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3.11への違和感

今日は3.11、ソースはうろ覚えだけど「震災で不幸になった人」としてニュースで紹介があった。

彼女は震災で放射能を恐れて福島県から都内に避難して、旦那は仕事があるので福島県に帰ったが、生活の意識の違いから離婚したとのこと。
収入が低くて政府の保護を受けているとのこと。愚痴は「援助してもらってアクセサリーが買えるんだ」という近所の人からの誹謗とのことだった。まぁ放射脳である。

ニュースの論調は「彼女が不幸だ」であった、そりゃ不幸だろう放射脳なんだから。

このニュースの価値は「不安」で合理的な行動をとれない人がいるということであり、知識が重要であると感じるのだが、論調は「収入が低い」であった。

知識が無く合理的な行動をとれないことは「不幸」であろう、だがそのニュースの論調は「政府や電力会社への批判」が滲み出ていた。彼女を可哀想な存在と祭り上げてるわけだ。視聴率を取れれば「(馬鹿で離婚された)可哀想な主婦は政府(電力会社)の被害者だ」というわけである。なわけない。

 

「知識を受け入れて不安を払拭する」どころか、不安を煽るマスコミには「ペンは剣よりも強し」を感じざるを得ない。
(赤報隊のような)テロリストを糾弾する能力があって、不安を煽る能力も有している。
どの企業も売上の為にはなんでもやるのだがマスコミは権力を有しているだけ質が悪い。(メーカーは消費者離れが怖いのでここまでの悪手はできないがマスコミはそうではないらしい) 

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国立がん研究センターの「禁煙」のメッセージが筋悪・とんでも=疑似科学・非科学の件

受動喫煙と肺がんに関するJTコメントへの見解国立研究開発法人国立がん研究センター

がみっともない。喫煙者(ヘビースモーカー)と同居家族の肺がん罹患率が1.3倍とのことだ。
それは肌感覚で理解できる。

ところが、これがとんでもで
受動喫煙による健康被害を防ぐため、公共の場および職場での屋内全面禁煙の法制化など、たばこ規制枠組条約で推奨されている受動喫煙防止策を実施することが必要です。 

タバコの煙に有害物質が存在するのは事実である。ところが健康被害には濃度や暴露量が問題であって、だからこそ同居家族である。

屋内全面禁止とどういう関係があるのか指摘は無い。もちろん暴露量・濃度に対する指摘もない。

がん研究センターの主張によるとタバコ由来の物質濃度が高いと健康被害がある→タバコ由来物質は危険だ→ゼロにしろ。という主張らしい。「量」の概念が欠落した馬鹿である。国の施設はある程度信頼を置いていたのであるが、これ以降全部疑わなくてはならなくなった。

先の震災で放射線をゼロにしろというトンデモと同レベルの主張であることは明らかである。

 

補足するとセンターは『人々の健康に危害を与えることと、社会全体に強く認識されるべきです。決して「迷惑」や「気配り、思いやり」の問題ではありません。 』と述べているが、明らかに「臭い」の問題を絡めている。科学的事実が観察できない低濃度でも感知できる「臭い」を「マナー」ではなくて「健康問題」とすり替えている。

それは神奈川県と同じ手法である。神奈川県は「ガスクロで検出できないが臭いがあるので有害だ」という主張をした。がん研究センターも同様の主張である。
科学を論理に置き換えている、そしてそれは嘘だ。 

 

国立がん研究センターは市民の迎合を得る手段として「危険物質の閾値である濃度を無視した」という事実が残った。臭いと濃度をわざと混同した。

最悪なのが『決して「迷惑」や「気配り、思いやり」の問題ではありません。 』の根拠が無いのに科学的な態度をとったことである。

こんな組織は信用できない。国の科学組織でここまで非科学的な主張をするのであれば、全ての科学組織を疑う必要がある。野党党首の蓮舫さんに仕分けしてもらいたい。

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倫理で殺人を減らせるか

どうも「倫理教育で殺人を減らせる」とあるふぁぶろがーが論じていた、メソッドの詳細は覚えてない。しかし現状として日本の殺人の率は最低限であろう、倫理・法律の締め上げで殺人率は低下しないと思う。
人を「殺したい」と思ったことの無い人は幸せである。「人を殺すことがあっても行動する衝動(例えば喧嘩を売る・買う)」とかあったと思う、あと上司とか。

行き届いた世界では殺人が非合理的なのは、当然である。しかし、騙された、馬鹿にされた、面子の発露、 激高すればあるかとは思う、少なくとも理解できる。頭のいい彼らは「理解できない」らしい。その時点で共感できない。表現はどぎついが「奥さんと子供殺されて」も同じこと言えるのかと?戦争で日々亡くなっている現実があるのだが。

 

僕は「人を殺してはいけない」はかなり限定されたルールだと理解している。

以下現実の事象を述べる。

1)過去数千年の人類の歴史で、淘汰が自然であり、ネアンデルタール人はホモサピエンスに滅ぼされたという。

2)中国先史は王朝も戦争も殺戮の歴史である。コミュニティ内の殺人はご法度であったらしい。

3)コミュニティが違えば貿易の相手かもしれないが縄張り争い、人攫いの相手かもしれなかった。他部族や異教徒は殺戮の対象であった。

4))殺人は根源的には悪いことではない。多くの場合宗教的に抑えられていたが、宗教が押すことは少なくない。(イスラム原理主義等)

5)先の大戦でも組織が許諾した必要のない殺戮が行われた可能性が高い。
 
かように、「人を殺してはいけない」というルールは至極限定的なのである。
特殊例では、登山や宇宙旅行で遭難したとか、コミュニティを維持できない食糧難という状況でも「人を殺してはいけない」は意味をなさないであろう。
 
かように脆弱なのである。
 

この理由は論理で説明できる。

a)コミュニティで殺人を戒めるというルールを形成した。皆がそれを守ることで平和を築く

b)守れない人も居る、しかしその人には等しい罰を授ける。

c)守れないと自覚すれば、コミュニティから離れる。

これらが守られて初めて「人を殺してはいけない」コミュニティが形成できる。まだこれではコミュニティ限定である。やっと現代になって「人権」が叫ばれて先進国では常識となってきたが、そのルールはまだまだ一般的でない。

 

先進国で倫理を重視する人は、論理や法で説明することを投げた(現実を理解できない)、徳がある長老か徳がない馬鹿である。

さらに(内戦が起きるような)コミュニティが崩壊するような事象では「人を殺してはいけない」は無力化するのである。徳がある長老は宗教や前例で戒めたとしても不自然な凶行が起きると隠居する。

邪魔で困るのは徳がなく、現実的な処方がない馬鹿である。

 

標題でほのめかした人物は、自分の記事の評判を好き嫌いで赤印でぶったぎっていた。論理も理論も徳もなさそうだ、単なる平和ボケか馬鹿である。

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ヘクトパスカルとは

ニュースでよく見るヘクトパスカルって何?台風28号は中心気圧が「」905~yahooニュース

もう少し突っ込んだ解説と邪魔な雑学を披露します。

従前気圧の単位は mb[ミリバール]でした、これはそもそも1気圧=1bar[バール]だったのですが、SI単位の影響で1気圧=1.024bar=1024mbとなり、運用されていました。bもbarもおなじバールです。いまでは天気ではHPa[ヘクトパスカル]を利用しています。Paは圧力の単位です。

気圧とは圧力の一種ですが、業界により使い分けされていました。気圧はbar(1bar=1024mb=1024HPa)、真空度はTorr、圧縮空気の圧力はkgf/cm^2(キログラム重パー平方センチメートル)またはMPa(メガパスカル)です。
今でもターボ車の過給圧はbarで表記されていると思います(根拠無し)。 

業界慣れしているので僕自身に違和感はないのですが、SI単位系に置き換わるの方がユーザーフレンドリーだと思います。とはいえ日本では飲料の容量はmL[ミリリットル]が主流なのに対して、欧州ではcL[センチリットル]が主流です。慣れている人には常識なのですが分かりにくいと感じる方も居るかもしれません。中学のときに習ったL[リットル]とdL[デシリットル]の世界です。dLよりcLで勉強した方がのちのち役に立つとおもうんですけどね。単位系としては同じです。

 

例えばクルマの諸元表でも出力はPS[ドイツ馬力]とW[ワット]、トルクはkgf-cmとN-mが併記されています。

 

圧力は単位面積当たりの荷重ですから、同じ現象であれば同じ単位を使うというのが現代の流れです。
ちなみに米国はその前段階のメートル法ではなくポンドヤード系で動いているようです。単位は難しくて、石油であればガロン、小麦であればブッシェルと特殊単位が様々にあります。これを穏やかに誰もが分かる単位系にするという野望がフランスさんとかドイツさん、日本で動いています。HPaもその一環です。

SI単位系は組立単位系として優れている。一般的に例えて言えば長さ[m=メートル]、質量[g=グラム]、時間[sec=秒]でほぼ全ての単位を表せる、非常に美しい。
美しいから便利かと言うとそんなことはなくて、日本では従前工学単位系というのを使用していた。直感的だからだ。

質量というのは概念で、直接測定できない代物なのである。中学理科で質量と重量を天秤で量るかばねばかりで量るかという苦しい表現で説明されていたが一般人にはとても理解できない代物なのである。

 

結論:世の中はSI単位系で統一したいけど出来ていない。しかし人民は対応しなくてはならない。SI単位系は規模を表す接頭語と基本単位で構成されている。
接頭語はm[ミリ:1/1000],c[1/100],k[1000],M[10^6]ということ:ちなみに[^]10の何乗という意味である。

 

結論は簡単なんだけど、世の中が変化しないマニアックな理由もありまして。

 

閑話休題。HPa[ヘクトパスカル]に戻る。

ヘクトパスカルはヘクトとパスカルに分解できる。ヘクトは100倍を表す接頭語である、農地の面積のhaはヘクトアールがもじってヘクタールである。10m四方の面積を表すa[アール]の百倍と言ういみである。そして気圧系も原理が似通っているbarとPaを単位調節した。それが1024mb=1024HPaの実態である。

工学系ではもうちょっと難渋していて1kgf(質量1kgの錘が生成する荷重)=9.8N(ニュートン)≒10Nとならないのが困るわけである。現場は困らないけれど頭が遅れている・固い人が素直に換算してくれたら、、、。

 

最後。単位は重要なのだよ。それを化学屋・生物屋から「物理・機械は単位にこだわりすぎる」と揶揄される。

所詮、桁だけで話をしている奴らには分からないのだと思う。もちろんうちらもlogは使うよ。

僕らが見積もり依頼をするときは桁だけ分かればいいと思う。○○×10^△円みたいな。奴らは桁の感覚がずれてるからきっちり見積もりを取る。だから仕事が遅い。

 

なんか愚痴で終わった。

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学者はデマの発信源である件

中国北京付近発生源のPM2.5が花粉とくっつくと凶悪化するという番組があった。

昼食時にそのニュースというかワイドショーを見ていると、
1)花粉による影響がある
2)PM2.5の影響がある
3)『凶暴化』というにはその被害が1+1以上の交互作用があればその表現も妥当だと思うんだけど、個々が粘膜(花粉)や肺(PM2.5)に影響すると言う説明で、凶暴化の意味がさっぱり分からなかった。 

花粉とPM2.5に相乗効果(交互作用)があり、被害がその和ではなく、積や乗数があるという話ではないようであった。これは明確なデマである。

 

別件では、原発の活断層もそのようなテイストを含んでいる。まず、活断層がどれだけ危険かと言う定量的な説明が無い上で「活断層は危険」という主張があり、しかも「かもしれない」という有様である。さらに火山屋が土石流の影響をとか。それならロシアに落ちた隕石の方が危険と言った方がまだ信頼性がある。

 

経済効果の責任を負わない科学屋の意見は夢物語である、薔薇色にしろ悲観的にしろ。そして色物が出てくる。

 

学者という職業を神聖視するのはもう止めようよ、他分野に口を出す自称環境屋とか、被害を最大限に見積もる人とか。工学屋は常に費用効果が問題となる、一方で理学屋は可能性の追求が仕事となる。

しかも、政府の意向で学者は増えた、玉石混合である。もう学者を学者だと言う理由で信用するのは止めて欲しい。

ど素人でも論理でウソは見抜けるのだ。科学知識を持つ必要はない、ロジックが正しいかどうかという疑いの目を持つだけで、インチキは淘汰される。

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活断層への雑感

ニュースで取りざたされている敦賀原発の下を走っている活断層は「40万年前」なわけだが、これが喫緊を要するとは思えないのだが。
単純に考えて、原子炉の寿命を1百年として、断層活動スパンを40万年とすると、 合致する確率は0.025%である。もうちょっと分かり易い表現を用いれば百年稼動して断層がずれる確率は0.025%だということだ、一万分の2.5だ。

確率を使わなくても、地べたがずれても構造体が一緒に動けば問題は大きくはならないはずで、やっぱり外部電源の確保ということになる。こんなことは至極簡単でバッテリが構造体と一緒に動いて数日間確保されればあとは外部からの電力供給が可能になることは想像に難くない。

柏崎原発の地震による火災事故と福島第一原発の問題点は非常にクリアだ。炉を冷やす電源を含む冷却システムがバックアップされていれば事故は起きなかったということが予想されるということである。

まぁ科学者は可能性を訴えるのが義務なのかもしれないけれど、技術屋観点では現在の事故調の思考は受け入れ難い。負の可能性を追い求めれば何も出来なくなるからだ。上記の確率も相当悪く見積もっている(全スパンで割ってるし)、しかもその確率は非常に低い。

科学者は危険予知を最大で述べる性癖がある、誤解を恐れずに述べると技術屋は費用効果を重視する傾向にある。0.025%の事故よりも(笹子トンネル事故のような)喫緊の問題を重視する傾向にある。あと技術屋は事故の被害額を逆換算して優先度を決める場合がある。確実に問題があるが交通量が少ない路線の問題は後回しにして、大容量路線の問題点を優先するとか。

 

失礼ながら科学屋の言うことは3割引いて良いと思う。科学屋は失敗を極度に恐れる。さらに費用効果の概念が低い科学屋に原発の安全性を委ねたのは失敗だと思う。科学屋は自分が得意でない事象にはNOを言う、当然である。科学者=素人の発言の積み重ねに意味があるのか?

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ひょっとして原発は稼動しなければ安全だと思ってる?

どうも「原発稼動反対」を望んでいる人は、稼動していたら危険で稼動していなければ安全だと思っている気がして仕方がない。

原理的には冷却が追いつかなければ稼動・不稼動は関係ないんだけど。福島第一原発4号機の隣の水素爆発影響でポンプが止まれば熱を帯びて、、以下同。である。

 

閑話休題

『絶対安全』というスローガンは原発反対派が作り上げた造語だと思うんだけど(工学に絶対は存在しない) 、それに工学屋が乗ったのが間違いであった。
原発反対派に突き上げられて工学屋は折れた、『絶対安全です』と回答した。工学の敗北であった。
工学はより安全とコストを模索する学問で『絶対』はない、『いかに安全で、いかに安く』を求めるのが工学なのだ。それを放棄した瞬間であった。

より安全を模索するには予算が要る、しかし『絶対安全』と「より安全」の予算は矛盾する。かくして反原発屋が「より安全」を殺した。

反原発派は長い目で見たら論理で勝って、事実に負けた(安全を阻害した)事は理解したほうが良い。

 

標題の件なんだけど、今ある原発を回しても回さなくても安全性においてそんなに差はない。計画停電を実施するほどの意義は何一つ感じられない。
原発を回しながら、古い炉は廃棄にするとか、新規のより安全な炉を作るとか、新規の炉はイニシャルコストが高くてペイできないとか、建設的な議論が出来ないのは絶望的である。
失礼を承知で言うと反原発派は馬鹿である。 どうも間違った情報というか感覚論で動いている気がする。

で、彼らが馬鹿過ぎるので無視すれば良いんだけど、いちいち相手をする政府やマスコミお人よしだな。

マスコミが反原発をあおっている面があるのか。マスコミの良識は絶滅したしね。

 

もう一度問うけど、まさか原発が稼動しているいないで安全性に大きな違いが有ると思っていないよね?

 

学生時代口喧嘩をしていて「絶対」と吐いたら、相手に「e=mc^2における光の速度と同等なんだろうな」と啖呵をきられた。負けた。

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次元と単位

まぁdimensionとかunitいう奴なんだけれど。どうも世の中の人は次元とか単位を考えるのが面倒らしい。だからこそ仕事の場面でも今話題の放射線量の話でもいろいろと食い違う。
というか僕的には「次元と単位」がはっきりすれば、あとは「量」の問題なんだけど、世の中そうではないらしい。

ある意味専門かというか仕事上でもイライラすることがある。具体的には感性を工学で扱う場面だ、「持ち易いPETボトルの形状」ですみたいな。

今挙げた「持ち易いPETボトルの形状」的なレポートは多く出ていて、手が小さく握力が小さい人と手が大きく握力がある人という対角で考察することが多い。本当は実験者は「手の大きさ」「握力」「指の長さ」・・・と次元を増やしたがる。しかし次元が増えるとサンプルが得られないのと解析が困難になるので2者に的を絞ることになる。あと評価基準が大小は2水準だが大中小は3水準になる。手の大きさと握力だけでも、基準が2水準か3水準かで実験要素が2×2=4か3×3=9かで実験水準数が変わってくる。たった2次元(手の大きさと握力)でこのように実験水準が増えてくる。要素と次元を増やせば指数的にサンプル水準が増えてくる。

 

ここでは交互作用が働くとしてマトリクスを前提としている。2次元でも交互作用がなければ1次元Aを固定して知りたい次元Bを振って最適化は可能だ、B次元で5水準を計画してもサンプル水準は5なのでそれほど負担が無い。この結果で次元Bを固定化して、次元Aの最適化を図り、その結果次元Aと次元Bが最適化される。しかしこの場合交互作用は検討されない。(ここを可能性として取り上げられてしまうと仕事がパァになる。論理として交互作用を否定できない場合はやはりマトリクスで検証するしかない)

実験計画法というのがあるんだけど、要は少ない水準でどれだけの利得を得るかというのが実験者の心得だと思っているんだけど。世の中割とそうでもなくて、全部やるか全然やらないかに分かれる気がする。

 

先に挙げたPETボトルの形状の件は、手の大きい人の意見を尊重する意義があるのかという疑問だ。そうなると手の大きさは主要な要素ではなくて、(手の小さい人の)持ち方や筋力という次元が優先される可能性が高い。ところが多くのレポートは手の大きさを正規分布であるとして、最適点を求めようとしているように感じる。不便を感じていない層を次元として取り入れるのはおかしいと思うんだけど。

その結果、多分実験解析が上手くいかず次元を増やしてドツボに嵌っていると思われる(無理やりな結論を述べる)レポートが多い。

 

このケースでは再三述べるが「次元と単位」を軽視しているからだと思う。単位は「何を見てるか」という指標であり、次元は「いかに単純化した」かを問うものであり、寄与度の低い次元を徹底的に排除しないと実験要素が多くなりすぎてコストが高い実験結果しか得られない=手軽に実験方法の正当性を考える可能性を排除した実験方法だと思うのだ。

 

でやっと本題に入る。感性工学の範疇である上記の問題は、要素を挙げれば幾らでも出てくる。その全ての要素に付き合っていては何も得られない。感性工学はその最たるもので「心地良い」ということを工学的に解析しようとする部門である。アプローチは主に2つ、「全ての要素を鑑みて現実的な複雑系で処理する」「単純化して次元を減らしてモデルの積み重ねで処理する」。簡単なのは後者だ、それは自明。で、工学的な成果としてどちらが正しいと言うか、成果量が多いかという点だ。

 

問題を投げかけておいて、ここで退散です。理由は僕は機械屋で単位厨で、要素の単純化が実験の精度が上がると考えているからです。その理由は感性工学に交互作用は存在しないと信じているからです。まぁ批判はあると思います。

あともうひとつ疑問なのは薬学屋さんは実験計画法を有効利用している噂で聞いたのですがどうなんでしょ?僕みたいな馬鹿は次元や水準が増えるとデータを作成すること自体が嫌になってやらないのですが、やる必要がある業界の話しも聞きたいです。

それにしても生物屋さんも化学屋さんももう少し単位と次元に配慮してくれたらなぁと思います。まぁSI単位の基本単位が時間と長さと時間で、物理屋のテリトリーだということは理解しています。でも工学屋・理学屋は科学という言語でしか共有できないじゃないですか、その基本言語は単位・次元だというのは物理系の傲慢でしょうかね、、。

 

ある意味それが僕の飯の種なんですかねぇ、技術屋ではなくて中学理科解説屋ということか。

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クルマが必要だと受け入れる前にコスト計算をする件

標題の件、クルマを持つことの費用を計算してみます。

仮定:新車諸費用込みで300万(諸費用込み・十年減価償却)、駐車場代月額1.5万、車検2年8万(自賠責含む)、税4万

車代:年30万、月2.5万、週5.8千
駐車場:年18万、月1.5万、週3.5千
車検・税:年8万、月6.7千、週1.5千

合計:年52万、月4.3万、週1万
合計(駐車場代0):年38万、月3.2万、週7.3千

維持費やガソリン代は含みません、所有するだけのコストです。高いか安いかはその人の活動状況によるでしょう。
しかし必要だからと没思考する前にそろばんをはじくのは悪くない考え方だと思います。

月4.3万のキャッシュが浮いてきます、美味いモノを食っても、何箇月に1回旅行するにしろ、貯金するにしろできますね。

ちなみに私は持っていません、元エンスーなのですが。

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安心志向は危険を選択する件

僕は技術屋で、仕事で非技術系から試験依頼があって、その結果を報告すると不満な雰囲気が多い。

例えば、容器の耐落下性をついて実例を挙げて考えてみる。顧客がモノを落して容器を破損させたのがそもそもである。そこで落して落下強度に不安がある場合落下テストを行う、条件は常識的な条件が業界にはあって、それに沿って技術屋はテストを行い報告を行う。常識的な落下強度が無ければ改良を提案するし、試験結果に問題が無ければその事故は「特殊例」として対応するのが常識的であるとレポートする。
その報告内容は努めて事実を伝えている。例えば「コンクリート落下面に100cmで正立自然落下をn=10で行い容器破損はなかった」みたいな。多分ど素人が読めばチンプンカンプンだと思う。

何故そういう報告になるかというと安全と安心の定義の問題だと思う。彼らは「漠然とした安全=絶対安全=安心」を求めているのだ。だから事実ベースで話をしないと話がつながらない、というか現在進行形でつながっていない。安全とは「量」の問題であり、想定量に対する安全マージンが必要である。例に挙げた落下強度は、実はどういった「落ち方」「落下高さ」「落下面素材」「落下時温度」という要素がある。全ての要素をクリアするテストはコストや納期的に非現実なのでどっかで折り合いをつけることになる。彼らが求める「安全=絶対安全=安心」という存在しない方程式で論理を語られる。そこまでは対応できない、だから技術屋は論理の話はしたくないので「テスト方法とテスト結果」だけを述べることになる。

要は「絶対安全である」とは技術屋は言わない、一方非技術職は「安心=絶対安全」を技術屋に求める。論理的な齟齬がそもそも存在している。この関係は知性と感性の問題なのでなかなか溝は埋まらない。

 

ちょっと脱線というか標題の件なんだけど、安全・危険は客観的事実事象範囲で安心・不安は主観的事象である。例えばクレームを出した際にお偉いさんが顧客に「絶対大丈夫ですから」という論理的に存在できない事象を請け負ってくる。安全というのは多数のサンプルがある場合(例えば食中毒リスク)の場合は客観的な事実で論じられる、だけど新製品特有の問題であれば過去の知見が無いので「絶対安全」は相当ハードルが高い、、、というかやっぱりあり得ない。それについて会社のお偉いさんがカリカリするのは、保証してしまった安心が完全でないことを理解していて、より安全な方法を模索したいからであろう。

しかし業界知識がない人間には安全の意味が全く理解できない、なので心情を本分に置く安心が幅を利かす。安心は心情の問題なので安全との関係性は全くない。

安全と安心は関係が無いので2次元のマトリクスが考えられる。安全/安心、安全/不安、危険/安心、危険/不安の4次元が考えられる。

ところが安全と安心は極めて親和性が低い。というのは安全が量の概念であり危険レベルの線引をする考え方でどんな物質でも「許容量」という考え方をする。「検出したら危険」ということは論理的にあり得ない、要は○×でない。一方、安心は主観的な概念なので危険と両立できる。安全は「安心ですよ」とは「絶対に言わない」という点でもかなり親和性が低い。安全は客観的な事実を積み重ねることによりのみ存在できるが、検証不可能な可能性を延々と展開する安心サイドとは対極の位置にある。

 

もういっちょ脱線。人間は複雑なので安心と安全を自分の知識で使い分けている、人間を安全屋と安心屋に色分けしたのではない、だれもがそういった部分を持っている。僕などはこういうえんとりを挙げながら多分に安心屋である。

 

なので論理的には存在できる安全/安心という次元は事実上存在できない。ということは全ての事象に於いて(食や住環境だけでなくとにかく全て)で、安心/危険を求めるか不安/安全を求めることになる。まぁあと少なくない場面で不安/危険を選択しようとする。知識が低いだけでなく根拠のない自信で自分だけは大丈夫だと変な自信で不安を抑え込んで危険な冬山に突入するとか、身近な場面でいえば雨が降りそうでも傘を持っていかないとか。そうそう生肉を食すとか。

なので標題の件なんだけど、不安サイドでの対応はほぼすべて危険方向に進むことになる。
例を挙げると、政府・専門家の主張よりは口コミを信用するとか、倫理的な思考による判断とか(例えば無添加無農薬主義、遺伝子組み換え作物拒否とか)は、基本的に危険サイドに突き進んでいる。そのことは知っておく必要がある。

 

今回原発事故の言論を聞いて納得がいった部分がある。技術屋としては原発の政策に対して異常な事象が跋扈していたということだ。上記のようなことが起こっていたと想像するのは非常に簡単である。
まずは「絶対安全」、そんなものは存在しない。この「絶対安全」を求めた方もよく求めたなぁと思う(技術的には瑕疵と言わざるを得ない)、受けた方もよく受けた(こちらも同様)と思う。

東電は文系が歴代社長を任じて、監督官庁であるなんちゃら委員や経産省も文系であろう、少なくとも現場屋ではなく論理の人だと思う。絶対安全というあり得ない状態が定義されてしまうと、さらなる安全性を高めることへの予算を注ぎ込むことが不可能だと理解できる。「現在が絶対安全なのでこれ以上の安全コストは無駄である」という判断が起きたことは容易に理解できる。技術屋は裏でいろいろそれでも画策する人種であるが、CSR等で会計をオープンにされるとそれも難しい。だって「絶対安全」なんだもの。

技術屋の考え方としては「起ってはいけない事象」は起きないという意味ではなく、日々安全性を高める努力が求められるというものだ。簡単に言うと「事故は起きる」という前提で物事を考える(JR東が地震で減速するプログラムを組み入れていたらしいがそういう普段の努力が安全性向上のキモである。)。しかし東電は「事故が起きる」という前提では考えていなかった(考えることを許されなかった)。福島第2原発は非常電源は格納庫に収められているらしいけれど技術屋がドサクサ紛れに設計変更したのであろう。よく予算取ったなぁと思う。まぁあんな施設の値段は客観性が無いだろうからどうとでもなったのであろう。(何度も言うけど「絶対安全」には危険個所が論理的に存在できないので改良する金の出所がない、さらにそこを心配するのは悪行であることは論理的に理解できる)

柏崎原発が「炉心だけは大丈夫」だったけど、付帯設備を含めた設備の安全性が安全の根拠なので、炉心だけが大丈夫であれば問題ないというロジックが否定されたばかりなのに対応としては残念だ。


要は反対屋は「そもそも絶対安全であれば変える必要が無い」、「設計を変えるということは『実は絶対安全で無かった証左である』である」として改良や設計変更を認めないロジックをいじくりすぎた感がある。この視点からいえば反対屋も加害者なのである、安全の定義をうやむやにして論理で攻撃しすぎた。『過ぎたるは及ばざるがごとし』の典型例として失敗学に載せて欲しいと思う。

 

政府も「原発は絶対安全なので対応を検討する必要が無い」というロジックに引き摺られた。まぁ結果論であるが技術屋の常識でいえば馬鹿である。なので今後は「最悪の事故が起きること」を前提として社会設計が行われる必要がある(事故が起きる前提で設計するということ)。
ちょっと確認したいんだけど「原発放射性物質漏れ」は今現在人的被害がほとんどないので、安全性の問題ではなくて、経済性の問題であるという定義する。見えない不安とか言われる原発が出す放射性物質への安全への否定は冒頭で述べた典型的な「安心」の問題である。政府は風評も含めて淡々と事実ベースでデータの供出と施策を行えばいい。あおる馬鹿は放っておこう。繰り返すが原発の問題は安全の問題ではなくて経済的な問題である。安心の問題かどうかは知らんし、どうでもいい。

なのでもし問題が起こるとすれば「原発が放射性物質漏れを起こしてしまったら」その電力企業はやらかした被害を補償しきれないということが現在進行形で証明されてしまったことだ。政府は財布を曖昧にしておいて口を出す、まぁ最悪な姑のようなもんだ。
日本は世界で最も高い電気代を課していて、その低コス切り札が原子力発電らしいけど、事故った場合の手当は想定していないことが明確になった。そして電力料金低減の切り札ではなりえないという事実も残った。

事故を評して上手いこと言うな思ったのが「トヨタが車を設計・施工して、陸運局が許可を出して、バス会社が運営した」ということらしい。それぞれ東芝・GEと保安院と東電の関係が見えてくる。


戻る、地域独占を認められている歪な企業の社会責任として電力各社は「完全な補償は不可能なので(需要者に迷惑をかけてGDPが減っても)原発を止める」か「事故が起きたらどうなるかは明示されたので、さらなる安全性を追求して、それらを免罪符に産業・地元の信任を得て継続する」、「需要家の国際競争力とリンクするので安全性のデータはすぐさま開示することはできない、原発は当然止めない」のかという判断をしなくてはならないと思う。

僕は原発を継続/停止についてのイデオロギは無い。安全はイデオロギとの親和性は全くないと考えているくらいである。考えなくてなならない問題は安全をベースとした経済的な問題である(例えば風評被害とか立ち入り禁止住民への補償とか)と。そして安全と反対の立場にある安心派は政治との親和性が高く方向性を引っ張っている感がある。
「事故はいつかはおきる」という前提で経済補償の財務的な安全性を考えると、イデオロギとか妄想とか関係なしにリスクデカ過ぎという判断が妥当ではないかと思われる。

 

こんな簡単なロジックで原発即時停止を求められる。それをできない反対屋はイデオロギ偏重で勉強不足なのであろう。

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科学リテラシーとやらは期待しない方が健全な件

今回の震災で基準値に対して『量』という概念での報道が多かったように思う、非常に前進したように思う。まぁその結果マイクロシーベルトとミリシーベルトさらには毎時ミリシーベルトやベクレルとか単位が乱れ飛んでるけど」。

僕は単位厨で、単位とは次元を表し、次元とは時間単位なのか総量なのかとかが一目で分かるシステムだと理解している。次元が明確であれば要素(距離・時間・質量)の何がどれだけ効くかが明白なのである。例えば放射線のことは詳しくないけれど距離の2乗に反比例するというような説明があったが単位を見れば明白なのだ。なので単位にはうるさくて、表記が正しくない文書は書いた人が単位(次元)を理解していないと私は理解している。
僕の言い分が正しければ質量をKgと表記するのは単位への冒涜で、単位系そのものへの理解が乏しい可能性が高いと思っている。ちなみに質量を表す単位はkgで『k』は接頭語のkなので小文字だ。このような質量を『Kg』と表記する人は理系にも多くて、文系理系関係ない。

「あなたの家から職場(学校)まで何キロですか」とか「あなたの体重は何キロですか」とか「今日は最高速度何キロで走りましたか」という『キロ』は全て意味が異なる。距離と重量と速度だ。

なんとなく分かっている単位だと曖昧で問題ないけれど、厳密な問題や非得意分野での問題は「量」と同時に「単位」が問題になる。量を語る上で単位が必要不可欠だからだ。

 

ちょっと脱線。物理・機械系以外では質量という概念を理解するの難しいと思う、理解できなくて当然である。手のひらにある物体の「重さ」というのは物理的には重量とか荷重という単語で説明できることであり、質量は感覚的には存在できない。現代では質量を基本単位としたSI単位系を日本も採用しているわけであるが、このやっかいな「質量」とやからから逃げられない。(ちなみに質量に重力加速度を乗じたものが荷重であり、1kgf(いわゆる1kgの重さ)・9.8Nと表記される、めんどくせー)

質量とはある意味概念であり計測できない。僕の世代では中学校で質量が1kgで、そのときの荷重が1kgwであると覚えさせられた。これは古くから用いられている工学単位系の概念の方が分かりやすく、工学単位系では質量ではなく、重力(荷重)・距離・時間で工学的な説明をしていた。一般心理としては質量よりも重量(荷重)の方が便利なので工学単位系が尊重されていて、両方が併記されて現在に至る。ところが学術的には質量という概念の方が便利なので工学単位系は排除されつつある。

例えば「1kgの重さ」というのは学術的には存在できない。多分「9.8Nの荷重」という表現になると思う。

 

さらに脱線。
このSI単位系は学術的・計算するには非常に便利なんだけど実生活には全く役に立たない。例えば質量1kgの物質を保存する容器は「(地震などは別にして)9.8Nに耐えうる容器であること」が求められる。設計現場と実生活現場で感覚として相互理解が無い。

 

閑話休題。

単位だけでもこの程度の問題がある。例えば問題となっている健康食品の含有量単位がmg/粒かμg/粒か知らんけど、生物屋と物理屋では概念が著しく異なると思う。
「理系」で括れないのだ。

大卒(高等教育)理系ですら概念が一致できない問題を一般人に「科学リテラシー」とやらを求めるのは酷だと思う。
僕は機械(物理)屋としては、化学式の「基」であったり「元素」に着目しすぎるのは良くないのはわかった、大卒技術屋であってもその次元なのだ。

 

結論じみたこと。私を含めた一般人に「科学リテラシー」を期待するのは余りに高度である。一方で報道は「報道言語」での誤解を無くす努力をすべきである。(例えば物理屋の私は放射線の原理までは理解できたけど、動物実験における安全性評価法の判断基準はほとんど理解できなかった。まぁそんなもんだ。)
なのでマスコミは他紙を先んじるのではなくて「理解し易い正確性」を基準にして欲しい。その対極の先生はA新聞で電波を飛ばしまくっている。単位を理解できないことは理系でも恥ずかしくないし、というか業界が異なれば理解するのは難しいであろう。

 

ヒント:断定された記事はまず間違いである、断定する根拠が無いから。理系は数量で判断する傾向がある、検出されることは問題ではない。基準値との整合性の問題である。
基準値作成には過去のいろいろな思惑があって厳しい判断基準を求められている農作物は多い。また外国の基準値が日本の基準値よりも厳しいことも多い。噂のヨウ素であるが、ヨウ素は基本的に毒であり、海藻を多く食する日本人は基準値が著しく引い。水銀摂取量とかも日本人は非常に多いと思う。そんなことを気にすること自体が理解できない。

 

なので暇な人はベクレルでもシーベルトでも毎時シーベルトでも次元を考えてもらいたい(Wikipedia先生にgo)。例えば1kmは距離の単位で、1km/hは似てるけど速度の単位。単位時間当たりというのは次元を考えるに重要な要素なのだ。

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科学教は隣接するフィールドを叩く傲慢な態度な件

ホメオパシーでによる死亡例があって、かの宗教(あえてそう表現する)を批判するキャンペーンが朝日新聞で行われたようだ。このことは本質的には賛成である。その上で日本学術院が異例のコメントを発したことで誰とは言わないが高らかな勝利宣言を述べたようである。

ちょっと脱線するが私の態度を明確にしておこう。ホメオパシーをはじめとする「インチキ」には汲みしない、しかし「科学的な正しさ」だけをメッセージとすることで世の中が良くなるという立場にも与しない。たとえば「科学的に正しくないから」血液型占いを流布するのは許せないという立場は理解はできるけど賛成はできない。

科学が科学のフィールドで検証できることはすごくその通りなんだけど、それだけの切片で国民が幸せになれるというのは傲慢すぎる。なので彼らは境界で諍いを起こす。勝手に領界から踏み出して、他の業界から違和感の表明を受けると「科学を分かっていない」という杓子定規の返答が来る。多分科学者というのはものすごく馬鹿なのであろう。

科学擁護派が馬鹿なのはそれは多数の事例がある。例えば進化論は検証できる学問であると思うけどその検証はまだなされてない。例えば新規の「種」を観察した事例を発見できればそれが証明であろうと思える。インテリジェンスデザインの考え方は荒唐無稽だと思うけど、所詮科学の範囲を超えたことを主題としているインテリジェンスデザインを科学で組み伏せられると思うことがそもそもの間違いだと思う。テリトリーの問題だと思うのだ。

科学を装い詐欺をはたらくことに憤るのは分かるけど、「科学を装っていること」が問題であれば、「それは科学ではない」とだけ言えばいいこと。詐欺的な行動を批判する意味が分からない。(詐欺は犯罪であり科学的な何かとは関係ないということ、内容が科学であれ詐欺であれば詐欺である。)

 

ウォッチングしていて二重盲検法の意味を理解していない科学擁護派がかなり多い(逆かも:ホメオパシー理論と二重盲検法が成立しないことを理解できないということか)というのに違和感を感じた。ホメオパスは波動やら水への記憶ということを論点としているので、誰が誰にレメディを与えたのか分からない状況では効果が無いと主張していると私は理解している。その状態で「二重盲検法でプラセボを排除する」と言う論理は馬鹿だとしか思われない。科学屋はここまで馬鹿なのだ。相手の論理を理化せずに自分の論理を振りかざすジャイアンだということ。自分の論理が正しいとその教義を疑わず、相手の論理を理解できない程度に馬鹿なのだ。科学屋は科学を貶めていると思う。まぁ賛同は少ないであろうが。

 

話を少し広げる。

境界条件はそこかしこある。例えば無添加だとか、無農薬、有機農法、非GMなどです。ワクチン拒否もホメオパシーがインチキだと思う程度にインチキだとみなされているかもしれません(ネタで優秀なのがこちら)。
多分科学的には無意味というよりリスクの大きいチャレンジです。そこがビジネスの起点だと思えば、消費者が買ってくれると思えばその努力をするということでしょう。

健食・化粧品は検証結果(エビデンス)をビトロでも統計優位性をアピールしてその商品が如何に優れているかということを述べているに過ぎません。
実際にビタミンB郡欠乏症で脚気に悩んだ歴史があるわけで、さらに欧米見地の「健康的な生活」は足りない栄養素を補うという見地から啓蒙されたのも科学的な実験結果に惑わされるのは仕方がないでしょう。「より」健康だという視点で考えれば。

 

で、元に戻るのですが、食品や化粧品が科学を利用するのは仕方が無いでしょう、ホメとか代替医療と同じ構図です。ここを私は「グレーゾーンではないか」と述べたのですが多数の批判が来ました。批判自体には困惑しないのですが、このような背景を無視して「科学は(科学の定義した範囲では)万能である」という批判に眩暈がしたわけです。いやそんなこと言ってないですから。

 

脱線します。科学屋は論理と理論の区別がへたくそですね。あれだけはどうにかしてもらいたいです。ここでは科学屋=科学者とは思っていないのですが、科学屋は馬鹿だと思わせる素質十分ですね。

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好きが代替医療の源泉なのだろう

代替療法には科学的根拠が無い、でも癒されるのであればそれでいいという考え方もある、特に終末期医療では有用なのではないか。ホメオパシーの問題は症状悪化を好転反応と捉えて適切な医療へのアクセスを拒否したり、有用なワクチンを拒否するから叩かれた。まぁ死ねよってレベルであることは間違いないのであるが、ホメオパシーが劣悪だから代替医療を全否定するのはちょっとと思う。まぁ有機農法野菜は安全だと嘘をつく生産者が多いのは事実なのでそのあたりは妥当なのかも。

代替医療というよりはサロンで語り合ったり、精神的な緩和が有効であるという主張は有りかなぁと思えるネタ記事を読んだから。記事が出来過ぎていて代替療法もこれなら有りじゃねぇ?ってレベル。

モフモフ療法の歴史~とらねこ日誌

この筆者はネタで効き目が無いということを面白おかしく訴えたかったようであるが、代替療法の魅力をここまで的確に説明している文章は無いであろう。代替療法は癒し(精神的な落ち着き)を得るには有用なのだということであろう。もちろんそれ以外の効能は無いのは当たり前。

 

この記事が秀逸なのは、教祖が理論を構築していくさまを論理的に紹介していく場面であろう。しかし題材のモフモフが妥当すぎて笑える、そして危険さに心配し、効能もありそうだとモフモフワールドに引き込まれそうになる。そういえばネコカフェというのもあるらしいし。そのネコカフェでは医療効果を謳うことはないであろうが「癒し」とかを謳うことになる。そしてそれは無毒な砂糖玉を舐めれば精神が落ち着くというのと親和性がある。

このblog主は批判的にネタで書いたのであろう。確かに本質を抉り出していると思う。しかし本質が強烈過ぎて、「正しいことを書いてある」とも読める。
モフモフ療法が正しいステージに上がった瞬間だ。猫もみ療法は効能があるという時点でNGであるが、モフモフは癒ししか供出していないということらしいので。

よくできた社会だと思う。しかしこのモフモフは「直せない」ので強力な影響力を形成できないとも思う。強力な影響力は不法行為が必要ということか。

 

9/14追記
ちょっと頭を冷やしたんですけど「モフモフ」はやはりすばらしい提案です。私も嵌ってみたいです。ネタに突っ込むのはアレですが特許化できたんじゃないですか?

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自然を保たないといけない理由

僕は「自然」というやつにシンパシーを感じるのだが、大きな括りでの「自然」は依然人類の脅威であり、甘く見ない方がいいと思う。そこを内包して自然が好きだ。オーロラは見てみたいし、黄龍に行ってみたいし、砂漠も見てみたい。砂漠を代表する自然が残っている場所は人類にとって暮らしにくい土地であり、開発が遅れているのであろう。「過酷」を見てみたいということ。

 

このような感覚をエスカレートさせると「自然」「Natural」に特化して有機栽培農法を賛美したり、ナチュラルの最右翼のホメオパシーに嵌ったりするのだろう。

この点は日本人が宗教に非寛容なことから始まるのかもしれない。多分自然教の一種であるわけだ。一神教の世界ではこのような論理は構築されないであろう、自然が重要かどうかは関係ない話だからだ。一方多神教の世界観を有している地域ではホメオパスを始めとした自然教が受け入れられ易い気がする。

モーゼは自然と闘うために方舟をつくったし、不思議な力を発揮して海を割った。自然は驚異であった。一方土着の宗教でも自然に畏怖するというスタンスはあり日本も例外ではなかった。

 

いつから「自然は脅威」でなくなり友達になったのであろう、克服できるけど「克服するのは失礼だ」ということに置き換わったのであろう。そしてその発展系が「自然に感謝する」というように置き換わった。

ナチュラル主義やホメオパスが自然に心酔するのはまぁいいとして、その食材が不味くて病原菌を保持している可能性は覚悟した方がいい。有機農法は理論的には不味くて危険という意味ですから。安全を担保するために様々な規制があって安全な有機農法も確立されています、故に高コストです。

自然派子弟にその歪な価値観を強制するのは反対です。ワクチンを打たないというのは言語道断ですし、子弟が病気になったとき「免疫で自然に治る」という概念は小児虐待でしょう。いやいいんですよ、自分だけが文明と隔離されたなかで住む事までは反対しません。

 

このようなホメオパスの事例を考えると、私自身が自然を愛するわけですがその根拠は自分だけの価値観であることが見えてきます。根拠が無いわけです。

多くの人が「自然は美しい」と述べると考えますが根拠が多分無いのです。天然痘ウイルスも赤痢菌も結核菌、その媒体である蚊も絶滅してもいいんです、自然馬鹿ヤローなわけです。象や虎が大事で蚊が要らないというのは論理的におかしいわけで。

COP15のさなかこんなことを言うのは何ですが「自然」って本当に必要ですか?生物多様性って必要ですか合理的ですか?自然に重きを置いてホメオパスを批判する姿勢は論理的ですか?

 

一神教であるイギリスを始めとした欧州では産業革命前夜に平野部の森林を伐採しつくした。邪魔なオオカミも絶滅させた。多神教の日本人には神の住処である森を完全に伐採するという選択は出来ないであろう。

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老化ってなんで起きるのであろう

標題の件、不勉強で申し訳ないことを自覚しつつ、生物学博士を持っている同僚に聞けばいいのに、面倒なのでここで自慰行為。

老化が不完全な遺伝子コピーの累積回数によるエラーの集積と仮定するとコピー羊ドリーの短命は自明なのかもしれない。でもそれなら生物の寿命は一定であるはずで、マウスの寿命は猿と比べて短すぎる。心臓のポンプ回数が寿命と一致するという主張を聞いたことがあるが、細胞の更新回数と一致するのであろうか?DNAからRNAの複製をするに完全でないということなのであろう。

一方、大人に向かって成長して、成長した瞬間に発展は無くて単に老化するという考え方もあるであろう。死んだ細胞を補填するのは大変な作業で、成長ベースと同様に考えるのはおかしいということ。なので年齢が増すにつれて細胞の補填が追いつかず、肌は老化するということになる。毛髪も同じだ。

ここのメカニズムというか意思が分かれば老化から逃げられるかもしれない。尤も老化がないと世代交代が行われないわけで、細胞の発展は無い。有性生殖行為で遺伝子が発展するという進化論を是とすると老化は必然なのであろう。

老化を抑える提案は結構あって、ビタミンCとかEとかである。細胞レベルの実験では細胞再生率に差があるようだ。
今議論している細胞コピーの完全率とは余り関係ない。ひょっとして癌化率と老化は関係あるのかもしれない。癌が遺伝子コピーの失敗作だと考えれば。

 

 

遺伝子の劣化率のべき乗が老化の指数なのであろうか。ふと疑問に思っただけで何か主張があるわけではない。

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