goo

交通原則について、2012年度。

今年の僕のトッピクスはきゃりーぱみゅぱみゅさんに嵌ったことです。ぱみゅぱみゅレボリューションツアーに行き、武道館に行きラゾーナで握手をしました。まぁ2011年から嵌っておけばと後悔するほど楽しいわけです。そもそも今年人気の有った頁は「きゃりーぱみゅぱみゅのすっぴん風ショットが可愛い件」でした。

歌番組で見るよりはライブでは世界観が演出されたり、衣装替えがあったりととても楽しいものでした。一番最近行ったライブがJudy and Maryで、まぁ時代が違うわけですね。まぁアーティストに嵌るのは結構楽しいという事で、AKB商法はファンの心を掴んだ結果だと実感できました。きゃりーさんと握手できるのであれば喜んで金を払います。

もっともバラエティ番組キャサリンではファッションを楽しみにしていました。名古屋ローカルの番組DVDも買ってしまって、バブル期の深夜番組を髣髴させる作りで、高かったものの満足してます。

 

本題。来年も交通原則である『左側通行』を推進していく所存であります。分かりにくいので解説すると

1)日本は本来左側通行であった。

時代劇でよく見るように腰の左側に太刀を差すというのに違和感がある。腹から左側に向けて刀を差す(福沢諭吉の写真らしいです)。 刀身が左側に伸びているからこそこそ『鞘当』という単語だ出来るわけです。日本が左側通行であることが自明だということです。

実際、英仏より土木技術や警察組織を輸入したときも左側通行は維持されたわけです、もっとも英国は左側通行なのですが。

 

2)交通戦争(交通事故激増)で歩行者(だけ)が右側通行になった

昭和35年に人間の命が安く、自動車運転モラルが育っていないため交通事故が激増して人が右側通行になった(道交法二章十条)。 

 

3)原則論が無い事実

例を挙げれば、右側を通行している歩行者と左側を通行している車両・軽車両が対面化したときどちらがどちらに避ければいいのかという疑問に割と誰も答えてくれない。あくまで論理としての話だ。右側通行である歩行者は右に避ける、左側通行の軽車両(または車両)は左に避ける。そして事故が起こったとき、誰が悪いと言うのか?論理的には誰も悪くない。刑事でも民事でも過失がお互いに無ければ、「事故当時に動いていた方が悪い」ということになることは想像に難くなく、軽車両及び車両は「過失が無い」ことを証明するのは至難の業であろう。歩行者はあるいみ爆弾だということだ。突っ込んできて怪我をしてもこちらが悪くなる。 

商業施設では「ここは左側通行です」という表示がある。これはどの程度効力があるのであろうか。例えば頑迷な右側通行を歩道で行った老人を非難する記事があるのだが、どう考えても老人が正しい。常識内ではとは思うのだが歩道という法律が及ぶエリアなので法律がそうなのだから老人が正しい。商業施設内では道交法がどの程度及ぶのか不明であるのである。

このように常識が危うい。法律が間違っているとするとかなり摩擦は減る

 

4)(歩行者を含む)原則左側通行の施行を行うメリット

上記のような非常識的ことを解決できるだけではなくて交通モラルを上げられる可能性が高い。

 

5)小学生や幼稚園で「交通の原理原則」を学ばせることによってトラブルは減る。教育内容が公知になるとトラブルは減る。

5)-1 今のラッシュ時の駅などで交通原則がイマイチなのは教育の賜物であろう。いくら日本人が常識に従順だとしても法が曖昧なのでむかつく奴は結構居る。法律が制定されると子によって、トラブル例が開示されることによって、よりよい社会が来たるであろう。

5)-2 道交法ではそもそも対面者のみならず追い越し者のために最左側を通行して右側を空けることを求めているわけである。もっとも歩道や狭いオフィスビルを2~3人で道幅いっぱいに歩いている馬鹿に喧嘩を売って突っ込んでも可能性が高くなる。ぶつかってこちらが転んで衣服を汚して賠償を求めるのは今でも可能だとは思うけど、刑事責任までも求めることが出来るようになるであろう。
逆説的であるが当たり屋が繁盛することでモラルは上がる。

5)-4 携帯やスマホを見ていて左レーンを歩いていない邪魔な奴にぶつかられたらせいぜい堂々と安全通行義務違反で通報することが可能となるであろう。制度が確定することによって当たり屋がスマホ使いを標的にする、その後住み易い世の中に到達できる。

 

6)高速道路や他車線の道路でもこの原則がモラルアップが期待できる。

高速道路の違反謙虚は走行車線違反をびしびし取り締まることで渋滞を緩和させることが出来るかも。それこそ御用学者の出番なり。 

 

日本の交通原則が固定されることによるデメリットはほとんど理解できない、被害がゼロとはもちろん言わない。

交通管理者であると警察と道路管理者である道路公団、施設管理者である商業施設(例えばJR)が連携できると最高だと思う、まぁ無理だとも思う。

 

良いお年を

次に必要な提言

エスカレータメーカの提言を無視する、メーカは社会通念に即するハードを提供すべきであり、モラルを構築する権利はない。

問題は商業施設での「エスカレータ左側を開ける」という常識は交通政策上楽しくない事実である。駅などの通路では左側を空けるのは有用であるが商業施設のエスカレータで左を開けるのは運輸能力を削減しているわけで次の課題であろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

利益無き繁忙

10年位前、工場稼働のために注文を赤字覚悟で取ったという話をよく聞いた。小さい受注を取ると大規模生産現場では品種換えで時間が掛かり文字通り利益無き繁忙が起こる。
結局のところデフレは生産能力>消費で、供給能力が余っていたという事なのであろう。

一方で大量少品種生産から多品種少量生産への移行も進んだ。冒頭のようなことは各社横並びで行うので投資をしたから利益が上がるのではなく、投資をしないと死ぬという事である。なので投資は行われた。利益は当然出ない。固定費は上がる。

僕が金融緩和が景気に直結しないと考えているのは上記の事例による。投資は進んでも利益は確保できず、給与は上がらない。投資のために損益分岐点は上がり、経営は疲弊する。

 

この間品質コストは増大している、経営が『機会損失』を品質保証部以下製造部隊に求めるからである。売上げが上がらず、製造への投資は増え、品質コストの増大は明らかに経営の戦略が間違っているからであろう。
ロジックで売上げと利益が確保できるのであればそれはそれは簡単であるが現実はそうではない。経営が現場に結果責任を追及し出したらもう終わりである。経営が判断しなくてはならないのは『リスクの投資』を求めることであり、その妥当性を判断することだ。 

 

ということは、経営の勝ち負けはあっても全体が好景気になるというのは理解できないのだ。例えば米国でシリコンバレーの好景気が報道されたりするけど、シリコンバレーにオフィスを構えたら好景気に浴するのではなく、勝った企業が価値を提供できたのだと思うのが普通である。シリコンバレーで失敗したベンチャーは成功した企業よりも何千倍も多いであろう。シリコンバレーがベンチャーを構え易いということは想像できるけれども、成功するかしないかは全く別の次元だという事だ。

 

結局、日本の企業も新しいアイデアや新規技術を提案することでしか利益はおろか売上げは叩き出せない。『好景気』という幻想がボンクラでも稼げると思っているのであればそれは大間違いだという事だ。せいぜい利益なき繁忙に付き合うことしか出来ない。最悪の場合暇だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

株価×為替=ドル建て日本の株価

0細かく調べるのめんどうなので雑感で

衆議院解散前の日経平均が9000円で為替80円/$とすると、日経平均は112.5$。

今日は日経株価10,230円で為替85.38円/$。日は10,230/85.38で119.8$。

6.5%ドルベースで株価が上がったらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

タレントの宣伝活動についてど素人の雑感

ペニーオークションでいろいろと騒がれているようだ。芸能人を絡めたビジネスが思いの外知られて居ないということが分かった。僕は消費財メーカーの研究所所属でマーケティングはど素人なんだけど、経営会議の費用申請やマーケティング部門の発信くらいは目にしている。その程度で雑感を。

1)芸能人と企業がCMキャラクターを勤めるのには様々な契約がある。

一番分かり易いのがCMキャラクターを契約すると、無限大に映像などの素材を使用してはならないということだ。TVCMで幾ら、Webで、雑誌で、、、ということである。TVCMに出てるからといって、店頭のPOPに写真を使うのはNGだったりする。

逆もある。ブログで紹介することも織り込んだ契約である。この契約が結ばれると義務なので商品の写真を「使っている」風に掲載すること自体が契約になる、その費用の上乗せというか総契約料にブログのPVが費用算出の基になる。

問題なのはブログの価値をタレント自体が分かっていなくて(多分彼らの多くは月給制であろう)、頼まれたら悪意無く無料または有償でブログに商品を紹介してしまうことであろう。それが今回の事故の問題の本質である。本来は(売上げ要素である)ブログの更新をスタッフが承認すべきで、黒いカネが掛かってそうな記事はスタッフが弾かなくてはならなかったと思われる。その努力を惜しんだがためにペニーオークションがらみの記事をアップした。ブログをビジネスと捉えていたのであれば、責められるのは事務所であり、タレント本人ではないであろう。もっとも謝礼を受けていたとの報告もあるようなので、どちらが黒いかはわからん。まぁ彼らはこのビジネスはもう終わりだと思う。タレントはこの手の売り込みというか売上げは今後ゼロであろう。

 

2)賞の審査員には企業が賄賂を贈る、賞オーガナイザーは根拠を曖昧にする

賞というのは蓮航議員じゃないけど1位であることに意味がある。例えば賞を新設して、その賞を認知してもらって、賞を与えたら、その団体には投資分を回収するのは当然である。yahoo○○賞なんかはその典型だと思う。そのシステムを例示する。

○○賞自体は主催者は関与して居ないとする(関与していると言う事実を僕が知らないだけだ)。無料サイトは閲覧され、広告サイトに誘導するのが目的なのでどの商品が最優秀商品であるかは究極的には関係ないが閲覧数は上げたい。するとある一定の書き込みを行うヘビーユーザーに商品のサンプル提供を誘導することは理解できる。僕の知っている限りでは発言数が多いサイトユーザーに商品のサンプルを積極的に送付し、コメントを上げてもらうことは行われている。その際金銭の授受は無いと思う。サンプルを送付して「評価なし」とか、こき下ろされていることもある。コメント数を求めているのだ。

「一般消費者が選ぶ○○賞」はこんな感じだと思う。


僕が良く知らないので勝手に言うと「レコード大賞」は大賞であることに意味がある。僕個人的にはあの賞はスポンサーのごり押しで一般人とのギャップが大きすぎて権威を落とした例だと思う。

また金さえ払えばほとんどが受賞できるグッドデザイン賞やモンドセレクション賞というのもある。

 

ペニーオークション騒動で今後稼げる人たちが稼げないことは有りえるであろう。しかしこのようなビジネスは古くは芸能人広告塔ビジネスから数限りなくある。まさか僕が敬愛する宮崎あおいが特定の服屋の服しか着ないとか有り得ない訳で。

 

学生みたいな幼稚な人が批判するのはいいんだけど、それは馬鹿だと思われるから単純な批判は調べてからの方がいい。それこそNET時代で調べるのは簡単だから。

 

12/27追記 : 小森純ペニオク騒動のブログ閉鎖

約5年続けたブログが無価値になった瞬間である。タレントとしての価格も下がるであろう。
 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

何故安倍総裁は懐古主義・情緒主義・家族主義なのか

僕は高度成長期後期に生まれて、いわゆる核家族化した第1世代なのだからか、石原(父)氏が言うのならともかく、安倍氏が標題の件を最重要視しているのか分からない。僕は生まれてこの方核家族しか知らないから非常に違和感があるのだ。代々お金持というのはネットワークで家を維持してきたとも言えそういう経験が彼の政治哲学なのだろうか。

核家族化は戦後日本の農村が工業化し、労力として必要なくなった次男・三男が都会に就職を求めたからと理解している。

ちなみにうちの両親はともに小さい商家の出身で、明治時代から核家族だったようだ(兄弟は結婚・就職で分家)。ご近所に分家がたくさんある感じ。それでも2~3代で本家とのつながりは薄くなるのでせいぜい祖父母の兄弟くらいのお付き合い。葬式では見たこともない親戚が多数押し寄せるけれども、正月は祖父母を頂点とした3~4世代が集まる。現在は僕の祖父母は全員亡くなっていて、本家とのお付き合いは葬式くらい。現在の正月風景は僕の両親がやはり3世代集めてという感じだ。

僕の両親は実家のある地を離れて生活しているので親戚活動は葬式しかない。僕はその葬式すらない。こんな状態で『家族で助け合って』とか気持ち悪い以外の印象を持たない。

 

こういう状況では家長の権威は地に堕ちている、小町なんかでも話題になるけど舅・姑が嫁に捨てられないように(既に無い)威厳で傘にきったり(ここら辺が笑える)、心配したりする。
まぁ僕の両親は今でも僕より稼いでいるので、財力で以って孫を支配している。

子供世代には情緒なんぞ1銭の価値も無いのだ。カネが無ければ子供に捨てられるのが現在の老人である。漫才師の河本氏は生活保護を受けている両親に住居を提供するなどグレーゾーンらしいが、子供世代にとって『親を養う』は必須事業ではなくなったのである。親でさえそうなのだから兄弟へ生活資金を渡すのが当然と言う情緒・道徳観を持っている人はとても少なくなったであろう。

 

とここまで書けば安倍総裁が何を狙っているかが理解できる。左翼が望む基本的人権は非常に高コストなのである

以前は事業に失敗しても、戦争で怪我をしても周りが助けてくれる社会であった。かなりのレベルまで相互扶助が『家』というシステムが包んでいたのである。フーテンの寅さんが愛されるのはちょっと誇張した表現だからなのだ。あんなのが家族親戚に居たら大迷惑だけど想像できる程度に身近な世界観なのである。

家だったり寺が相互扶助を面倒見てくれたら国は様々な救済策や各種保険・年金を面倒見なくて良いことになる。

 

安倍総裁は今後、老人が増えていく社会で、各種社会保険の支出の削減の妙手はこれしかないと感じたのではないであろうか。安倍総裁が戦後何チャラとか取り戻そうとか真面目に2度も言ってくれたので、そもそも相性がいいのは理解できるけど、そもそも政治に情緒は必要ないはずだ。

年金も払わない奴には支給しない。生活保護は2親等までが出し尽くしてから生活保護を支給するとかは、運用だけいじれば簡単そうに見えるし、増税よりも反発は少ないであろう。なんとグッドアイデア。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

経済成長ってもはや幻想じゃないの

好景気=資材や人材が足りなくて物価が上がる、こういう図式の景気向上って今後期待できるのかしら。際限なく財政支出をすればいつかは人材も足りなくなり給与が上がると思うけど、福祉には誰も居ない状況しか思い浮かばない。まぁそれを移民が担うのであれば美しいけど、財政の疲弊はすごいことになっているであろう。

僕が懸念するのは人為的に起こしたインフレは、給与への影響は無いかかなり遅れると思うことだ。インフレで企業の収益が上がるのであれば少しは待ってもいいけど、どう考えても収益性が改善するとは思えない。

だいたい、昨今の給与の定期昇給否定論も人件費総額向上という点が議論されているのではなく、単に定昇停止、年齢給による定昇も全否定の勢いだ。高給取りが定年で辞めて、5年雇うけど極安になって、新人の給料が上がらないのではインフレ政策どころではない。

 

このことを悩んでも仕方がない面もあると思う。給与は下方硬直性があり、物価が下がったからと言って給与を下げていないからだ。だからちょっと物価が上がったからと言って給与が上がるとは思えない。だったらインフレが景気にどれでけ相関性があるとしてもインフレを望む気にはなれない。素人的な発想では景気がよくなることは望んでもインフレ=物価が上がることはとても歓迎できない。

と外野的に俯瞰するのも、国民全体が享受できるタイプの景気浮揚は想像できないからだ。それはどんな世界なのであろう?そもそも今の若手サラリーマンが金を持ったとして、高級車や家を買うであろうか。僕ですら今欲しいものが余り無い、言い方は適切でないけど欲しい物があれば買える。でも買わない。

先進国は労働集約的な国家と大きな国家と分かれるが、GDPが大きいのは狭い国土の労働集約的な国家だ。日本より稼いでいて広いのは米国と豪州、日本は先進国では中堅どころ。この状態で景気が上昇するとか想像できない。実際過去20年の経済政策では小泉時代を除けば芳しくないイメージだ。こと「景気」は国家が関わる問題よりも、企業の頑張りの集合だと思う。

 

一方で反景気対策は着々と進行中である。原発は回しても回さなくても掛かる費用は同額だから、原発を止めて火発を回すのは設備投資、燃料調達分だけ赤字である。電気代を国民に負担させるかどうかは関係ない、誰が負担をしても赤字は赤字である。

 

不景気対策は非常に簡単である。原発を止めてLNGを輸入しすればいい。今それを粛々と行っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

金融緩和が理解できない件

日銀が追加金融緩和 国債買入れ基金10兆円追加 インフレ目標は次回会合で~産経ニュース

 記事では

国債など資産買い入れ基金の10兆円増額を決定~今回の10兆円の基金増額の内訳は、長期国債が5兆円、短期国債が5兆円で

うーん、理解できない、日銀は銀行の保有している国債を10兆円買って、10兆円国債を発行するということでいいのかしら。だったらその銀行のお金は国債を買って終わりじゃん。ポートフォリオを考えたら国債を売らされた資金で設備投資や株に回すとか考えられないんだけど。なんでこれが景気対策なんだろう?

今の住宅ローンの金利は1%くらいか、お金の値段と言うよりは事務手続き料=固定費と思われる。生命保険(団信)は被保険者が払う。あとは社会保険機構的な保険費か。

新聞記事をまともに受ければ銀行にはお金があるけど貸し出し先がないという事である。潰れる確率50%の企業には50%以上の金利が発生するのは当然であり、ある程度金利が上がってしまうと、それはある意味宣告なのだ。融資金利は固定費を除けは仕入れ金利+貸し倒れ金利なので、貸し倒れ金利が問題なので低収益中小企業には全く関係ないと思われる。

 

新銀行東京のように利益や貸し倒れを度外視して中小企業に貸し出す理念であれば理解できるが、一般銀行の金庫に金を積んだから融資が進むと言う論理は全く理解できない。というか、新銀行東京が赤字を計上して文句を言われるのも理解できない。銀行が貸せない企業(=貸し倒れリスクの高いところ)に貸して利益を生むとか有り得ない。銀行に見放された企業を救うという理念ではなかったか。

安倍氏は歴史と経済の知識が欠落しているのではないかと思う。過去20年、財政支出も金融緩和を行ってきた。過去の手法にエクスキューズがあるなら誰かに広報文か論文を書かせて議論を醸成すればいい。いまの論調は(僕が情緒を主題にする安倍氏が大嫌いなのを差っぴいても)根拠が一切分からない。彼の口からは情緒的な価値観をベースにした論説しか聞かない。宰相として劣悪(最悪は鳩山氏)だと思っている、これは先の総理のとき「戦後 レジーム」にも抱いた感想だ。

 

安倍氏は 「経済政策<情緒的価値観」 であることは明白であり、経済政策への理解は不明確で、経済政策が情緒的価値観に流されることが必然という状況である。(公約を読めばそう感じざるを得ない)

 

僕は安倍氏は嫌いなのである。少なくとも固有のメンタリティを重視すれば敵は多くなる。前回の失敗を踏襲するデジャブだと個人的には感じるんだけど。

 

 

すまん、結論。銀行の金庫に現金を積み上げたら銀行が先行き不安な企業に貸すとはとても思えないんだけど。銀行の口座に現金を積み上げたら融資条件が緩和されるというロジックは嘘だとしか思えない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

民主主義は失敗だった

原発反対派が「自分達の正義」を訴えて、世論に無視された現実を受け入れられないというのをよく見る(面倒なのでLink貼りません)。
一括りにするのも申し訳ないのですが、Netで言説を述べる人はまぁ大卒で、知性や知識を自慢したい人でしょう。具体的には飯田哲也氏とかですか。 

Web時代になって主義主張を全世界に発信することが容易になり、SNSを活用してコミュニティを形成し、それに酔うといったことは普通なのかもしれません。
(ちなみに僕は新着トピックスをはてなブックマークで探しています。)

支離滅裂な文章を書く人は世間(SNS)に受け入れてもらえないわけで、ある程度以上文章力や論理力がある程度ないと支持されません。そのためコミュニティで支持を受ける人は高学歴だと推察するわけです。

 

では文章力や論理力があれば政治を担えるかと言うとまぁそれは無理で、色々な社会経験が必要だと思います。もう一度言いますが評論家としての飯田氏は熱狂的な支持を受けましたが、政治家としての能力は限りなくゼロでしょう。

こんなことを書くのは場末のブログを運営している自分の不明さを暴露するようなものでかなり恥ずかしいのですが、『責任がないから好き勝手言える』わけです。
僕の場合で言えば専門知識がある分野では「技術面で事実の感想を述べれば」いいし、専門知識が無くても「ロジックの不備を突いたり」、関係者ではないように「外から目線で論評したり」するわけです。 

 

話が脱線しますが、日本は内戦の経験が少ない歴史を有していると思います。これは庶民が暴動を起こすことが出来ないようなシステムを為政者が上手く組み込んでいたとも思えないので、真に平和な時代が多かったのだと思います。内戦時代は平家・源氏・北条氏の時代、次が北条政権・南北朝、戦国時代(室町末期)とたった3回しかありません。

社会不安を醸成したら政権が転覆するのは中国と同じとして、日本では為政者が社会不安を避けてきたという事実が読み取れます。上記の3時代のうち北条政権没落は元寇という外部要因なので北条氏が政権運営を失敗したというのも酷だと思います。だとすれば5世紀から17世紀まで内戦時代は2回しかないと言えます。
中国の政権も常に北方民族の侵略に悩まされていたというか、北方民族の政権も少なくないわけですから外部要因が多いと思います。民族の優位を述べたいのではありません。

日本・中国ともに古代から近世の為政者は『天子』ではないということです(もちろん例外はあります、平時をピックアップしてます)。天子を取り巻くエリートが評判の競争を経て政権の中枢を担うというシステムです。

ちなみに共産主義国家やアフリカ諸国はその点で成熟した文化を有していないため、為政者をカリスマに持ち上げることに没頭したのでしょうか。例えば徳川吉宗が悩んだ経済問題も、毛沢東もスターリンも悩む前に粛清で対応したのでしょう。日本ではそういう歴史を有していないので僕にはピンときませんが。

 

現在では民主主義が不完全たるとも一番ましなシステムだということでコンセンサスを得ていると思います。だからこそ我々はアフリカの内戦を、アラブの宗教的な頑迷さを、中国の帝国主義を非難するわけです。では民主主義とはどの程度ましなのでしょうか?

 

大東亜戦争や日米戦争は政治的なコントロールで始まったとはとても思えません。エリートでない青年将校が企てたクーデターが好戦的な世論とマッチして突き進んだとしか思えません。少なくとも落しどころを考えていない開戦だったと非難されてもしかたがないと思います。

その片棒を担いだのが新聞と世論です。

 

一方で日本でもつい最近まで土地の権力者が票をまとめて地元の有力者が選挙で当選するという時代がありました。吉田とか岸とか田中とか中曽根とか、最近では小沢とか。彼らはある意味インテリジェンスで、政策を実行するために地盤を強固化し、地盤に経済的利益を誘導するという好循環を形成したのだと理解しています。

地盤が強固だからこそ信念に基づき日本丸を運営できたのだとも言えます。

 

現代の民主主義は粗探しをして、強力なリーダーを選出できない。また現代の日本の政治家は素人の集合体の代表です。Web時代になって、論理整合性が無い政治家(例えれ飯田氏です)が人気を取ると言う危険な時代になりました。

政治のWeb化で、民主主義はどんどんと衆愚化するであろう。例えば中曽根氏が利権配分上手んして安心して未来を考えられるような政治家は居なくなった。Webの中傷で政治生命が絶たれる危険性も少なくない、過去に女性タレントとスキャンダルをばら撒いた細野氏とか。デモがあれば多数派だと勘違いする市民とか。

 

民主主義はどんどん進んでいる、しかし衆愚化だとおもわれる案件も多い。

結論

抑制的民主主義を提案したください。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人命の値段で技術が進む

人間が溶鉱炉に落ちるとどうなるか~晴れ時々ジャズ、雨のちカメラ

Link記事を読んで思い出したこと。

僕は機械科出身で恩師はグロイ話が好きだった。その恩師も転炉の落下事故を話していた。Ca分が多少多いけど昔なので組成上問題なく出荷したとのこと。

今は転炉の上を歩くのは禁止で、色々と対策が取られているとのこと。こういった事故が問題になるのは人命の値段だそうだ。「対策費用<人命の値段」ならば対策が進む、その分岐点を越えると安全の技術が進む、そして組成管理も進むと。ちょっと組成管理との因果関係は不明だけど、安全に関する費用は人命の値段が左右すると言っていた。

 

その教授はウォータージェット技術の源泉を述べた。ウォータージェットは水を高圧で噴出して、塗粒を混ぜて加工する技術だ。この技術の源泉は炭田など鉱山の切り羽を削る技術らしい。鉱山では度々落盤事故が起こり、一旦事故が起きると多数の死者を出すため、その補償費用が高いということで開発が進んだとの事。

ところが開発に思いのほか開発費用がかかって、不謹慎であるが教授の言葉を借りると「死んだほうが安い」ということで研究は中止となったらしい。人命の値段が高騰する前にの鉱山そのものがなくなってしまい、日の目を見ない技術だったらしい。独ボッシュの話だろうか、今となってはよく分からない。

しかし当時の研究は液体高圧技術の礎となり役にたったようだ。現在では色々なところでその技術は使用されている。

 

飛行機事故の話も面白かった。事故調査委員の講義だったんだけど、飛行機事故は「同じ理由」では落ちないらしい。事故の原因追求のためには責任を問わず調査し、公表するとのことだ。最初は英コメットの事故だったとの事。金属疲労というのが初めて確認された事象だとのこと。これは英国の航空機だから事故調査にふんだんにお金を遣えたとか。

また自衛隊訓練機でも馬鹿みたいな事故があったと。アメリカのマニュアルでプロペラのねじ込みに「ハンマーで思いっきり叩く」という記載があったらしい。整備士はプラスチックハンマーで恐る恐る叩いたとのこと。テーパねじなので思いっきり叩くのが単純明快なんだけど、プロペラをハンマーで思いっきり叩くというのに躊躇したというメンタリティは分かる。締めトルクも記載するようになったとのこと。

 

なんか徒然で申し訳ない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

救いがたい馬鹿がいた、元『ニューズウィーク日本版』編集長らしい

特別寄稿・竹田圭吾  脱原発よりTPPより大事なこと 無視されてんだからさ <衆院選・特別コラム>~gooニュース

正論と言えばそうなのかもしれないけれどいろいろと痛い。『木を見て森を見ず』って言いたいんだろうけれど、表現内容にしろ文体にしろ、まぁ高校生レベルだ。しかも本質的にいえば誰もが分かっている事を「俺が教えてやるぜ」スタンスが超痛い。

まぁちょっと真面目な痛い高校生と違うのはくだけた表現が散りばめられていて文体のクオリティが下がっているという点か。だめじゃん。

 

こんだけレベルの低い文章を読ますには肩書きが必要だろう。あった。

 

すいません、最後まで痛くて読めなかったです。脊髄反射してしまいました、クレームがあればこのエントリーは削除します。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

活断層への雑感

ニュースで取りざたされている敦賀原発の下を走っている活断層は「40万年前」なわけだが、これが喫緊を要するとは思えないのだが。
単純に考えて、原子炉の寿命を1百年として、断層活動スパンを40万年とすると、 合致する確率は0.025%である。もうちょっと分かり易い表現を用いれば百年稼動して断層がずれる確率は0.025%だということだ、一万分の2.5だ。

確率を使わなくても、地べたがずれても構造体が一緒に動けば問題は大きくはならないはずで、やっぱり外部電源の確保ということになる。こんなことは至極簡単でバッテリが構造体と一緒に動いて数日間確保されればあとは外部からの電力供給が可能になることは想像に難くない。

柏崎原発の地震による火災事故と福島第一原発の問題点は非常にクリアだ。炉を冷やす電源を含む冷却システムがバックアップされていれば事故は起きなかったということが予想されるということである。

まぁ科学者は可能性を訴えるのが義務なのかもしれないけれど、技術屋観点では現在の事故調の思考は受け入れ難い。負の可能性を追い求めれば何も出来なくなるからだ。上記の確率も相当悪く見積もっている(全スパンで割ってるし)、しかもその確率は非常に低い。

科学者は危険予知を最大で述べる性癖がある、誤解を恐れずに述べると技術屋は費用効果を重視する傾向にある。0.025%の事故よりも(笹子トンネル事故のような)喫緊の問題を重視する傾向にある。あと技術屋は事故の被害額を逆換算して優先度を決める場合がある。確実に問題があるが交通量が少ない路線の問題は後回しにして、大容量路線の問題点を優先するとか。

 

失礼ながら科学屋の言うことは3割引いて良いと思う。科学屋は失敗を極度に恐れる。さらに費用効果の概念が低い科学屋に原発の安全性を委ねたのは失敗だと思う。科学屋は自分が得意でない事象にはNOを言う、当然である。科学者=素人の発言の積み重ねに意味があるのか?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

剛力彩芽さんがバッシングされている理由

どうも剛力彩芽さんがやっかみを受けているようだ。ソースは面倒なので探してください。

これは構造的な問題だと思う。まずCMの高感度は独身男性だけを相手にしていないということである。往年のスターはもとより近年の綾瀬はるかはボリュームのあるスタイルとエロさがありつつも女性に受ける可愛らしさが好感度の理由であろう。ある意味剛力さんは売れ過ぎた、そのこと自体は理解できるけどディするほどのことは無いと思うのですが。特にランチパックのCMの笑顔が象徴的であのCMが出世の糸口だったのでしょう。

剛力さんの一部バッシングは様々な理由が考えられます。セブンティーン当時僕もここまで出世するとは思っていませんでした、武井咲さんもです。特に剛力さんはエロく無いんですよね。しかし茶の間が望んでいるのはエロではないのは当然で。セブンティーン誌でも誌面の多くがモテファッションに費やされていますが剛力さんと武井さんは別扱いです、エロくないです。桐谷さんが割りとモテを意識されていたのとは印象が異なります。

そのアンチテーゼはもろに居ます、AKBです。わりとむっちりした集団で、エロが主成分です。繰り返しますが集団の印象です。だからCMは割と成功していないという印象を受けます。資生堂のtsubakiの小嶋さんがメジャーを担当していて、小さいのを篠田さんが拾っている感じですか。ちなみに僕はSo-netで篠田さんのことを知りました、思えば3RのCMは若いというか垢抜けていなくて逆に可愛いですね。

 

商業的にどちらが得なのかは分かりませんが、AKBの売り方は青少年対象で一般向きでは無いと思います。一方で爽やかな笑顔の剛力さんは買いだという事です。そして残念なのがスタイルがいいなぁとは思えないというところでしょうか。

 

そしてそのエロくない路線の最右翼がきゃりーぱみゅぱみゅさんだと思うんですよね。CMでいうとプッチンプリンからMRワゴンまで全くと言っていいほどエロくありません。エロくないから男子の人気がイマイチだとは理解しますが女子の人気や存在力を考えると結構なものがあると思います。

エロくない女子を叩くのは止めよう、綾瀬はるかみたいな逸材はそうそうは現れないのだから。女子に人気のモデルや女優をウォッチするのもまた良いではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

10、20年前のときの未来予想

2023年のコンピュータとゲームはどうなっているのか~UEI shi3zの日記
 
に触発されて20年前と10年前の仕事におけるツールに対して考えてみる。ちなみにコンピューターを「コンピュータ」と表記する筆者に親近感を覚える。

無粋な話なんだけど20年前はフロッピーディスクが生きていた、容量1.44Mb。今からじゃ想像できないかもしれないけれどHDDの容量はかなり低くてFDDで各自管理という時代だった。ワープロという物がぎりぎり現役で、プレゼンソフトはLotus1-2-3で、OHPが幅を利かせてた。モノクロOHPの原紙は静電型コピーで出力可能だったけど、フルカラーは当時高価なカラープリンターで印刷されるものであり、失敗は1枚40円くらいであった。

Windows95以前はMS-DOSというOSで、GUI(ぐらっふぃっくゆーざーいんたーふぇいす)は無かった。すくなくとも実験機では。

当時マイクロソフトオフィスよりもロータスが幅を利かせていて、アドインなども無く、地道に計算式を打って統計をこなしていた。それでも当時は画期的で、関数電卓でシグマを計算するのが常識だった。僕は台紙をツール化して数値を打ち込めば統計処理が済んだみたいなフォーマットを作って誉められた覚えがある。

表計算ソフトが一般に流行する黎明期だという事だ。その後はMS-Officeが席捲してビジネスツールの最低限の作法になったことは否定できないであろう。

 

後にWindows2000がUSBというインターフェイスを画期的なものにした、12年前だ。それまで自前のデータはFDで持っていたのだが、ストレージとしてUSBメモリーが優遇されることになる。僕はそのころUSBメモリーを買わずにデジカメに対応できるSDカード端末を買った、3千円だった。32Mbのメモリーがいつまでも現役にはなれないのとうらはらに当時僕が買ったインターフェースはつい最近まで現役だった。どうも2GBを超えるとフリーズするらしい。でも簡便なのでつい最近まで重宝していた、端子がいっぱい付いたカードリーダーを有している後輩に貸す事も多かった。なにせ単純だし。

この頃以降から工場の設備や実験装置のOSにWindowsが搭載されてきた。当時僕は研究というか開発職だったのでその意味(メリット)は理解できていない、というか今も不明。印象としてサーボモータの普及と合致していることからWindowsのソフトでサーボモータの制御が簡単だったのかもしれない。

 

3次元CADは買えないけれど簡単なソフトは10万以下で買えるようになった。shadeとか。そのあとの3Dプリンタの熱狂振り(By 日刊工業)はおいておいても、エポックメイキングの可能性は感じる。僕も会社で予約したし(夏に予約したけどまだ着かない)。

 

で予想。

1980年代から2012年まで英ロック(音楽)で革新的なことは行われて居ないと思う。経済や技術の問題を除けばそんなに変わらないであろう。せいぜい老人が「あの頃はこんな技術革新があって」というのを無視されるかだ。僕の父親を見るに変わっているけど、本人に自覚がないし。

 

追記というか

アイルランドのロックスターU2はIRAのテロを題材に[War]を世に出した。1986年くらいの話、東西冷戦以外にもあるんだと青く理解したつもりになった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

国語教育への雑感

僕は40代であるが小中学校時代に国語という教科の意味を理解していなかった、漢字が書ければいいという程度。高校になって古文と漢文があって、文法を理解すればいいという程度。それである程度以上の点数は取れた。

一方で本を読まなかった。理由は面白くないから。小学生の頃はそこそこ読んでいた、シートン、ファーブル、椋鳩十、戸川幸夫とかは図書室にある分は制覇。あとは伝記も制覇。

高校生になって、純文学と言う奴はハードルが高かった。子供の頃に読んだのは人や動物(虫)が動いている話で、人の内面が動く話に興味が持てなかったからである。坊ちゃんはぎりぎり読めたけどあとはほとんどがNG。面白くない。

そういう感じなのでセンター入試の<主人公が思う気持ちは>という設問には悶絶なのだ。テクニックとして消去法があることは理解しているが、本質的に文学に遠ざかっていたときだ。ちなみにそのころのバイブルは「こころ」と「人間失格」で、『もう死ねば』という気まんまんである。

会社で新人に配られた本が「ろじかるしんきんぐ」という本だそうで、まぁプレゼンの手法論で本質的なことは何も書いてなかった。何を期待して人事が配ったのかはかなり謎だ。ひとつ言えるのはおっさんはロジカルな議論ができない、そこをなだめすかして上手く使うかと言うとそうでもないらしい。手法や技法の手ほどきだとは理解したんだけど何に応用するかは全く理解できない書物だった。持ってる本人に聞いても「さぁ」な感じ。

僕は技術系なので仕事も技術というか論理の話しになる。若い子は可能性を考えて実験範囲を大きく取ったり、次元総当りを提案しつつその無意味さに落ちたりとか。まぁそうやってその企業の実験計画の作法を学んでいくのでしょう。 

 

国語教育って難しいのは分かるんだけど理念が無い気がする。ロジカルを語るのは論理学で国語とは直接関係ないし、歴史的な美学も国語とは関係ない。またその理念が懐古主義であってはならないはずだ。だったら論理学とか読解力を学ぶか、議論の御作法や発表の御作法を学んだほうが良いと思う。国語教育って本当に必要なのかがわからない。

 

閑話休題。今読んでる辻村深月著「凍りのくじら」なのだが早くもリタイアしそうだ。多分僕は人や物が動かない小説は退屈で、へたに嫌いなタイプが登場してその心理を独白する(または誰かが語る)と耐えられないらしい。僕には人間の心理のひだを読み解くのは無理なんです。

で疑問なんだけど、「この手の浅い読み手」って、やっぱり上級者にとっては浅いんですかね(宣告されないと覚悟できない程度の民ですので)?

一方でエロ小説ってある。心理描写から行動描写が具体的な小説である。当然ながら描写が下手糞な作家は既に蹴落とされているので現存しない。村上春樹の「ノルウェイの森」はエロ作家がパロディを作ったらより完成度が高まると思うのは不謹慎なのかしら。 

 

 

話が拡散した。学校教育で言う「国語」って、プロ向けには定義がはっきりしているとは思うんだけどあまりそのコアな目標が伝わらない。まぁ英語もそうかもしれない。
国語が目指す「何か」だったりが明確だという事が宣伝されるといいのに。(国語教育が無計画だと思わない、官僚がそんな粗い仕事をしているとは思えない、でも伝わっていないという意味です) 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地震があったんだけど

定時近くに大きな地震が起きた(関東です)。僕のとった行動は電車が動いているか止まったかを調べることだった。
不幸にも横須賀線は不届き者が線路の安全を脅かしたそうで、「遅れている」ということであった。

3.11の教訓を政府的に生かすのであれば、電車が動いているからといって殺到するのは拙いということであろうか。3.11では僕も横浜駅まで歩いて、職場まで帰ってきた経験がある。そしてその経験があるがゆえ職場には水も食料も備蓄してある。それでも早く帰った。

僕は保土ヶ谷~武蔵小杉で通勤しているんだけど、横須賀線がどこで停まっても、まぁ帰れると括った。横浜で足止めされたら職場に歩いて戻れるし、新川崎で下ろされたら南武線かタクシー、最悪歩いても苦ではない。 だから乗った。
迂回は東横線なんだけどこっちの方がいつも混んでる。なにかあったときに頼る路線でないという判断をしている。 

個人的には合理的な判断をしたと思うけど、大勢で見ればあまり誉められた行動ではない。特に政府が考えた『防災』の知見を全く無視している。

 

3.11も今日も通常の職場に勤務していたが、今日出張していた組はどうなんだろう。あるいは都心の混乱は。

政府・役所・公共機関が正しい防災の在り方を伝えても、なかなか通じない。でも頼むね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ