goo

社内公用語が英語の件

日本企業は「社内公用語=英語」しないともう世界で生き残れない~My Life in mit Sloan
「通じる英語」でいいんですよ~My Life in mit Sloan

コメント欄が面白い、blog主であるLilacさんの趣旨とは別の拒否反応が。違和感があるのは実際の企業を想定した議論ではなく、観念論がコメント欄を賑わしている。趣旨への反論ではなくて観念としての反論は笑える。

米系のWorld Wide企業は英語が既に公用語だという印象を持っている。例えばコカ・コーラだ(ボトラーでは無くCCJC)。ではドイツの企業、あまりしらないけどBASFはドイツ語のような。英米系が英語なのは当然として、World Wideな活動をしていないTop企業は英語にこだわっていない気がする。

もちろんWold Wideを標榜している企業もあるであろう、これも内情は良く分からないけど例えばP&Gとか。

 

僕の勝手な印象であれば、人材をどこで求めるかということ。LilacさんはWold Wideで人材を募集するのであれば社内公用語が英語であることは必須であろうことは賛成する。一例はP&G社はR&Dを外注しているので英語化は必須であろう。一方R&Dを国内に有している企業は別に英語化する必要は無いと思う。日本企業の多くや欧州系でもである。

余談です。だからエンジニアに英語力が必要でないという理由にはならない。先日取引の有る中国企業のセールスマンと幹部と食事をしたのだけれど、こちらの英語力の悲惨さに、、、。申し訳ございません。

楽天やユニクロで公用語を英語にするというのは多分合理的である。Lilacさんが言うようにWord Wideで企業体を考えるならそれは必然であろう。それこそSONYやTOYOTAが日本というlocal企業なのか、World Wideに人材を求めるのかという判断の問題であろう。

企業において英語を公用化する理由もあれば、そうしない理由もあるであろう。それは経営の指針の問題で善悪ではない。Lilac氏のエントリーに噛み付く違和感は善悪を述べるコメンテイターが多いこと。所詮善悪で無いのにそれが理解できない時点で頭が悪い。馬鹿を排除するためには英語化するという楽天は正しいのかもしれない。

 

海外の企業と一切付き合わないという企業は少ないであろう。昇進というか幹部になればなおさらであろう。そこできちんとコミュニケーションを取れる方法があれば別に英語化する必要はない。でもそれが出来ないのが現実なので幹部には英語が出来ることが求められるのであろう。

Lilac氏は「通じればいい」ということを提案している。これは完全に同意する。ビジネスにおいてエレガントな英語であればそれにこしたことは無いけど、実際は通じればいいというシーンが多い。特に売り込み企業が英米系でとか、東南アジアにOEMを頼むときとか。ぶっちゃけ通じればいい。こちらから売り込みたいときはまぁ語学に堪能な人を雇えばいい、彼は単に語学に堪能なだけだという点は肝に銘じておくべきだ。

業界(技術)にど素人の通訳は厄介だ、だったら少ないボキャブラリーで直接質問したほうがいいことは少なくない。こういう状態をLilac氏は鑑みているのであろう。そういう意味で理解できる。

 

でもいやだけど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

交渉のコストについての雑感

海外の露店での価格交渉はうざい。それは当然で旅行人には交渉時間単価が高いからである。こちらが想定する100倍の値段を提示されると交渉する気は一切なくなる、馬鹿だなと思う。その割には帰ろうとすると一気に10分の1になる、それから細かな交渉する時間コストを考えるとうんざりする。外人と自国民とでは戦術を変える必要があるのだ。まぁそういうのを楽しむ民族も居るとは思う。例えばO阪人である。

別にO阪人が日本人の印象を変えたとは思わないでも交渉好きのO阪人にしてやられた東南アジアの人々は「日本人には2種類居る、O阪人とそれ以外」というマーケティングがあるのかも。まぁこれは間違いであろう。相場の何十倍の価格を提示した瞬間に誰もが「こっから交渉してやろう」とは思えないからだ。露店人は頭が悪い。それとも成功体験があるのかしら。

一方、店舗ではいろいろと思うところがある。欲しいモノが結構安くて買ってもいいかなと思う場合である。こういった場合、O阪人は非常に心強い。モノを買うときに交渉をするというシーンに関東人はなれていないのであろう。ということはがめついという評価は間違いと言うことである。意地汚いのではなく、交渉をする場面を自分できちっと決めればいいということになる。高級ブティックでも交渉可能であろうし、それを「値切り」として非難するのはちょっと違うのであろう。

 

話は変わる。

TVで公団が建て替えを計画しているマンションに住んでいる人の具申があった。当人達の意識は真っ当な意見を述べているのであろう。実態は既得権益者である現住民が退去できない理由を述べていた、無法者と同じ論理だった。引越しできない理由を述べるだけで、法的な根拠は一切無い、まぁ行政が相手だと甘えているわけだ。重ねて言うが彼らに法的に救済される根拠はないらしい。それを相手が行政だから交渉し、大手マスコミに自分たちの不幸を訴える。当然であるが営利企業であればそのような論法は通じないであろう。

公団が住民を追い出す理由が泣ける、耐震基準に合致しないからだ。大きな意味で耐震を遵守する社会運動が過去の建築物への犯人探しが始まり、分譲である民間の建物は住民の自己責任でなんとかすることになった。ところが賃貸であるURは逃げられない。「立て替えるからどいて」と言えば住民は「このままでいい」と言い、効率を著しく阻害する。私はこの問題に詳しくはないし、解は持たないけれども、社会問題をぶち上げればそれでいいということはないということだ。そしてその手の問題は転居費用を調達できない人にとっては害悪なのであろう。

 

というように交渉は各人にとって値段が変わる。それが分からない人が多くて困る。一物一価が理想であると思っている人が多いということ。一物一価は理想でもなんでもなくて幻想だと思うんだけどそうではないらしい。一物一価を標榜して高度経済成長時に繁栄した成功モデルは分かる、ダイエーなどをはじめとした流通大手とメーカーが握ったのは分かる。でも理論的には配達コストや品揃えコストは集客数で異なるはずであり、全国一物一価は戦略であり、逆に効率的に商売が出来るエリアの顧客は相対的に損をしていることになるであろう。

とういうことはメーカーは物流コストを流通に負担させた方が流通も得だと思う。ブラックボックスにされるよりはコントロールして販売戦略を講じる方がいいと思う。
ぶっちゃけると、効率的でない地方は効率的な地方と値段が同じなのは逆差別的であり、値段差があってもいいと思う。ちなみに観光地価格は競争原理の裏返しであり今回の議論とはちょっと違うと思う、まぁ本質的には同じだと思うけど。

 

さらに脱線。消費財メーカーやサービス業へのクレーマーはどう考えても交渉力が絶大だ。それは交渉の時間単価が著しく低いからだ。多分彼らは交渉の成果を時間単位で管理していない。無限の情熱を掛けて勝ったか負けたかという判断なのであろう。それでは勝てない。メーカーはクレーマーに対して時間管理で勝つか負けるかという判断を早期にする必要がある。メーカーの威信を掛けて負けるわけには行かないときは費用の心配をしてはならないという教訓も引き出せる。

 

交渉に時間を掛けてでも面子を重視すると表現する人のこと。時間単価もしくは時給が著しく低いのでカネ目当てではないことは自明である。だからこそ厄介だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

マニフェストに対する雑感

鳩山氏が政権を投げ出す頃、民主党に投票した人は無能な宰相を選んだことにたいして責任を持てみたいな議論が起こったらしい。投票した政党に投票した人は民主党のマニフェストに対して全責任を負うという論理は全く理解できない。選挙のときによく思うのが「投票したい党がない」というのが一番の違和感だ。なので「マニフェスト」が最重要と言われると最大限の違和感がある。私は当時半々で投票したが、その理由はマニフェストに満足しなかったからであり、結果責任を負う気はさらさらない。

というか政党内でも意見は分かれているはずで、菅総理の打ち出した消費税増税に舌打ちどころかという候補者は多いであろう。候補者がそうなのだから選挙民に責任があるという主張には違和感がある。投票した人は何かの政策に共感したから投票したのであり、すべての主張に身を売った訳ではないのは当然だと思う。

結局、選挙は期待値だと思うのであるが、政党は理念で動いたほうがお得なのだ。それは支持母体を確保するためであり、既得権益を保護する論理が大政党の多くを占める。また支持母体の厚い小政党がキャスティングボートを握っている現状では少数意見が要望を通す根拠となる。民主党と国民新党の連合はかなりの違和感があるというのが各党に投票した人の本音であろう。自民党に投票した人がそれにたいして責任を取れと言う論理はじゃぁお前何なのということになる。民主党への投票した人が郵政国有化に賛成だと誰がどう見てもありえないし。

 

やっと本論です。分かりづらくて申し訳ない。

日本は世論で政権が失脚するが、理論的には過半数で一旦政権をとれば参議院で惨敗しても全く問題はない。世論を鑑みて、結局次の選挙を見据えて、戦術変更を選挙なしに行うのは良いシステムだと思う。重ねて言うが安倍氏も鳩山氏も辞任する義務は一切無かった。世論の評価は政府として突っぱねてもなんの問題もなかった。ところが総理の支持母体である政党に所属する議員が「次の選挙で落ちたら困る」ので首相退陣を促すことになる。支持率を気にして政治を行っているわけで非常に健全である。

そして結局、世論が気に入る政策を両党が主張するわけで似たようなものになる。このことを批判する向きもあるがその人は立ち上がれか共産党に票を入れれば済む話なのでどうでもいい。

 

与党グループにしろ野党グループに投票するにしろ、その党へ投票した責任を負うという理論はありえない。それこそその主張の差異数は成人数だけ主張があるであろう。そんなことは現実的でないので大きな主張を元に実現させるのが国民の仕事であろう。その結果2大政党制で両党の主張はアイスクリームの店の位置と同様に隣同士になるのは仕方が無い。アイスクリームと違うのは重要顧客を尊重するかどうかである。ビーチの端に居る重要顧客に優先的にデリバリーするかどうかということであり、その結果損を目の当たりにすればその政党を嫌いになるということである。

その意味では民主党は、伝統茶店のようなお得意さん重視一見客無視の闇の帝王(仮称)と、外食産業のような顧客獲得主義である世論重視の青い3枚目役者の闘争を思い浮かべることが出来る。

一方自民党への哀愁は酷くて、政治実現できない過去の大党は存在価値が無い。既得権益の代弁者の象徴であり、その既得権益者が捨てた党に何の価値があるのかが分からない。

とにかく、政権交代中のいろいろな軋轢に対する批判のうち「マニフェストを否定するのはおかしい」という嫌民主党一派の論理は全く受け入れられない。そういう輩は自民党とともに没落すればいい。

 

選挙戦術で見えてくることも興味が有る。自民・民主がタレント候補を多数立てたようである。彼らは集票マシーンで飴も同時にばら撒いていると想像するのが自然であろう。谷亮子氏が立候補したのは「柔道発展のために」と囁いたであろうことは想像しても間違いないであろう。ということは国会議員、特に参議院は立法を通すだけの存在でありおおいなるリストラが可能であろう、例えば一院制とか。

もっとも利害に直接関係がある議員が選挙改革が出来るとは思えないが、改革をする権利は議員にしかないので世論を作成するしか方法は無いであろう。

 

日本の政治機構は特異で「世論の評判」を過剰なまでに気にしてくれるわけだから。ということはやはりマニフェスト至上主義は賛成できない。あっ、選挙における投票ガイドラインは必要なのでマニフェストは必要ですよ、でもそれに捉われるのは政府としても議員としても選挙民としても問題があるんじゃないでしょうか。

菅総理が消費税増税を打ち上げて支持率が下がったようです。これで撤回するか見ものです。消費税増税反対派である共産・社民・みんなの総数が激増すれば民主と自民党は共倒れするかもしれません。

 

追記:自民党のくずっぷりは潔くて惚れ惚れします、やっぱりクズなんですね。いや民主党が優れているわけは無いのですよ、というか及第点は優良可でいえば可でしょう。可に勝てない自民党は不可なわけです。既得権益層と無党派層の両方を取り込むことは所詮無理です。だったらどっちかしたらどうですかね。
そして民主党も同様のジレンマを抱えることになるわけですが、菅氏が先制したのかもしれません。であればますます自民党の存在価値はないですね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本ではいったいいつからイデオロギーが無くなったのか

標題の件、自民党から「立ち上がれ日本」とか「国民新党」が居なくなって、与党から社民党が抜け出て、民主・自民の両党からイデオロギー色が払拭された。これが良いことかどうかは分からない、ひとつ言えるのは論理的に物事を捉えようとする機運が背景にあるのではないかと想像する。

ここではイデオロギーを否定するものではない。イデオロギーを背景とした現実的な主張や落としどころがあるという仮定で考えている。例えば弱者救済には必要な理論背景はぼんやりしているであろう。「貧乏人は野たれ死んでもいい」という主張に理論的に反論するのはやや難しいのではないか?私が貧乏になったとき政府に救済して欲しいと考えるのであれば、別に制度として社会保障を行うよりも保険でもいいということもある。もちろんこれに論理的に反論は可能である。健康保険のないアメリカの医療事情は方々で聞くし、貧乏人が野垂れ死ぬ世の中では治安や経済が悪化するであろう。

 

宗教やideorogy[観念形態]は説明の出来ない事象を扱う、当然論理的ではない。例えばキリストが生き返ったり、テレポーテーションしたことを説明するには「論理」とは違った背景が必要となる。また「日本古来の美」という奴も説明不可能だ。「家族制度が美しい」には論理・理論で説明できないし、「自然が一番」には間違った印象論しかない。同様に社会的弱者を救済するというのもある。

イデオロギーは説明不可能(唱えている本人は説明不可能であることを自覚していないことが多い)なので説明をすっ飛ばす。理論的に説明しようとすると支離滅裂になる。目的(答え)が決まっていて理論で説明しようとするから、他人の突っ込みには論理的に答えられない。まぁ当たり前だ。しかし論理で説明できないということは無いと思う。損得をベースとした実現可能な制度を提示したり、財源を提示したりなど。

 

保守というよりは懐古主義者の言う、「家族」「日本(人)」が美しいというのはイデオロギーである、さすがに日本が優れているとは言っていないがそう言いたいのであろう。そうでなければそんな意味の無い主張は無いからだ。「日本の家族制度は美しい、他国の家族制度も美しい」では支離滅裂なのが理解できるであろう。当然であるが他国の家族制度を陥れるわけには行かないので言わないだけで本心はここにあるのは当然である。
まず日本の家族制度はころころ変わっていて、源頼朝夫人は北条政子と呼ばれるのが一般的だ、源姓ではない。当人は当時御台所とか呼ばれていたのであろう。平安時代貴族は女性は自分の家に居るのが当然だったようだ。つい最近まで家格にこだわっていたが出自は問わなかったようだ、優秀な低家格の者を各上の家に養子にして、家格を上げて再養子に出すとか普通。徳川慶喜公がそんな感じか。
美しい日本というのはなんかの美意識の問題なので説明不可能なのだ。

それよりもっと問題がある。古来農業は人でのかかる生業だった、なので農地は家に帰属し、食っていくためには家の生業である農作業を手伝う必要があったし、制度と言うよりは選択の自由がないという意味での職業の自由が存在しなかった。家は食わしていくために家人を家に帰属させ、家人は食っていくために家に忠誠を誓わなくてはならない。むさくるしい家からの逃避を描いた小説はそんじょそこらにある。産業革命が起きて、企業が労働力を広く求めるようになって初めて職業選択の自由が存在できるようになった。そして団塊の世代が家族制度にピリオドを打った。そういう歴史がある。それを維持・復活するメリットが全然分からない。

情緒としての日本を拒否する人は少ないと思うが、現実的な制度となると拒否感が強いであろう。男女同姓の維持を他人に強制する理由は全く論理的でない。当然であるが他国には男女別姓の国があるし、その国が美しくないわけではない。ようは単なる懐古主義者なのだから支持層は家族制度の恩恵を受けた人、長男しか支持者は居ないと思われる。そういうニッチな政党なのであろう。

 

 

同じことが弱者救済・平和主義もいえる。普通の弱者救済論は、破産したときの再スタートできる世の中だったり、何かの事情で働けない人を救済する制度を論じる。当然、制度の不備を突いてフリーライドするする輩が居て、輩を排除する機能もシステムには必要である。それが弱者救済がイデオロギーとなると、どういうわけか分からないが税支出の最優先課題になったり、大企業が犯人になったりする。そしてその制度を拡充するために増税を論じる人が皆無なのも不思議だ。多分イデオロギーなので説明不可能なのだ。弱者救済は必要だけど、税は払いたくない。まさにである。

先ほども述べたが弱者救済は観念的であるけれど程度はともかく広く受け入れられていると思う。
ちょと脱線。健康保険・年金は色合いがちょっと変わっていて入らないと損なシステムだ。加入すると税金の補填が行われる貧乏人にはすばらしい制度なんだけど貧乏人ほど入らないというのは周知徹底の問題なのか理解力*1の問題なのか。
閑話休題。理想主義者は先ず弱者救済は必要というのであればその財源というか方法論を議論するのが普通であるが、どうもイデオロギーを重視する層は特に関心がないようである。お題を唱えていれば成立するという危うい思想が覗く。

非武装平和主義に至っては砂上の楼閣のようだ。「攻め込まれたらどうするんですか?」に「攻め込んでこない」。「竹島は?尖閣諸島は?」、「占領されていない」。「えっ?」、「えっ?」。

イデオロギーを中心にした考え方は理論的でない自覚が必要である。そしてイデオロギーは根拠(理論)が希薄なので、論理で実現の可能性とメリットを訴えなければならない。
ところが古来、思想のムーブメントでは理論がどっか行って観念で立ち振る舞うようになる。社会主義がその典型でレーニン・毛沢東の粛清も、浅間山荘事件も根は同じであろう。自然崇拝主義も同じで毒や災害と闘ってきた歴史を無視して「自然最高」は理論背景がゼロである上、メリットもイカガワシイ。

イデオロギー的なモノというのは同質の概念を広く共有してきた歴史がある。キリスト教国家内では教義は前提であり、日本でもギルド内では暗黙の了解としてきたのであろう。
ところが民主主義の世の中になって議論をする必要が出てきた。議論にはどうしたって論理的な主張が必須となる。「老人を敬え」「何で?」「・・・」状態でははなはだ拙い訳だ。美しい観念や既得権者や懐古主義者ほどこの議論の前提をすっ飛ばす傾向がある。

 

*1理解力には2種類あると思う。制度への理解の無さと、経済的なものと。今の1円を惜しんで将来の100円を手放すみたいな。なので国会議員が年金未納では後者の理解で敢えて年金を払っていないとすれば、別に非難される必要は無いと思う。まぁ制度維持のマスコットが汚れていてはいけないというのも分かる。

追記)なんか理論(theory)と論理(logic)をごっちゃに扱っていて整理し切れていませんね。面倒なので修正しませんが、脳内で読み替えてください。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

消費税増税への拒否感に違和感を感じる件

菅首相になって180度逆展開の消費税増税論議が熱くなってきた。おまけに第1党と第2党がそろって増税なのでまぁ上がるのであろう。

当然であるが批判も出る、そのこと自体は健全なことだ。だけど説得力が全く無いのはどうかと思う、やらせ感を感じるのだ。

景気に冷や水を掛けてでもプライマリーバランスを向上させる必要がある。団塊の世代以上が作った借金を彼らが生きているうちに払ってもらう必要があるからだ。彼らはあと20年しか生きない。先延ばしをすればするほど彼らは税のフリーライドに成功したということになる。単にフリーライドへの批判感と言うか倫理感だけでなく国債償還額が多大になれば後々困るのは我々現役世代だ。

「プライマリーバランスよりも景気対策」を主張する向きについては過去20年間何が起こったか勉強すればいい。過去20年景気を上げようとして借金を積み重ねたのだ。官僚の正義感による現実乖離もあったろう、理論どおりに経済が上向かないということもあったろう、改革を世論が潰したこともあった。政府による財政支出は景気の上向きに役に立たなかったとは言わないけれど効果的でなかったことは明白で、その路線を続けて上手くいくと考えるのはちょっとしたファンタジーだ。

与党はファンタジーを追い求め、財政の改革で増税なしに財政が良くなると言った前首相に懲りて方針転換した。未だに節約で財政が好転するという党は、、、まぁ責任感が1gもない野党だし。みんなの党、社民党、共産等。共通するのは「連立を組まない」と明言している党。責任感が一切無い、鳩山級なのだろう。

 

単純消費税増税が優れているのは景気のブレがあまりないこと、収入の少ない老人からも税収が可能であること。直ぐにでも増税していつまでにプライマリーバランスゼロを達成できるか確約して欲しい、前倒しを勘案して。そうなれば福祉への支出率は下げざるを得ないであろう。そんななかで食料品特定減税は手間と時間と税収減を生じるだけでメリットが分からない。民主党お得意の左巻きの精神の吐露であろうが精神性以外に意味は無いと思う。原理原則を速度をもって貫いて欲しい。

でだ。とかく嫌われる法人税減税と消費税増税だが、景気対策の側面はあると思う。法人税減税はそれ自体が投資を呼び込むだけでなく、配当利回りを達成し易くなる。そうなれば設備投資原資としての社内留保が増えたり、業績給として真の意味でのボーナスが配当される可能性がある。さらに諸外国より安い消費税は総取引コストを押し下げる可能性すらある。まぁ夢物語で総数では景気に冷や水を与えるのは間違いないが。

世代間不公平感を解消するのは国債償還を進めることであり、現在の老人からカネを取るには消費税増税しかありえない。贈与税と相続税の限度額を下げるという手もあるが、こちらは不確実性が高い。

 

結論のようなもの。消費税に反対論はまともな論はない。それは当たり前で政権をとらないことを前提としたニッチ集票党だからであろう。矛盾がチョモランマよりも高くても関係ない人種なのだ。消費税のデメリットを大きく取り上げようがそんなの無視すればいい。普天間移設に対して鳩山氏も社民党も合理的な案を提示できなかった。まぁそんなものだ。

追記)社民党へのフォロー。社民党は普天間移設に対して最低でも県外というのを真性に信じた(フリをした)、なので政権を支えた。しかし民主党は裏切った(ように見える)。福島党首が偉いのは正しい選択(辺野古移転)を拒否して顧客満足を貫いたことだ。合理的に正しいことを受け入れるのは政治家としてはありえないことは理解できる。
同時に社民党支持層は馬鹿だということをさらした。それは仕方が無いことであろう。ニッチであること、無視してかまわない層であるということのコンセンサスを得てしまった。

 

追記2)消費税増税反対論を読んで私の中でのもやもやがはっきりした。要は彼らが言う「改革」や「倹約」は消費税増税と次元が違うので並立可能であるということ。どちらが先というのは論理的におかしいこと、両方やればいいということだ。倹約が上手く行っても将来の人口構成や社会保障費を稼ぐには消費税増税回避はありえないということ。

追記3)将来社会保障費は増大するのは異論が無いであろう、その体力を蓄えないといけない時代に過去の負の遺産を作った人が生きている間に返済しないと、相続税の控除を無くすと言うのもありかもしれない。公務員改革や行政改革の結果を待ってからでは遅すぎるのである。

コメント ( 19 ) | Trackback ( 0 )

goo blogは記述に時間が経ったエントリーを消し去る件

フランスは南アフリカに負けたようです。グループ最下位ですか、そうですか。南アフリカはメキシコと得失点差で決勝に進めなかったようですがそうですか。

 

gooblogでは何度あったか分からないけど、記述に時間がかかったエントリーを受け付けません、そのエントリーは消滅し、そしてその時間の開示や根拠は一切述べられません。

まぁ時間切れになるほどなので推敲を重ねたエントリーほど拒否されるわけです。ものすごいがっかり感が生じます。

 

はてなに乗り換えようとしたのですが入力フォームが気に入らなくて現在に至っています。お勧めのプラットフォームを教えてください。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

化粧品も健康食品も医薬品ではない件

化粧品の成分にちょっと詳しいけど質問ある?~社会生活VIP

化粧品や健康食品は「効能・効果」があってはならない。というわけで業界では厚労省の監視の下「表現のガイドライン」を設ける。そこから医薬成分を微量に配合した医薬部外品や、効能を限定的に表現できる特保などが存在する。理念としては「毒と薬は同じもの」なので、毒をむやみやたらに流布したりできない。効能がある=医薬品(=毒)であり、効能が無い=健康食品・化粧品であるというスタンスだ。

では効果が無いかと言えばそんなことはないというのがややこしいところだ。老化や健康のメカニズムが解明されるにつれて、抗老化作用が期待できる本来食事で取るビタミンCやE(アスコルビン酸Naとかトコフェロールとかその他誘導体)を健康食品や化粧品で補うとかという話になる。足りなう部分を補うというスタンスだ。また肌老化はUV(紫外線)を防げばいいというのは統計的に検証されているので日焼け防止は効果があるといえる。

ということは、効果があるとすると薬(毒)の一種であり、扱いが難しくなるということ。保存状態や使用方法などで制約がある医薬品(通常処方後1ヶ月程度ではないか)とは扱いが異なって不思議ではない。化粧品の有効期限は1~3年で、食品は0.5~2年である。

 

準業界人としてLinkにはあまり違和感は持たなかった、ステロイド批判とかは別にして。ちょっと違和感があるのは業界人の彼女がわざわざ100均で化粧水を買うというくだり。自分の部署で作っているのにわざわざ100均で買うというのはかなり信用できない。自分が開発した製品のテクスチャの確認とか、他社製品の確認にも忙しいはずだし。

あと原価についてであるが、流通でさえ限界利益を3割持っていく、製造設備を抱える業界では限界利益は7割くらいはあるであろう。原材料費率が低い(限界利益が高い)のがぼったくりだという論理は、じゃぁ全部自分で作ればいいじゃんということになると思うのだが。原材料費率が高いほうがいいという考え方は理解できない。
例えば目玉焼きを作るにもフライパンとガスとレンジと皿が要る、食後は皿を洗わなくてはならない。どれも無料ではないのだけれど。
独身の知人に料理を一切しない人がいる、出来ないわけではないらしい。飲みが多いので素材の在庫管理や製造設備(コンロが電熱器×1らしい)のチープさを考えるとアウトソーシング(外食・弁当)の方が快適らしい、ごみも出ないし。

消費財業界での大雑把な原価構成は中味1割、容器1割、製造費1割、流通4割、固定費+利益3割だと思う。でも、この構成だと利益は多分出ない。

 

健食・化粧品は不足を補ったり、UV等の被害から守ることが本質である。その積み重ねの結果、最近の女性は中年(30代以降)でもきれいな人が多いと思う。過去は肌を整えたり、おしゃれをしなかった人たちが着飾って、肌を労わった結果だと思う。その程度には効能がある。一旦壊れた部分(例えばアトピーとかにきびとか日焼けによるしみ・しわとか)は医薬品でないと直らない。ビタミンを塗っても飲んでも効かないのだ、効いたら法律違反なのだ。現状を維持するといえば近い表現なのかもしれない。医薬部外品でも特保でもデータはあるが効いてはいけないのだ。

 

ちなみに染毛、除毛、パーマ液などの効果を謳うことは認められている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

SFはひとつの嘘は許されても嘘の羅列は許されない件

映画に関する記述です。ザ・ウォーカーに対するネタバレありなので注意してご覧ください。まぁそれほどでもないのですが。

 

SFはサイエンス・フィクションの略語であろうけれども楽しみ方の礼儀があるような気がする。それは大きなひとつないし二つの嘘は大前提として許容できるけれども、嘘の数が多すぎると感情移入できないということ。

例えばスター・ウォーズは進化が異なった星ではあの奇怪な星人が居てもおかしくないと思う、フォースも物語を構築する要素としてありであろう。
またバック・トゥ・ザ・フューチャーなんかもそういうお約束を守っていると思う。

SFはなんでもありだと思う人が少なくないのかもしれないがそんなことは無いのである。ミステリーで言えば神がかりな想像力で解決する超人が跋扈するようなものか。きちんとプロットを開示して読み返してみたら「うーん、なるほど」という部分が無ければ駄作だと思う。

 

何を言いたいかと言えばザ・ウォーカーを見た印象である。映像が乾いていて、ヒロイン?が美しいのでそれなりに楽しめるのであるが作法はわきまえていない気がする。SFのお約束がいまいちなのである。

アバター第9地区もこの手のお約束は守っていた、まぁだからこそ作品としての評価は僕の中では高いわけであるが。

ネタバレなのであるが原題は The book of Eli という。原題で言うbookはコンテンツである、しかし映画で描かれたbookはモノである。コンテンツとモノとの落ちがあるのであるが、、、。その落ちがまた物語を台無しにしているので、、、。見ない方がいいとは言わないけどがっかり感があるのは覚悟しておいた方がいい。月一で映画を見る人は見ても損をしたと思わないと思うけど、初めて彼女とのデートと言うのは向かない。というよりSF全般が初デートには向かないか。僕も消去的に選んだので悪くないという印象なのが本音。あっMilaKunisは超可愛いい、それだけでも見る価値はある。いまさら感があるけど。

 

追記)映画化すると言うことで読み始めた「告白」の小説を読み終わった。なんか読んでる途中ずっと松たか子が主人公として読んでいる(脇役にはかなり違和感があるが)。普通、小説を先に読むとヒーロー/ヒロイン(主人公)に違和感を持つ場合が多いと思うんだけど「告白」はヒロインが決まった時点で読み始めたしなぁ。そういう場合は映画を見ても違和感がないのかしら。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

東の人は麺にコシを求める件

以前の記事で「大阪のうどんは美味しくない」というニュアンスを書いたら突っ込まれた。当たり前ですね、大阪に失礼でした。

しかし東人は麺にコシを求めている気がする。逆に大阪柔々うどん店が無いのが不思議。西人は柔麺を求めないのかしら?とにかく東人は麺にコシを求めてる気がする。私もそうだ。

この理由は東のご当地麺の多くがコシやのどごしを求めて居るからではないであろうか。蕎麦、稲庭、はのどごしつるり、水沢うどん、盛岡冷麺はコシ。東の麺は総じてコシ・のどごし系だ。ちょっとこの理論の弱いのはラーメンにはコシを求められていないということ。つけめんにそこを求めているのかしら。

一方、西は柔麺だ。きしめん、大阪~中国~福岡うどん、柔い。味噌煮込みうどんと福岡豚骨ラーメンは半生のような麺を食しているので硬いけどコシと言うのとは違う気がする。

四国が異端か、うどんにしても素麺にしてものどごし・こし重視か。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

安心を危険で買う件

安全と安心は似て非なるものだというのは当然として、その対極の危険と不安は絶好の商売の場である。

大手メーカーは安全第一、品質第二、コスト第三であろう。アタマのネジの外れた企業幹部が「どれも第一だ」と本音を明かすことも少なくないが。ここでいう安全は工場従業員の安全である。工場見学をすると「安全第一」と謳われているが、HPでは品質第一的な表現があり、IR的にはコスト第一な感じなのでネジが外れて無くても全部第一だと思っている馬鹿は少なくないのかもしれない。

安全でも不安をあおり無添加を謳ったりもする。安全に対する基本的知識が消費者にはないという前提で商売が行われている。

ここで商品戦略は置いておいて、大手メーカーは品質問題は命取りだと思っている。商品の安全性に非常に気を使っており、業界1位の商品の安全性は基本的に問題ないと思って間違いない。

大手メーカーの不作為としての危険はありえない。そこを突いた弱小メーカーの安全性は吹けば飛ぶようなものだ。大手外食メーカーが危険の可能性を公表して代金の返還を行うのはその一旦である。もちろんこれは弱小メーカーの商品の安全性が担保されないというのとイコールではない。

不安を煽る商法と言うのは安全を疑うようなメッセージを流布することである。

例えば有機農法は安全性とは全く関係ない、というより危険である可能性のほうが高い。高コストで危険で安心なわけだ。安心を訴える高い商品を提供するメーカーは100%そういうモノ。もちろん危険であると断定するわけでもないし、そのメーカーの理念に共感することに反対するものではない。しかし中小の企業は商品が安全かどうかを調査する部隊を持っていないことは自明で、安心を訴えるのは理解できるけれども攻撃相手の危険を証明できないだけではなく、自商品の安全性を証明できないということ。まぁ外部機関を使って安全性を証明することはできるけど。だいたい天然品は危険なのだ、勝手に混ざった物質は多いし。それであれば安全をコントロールできる人工合成物の方が安全なのだ。

大手だからといって不安商法がないとも限らない。不安を煽り売り上げの増大を狙うという側面もあるし、消費者が望むものを供給するという側面もあるであろう。

自然食品、健康食品、(自然派)化粧品、電磁波グッズ、まぁいろいろある。

というわけで高感度な属性は(不安を回避するために)天然信仰の挙句、危険をチョイスする。

安心を買うために安全を犠牲にして、さらに高コストな商品を買うという暴挙に出る。人間は面白い。
安心の反対は不安であり、危険の反対は安全である。なので危険と安心は普通に共存できる。当然であるが不安と安全も共存できる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

民主主義と市場主義は別にベストではない件

標題の件、まぁどちらも現時点でベターな考え方だと思うし、私もその意見に賛成だ。でもどちらも万能ではなくて「政治の手」が入るのも仕方が無いと思う。そして政治の手は完全であるはずはない。

消費税を10%にするということを民主党も自民党も言い出した。私は財政の健全化を団塊の世代が死にきる前にやる必要があると思っている、例え景気を無視してもだ。なのでこの案は賛成だ。菅氏が過去の発言との整合性でぐちゃぐちゃ言っているようだが本質はそういう舵を切ったこと理解している私は賛成だ。インフレを日銀が起こせるという主張は理解できない、通貨に実力がなければその分切り下げられるだけだし。それは過去の借金を帳消しに出来るかもしれないが、金利が急上昇するわけで生活に不安が出る。やはり正攻法で財政を健全化したほうが結局得だと思う。

この期に於いて「みんなの党」が財政の見直しをしてからの増税と発言した。げんなり、というか真性の馬鹿なんだろう。当の民主党がそれを言っていて、出来なかった歴史をみんなの党ができるという理屈が分からない。

 

いや政治に理念が必要なのは分かる、でも野党には理念すら感じない。絵空事の理念は単なる理想だ。自民党は現実に舵を切った民主党へのアンチテーゼを述べることが出来ない、他の野党はできもしない理念に大忙し。馬鹿丸出しというかみんなの党の化けの皮が剥がれて良かった。あやうく票を入れそうだったし。

で標題に戻る。

矛盾するんだけど、野党が必要なのは市場原理主義・民主原理主義なのではないか。省令を含めた規制完全撤廃と、徴税の透明化、個人・法人のお金の透明化だ。不正を徹底的に許さないシステムの提案があってもおかしくない。伝統的に左派も右派も汚職や政治の匙加減が大好きだ。共産党は個人事業主のカネの透明化に反対だったし、自民党は公共事業で利益誘導を行うのが常套だった。

政治の匙加減は不平等とイコールであるわけだ。ベストではないけどベターな条件に突き進むという政党があっても面白いと思うんだけど。まぁ人気無いだろうけどね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

コンテンツ業界再編に関しての雑感

関東CD販売大手の○○楽器で早期退職制度が始まったらしい。

amazonや着歌、itune、netの競合が盛んな業界だ。CDという「モノ」を売るには辛い業界であろう。だって本当に売っているのはモノではなくてコンテンツなのだから。コンテンツは別にCDという媒体でなくてもいいわけだ。おそらくDVDも同様であろう。

このCD・DVD業界の行く末を坦々と見ているのが書店業界であろう。IPadが話題になり、すわ書物が必要なくなるという勢いだ。まぁ「本」が無くなることはないにしろ、NETの洗礼を受けた音楽小売業界に書店業界が注目するのは当然であろう。

いいアイデアが無いので淡々と事実を述べていくが、音楽はCDを眺めていれば音が聞こえるわけではない、音を聞く装置が普及しているという前提での商売だ。そして音を聞くユニットはipodであったりwalkmanであったりする。もちろん両者はCDを直接読み込む存在ではない。携帯プレイヤーはPCからダウンロードする前提で、そのPCに取り込むにはCDというメディアを必要としないのだから当然である。

○○楽器は多分既存のCDプレイヤーをメインとした顧客活動に活きるのであろう、イヤホンで聴かない対象としてだったり、amazonで買うよりは商品を見てリアルに買う層をターゲットしていくのであろう。そういう層はある一定でいると思う。

 

CD・DVD販売業界の危機は書籍販売業の危機と重なる。書籍店にとって一周遅れで来るのは自明だからだ。雑誌があるさとか能天気なことを考えている人は置いておいて、音楽メディア販売業は未来の書籍店の姿と被る。そして彼らは撤退を宣言したようだ(対策案がない)。

不便なのか便利なのか良く分からないけどそういうこと。
そして携帯電話をメディアとした販売戦略には違和感がなさそうなのだ。電車で携帯をさわって居ない人を見つけるのが大変なくらい。文庫本を持つよりも文庫本サイズのスマートメディアが席巻してもなんらおかしくないわけだ。通勤電車ではiPhoneくらいのサイズで読む需要は少なくない。iPodTachみたいな製品が注目されても全然おかしくないわけだ。

現在のところCD屋はビジネスモデルを構築できていない気がする、当然書店もだ。

ちょっと脱線。
書籍ビジネスで一番の問題は単行本→文庫本というビジネスモデルであろう。私的にはダン・ブラウンの新作を読みたいんだけど単行本しかない。僕は本を読むための時間を作るのではなく、通勤時間の慰めとして読書をしている。ということは出版社はコンテンツを売っているのではなくて、書店・amazonを通じて「単行本」というモノを売っているということだ。そして携帯に向いていない単行本を買う気が一切ない私にとっては文庫化したというニュースはその時点で既にどうでもいい。1Q84にはあまり興味は無いが、仮に友人に勧められても文庫化しない限り手に取ることはない。それは売り逃しているのかは分からない。

「本」というモノはiPadを使いこなしていない層にはそれはそれで重要であると思う。私もその類であろう。でも単行本は買わない。コンテンツに興味があって早く欲しいとなった場合、単行本とiPadでは後者を選ぶ。だってそもそも通勤電車で単行本を読むことは物理的に無理だからだ。

音楽販売業界も書籍販売業界もメディアとしての「モノ」にこだわっている気がする。そして音楽業界が先に音を上げて、本屋が先人の教訓を活かさずに音楽と書籍の違いにこだわって書籍業界がなんの対策も打たずに沈むのであろう。馬鹿かも。

というか、馬鹿にならざるを得ないのは理解できる。理解できるけどそれでいいのかは全く別問題だと思う。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

W杯が始まったわけだが

W杯が始まりました。国々の思惑はあると思いますが雑感。

まずは南アフリカが開催初得点というニュースはいいニュースですよね。相手には溜まったものではないでしょうが。また韓国が2-0で勝利したのは近隣の友人としては喜ばしいことです。

日本と同組のオランダ-デンマーク戦を見ていた感想なのですが、デンマークは勝ち試合をこぼしたということでしょう。前半戦はカウンターでオランダゴールを脅かし続け、ゲームの主導権を握っていたようです。守備を固め、カウンターを狙う戦術はオランダがボールは支配していましたが、ゲームを支配していたとはとても思えない内容でした。
ところが後半直ぐにオウンゴールで入れられてからはデンマークは自分達の戦術を行えません、0-0の間ではオランダは攻撃的な布陣を敷いていたのでカウンターが存在できたのでしょうが、攻撃をしないオランダに対してデンマークは不慣れな攻撃的なシフトを敷かざるを得なかったのでしょう。その結果オランダは追加点をGetできました。

脱線します。岡田監督は大変ですね、フォーメーションを変えた練習をすれば「ぶれてる」と批判があるわけで。「後半30分0-0」の場合と「後半00分0-1」の場合でフォーメーションが違って不思議ではないのに、それすら批判されるのですから。選手上がりの解説者って脳味噌が筋肉と思った方がいいのかなぁ?あまり論理的でないのでどうでもいいんですが。

元に戻ります、なんか今(書いてる途中に)日本が勝ったようです、まぁそれは他のニュースでご存知ですよね。

「型」が大事だと思うんですよね。デンマークは「型」戦略で実力上位とみなされていたオランダに圧勝だと思います。欧州の多くの伝統的な戦術は「守り」でオランダは異端児だと思います、格下のデンマークにさえ、、、。

日本の欠点が「決定力の無さ」だとしたら守り+カウンターでいいと思うんだけど、どうも国民はそれを許さない感じがする。そしてその国民の要望に指導者が応えようとしているのではないかと言う疑問がある。プレイヤー出身の解説者でも「決定力が」とかいうほどだからそれはそれで正しいのであろう、でも残念なのは論理的でないことだ。脳味噌が筋肉な人が述べてるんじゃないのと言う疑問である。

守って守ってそれで点を取れなくて、相手に入れられて負けてもいいじゃん、オランダ-デンマーク戦は対日本という視点で見ていたがデンマークの前半戦の戦い方は日本の今後の戦術のお手本ではないか。逆に先制された際の戦い方は反面教師と考えれば。

 

とはいえお祭りで南アフリカ・韓国・日本、万歳!!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地方公務員がおいしいと思える件

阿久津市の公務員給与公開問題はちょっと興味を引いた。職が保証されている公務員は民間平均と比べ安くなくてはならないという必要があると思うからだ。公務員が優遇過ぎて優秀な若者が全て公務員を目指すのは異常な事態だと思う。もちろん公務員に優秀な人間が行ってはならないという意味ではない。

そう考えると地方公務員の人気ぶりは異常であり、異常であるということは公務員の給与体系が間違っているということになる。例に挙げた阿久津市では平均給与が200万円台で公務員は、、、。らしい、ソース探すの面倒なのでこんな表現です。底辺のブログを信用せずに自分で探してください。
教員を目指して浪人したり私立を渡り歩くという人の話も聞いたことがあるが、地方公務員は退職金や平均給与がとても高く、まぁ競争の一種なのであろう。問題は一旦公立の教師に常用採用されればいいということなのだろう。

そう考えると正社員や公務員はものすごい既得権益である。まぁ僕も年収程度に働いていない実感があるので卑下できる。しかしそんなの取っ払ってもいいと思える。

 

というのは「使えない部下」の馘首しても替りが居ないという事実だ。仮に使えない部下を首にして、新たに採用して、OJTをして。すごく面倒。マニュアル化が出来ている部署であればその使えない部下はマニュアルをやらせればいい話だと思う。別に解雇規定を緩めても劇的な変化は訪れないと思う。解雇規定を緩めると私を含めた多くの緩い社員の職が脅かされるかと言えばそうではないということ。使えないけど仕込んだ部下と新規採用とでは即戦力として雲泥の差があるのだ。

結局解雇規定を緩めてもあまり問題はないであろう。

でだ、問題は公務員が「おいしい」と思える状況だということ。公務員は「おいしくはないけど安定している」というのであれば分かる。首をきれないという身分保障をするのであれば最低賃金まで落とす制度が必要であろう。いや組織内でなぁなぁになるので公務員の解雇規定はなくしても問題ないと思う。

そう現状を考えると地方公務員はものすごくおいしい。地方の若者はそこを目指すべきであろう。まぁ将来は分からないが。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

ラーメンは高級食なのかもしれない、蕎麦とうどんの将来は

前のエントリーでラーメンの懐の深さと言うか日本伝統の麺とは違うと述べた。うどん・そばも様々な進歩を遂げているとは言え、ある類型にパターン化されているのは誰もが認めるところではないか、うどんの方がバラエティに富むみたい。そばは硬直化が激しくて立ち食いそばが300円程度で蕎麦屋でざるが1,000円以下程度、その差ざっと3倍で「麺はいいけどツユががっかり」は多数。

そば専門店の劣化は酷くて「ざる」至上主義感がある。そのくせツユがだめ多数。そば好きは麺に嗜好が偏っていると思わざるを得ない。だから立ち食いで主流のだしそばを専門店では邪流と扱う。矛盾を内包しているわけだ。

まぁうどんはその点健全でラーメン界のつけめんに相当するものや温つけめんに相当するものがある(というかつけめんがそもそもうどん界のパクリであろう)。出汁も鰹・昆布・炒り子、他にはアゴとかバラエティがある。

ちょっとプチ結論じみたもの。そばは進化を拒否した御馬鹿認定と言うこと(まぁ私は蕎麦が好きなので、あくまでロジックということで)。美味い物を提供しようとすると蕎麦は産地やらにこだわり「美味さ」自体にはあまり興味が無いように思える。ちょっとだけ知識欲がある層を騙す存在かと。もちろん蕎麦好きの舌はマーケティングのためには存在しているけれども、味はアレなわけです。マニア的な何かを刺激すれば美味さはどうでもいいわけです。韃靼蕎麦はまぁその典型でしょう。

やっと本題の前振りです。

ラーメンという定義がはっきりしないと述べました、人気店でも美味くはないと述べました(あくまで私ベースですが)。なので無茶苦茶感は感じます。ラーメンが中国起源の麺料理であると定義すれば違和感どころかあれはラーメンではないと思います。しかしだからこそラーメンは面白いと思っています。ラーメンという名の下に様々な実験が行われていると思わざるを得ないのです。

過日超極太麺のラーメンを食したのですが、私の感想は「あれはラーメンではない」というものでした、そして麺を食すにいちいち難儀してとても旨いモノとは思えませんでした。しかしその店は結構繁盛しています。その程度に自由度があるのがラーメンだと思うのです。

そしてそしてやっと本題です。

このように自由な経営が可能なベースはなんなのかという疑問があるのです。例えば牛丼チェーン店には「美味い」と思って行くというよりは費用効果が高いというポジションなのではないでしょうか。「この値段でkのボリューム(または美味さ)は安い」的な。専業紙にはコストダウンの大変さが日々述べられています。1食300円程度で餌を提供する企業と言うあつかいでしょうか。

そこでラーメンは一杯700円程度で行列を作ったりします。原価率やその値段が妥当であるかどうかは分かりませんが、少なくとも行列を作っているということは値段設定が安過ぎるということでしょう。

そしてラーメン屋にはある程度こだわりが必要なようです。単純に能書きの無い美味いラーメンを提供してもそれは売り上げがあがらないということのようです。そのせいで高級な有名店とチェーン店の値段の差が乖離してしまいました。前者は並んでも行く700円程度の店で、後者は400円程度のチェーン店を築く企業があるようです。

いろいろな外食産業があるけれど大手チェーン店の1.5倍程度の個人店が乱立する業界はちょっと考えられない。

成功している個別店は、その原材料原価の考え方はちょっと違うのであろう。町の寿司屋や蕎麦屋のように。いや儲かっているのだからそれ以上の存在だ。銀座の有名店のように。とすればラーメン人気店はかなり特殊な存在で、銀座寿司店のような価値ある存在と思える。

 

追記)私は関東人だからかも知れないが柔柔の大阪・九州うどんは大嫌いです、しかし出汁が美味いのは認める(新大阪駅でわざわざ違うホームに下りて杵屋をすするのが、、、。)。なのでか知らんけど関東には九州出汁&四国麺という組み合わせの店もあったりする。それは邪道かもしれないけど結構美味い。関東のツユ見下し加減は異常だからだと思うんだけど。

讃岐うどんがもてはやされているのは東京人が「腰のある麺」を嗜好しているのに対し、柔柔麺の大阪・九州は及びでないということであろう。ところが讃岐も出汁軽視なので以上の様相を帯びることになる。

東京人は出汁とツユを軽視するのはやめようよ、というかそのトレンドがやっと来たということか。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ