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石炭火発に環境省が噛み付いた件

電力自由化で「石炭火発」が燃えている。温暖化ガス(CO2:二酸化炭素)を多く排出する石炭火発への投資が活発していることに、環境省が待ったをかけた構図である。

運輸・電力の二大温暖化ガス発生機関のうち、発電部門で問題が起こった。ぼんくら原発君が停止された状況で、代替?として効率の悪い石炭火発の申請が進んでいる。
この石炭火発投資は常識的には20年以上で投資回収する案件であり、原発が再開したとしても、原発の寿命よりは永いであろう。近い将来炭素税が導入されても石炭火発が安泰だというのが投資会社の判断であろう。 

環境省が新規石炭火発に待ったを掛けたが、民間企業の投資に国は「環境アセス」で抵抗する程度である。日本は先進国の義務を無視している、というか後で金を払えばいい、というか払わない気満々である。

 

閑話休題。日本の電気代は上がり続けるのが必然のようだ、国民がそれを望んでいるわけで。

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ネオニコチノイド系農薬が騒ぎ?になっている件

ソースは忘れたが日本発のニュースで「ネオニコチノイド系農薬でツバチが減少している」というのがあったが、続報が全く流れてこない。

馬鹿みたいに朝日新聞が「農薬ネオニコチネイドを規制する世界、行動しない日本」と理科の通信簿が1の記者が書いた記事が配信されているのみだ。記事で今では出鱈目なレイチェル・カーソン「沈黙の春」が挙げられているが、「新潮の100冊(?)」に挙げられている名著(?)なので、記者を貶めるのは本意ではない。

この問題はけっこう欧州で議論されていることであり、モデル区域を作って実験するとは聞いていた。もちろん「系」というあいまいな形ではなく、きちんと実験をするという認識であった。その上でのニュースで結構驚いた。
再三のエクスキューズだが「その記事 」では「ミツバチ」という表記であった、セイヨウミツバチかニホンミツバチかの記載はなかった。と思う。

とにかく業界関係でも続報がないので判断できない。少なくとも農薬の物質名で記載されていない。

 

朝日新聞さん、科学の報道に情緒を入れるのは「煽り」だと思う。重大な事柄を情緒で捌いて「反原発」のようにしたいんですか?したいんですか。

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太陽光発電の小咄

私は外回りの営業マンです。クルマの購入が義務で、環境対応車という事で太陽光車を買わされます。

晴れであれば全く問題なく動くクルマですが、曇り・雨であれば流れに乗る運転は無理です。そのためオプションが設けられています、バッテリーとエンジンです。

バッテリーは商談中に電力を貯めることができます。また運転中にブレーキを踏めば回生エネルギーを貯めることが出来ます、現行のハイブリッドカーやエネチャージですね。その電力を用いて曇りや夕刻でも動くことが出来ます、その費用200万円です。電池にエネルギーが貯まらなければ外部から充電することも出来ます。天気により一斉に需要が発生するため、電気パネルと同等の石化燃料火力発電所が設けられ、その投資・費用が載せられた価格となり一般消費者の電気代は非常に高価になりますが、そんなことは我々には関係ありません。動力費としての電気代は石化燃料の1/10以下です。ランニングコストは優しいです。

一方で原動機(エンジン)を積むオプションもあります。太陽光が期待できないときに原動機が石化燃料を用いて動力を確保するシステムです。費用は100万円です。需要はあまり天気に左右されないため、価格は現在のガソリン機関の燃料と同等に確保できます。
電気で走る意味があるのかとの疑問は封じ込めます。充電屋は安く動力費を調達できているようですが。

 

発電所が壊れました。バッテリー式であれば一大事ですがHV式であればエンジンが動いているので問題ありません。お後がよろしくないようで。 

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環境NGOという立ち位置、産業を育てる目で。

日本人にとって「グリーン・ピース」は強権的であまり好かれている感じがしかしない。ちなみにNGOは「非政府組織(non-governmental organizations)」と僕は理解しており、官庁以外の組織はNGOである。ラーメン屋でも広義のNGOである。

ちなみに環境団体がグリーン・ピースの一派だと思われているのであれば彼らの戦略は非情で成功している。恐い存在として名を売った、欧米式環境意識が共有されてない状態で強権的な行動は「うさんくさい」という評判をばら撒いた。負けである。
敵を作る=「環境NGO」はNGという概念を根付かせてしまった。

だから捕鯨を擁護する。日本は漁業管理を失敗しかしていないのだけれど「世界最高の業業国」と幻想をばら撒いている。

この責任の少なくない部分をグリーンピースを始め環境団体が犯した失敗は懺悔して欲しい。 

 

環境NGOは科学的に活動すれば賛同を得られるかもしれないが、それでは資金が集まらないという内情を察する。そもそもNGOとは企業なのである。環境問題で賑わす事ができれば金が集まり、次のターゲットを探す。

 

閑話休題。NGO(非政府組織)とかNPO(非利益団体)は胡散臭いのである。しかしここは利権を利用して「明らかな環境破壊」を告発して欲しいと思う。例えば漁業資源管理とか、肥料・農薬による水質汚染(測定できないと思うけど)とか。

無意味かもしれないけれど、環境NGOは生産者からの説明責任を得るためにもあったらいいと思う。それがブランド化にも繋がると思う。

 

5/25追記:南氷洋での捕鯨が禁止された理由を日本人は原理的にも論理的にも理解していない。環境NGOはビジネスなのであり、感情を商売としているのである。欧米の感情から投資され活動しているのである。寄付と宗教を知らない日本人は無知である。
また日本人は世界中の漁場を破壊した歴史を有している。環境劣位民族なのであり、論理的にも負けである。
さらに欧米人はハラル(の殺し方)を受け入れない程度に偏狭なのだ。イルカ漁を欧米人が見れば残虐な漁を辞めさせる資金を投じるということだ。

伝統?それよりも金を払ってロビー活動が必要だという事だ。さらに日本人は漁業の失敗者であることを自覚する必要がある。 

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身近な野生動物(こうもり)への雑感

先日保土ヶ谷駅近くを歩いている最中にこうもりをみかけた。鳩や椋鳥、カラ類といった鳥類を見かけるのは当然として、哺乳類では犬・猫の野生種は見えず、ましてや狸・狐は見ない。都心部で一番身近な野生の哺乳類はこうもりだ。ネズミとか居るのかもしれないけど見ないし。爬虫類や両生類も行くとこ(公園等)に行けばみるけど普段は見ない、蛙とかでも。

広葉樹が多い鎌倉ではリスの繁殖が話題になっている、しかし横浜市では公園は少なくないけど鎌倉ほどではないし、リスは見ない。でもこうもりは見る。僕はつい最近まで関東平野の端に住んでいたのだけれどやはりこうもりはよく見た。あいつら地味に日本の野生界を牛耳っている、ネズミよりも鳩よりも。ロバート・ラングドン氏の言葉を借りれば「こうもりは象徴」である(嘘)。

でもバリバリの都市部で野生哺乳類が飛んでいるのはすごいというか。何を食べているのであろう、昆虫か。昆虫を食しているのであれば冬季はどうしているのか。新書で都市に住んでいるこうもりを解説してくれるといいと思います。少なくとも僕はブックオフで買います。

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地熱発電は有望と勘違いしている人に捧ぐ

えーっと短絡的に『地熱ボーリング推進派』と『温泉利権派』と云う構図を推定してみる。

単純に地熱が出来ると思っている人はそれはそれはお花畑で温泉の井戸を掘るよりは成功率が低い。レジャー温泉のボーリングは温泉の温度は気にしなくていいけれど地熱発電はそこが肝だからだ。高い源泉が欲しい。
だから地熱屋は確度が高いところでボーリングを行いたい。確度の根拠は「そこに温泉がある」ということだったりするので性質が悪い。地熱ボーリングをして源泉の湯量が減った際の補償に応えられるのかということである。

地熱サイドは温泉屋を悪く云うけれど産業として成り立っているところにドヤ顔で「掘るよ」って言われたサイド補償を考えていただきたい。ここまで感情の成分を序して書いたが、現実は感情の成分を抑えて記しているけれど、環境屋は『自分が正義』と勘違いしているので他人の産業に土足で踏みにじっていることに理解が及ばない、現場の人は当然理解している、推進者がアレなのだ。

交渉が決裂すると環境屋は温泉屋が悪いと言い出す。草津のGDPを保証してくれたら草津温泉は反対しなかったと思うんだけど、そんな巨大な保険は成立せず、環境屋のヤクザっぷりが際立つ。信念に基づいているので性質が悪い。金を払う能力が無いくせに「利権vs.健康な何か」という構図を勝手に脳内で補完して、、、、、、大迷惑なんですけど。本当の環境屋からしても。

 

で、その脳内安全派はあまりに勉強してなくて、そこが痛い。熱源が『地球』なので熱源をコントロールはできない、まぁ制御で対応することであろう。当然事故は起きる、一昨年には死亡事故が起きた。検察と国の陰謀か管理ミスにしたくて控訴したが負けた。技術が不完全であるという事だ。

 

安全にしろ危険にしろ「量」の概念が無いのは困る。 

 

にわか地熱派は否定観点で記事を読むといいよ、「全然だめ」という結論にしか落ち着かないから。

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久し振りに建設的な電源意見、でもハードル高し

太陽光とか風力とか地熱とか小水力とか出来ないことを分かっていた理想論が多い。あまりの理想論が現実無視で全国民が思考停止状態を招いた手腕は驚嘆に値するし、日本人て算盤を弾けないんだと悲嘆に暮れる。まぁ個人的な意見で言えば電気料金が100倍に耐えましょうというキャンペーンだと理解している。100倍払って停電の危機があるのですから馬鹿ですかね。

そんななかでハードルは高いけれど面白い記事を見つけた。

原発5基分の電力が燃料費タダで手に入る~NBONline

ちょっと前説が必要だと思うんだけど、ダイオキシン騒動で各自治体はゴミ処理施設に高温度燃焼の焼却炉に更新してきた。その結果ゴミ処理場の隣には漏れなく温水プールが付いている。この熱源を発電に遣おうと言う主張だ。発電設備を設ける必要があるとか、電力買取制度が整備されていないとかハードルは色々在るけど風力や太陽光よりは余程現実的であろう。記事では民間の焼却処理施設も売電が可能だと言う。もちろん殆ど捨てている。

しかし追い風もある。今現在プラゴミとして収集されている資源はサーマルリサイクル=生ゴミ燃焼に必要な重油の代わりに使用していると言うことだ。PET以外の単独素材以外はマテリアルリサイクルなどとても出来ず、サーマルリサイクル(=生ゴミの助燃材)として生かされているのが現実で、政府も最近認めた。プールの水を温めている余裕があれば発電しろと言うこと。もちろん燃焼温度は1千℃程度と低く、発電効率を高めるのは難しいと思うけど、COジェネ(多段廃熱利用)を考えれば最後の廃熱でプールの水を温めればいいじゃん。

もちろん記事でも指摘されているが、スマートグリッドというか買い取り制度を充実する必要がある。その責任は誰がとるのかという点は非常に難しい。ちなみにそれは太陽光でも風力でも同じだ。なのでゴミ発電特有の問題ではないことは指摘しておく。カネ(補助金)を払って発電効率の低い風力と太陽光に頼るよりも、今まで捨てていた熱源を生かすほうが余程効率的だ。ちなみにスマートグリッドとは電圧・周波数に責任を持つ部署であり、その部署(電力会社だとすると)は発電コストが高くなるのは必然となる。

今現在、ごみ焼却による発電を売電できない理由が、この『コストを誰が負担するか』だからである。要は太陽光でも風力でもそこが肝なので、太陽光・風力のためにバッファ制度を整備して低コストのごみ焼却発電が乗っ取るというロジックはあるとはおもうけど、そうなると太陽光・風力が設備補填を求めるだろうしな。結局ダメか。

 

まぁそういう理想は期待しません。官僚や東電は民主党に遠慮しているようですし、民主党に知性を期待するには民主党はあまりに原理主義的ですし。

まぁ日本は一回堕ちないと綺麗な理想を捨てられないんでしょうね。

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見える危険と見えない危険

前記事 海洋汚染と放射線汚染のどちらが許せるか~だめリーマンの思考法

で、日本の環境屋は前者に敏感であり、後者には冷淡だ。このことを指摘した。そのごコメントがあって考えさせられた。コメント欄で述べるのも良いのであるがエントリーとして挙げて見る。

 

CO2問題や放射線問題で敏感になっている、特に放射線問題ではパニックとしか思えない言動がblogやNetで飛び交っている。離婚してでも子供を連れて福島を去るとか、給食が信じられないから弁当持参とか。
彼らの共通項は『数字』に触れないこと、イメージである。男性の一部で放射線を測定をして煽っている人も居るが、放射線が測定されたことが危険指標であると満足しているようだ。

実は僕はそもそもガイガーカウンターって何をどういった原理で測定しているのか知らない。まぁそんな男が彼らを批判するのはお門違いなので、一連のエントリーは批判ではないことを認識して欲しい。

放射線もα線とかβ線とかγ線とかX線とかいろいろあると思うんだけど。私はシーベルト/hとかももう理解が面倒で投げ出してしまった。未熟な僕が例えば理解した単位にベクレルというのがある。1mol(アボガドロ数)での核分裂の数値らしく、分母足るべきアボガドロ数自体が10の23乗と巨大な訳で「その絶対値が大きいから驚く」という行為自体がアホらしいとしか言いようが無い。

 

話を脱線する。以前も述べたと思うんだけど、機械屋である僕はグラフなり原理を理解するには、次元を意識しないと意味が無いと思っている。化学屋や生物屋からからよくかわれるのであるが、彼らは現象に着目していて理論式に疎いのではないかと勘ぐっている。機械屋は理論式を級数化(多項式化)して、式を単純にして次元の「寄与度」を考えるのをモットーとしている(機械屋一般の理解ではなく私の理解です)。理学屋からは恐ろしく単純化する馬鹿の輩であるが、それでも理論式を頭に思い描きながらどの次元が優先度が高いかを頭に思い浮かべるわけだ。

そこで機械屋は要素を整理して単純系で考える。そして単純化するに至るにはどの次元を重要視したかが鍵だ。そのためには単位や次元は非常に大事なのである。逆にあらゆる要素を包括した実験では複雑系で処理しているわけで、統計という概念で処理せざるをえず、それは理論を構築するという意味での科学かという疑念が僕にはある。

 

僕は単位や測定原理を咀嚼するのが面倒で投げ出してしまったわけであるが、パニックになる前にその程度の勉強はした方がいいと思う。まぁ「お前が言うな」であるのではあるが。

 

やっと本線。

放射線パニックを構成している要素として、戦後日本人が刷り込まれた「原爆症」というのがあるであろう、原爆症がどの程度の被曝でどの程度起きたのか統計的なデータは無いようである。悲惨さはものすごいものがあるようだ。それが見えないという点が大きいと思われる。

ヒステリック的な反環境団体はその要素として「放射線」「CO2」「遺伝子組み換え」「化学肥料」を挙げることが多い。どれもその因果の証明は出来ない、「彼らは見えないモノを嫌う」という仮説だ。

見えないということは被害が軽微であると証明でもあるけれど、それは幽霊を怖がるのと基本的に同質なのかもしれない。見えなくても過去のデータから勉強すれば被害の量はある程度想定できるにも関わらずだ。

 

以前に「イメージを刷り込む左翼」ということを考えたことがある。日本人は固有の宗教観があり、例えば「穢れ」を嫌う。「穢れを嫌う」には「何か分からないものは拒否する」という感情があって、理論よりも感情を優先する宗教観があると思う。また仏教と儒教は「古いことはいいことだ」という前提があって、新しい技術を嫌う。ここを安保で負けた左翼が引き継いだ気がする。また日本人原理的な感情である「穢れを嫌い」「古いことはいいこと」が知識としてではなく、感情としてなじんだのであろう。漫画「美味しんぼ」の古式主義が大いに受け入れられたのはそのことと無縁でないであろう。

ここまでのキーワードというか要素は「見えないこと」「古くはなかったもの」を考えると放射線被害を過剰に拒否する背景が浮かび上がる。

 

一方で昨年メキシコ湾で海底油田が暴発した。ものすごい環境破壊だと思うのだけれど日本の世論は関心が薄かった。例えばCO2の関係と海底油田の漏れとどちらが環境破壊度が高いかというアセスメントは学者が行っていると思う。さらに放射線をばら撒く原発という問題が浮上した。しかし市民は冷淡で、原発>CO2>海底油田 であったように思う。それこそ「見えるか見えないか」なのだ。

 

ということは市民は「見えること」はみえているからこそ被害が自分のところまで来ないことが見えているから軽視して、見えない危険には見えないから不安というフィルターで濃縮しているということだ。

 

原発問題を経済的な問題として処理しようとするとしっぺ返しが来るのは必然だと思う。

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海洋汚染と放射線汚染のどちらが許せるか

昨今話題であったCO2問題は、電力業界というよりは輸送(自動車・トラック)がガソリン(または軽油)を使うという問題であった。石油採掘期限は30年前からずっと40年で、原油価格や採掘技術が上がれば採掘可能な油田は増えている。新興国が爆発的に石油消費量を増やしているけれど、それ以上に技術が追いついている。結果は採掘年限が変わらない。そして増えている油田の多くが海底油田である。

原始地球の気温はそれは高かったらしい。そんななかで海の珪藻類が大気のCO2を地中に固化した結果が石油だの天然ガスだのである。それを掘り返して燃やせば原始地球の大気に戻る方向で、温暖化係数が高いCO2が増えると地球温暖化が進む。そのスピードはともかく原理はそうだ。

つい数年前先進国はその温暖化のスピードを緩めることを決定した、京都議定書である。このコアは「遅らせる」という点にあり、極論すれば問題の先送りである。

近い将来先進国が車を低燃費で動かす努力目標が出来たが、新興国に対するリーダーというべき存在で、化石資源を輸送・移動に使用してもいいかという問いには答えていない。CO2問題は理念でいえば非常にやっかいな問題であるのだ。

 

Fukushimaはそこを吹き飛ばした。地震と津波のダブルを想定しなくてはいけない日本とそうでない国では温度差があるであろうが、とにかく日本はやらかした。原発が民間企業に任せてもいいかという問題もあるし、問題が起きたときにどうすればいいのかという多大な問題を提起した。日本の場合、原発は発電コストが安いといわれていたが電源三法や揚水発電を組み入れると高コストという試算もでてきた(ソース失念)。

 

一方で油田の海洋汚染も結構酷い。昨年のカリブ海の事故は記憶に新しいけれど「原子力でなければ安心」というわけにはいかない。

環境屋にも立場がいろいろとあるだろうけれど、「自分の居住区が安全であればいい」という立場もあるであろうし、いや「地球全体で環境を考えるべき」という立場もあろう。そういう意味では地震大国日本では原発離脱を勧告して、他国では原発推進するという合理的な世論はあっていいと思う。しかし環境屋というのは科学的な立場よりも感情を前提とした輩が多いためそこまで高度な意見を構築できない。

 

ということは環境問題は○か×かの問題に帰着してしまう。ドイツ・イタリアの地震や津波の危険性を僕はよく知らないのだけれど、そういう知識は反映されない。ドイツもイタリアも原発の危険性をフランスに外注する旨を採択した。(原発離脱ではない、あくまでアウトソースだという点に注意)

 

本来であれば学者がまとめた意見を政治家が実行に移せばいいのだけれど、市民運動というか選挙の票で左右される。

個人的な意見では海洋汚染も放射線汚染もどっちもどっちだと思われ、だからこそより安全な原子力に邁進してもらいたいなと思います。今までは安全性に対する緊迫度が「対外説明」だけに費やされていたことが暴露されたということで。安全に対してなにもしてこなかったことが暴露されました。そりゃそうですね、ありもしない「絶対安全」を約束させられたのですから。絶対安全であれば改良は効率(コストダウン)の方にしか行きません。

 

人類はFukushimaをきっかけに温暖化加速を選択したようです。また海底油田の依存度が高まることは必須です。

 

要は海が汚れるか、住んでいる地域が汚れるかの選択で、技術が多少の判断ソースとなるでしょうけれど、あくまで「多少」ということでしょう。でしたらまぁ海ですね。漁業関係者涙。

 

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イデオロギで原発を語る人

イデオロギを前提として議論を語るのは、「相手を説得してやろう」ということが主眼で、それは議論でないと思う。言い負かし合いというべき仕合だと思う。
多分、そしてお互いが論理の脆弱性を指摘されても自分は認めなければいいだけで、ゲームや議論は成り立たない。それは審判の居ない口げんかということだ。

僕は説得されることが多い性格を有していて、要は相手の論理を聞いてしまう。「あぁ負けだな」と思えば素直に相手の主張を認めるし、議論は勝ち負けではないと思っている。

しかし、負けないための議論は不毛で、論点をずらしたり相手の失点を突いたりする。それは討論技術の世界であり、本質的な議論は望めない。相手の論理が正しければそれを認めるという姿勢がなければそもそも議論は成立しない。だから日曜朝のTVの討論会は見ない、くだらないからだ。

 

閑話休題。不幸にも僕は機械屋で理念と一番遠いところで大学教育を受け、企業でも技術開発をメインに担当していて、理念や理論よりは事実の方が大事であった。事実から理論補強を再構築するという脳内構造を建築してしまったわけだ。だから事実を無視した(事実不鮮明な)理念・理論がこうだからという論理は全く受け付けない。

例えば「コラーゲンを食したら肌がぷりぷりになる」ということを調べたことがある。コラーゲンは分子量が大きいたんぱく質で、消化器はたんぱく質を吸収することが出来ない、せいぜいペプチド(アミノ酸2個程度)か。コラーゲンを構成するのはグリシンというアミノ酸で、これは体内で創生出来る。なのでグリシンを創生できる元素を食しておけば済む話で、コラーゲンを食する意味は余りない。しいて言えばコラーゲンを組成する元素を摂るのであればコラーゲンを食するのがまちがいないというところか、だがそれはコラーゲンである必要性は全くない。

 

一つだけ間違い無い事実。結論ありきの議論は不毛だ。どんだけ不利な事実があってもお互いに認めないであろう。それは知性的な政治論争に不向きである。イデオロギで政治動向が変わるのはアルカイダとかと次元が同じであることを理解したほうがいい。

 

そう考えると日本人は原発を冷静に考えられない確率が高いように思う。推進派も否定派もイデオロギで論じているから、議論で収拾しない。さらに悪いのは私のようなちょっと距離を置いた人は積極的に意見を言わないので無視される。これならサイコロに頼んだ方がいいのかもしれない。

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グリーン電力推進派(反原発派)の知識が残念な件

僕はもともと環境オタクでインターネットというツールもあることもあり、いろいろ素人的網羅的に勉強してきた。今仕事でバイオPE(ポリエチレン)を製品化できないか検討しているのだけれど、原料のブラジル産さとうきびはアマゾンを切り開いているという問題があって手放しで喜べるかという問題がある。バイオPEは可食材料は使用していないけれど、生分解性・植物由来のPLA(ポリ乳酸)は低レベルのとうもろこしが飢餓国と争奪戦となる。またバイオプラスティックのエネルギー供給量は意外と多くてCO2削減に疑問があるというレポートもある。まぁ負の部分があるということだ。

カビたMA米とか古々々米とか食への使用が耐えない原料も日本にはある。食に適さないコメがどういう業界に流れているかよく知らないのだけれど、廃棄費用が掛かるのであれば無料で引取りアルコール発酵をすれば、燃料やポリの原料になりうる。

 

原典を挙げたかったのだけれど面倒だから挙げないけれど原発廃止ブログや原発安全ブログのコメント欄が酷い。ブログ主の主張はともかくコメントは概ね反原発は感情であり論理ではない。一方で原発推進派はブログ主に対して論理的な対応を感じる。誤解を恐れずに言うと「反原発派は馬鹿」で「原発推進派は冷静」という構図が見える。

具体例を挙げるのが面倒なので挙げない。例えば「ドイツやスイスは反原発」ですみたいな(ドイツもスイスも電力輸入国by仏)、日本の風力発電で設計・施工・運用で訴訟が起きているとか。

 

話を変える。イデオロギの眼鏡で見ると色々な発電方法が魅力的に見えるらしい、しかしその魅力は現実的な問題で実現できないということが理解できない程度に知識が欠落している。

具体的にいえば先に挙げた風力しかり、地熱も温泉という超高付加価値団体の休業補償(保険)の額が想像できないようだ。電池としての揚水発電は自然環境との問題を抱えている、そもそもダムは治水がメインで利水ならともかく発電で地元を納得させるというストーリーは理解できない。治水ダムは集中豪雨を貯めて徐々に流す機能が求められる。一方利水ダムは水源や発電の為に常時マンタンを志向する、治水とは矛盾するわけだ。地元には当然ながら治水で説得する。なので今現在でも地元に嘘をついてダムを造ってきたのだ、地元はそんなことは知っている。水発主張は、だから水発推進派は「ドヤ顔で営利ダムを造るという厚顔を述べている」ということを知っているのか?知っているのであればいいです。

 

メガソーラーはエアコン需要のピークカットとしては有用であろうが発電量と収益性が不安定で高コストである(バックアップのコストは使うかどうかは別に必要であろう)。今までは東電というか現電力会社が送電を保証するという前提で述べているが、各家庭で発電された電力をきちんと運用する技術(=スマートグリッド)が必要となる。

 

「原発反対」というイデオロギは「技術」とは正反対の立ち位置にある。現状のシステムをひっくり返そうという理念があるのであればそれ相応知識は必要だと思う。ところが「不安」という観点で言いたいだけであれば、まぁ無意味だ。知識が伴わない理念的な行動は殆ど全て「危険」を志向する。イデオロギは不安を取り除くために危険を甘受しているわけだ

 

まぁど個人の問題なのでどうでもいいんだけど。

 

追記:福島や茨城で子弟を他県に疎開させる行動があるようです。非難する気はないのですが、両親の対応はパニック・神経症(=病気)という気がします。放射線で仮に寿命が10年縮んでも、青年・壮年期に幸せという歴史の方が大事だと僕個人は思います。疎開をすることで勉学や友人との交流がおろそかになるということのトレードオフが理解できません。
それがニュースになる程度に広がっているのでしょう。その放射線の被害を検証すれば、例えば僕であれば「煙草と酒をやめる」方が多分余程健康である。

 

ヒロシマ・ナガサキの原告団のある人は80歳を超えて、癌は原発由来だという訴訟がある。申し訳ないけどギャグとしか思えない。原爆直撃ですら80まで生きれる。

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東電が安全対策を怠った理由は「絶対安全」を求めた側にあるのではないか

仕事では本当に必要な優先度よりも、上司やお偉いさんへの説明や整合性が大事だったりする。例えば早い段階で見通しを決定したけれど、実験を重ねるうちにそれはベターな選択ではないことが分かっても引き返せない。「今までの見解は間違いでした」と認めるのは勇気が要るし、そもそも間違いかどうかは分からないと言う方が正しいであろう。可能性の問題だ。実際に商品を作って流通させることを実験で確かめるわけだけれど、ぶっちゃけやってみないと分からない部分はあるので、それを「絶対大丈夫か」という質問には答えられない。なのでなぁなぁに過ごすことは少なくない。

原発問題はそういう議論の積み重ねに起こっていると思う。

本来あるはずの無い「絶対安全」という思想を強制されれば、途中で気付いた修正点を修正できない。本来オープンな議論をするべきである原子力発電所であるが、些細なミスをあげつらう風潮があれば誰も本当のことを言う訳ない。最初に「絶対安全」が設定されているので「より安全な施策」は打てないし、発表も出来ない。危険率が1/100から1/1000に成りましたなどとはいえない。
ゼロは安全率を上げてもゼロだからだ。

という事は安全への切磋琢磨は「しない方が得」という状況だということである。要は開発の努力を効率というかコストダウンだけに注力されたとしても不思議ではない。
常に評価に晒される東電はその意向が強くて当然だと言える。
新しい原子炉を設計するに当たって「より安全です」と言えない、なので「コスト」が注目点となる。論理をこねくり回された結果、安全を志向出来ない体質であったとしてもおかしくない。技術屋は安全に注力したとしてもそれは口にすべきでない事項ということだ。その責任は誰にあるか十分に反省する必要がある。

 

放射線が高い冷却水を海に流さないと原子炉は冷却できないであろう、原発政策のコンセンサスはチェルノブイリ級の事故が起こらないとならないという必然なんだろう。この事故を契機に「安全」の本質を共有し、その上で原発政策を盛り込むことが必要であろう。もう火発は作れない、非効率で初期投資の大きい燃料電池の分散型を望むのか、猛暑では弱った老人や乳児には死んでいただくのか、その決断が迫られている。こう書くと暗に「原発を再稼動せよ」という主張と取られると困る、僕個人の主張はあるにはあるのであるが、それとはこのエントリーは別だ。淡々と事実を整理しているつもりである。

 

 

最後に僕の主張を。排水は漁業が始まる前に海に流せば良いと思う。どうせ船は無いのだから今年の北太平洋の漁業は諦める。放射性ヨウ素の半減期は8日なのでわかめ等も干してる間に。道東のモニタリングだけきっちりやっとけばと思う。放射線物質の囲い込みは無理だと思うし、囲い込んだ後の処理も困ると思う。
今回の地震で炉は持った、しかし柏崎原発と同様に付帯設備がいかれた。このことは広く議論されていれば防げたかもしれない。「絶対安全」が議論を封殺したと思っている。そして絶対安全なので開発要素はコストダウンで、だから炉を守るべく初動が遅れた可能性も高い。全て世論の鏡ということだ。別の言葉で言えば「起こるべくして起こった」、兆候は柏崎原発などであったにも関わらず。
なのでフラッグシップ企業である東京電力はぐだぐだの対応だけど、幸か不幸か東北電力の女川原発や東電の後設計である福島第2原発は損傷が少なかった。これは偶然かもしれない、しかし古い施設の安全性を高める施策を怠ったのかもしれないと思わせるわけだ。

 

最後に重ねるけれど、電力会社に「絶対安全」を求めれば「より安全」は存在しないので求めないと考えるのが常識であろう。過去の経験を生かすチャンスを奪ったのは誰なのかということは自覚したほうが良いと思う。

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地産地消は農業を破壊する

地産地消運動は経済合理性が伴わないので、過度に進めば農業を破壊すると思う。

そもそも論を言えば、地産地消は規格外の今まで捨てていたものの現金化だと理解している。他所に高く売った後に残った規格外の捨てられるべき作物の現金化だということだ。ところがそれを目的化してしまうと売り先が狭められるというか、今まで売っていた市場で排除されるということと同意なのだ。その原理は簡単で彼の地で不味い作物が優遇されるということなのだから。地元で買い叩かれ、他市場の売り先で排除される。これで成功するとはとても思えない。

あと「旬のものを食べましょう」は農家に喧嘩を売っているという事実をどうも理解して無いらしいのが環境・自然原理主義者のあさはかさだ。旬の食材は安くて、できれば作りたくない。技術が劣る・投資ができない・人材が居ない農家が作るのだ。生産調整もしょっちゅうあるし。デキル農家は高付加価値を目指して早稲栽培などの高付加価値品を目指すに決まっている
そういえば食物を捨てるのは、、とか言う輩は生産調整すら非難する。商品は食物の前に商品作物であることが理解できない超大馬鹿者なのだ。農業を慈善事業と勘違いしているに違いない。

地産地消主義は専業農家の没落を願う、兼業農家の小銭を潤す、自分勝手な主張を述べる偽善主義者だ。ちなみに私は別に農家に肩入れしない。

 

そういえばフードマイレージという言葉がある。とある環境学者がミネラルウォーターを輸入するのは馬鹿だと論じていた。また彼はフードマイレージに濃淡があり船便であればあんまり意味が無いと述べていた。それはそれで正しいのであろうが、売れるミネラルウォーターを批判しても買って貰っているという重みを学者は理解できないのであろう。ドバイから費用を掛けて輸入して売れるのであれば万歳ではないか。まぁ消費財メーカー勤務の視点であるが。
彼は船便を非難するよりも国内トラック便をと述べていた。フードマイレージは現実を無視した論理であり意味が無いということ。

地産地消を是とする団体の主張は農家の没落を願うものである。そして農水省も似たようなスタンスだ。儲かる農業よりはカロリー重視だ。農家の人数が減ることを憂い、憂うということはパイをより多くの人間で分け与えよという論理であり、カロリー重視で収益を下位に置き、とにかく農家没落を願う政策である。それで「国で養うから言うことを聞け」ということか。いや破綻に導くよりも逆に放って置いた方がいいんじゃないのとすら思う。

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環境はインチキと親和性が極めて高いことを自覚すべき、環境屋の矜持が求められる件

今日経で連載しているコラム「ニッポンの農力」は酷い。農業の問題というよりは食の問題を倫理的に切る目的があって「農業は成長産業になれる」とか「補助金OK」みたいな。結論が決まっている論理構成で、倫理依存や牽強付会な面が目立つ。「食」は食育もそうであるが根拠の無い結論が先にあって、伝統とか文化とか都合の好いロジックを取捨選択していて、事実検証を軽視しているような面が目立つ。

脱線するが、伝統は「伝統が確立」するまでは試行錯誤があったはずで、だからこそある意味洗練されている。しかし伝統が確立してしまったら改良する意思が無い面も多い。醤油でも酒でもコストと味のバランスをとりながら改良するのが普通だと思うのだが「伝統を守る」というのは改良を拒否した姿勢と言え、より美味い物もより安い物も目指さない。まぁ馬鹿である。200年間製法を守ってます、なんて研究や経営能力の欠如を示しているだけなのだ。

どうも「自然」というのがキーワードでインチキがはびこっているように感じる。そのインチキは絶大でスローフードとかロハスとか伝統とか、事実を伴わない甘美なワードらしい。さらに言えば「伝統」は自然を利用した知恵である場合が多いが、環境を乗り越える人為的な行為である、その延長線上に技術向上がある。自然を乗り越えるのが技術なのだ。(もっとも伝統技能は自然環境を利用したり克服したり技術そのものである)

 

そして本題。「自然」という単語が食よりも密接が深いのは「環境」である。日経エコロジーもかなり論理的に環境政策を捉えているのであるが、それでも「理念」ありきの面が感じられる場合が多い。マーケ戦略としての「環境」の場合はそれでもいいかもしれないが「企業は環境に配慮すべき」もまだいい、でもそこには費用効果やマーケティング効果とのバランスがあって然るべきであると思うけど、原理主義臭を感じることが多い。ここで、

環境goo

のトップページには「マクロビレシピ」という単語が目立つところに配置されている。マクロビオティックとは?というところを読むとマーケティングやインチキの常套手段である情緒を訴える単語が並ぶ。序文を引用してみます。

~引用始め

農薬や科学肥料を使わずに作られた食材を用い、動物性食品や白砂糖、化学調味料を使わない料理は本当にしみじみとおいしいものですが、
引き算ばかりに意識が向くと、体に良いとは思っても、心が喜ばない料理ができ上がります。

「あれはダメ、これもダメ」ではなく、
「あれがおいしい、これが楽しい」という心も体も喜ぶ食事こそが、
人が集まる楽しい食卓になるのではないでしょうか。

私自身の経験から、マクロを実践していくと、肉体的にも精神的にも調子が整って向上していく楽しさのほかに、さまざまな食材との出会いという楽しみもあります。

乾物、海草、豆、雑穀、伝統製法で時間をかけてつくられた調味料等との、今までより深くて新しいお付き合いは胸おどる体験です。

引用終わり~

「心が喜ばない」という情緒に訴えています。さらに経験談を語ることにより嘘はついていません、しかし客観的事実は何一つありません。まぁインチキと断定してもなんの問題も無いでしょう。「環境」にはこのようなインチキをポータルサイトの堂々と載せる弱さがあるのです。

環境は住環境・職環境の向上は当然のこととして、生物の多様性にしても地球温暖化にしても地球レベルで考えなくてはいけない時代になってきました。ところが環境屋が弱い心(理念優先で事実無視の態度)で環境を扱えば「環境問題」はインチキになります。ゴア氏の不都合な真実はセンセーショナルで話題にはなりましたが、一方で環境問題はインチキだという意見が多数起こったのも事実です。

環境問題は批判に耐える発信が必要である、現在は全くもっておぼつかない。権威というかスタンダードとなるサイトであればそのことに気を使う必要があると思う。標題の件、環境屋は付け入る隙を作らないことである、無邪気に理念を訴える場合じゃないのだということ。事実ベースで語ることだ。科学者が「温暖化の危機」を訴えても、権威が能天気な理念をを語れば環境問題は宗教だと認識されてしまう。その危険を認識すべき。

 

理念であることを理念として疑うのは難しいかもしれません。データで説明できないことは全部理念だと思っていいと考えます。都合の好いデータで理念を形成するのも危険です。まずは批判を受け入れるというか咀嚼する勇気が必要だと思います。温暖化懐疑主義者の論点も一旦は受け入れて「この指摘は正しいが、この指摘はおかしい」という柔軟な立場が必要でしょう。

**環境問題は地球科学という不確かな分野であることは事実なので、様々な論争があって然るべきである。未来の損失なので原理的に走ってしまうのはある意味仕方が無いとは思いますがそのキーワードは「柔軟な対応」ではないでしょうか。民主党のマニフェスト対応のような硬直的な「決めたのだから従え」では間違いであることが分かっても糊塗する方向に向くだけです。

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環境屋は平気で嘘をつく(別に環境屋に限らないけど)件

今回のニュートンの特集は二酸化炭素であった。

そこですごく違和感を感じた箇所があった。海洋の二酸化炭素濃度が高くなると珊瑚に被害が出るという記述である。(ちなみに雑誌ニュートンが手元に無いので記憶を頼りに論じている)

まずニュートンの記述には矛盾がある。地球の外気のCO2濃度に対する言及は地球初期から行われていてしかるべきなのに、20世紀からの濃度を明示している。前世紀からCO2の濃度が上がったので珊瑚礁に被害が出たと言う一方で、(当時のCO2濃度がどれくらいかわからないが)太古から島を作ったり、珊瑚の活躍は大きいらしい(その当時の方が余程CO2濃度は高かったであろう)。

原地球の大気はCO2が多かったであろうことは想像できるし、そのCO2を地下に固化した結果が石化燃料であろう。と同時に珊瑚礁のガラクタでできた島が存在しているわけで、CO2濃度が珊瑚群に影響するというのは進化の過程でCO2に弱い珊瑚があるということは認めたとしても、根本的には珊瑚がCO2のせいで絶滅しているというのは理解できない。もっとも環境の変化が過去2百年がすさまじいのは理解できる。

日経エコロジーを読んでいて違和感があるのは、(とても絶対的に正しいと思えない)理念があるということ。理念は現実とLinkしていなくても全く問題ない、なので精鋭化する。ニュートンにも理念的な美しさから逃れられていない気がする。

 

僕は彼らに理念的に共感できる。でも理論で考えれば石化燃料を掘った時点で原地球に戻る方向に行くわけだ、石化燃料を掘らない政策を選択できないのであれば環境対策に金を使った方がいいと思う。もっともゼロか百の議論しかないわけではないので、石油・石炭の使用量を抑えつつ対策を述べればいいのでは。とにかく「CO2対策を完遂すればいい」というのはありえない。

地球温度が上がる前提で物を考えたほうがいいということ。

そうすると左派は飢えた難民とホッキョクグマの命はどちらが優先されるのかとか人道的な議論を早く行わなければならないのだ。先進国の環境屋の論理で勝手に決めていいのであればそれはそれでいいけど。前例を踏襲すると(仮に)温暖化で旱魃被害で飢える人民よりもシロクマやパンダの方が圧倒的に大事である。環境屋って結構えぐいよ、シーシェパード見ればわかるけど。

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