ・マイクロ・テラという接頭語を無視した報道はデマの様相を演じていると断言できる。単位というか定義を理解できない人が正しい報道を出来るとは到底思えない。なのでここからは推察なのであるが記者は科学的な意味を理解するよりは発表された数値を無造作に世間に投げた。記者が理解できない事象を投げた事実が市井に正しく伝わるはずは無い。というのが風評被害の源泉であろう。

 

ちょっと脱線。科学誌というのが日本のメディアで優遇されていない事実がある。[JAPANなニュース]というコーナーがあって加藤佑子氏が様々な海外メディアを紹介してくれている。この方が論じるのはNatureの記事で「安心した」という事実である。日本のマスコミは煽るだけ煽って予見・予防・対策を伝えないということだ。Natureでは事実→過去の知見→対策が明確に論じられているということ、日本語サイトは信用に足らないのだ。僕自身もその意見に異議は無い、食品安全担当者や狭いコミュニティでは当然な事実もマスコミは針小棒大に伝える。なので同業者間の狭いコミュニティでは正しい情報は共有されているけど一般には伝わらないであろうなと思う。

 

なのでマスコミが言う全てを疑った方がいい。単位は間違えるしその単位の意味を伝えようとはしないし、もうむちゃくちゃ。センセーショナルだけを追っていて恐怖心を国民に植え付けている、かつ少ししか間違っていないという魔導師である。大政翼賛会と覇を競った朝日新聞のようですね。

 

ここで先に報道されていた海洋放棄された低放射能レベルの海洋水450tで放射能レベル4700テラ(兆)ベクレルの詳細が計算されている。内訳は放射性ヨウ素は0.61gで放射性セシウム300gだ。これが少ない量でこれだけの被爆量があると感じるか(だから放射性物質は危険であるとするか)まぁそうだねとするかで感じ方が替わる。量の点で言えばベクレルの単位は1個の原子をもとに計算されているので分子量で割ってアボガドロ数(6.02×10^23)を掛ける、兆は10^12なのでベクレルが兆単位になっても不思議はないんだけど、「兆だと多い」という先入観があれば、、、、もう死んで。伝える論理も能力も無いことは微力ながら私が保証するから。

 

僕が勝手に敬愛している加藤佑子氏のニュースな英語なんですけど、日本メディアへの信用が無いから海外メディアの反応が必要なわけで、さらに信頼に足る科学メディアがないのでNature紙が持ち上げられるんですよね?

 

そんな状況で僕は菅総理はいわゆる「失点」とやらをやらかしたとは思えません。政府としても報道官である枝野氏は機能していたでしょう。東電と保安院もそんなに悪くないと思いました。批判の多くが「はっきりしろ」であり、「はっきり出来るのであればやるわボケ」で一蹴されるような論調で、馬鹿への対応にいちいち批判が出来ないのを知っている上で便乗して倫理や宗教的価値観で東電を叩くという勢力や個人って壮大な馬鹿で気分が悪いです。

 

何度も言いますが個別の案件での菅総理への批判はあるとは思うのですが、大枠としての批判は理解できません、伝える側もセンセーショナルな議題を述べるのでアホかと。もちろん「やるべきことをやらなかった」という批判も含めてです。この案件で批判している人は「任せたら全部理想どおりに片付ける」んですかね?だったら小沢氏に全面委譲して半年後に「菅氏案となにがちがったの?」で小沢利権が全滅してもらったほうが、五月蝿い雑魚も消えてもらって、、、、というくらいの妄想が働く程度に嫌悪感を感じます。本来なら彼の地盤である東北(岩手県)の復興や合理的な運用案をまとめるとかイニシアティブを発揮するとかあると思うんですけど。
小沢氏が悪いとは思いませんが、まぁ支持者がアホなので一緒に心中してくださいとしか思えないんですけどね。

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勝手に80’sを語る件

先のエントリーのネタをいろいろ調べなおしていたらyoutubeで1日潰してしまった。懐かしくなって、みまくったのだ。

無粋な話から入りたい、80’sが未だ衰えないのはバブル入社組みが人数的に膨大で彼らが出世して青春の曲を10年前ほどから引っ張り出してきたからではないかと思う。情報番組のバックミュージックでいたるところに今尚使われている。そして80’sが70’sと違ってアーティストや作風に広がりがあるのは2つの理由があると考えている。

一つは邦楽が停滞期だった点だ、時はアイドル全盛時代で今話題のキャンディーズやピンクレディから松田聖子、華の何年組みだっけが台頭してきた頃合だ。そのころ(ニューミュージックって言うんだっけ)はフォークミュージック、アリスや松山千春が落ち目の頃。

もう一つは「レンタルレコード屋」が出来たこと。レコードとはPVCの板に溝を彫り、ダイヤモンドの針で溝をなぞり、振動を発電した信号を増幅して音楽を聴いていたのだ、扱いとしてはレコード=CDみたいな感じだ。
30年前は今のCDであるレコードがレンタル不可能だった、それが1割の値段でレンタルできるようになったのだ。当時中学生だった私は友達と集まってカネを出し合い、洋楽というモノにチャレンジした。5人くらいで1枚¥300円で何枚か借り、アルバム1枚に磁気テープで記録できる1本200円くらいの「カセットテープ」を買い、録音したのだ。カセットテープとは演奏時間が録音時間で、5人で借りると5人分録音する、当然録音時間は5倍掛かる。1枚のアルバムを45分とすると5人分を録音するには4時間はかかる。安心できる録音設備を持つ人はなかなか居ないので、それを持つ人の家に集まって録音することになる。

ヒットコレクションをパーソナルで聞こうと思うと1)シングルレコード(CD)を買ってきて、2)カセットテープに録音するというすごく煩雑で高価な作業を行わなくてはならない。それでやっと「カセットプレイヤー」を積んだクルマか、ラジオとカセットが一体化したラジカセ(CDラジオみたいなもの)で部屋で聞くしか方法が無かった。

ちょっと話はずれる。当時の音楽情報や音源はラジオだった。当時土曜日午後に日米のヒットチャートをやっていた。AMラジオはさすがに音源とならないのでFMラジオである。このヒットチャートは全曲流さないという難点があった、さびの部分が終わったらぶち切るとか、2番の歌詞は省略とかもうとんでもない編集が行われていた。なのでFMラジオで流す曲目リストが雑誌として成立していた。奇妙なことに当時の情報源としてのラジオは今とは比較にならないほど高く、現代でいえば「ネットとTV」の関係が「TVとラジオ」という関係に置き換えてもらえばいいと思う。アルバム全部を録音しようとか、ヒットチャートを作成して聞くという作業がとても大変だったのが、レンタルレコード屋ができたことによって激変したということなのだ。
ツタヤでCDを借りてMDで聞いていたのが、iPodに落として聞くという変化よりは劇的だったと思う。選択権の問題なので。

レンタルレコードが開始された時は当然洋楽全盛前夜となる(邦楽がアイドル路線まっしぐらだったから)。そこから華麗なる80’sが幕を開けることになる。

 

音楽に飢えていた上、インフラが整い始めたのが80’sだったと思う、そして供給側の問題と。

当時、アメリカの音楽シーンも停滞していた。そこに割って入ったのがブリティッシュアイドルで、例えば現在でも高名なのはカルチャークラブ(カーマ・カメレオンは今でもしょっちゅう流れている)、BandAidでもソロを貰っている。ほかにも米国を席巻したPolice(Sting)とかU2(Bono)とか(彼らはアイドルではない)。

当時はTBSで「ベストテン」という番組が行われていて、毎週のヒットチャートを生で歌手が歌うという番組が存在した。一方でその米国版小林克也氏がMCを行う「ベストヒットUSA」という番組があった。当時は流行が一つしかない時代だったので、今から考えると想像もつかないけれどヒットチャートに精通することがオシャレさんであった、興味が無いことを知らないとは言えない時代だったのだ。

 

そういう時代背景があった。1)邦楽が落ち込んでいた、2)洋楽が着目された、3)レンタルレコードが発足した、という点が重なりバブル入社組み近辺は洋楽が刷り込まれているのだ。なので80’sは「有名」なのだと思う。それ以上の年配もニューミュージックや70’sをせっせと出している。そのこと事態は我々世代は理解は出来るけど私以降の世代はどう受け止めているのであろうか。例えばマイケルジャクソンはKing of Popらしいけど彼は1枚(Thrirer)のアルバムでstarになった、それ以前もそれ以降もぼちぼちである。継続的な活動をしている彼の妹であるJanetや彼が尊敬するDianaLossの方が余程starだと個人的には思う、まぁ僕もスリラーのレコードは借りずに買ったけど。

 

なんかぐだぐだでここまで読んでもらった人には謝罪と尊敬の念を進呈します。

 

僕はピュアオーディオの世界にも脚(足?)を突っ込んでいたので、次回はその歴史をエントリーに挙げたいと思います。

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丸投げとコーディネータのお仕事

ルーチーンの仕事だと役割分担は決まっていて、コーディネーターが現場の人間をこき使う効率が問題となる。例えば商品開発であれば技術職・研究職は職人でメールでの依頼に素直に反応しない、ToならまだしもCcであれば全無視。一方でこまめに電話をしたり打ち合わせを持つ人は優先度が高い。僕もそうなんだけど、何故だか分からないけれど「打ち合わせ」に出た瞬間に義務感が生じて、きちんと仕事をしようという気になる。もちろんメールで済むことも一切合切含めて。非常に不合理だけれど技術屋にとっての優先度はそのようにして決まる。多分僕だけの反応ではなくて半径5mくらいはそうだと断言できる。

メールでのやり取りは記録が残るし合理的なんだけどニュアンスが伝わらない。なので全無視。上手い人はメールを打って何分後かに電話が来る。文章で正確に伝えた上で問題点を相談するという経緯をとる、この手法では技術屋は逃げられない。(そこが技術屋の可愛いところだとフォロー)

何故技術屋が(文書を通さない)依頼を嫌うかというと、頼んでいる本人が技術背景を分かっていないことが多いからだ。手続きとして技術屋に確認を求める人の少なくない割合で単に許可を求めているだけで技術的な本質を全く理解しようとしない人が多いからである。背景を理解していて確認のための依頼であればこれほど簡単なことは無い。仕様を決める責任上、技術屋さんに担保を求めるという本質的な行動原理がある、ということは「理解しているから再確認ね」と「これでいい?(丸投げ)」では相当に意味が変わってくる。
丸投げというのは「仕様は私が決めた、品質の担保はお願いね」という意味であり、とうてい甘受出来ない。

コーディネータのお仕事はこのバランス問題だと思う。実は技術屋は嘘をつく、出来るかもしれないことは「出来ない」と言う。コーディネータは技術屋の言い分だけを聞いていたら何も出来ない。技術屋は保守的なので「出来る」とはなかなか言わない、そこで尻を叩くのがコーディネイタというのが本質なのだから。

もう一度確認する。ほとんどの研究職は職人である。自分の流儀に沿わない仕事のスタイルは嫌うし、論理を追求する。なので噓くさいのは嫌いだ。コーディネータは技術屋を駆使してなにかしらの商品を作り上げ、営業にプレゼンしないといけないのだ。経験が無いので大変さがさっぱり分からないけれど僕はそういう仕事に就きたくない。

 

技術屋や研究屋を懐柔する方法がある。打ち合わせをすることだ。実は技術屋は議事録や直接依頼に弱い、議事録に書かれたことや直接依頼されたことは「やらなくてはならない」と錯覚するのだ。
他には顧客への説明のために無意味な実験を依頼したいこともある、こういうのを実務家は極端に嫌う。これも議事録に載せれば言うことを効く。ただ会議でどさくさまぎれに依頼をしても突っぱねられるだけだけど。いかに議事録に載せて不自然でないように会議の主催者は気を遣うべきだと思う。というか僕の先輩で自分では何もせずにコーディネータで大出世した人を知っている。彼は丸投げの天才だった、丸投げする代わりに権限を全て委譲してくれたから。仕事を依頼する際に「口は出すけど実務は知らない」といういわゆる丸投げは、まぁ信頼を落とすようで、人気はある。

私にはいつものことで大被害者で、だからその依頼者大嫌いで意思疎通が上手くいかないという超悪循環が起こっているんだけど、究極的に困るのは先方なのでまぁ気にしていない。上手い人はスケジュール調整(これ技術屋大好き)を適宜行い、一蓮托生をいかに気付かせないか(気付いた時には逃げられないような網を張っておく)のが操作術だと思う。

 

だいたい技術屋の多くはサボリである。それを如何に仕事をさせるかがコーディネイタのお仕事であり、それは商品開発なのか開発担当者の上司なのかはあいまい。技術担当者は出来ない理由をせいっぱいぶつけてくる、まぁ上司は見抜けるでしょう、商品開発担当者も見抜く必要がある。

商品開発担当者は非常に仕事が多岐にわたっていて「そんなことまで面倒見なくてはいけないのか」という憤りがあるとは思いますがそういうもんなのです。

 

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アイデンティティとやら

がんばれ日本らしいがこういう動きがないなぁ。誰もが知っているスターというや奴が居なくなったからかもしれない。とりあえず貼っとく。

Do They Know It's Christmas / Band Aid

こんときは大感動した、日本人的にはStingとBonoが居るだけでもすごいと思うでしょ?フィルコリンズとかすたぁ感ばっちりです。

 

We Are The World

 

当時このイベントに肌を震わせるぐらい興奮した、直接関係ない「アフリカ」にも思いを馳せたりもした。しかし「スター」ってやつの存在感に今でも圧倒される、声というか歌を聞くと「誰かが」明確すぎる。若い人にはマイケル・ジャクソンくらいしか知らないかもしれないけれど両ビデオとも出てくる人は全員大スターだった。マイケルが別格だったというのが映像で分かるけど、紅白歌合戦的な集まりだった。

BandAidですら鳥肌が立った、当時ブリティッシュロックが流行っていて、Jポップはいまいちで、アイドルが学園祭に来るというのがニュースだった。今で言えば声優がイベントに来るというかんじかしら。、。まぁそんなことはどうでもよくて大スターが大スターである個性が明確であった。大スターというのが存在できた時代の遺産ということであろう。

We Are The World Making(後編が見つからない)

僕の記憶ではボブ・ディランが「自分スタイル」を演じられなくて周りから野次られていた記憶がある、シンディはクインシーに「らしさ」をコーラスに提案している。ずーっと感じているのはジェームスはおいしいところをもってきすぎ感がある。レイチャールズがクインシーとの黒人地図的なことがあったとしてもJamsは優遇されすぎ照ると思う。まぁめちゃめちゃかっこいいからいいんだけど。個別のファンは出番増やしてって思うよね。

 

何が言いたいかというと、NETでワールドワイドで情報が行き来する現代では「スター」という奴が存在できないのだと思う。例えば僕の個人的な感想だけど日本の最後のスターはドリカムかミスチルなのかもしれない。もう、スターは出ないのかもしれない。ということはBand AidとWe Are The Worldは世界最高のコンテンツなのだと思う。偶然にもマイケル・ジャクソンのピークの頃だったし。でもおっさんにとれば声量が出ないとか、体の線が崩れたとか、栄光をもとにした営業はあるわけで。

いや最大公約数を求めコンテンツの売り上げを伸ばすべく努力はされるであろう、その好例がモーニング娘。やAKBだと思う。最近ではKARAとか少女時代か。

 

先に挙げたスターは声というか歌を聴いただけでだれが歌っているか分かることがスターだと論じた。

これは「ものまね」を生業としている人にとっては危機ではないかと思う。コロッケさんのように自分で需要を作れる(僕の認識では美川憲一はコロッケが育てた)人以外では。

話がそれた。今のスターがアイデンティティが薄いという主張ではないのです。浜崎あゆみさんとか安室奈美恵さんとかスターは居ると思います。だからこそ「これぞスター」的なWe Are The Japanがあっても良かったのになと思うわけです。

 

「Band Aid」や「We Are The World」は成功しました。発起人であるクインシー・ジョーンズは音楽プロデューサーなわけで、映像屋でもないし資金屋でもありません組織論的に時代も違うかもしれませんが。

4/28追記
僕にとってはUSA For Africaのソロパートは目隠しでも声を聞けば当てられる程度にすたぁです。そのトップバッターはセレブで有名なNicora Richieのお父さんであるライオネル・リッチーなのが、、、どうでもいい情報ですね。

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経済学的合理性を持ち合わせていない件(麻薬には適合できない件)

経済学者は、人間には経済合理性があるとして値段を上げれば使用量が減るという理論を元に医療費の削減にはタバコへの増税を叫ぶ。一方税収者はその理論を受け入れて(税収が減っては困るので)増税額はちびちび行ってきた。矛盾した対応であるがその論によれば命題はタバコの値段を上げ過ぎれば税収は下がる、その結果医療費が下がるかどうかということであろう。
縄張りが違うので単純ではないことは理解できるけど結局どうなのかしら。統計の結果は出ているはずだけどセンセーショナルに報道されないところを見ると妄想するに「死ぬ人」にはそれ相応の医療費が掛かり、誰もが死ぬのだから、、、という風に想像している。タバコ税収は医療費支出の問題ではなくて税収入の問題なのだ。

一方、震災の影響でJTの供給がストップした。筆者は3月10日から供給がストップして4月10日から順次供給するということを信じて備蓄とかしていなかった。ところか筆者の愛用する銘柄は5月中旬まで供給されないということらしい。そして本日ストックが底をついた。他の銘柄を吸ってみたのだが習慣として喫煙は満足できるかと思われるんだけど、どうも無理。禁煙か。

 

昨年一箱20本が300円から440円に値上げされた際に、「一応」禁煙の努力ををした。まぁ無駄だった。このエントリーを挙げていることから分かるように所詮煙草は麻薬なので値段で合理的に判断できないことが分かった。民主党でも「値段の上げ過ぎ」が議論されたと思うけど麻薬力はその後の収益性を見れば自明である。

多くの喫煙者は禁煙したいと思っていると僕は考えている。ところが煙草は麻薬なので「経済的な施策」でのコントロール(禁煙)はなかなか難しい。賛否はあると思うけど僕はこの期に「禁煙できるかも」という期待がある。経済学的には「一箱千円」にすれば相当に喫煙者が減るという試算らしいが、金と誘惑があれば吸うのは事実。酒が入ればとか本数を減らしてとか、、、。
ところがモノが無ければ吸えない訳だ。もちろん外国産に浮気をする人もいるであろう、だって麻薬だもの。酒を含めた麻薬に経済学的合理性を論じることがおかしいということ、政府にとって単に搾取の対象だ。

 

僕みたいに代替品が見つからない人は禁煙の大チャンスだ。と思うことにしよう。

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SWOTに注力し浮気はしない件

1年で空調を余り必要としない季節は今頃(秋にもある)であろう。産業が100%で回っていると仮定して、必要基本電力は現在水準なのであろう。そして昨今の関東の電力稼働率は約80%、残りの20%が家庭を含めた空調代だ。
一般家庭の電力消費量が1/3だとすると、家庭での電力消費量が10%上がっても直感的な感想だとこの夏は乗り切れそうだ。まぁ無責任な予想なので真に受けないで欲しいけど。

 

標題の件、同僚と話をしていたのだけれど、市場を作る使命にあるリーダーカンパニーと、ニッチ市場を作るエポックメイキング企業がある。前者の代表を花王・日清食品だとすると後者は小林製薬・東鳩とか。マネシタ電機とかマネボウという単語も昔はあったような。一方で市場を作りきれないメーカーは大手の動向にコバンザメに徹して2番手を意識する企業もある、例は挙げないけど。

 

ここでいうSWOTの要素は強み・弱み・機会・脅威というよりは、シェア大・小、資金力大・小と置き換えています。ポジショニング論としてどのポジションに自企業が居るかを理解して投資を考えるかということを主題としています。

 

この命題は資金の多少、新規性か追随性かで4つのマトリックスに企業の性格を表すことが出来ると思われます。企業が目指すべきなのは4つのカテゴリーのナンバーワンだと思う。別に資金力が無くて追随型メーカーだから収益性が低いわけではない、そのカテゴリーでナンバーワンをとれば収益性は確保できる。店頭で欲する商品は各カテゴリー最低2種で、企業の資金力は販売企業にとって究極的には関係ないからだ。王道とニッチの各2アイテムあればいいのだ。ということはメーカーは先に挙げた4カテゴリーのどこかで1番になる必要がある。

 

中途半端な企業の開発マンは自企業がどのポジションか理解していないことが多い気がする。開発マンというよりは企業自体の理解度なのかもしれない。
この分析は筆者独自の提起ではなくて教科書に書いてある問題である。資源は限定なので資源をどこに振るかという問題なのだ。

先に「開発マンの自覚」的な記述をしたが、僕が知っている開発マン(商品開発・技術を問わず)は経営者の顔色を伺っている。まぁサラリーマンとして当然で、それに反して自身の本心を貫いてもらっても困る。ということは例えば役員がデータを要求すればデータに基づいた商品開発を行うわけで、半周遅れなうえ平均値になる。他社に負けない品質を求めれば味・使用感・SPECを求めることになり、収益を圧迫する。

経営学が求めるSWOTは自分のポジションを確認する作業で非常に単純な理論であると理解している。多くの企業でなんでそこからぶれるかすごく疑問なんだけど、人間というか経営者は煩悩が多いのかもしれない。当然であるが中間管理職はもっと煩悩が多いのは自覚している。

失敗したくないという煩悩である。だからこそあちこちに手を広げたくなるわけだ。合掌。

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インフレ不景気に突入するか

店にはモノが溢れているというか、その棚を確保するのが大変だった時代があった、つい2カ月前の話。店頭からモノが消えたのは被災地に優先的に物資が割り振られたのと、生産設備に被害を受けたからであろう。僕の業界も原材料の確保で右往左往であり、生産計画通りにはいかない。

生産設備と一口に言っても、石油化学コンビナートではエチレンプラントが被災し、下流のエチレングリコールが足りなくて。とかプロピレンプラントが被災しポリプロピレンが品薄で、、、その下流ではもっと大変なことになっているらしい。ポリプロピレン(PP)は食品包材に普通に使われている素材である。

 

標題の件、本当にインフレ不景気があるかもしれない。

 

前々から素材(石油)価格の高騰から原料価格が上がるという見通しだったのだけれど、このモノ不足ではメーカーは原料高騰を受け入れざるを得ないであろう。問題は最終製品に価格転嫁できるかなんだけど、この品不足では価格転嫁は容易であろう。

直接震災を受けた企業も、機会損失を受け入れた企業も、まぁ一部特需の業界を除けば儲かっているわけではない。雇用のことを考えると売価を上げざるを得なくて、今は(言葉が悪いけど)便乗するにいい機会だ。

 

おまけに電力の供給に不安があれば工場の稼働率が下がるわけで原材料コストは上がる。さらに東電の原発事故被害をコストに乗っけると電気代が高くなるわけで。その結果、物価を上げざるを得ない。

単に物価が上がり、その分給与が増えれば良いが外部要因なので、おまけに国際コスト競争力が落ちることは自明で、、、、。

脅しでもなんでもないんだけど原発を早く稼動して電力料金を下げる努力をしないと、国際競争力は落ちて所得は減り、物価は上昇する。まぁ貧しくなるわけだ。

 

追記:GDPが下がれば給与総額は下がる、雇用が削られるのか給与が減るのかはしらないが。物価が上がって購買力が下がるという大正米騒動のような事象が起こるわけだ。現代では生活保護費が上がるとか増税圧迫も考えられる。

 

 

*前のエントリーでも述べているのですが常識的にいえば原発は事故をしたリスクが1企業で担うには被害が大きすぎることを指摘しました。なので何が何でも原発再開しろという意味ではなくて、コンセンサスの元に再開するのがベターだということです。しかし設計上原発による電力を享受するのは大都市なのでコンセンサスを得るのは難しいでしょう。例えば表現は悪いですが福島県浜通りに原発を誘致したのは結果論で言えば間違いでなかったわけです。(原発事故が都市部でおこれば避難費用が莫大になった)

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北川景子ってCM女王だな

北川景子ってそんなに好きな女優ではないんだけど『旬』という感じがする。新作のCMにインパクトが無い上、ドラマに出ない佐々木希を引き離した感がある。

 

 

この前ぱっつんの髪型は衝撃的だし、なんといってもスポーツウエアは女子力の下駄を履かせる。

 

去年のkaneboアリーは去年の加藤あいのほうが好みなんだけど今年も出来はナカナカ。

 

 

資生堂アネッサが私の好きでない方向性に向かっているのでなおさら目立つ。

おなじくkanebo軍団sara。O脚を隠すにはワンピが最適。

 

 

続いてソニー。最新作の最後のショットの黒髪ショートが印象的なCMではなく楽しい旅行風景のこちらをチョイス。

 

クノールは気持ち悪かったので未掲載、オンワード樫山がなかなか。いや別にファンじゃないですよ。

 

ちなみに個人的に気になるCMはグレード消臭パフパフの(御年38歳の)五明祐子さんコッコアポの石原さとみさんですかね。気になるのがあれば追記します。

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高嶋アナと西尾アナが前線を退いた後の件

標題の件、朝のニュース番組のことなんだけど、関根麻里子に期待していたのだけれど番組の編成が糞で4chは見てない。王道の8chは皆藤愛子さんの出番が増えることなく、生野アナと加藤アナが幅を利かせている、つまんない。僕の好みではないけれど長野お天気キャスターと早耳娘だけが癒してくれる。

今までは4chと8chの西尾アナと高嶋アナの笑顔とおみ足とファッションと、あとついでにニュースだったんだけど見るものが無くなった。

今後は10chの松尾アナと1chの江崎アナと鈴木アナで癒すことにしよう。各局ともに丁度6:30頃にニュースをやっていて、6:35あたりからよく分からない電話インタビューがあって、6:40あたりからNHKならどうでもいいとこや他局では芸能が始まったりする。ザッピング効力が全く意味をなさない、まぁ朝は忙しくてよく見てないのだけれど。

もうちょっと組み合わせを吟味して欲しい、年配の綺麗系と若々しいアナの組み合わせとか。男性アナがその任に就いてもいいんだけど10chの吉澤アナのポジションはちょっと違う。

 

一般の朝のニュース番組を見ている時間=朝食を含む身支度の時間はどれくらいであろう。30~60分辺りだろうか、そうするとニュースをダイジェストで10分、芸能・スポーツで10分、天気予報5分、流行りモノの紹介で5分(CM込み)という編成か。NHKは芸能と流行りモノを削って地方ニュースか。8chと4chに言いたいんだけど電話インタビューは要らない、上記のバランスで30分で1サイクルを5:30~8:30まで延々と繰り返せばいいと思うんだけど。どうせ身支度ついでに見ていて真面目に見ているわけではないんだし。緊急ニュースでもない限り最初の30分を録画して、あとはその録画の放送でもいいと思うくらいだ。その方が低コストだ。

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「原発は絶対安全だというのは嘘っぱちだった」件

原発は事故が起きると経済的な損失が莫大で、1私企業で損害を補償しきれない、また保険にも入れそうに無いことが分かった。危険か安全かはともかく、事故を想定し損害保険に入れない限りは稼動をストップする方向性はやむをえないのかもしれない。

理想論を述べるとリスクを開示して、兆レベルの損害賠償に耐えられる損保を起こし、その保険料込みの電気代が高いか安いかということであろう。理屈では設計の新しい原発の方がより安全であろう事は想像できるので、安全性の総点検をして設計の新しい原子炉の損保を引き受けてくれる可能性はある。実際には東電ですら補償が難しいのに、関電をはじめ他の電力会社が放射性物質漏れの際の補償に耐えられないのは自明だ。損保に入れないなら稼動は止めだ。

 

議論をややこしくしているのは「原発は危険だ」と述べている人が多いことである。しかし実際には地震の際に転落した作業員の死亡などは確認されたけれど、まだ放射性物質漏れによる死傷者はα線による軽い火傷が報道されただけだ。周辺住民に移動を余儀なくさせ、農作物や漁業に影響は出ているが、それは経済的な問題だ。だから軽く見ていいということにはならないけれど「危険」という認識がおかしいことには変わりない。

 

TV:原発が事故ったからってがたがた言うなと言う人たち~Matimulog

 

標題の件、「原発は絶対安全だというのは嘘っぱちだった」という論理は破綻している。
そもそも「絶対安全」という概念は存在しない、それを安全か危険かというありもしない2者択一を求め、言質を引き出して「嘘っぱちだった」というのは馬鹿の証拠である。
記事ではコストを中心に述べられていてそれほど違和感はないんだけど、なんか原発憎しの理念が透けて見え、標題の件を記してしまう。全てぶち壊しである。

今後のエネルギー政策は事故が起きたときの補償の範囲が大きすぎる原発は補償に対して国が責任を持つという国策路線以外は有り得ないし、その選択はないであろう。ということは高コストでも小規模発電所をたくさん作り、リスクの分散化を行うことになるであろう。リスクの分散はリスクの足し算なので危険度は原発よりも跳ね上がるだろうけど、事故の際の被害の大きさや補償範囲が限定される、原発より危険で高コストなガスタービンコジェネあたりに落ち着くのであろう。

 

かねてよりただでさえ電気料金が高く海外との競争力に問題があるという指摘があた。ところが独占的な営業を許されている電力9社が被災の補償を共同補償という話が出てきている。輪番停電で苦しむであろう関東企業は生産拠点を関東以外に移すという行動も余りメリットがないかもしれない。いっきょに海外移転が進むかもしれない。

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