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生物種の希少性についての考察

ネタなのですが、生態系を重んじるとか、生物種の希少性を重んじると言うのは誰もが反対しないと思う、だが金を払うかというとそうでもないと言うのがざっくばらんな印象。めだかは大事だと思うがめだかを守るために金を払う人は少ないと思う。

例えば釣り人は農林業を除けば生態系破壊者の王者であろう。鮎などの経済生物を無理やり放流するわ、外来魚は放流するわ。しかしそのおかげで経済が回っている。鮎釣りのために鮎の稚魚を買ってきて放流しても、漁業権でペイできているし、道具屋も儲かっている。そんな事例はいっぱいあって、虹鱒などは既存種ではないし、ブラックバスも同じであろう。あっ、ちなみに農林業は国土を最高に自然破壊しているので「自然破壊」そのものを批判しているわけではありません。このパラグラフでは事実を述べてるだけです。このような事例は別に河川・湖沼に限らず平地・山林でも多く見られる。トキやコウノトリが絶滅したのも国土を開発しすぎたからであるし、馬・ニホンオオカミも同じ。現存している野生動物のうち猛禽類やクマ、大型の動物は保護なしでは生きられない。これらは国土開発が原因である。

自然破壊という定義が難しいことを理解していただけたであろうか。

種の希少性・多様性に金を払わないで「大事」と言っても説得力が無いのだ。しかし個人的にはわだかまりがあるのも事実。

国土の開発と、生物の希少性・多様性のコンセンサスは得られてない。そして「野生動物は大事」というスローガンに論理的な意味を見出せないのも事実。しかし感傷としては動物は大事だという意見に反対する人は少ないであろう。これをすっきりできなければ国土開発・地球開発と自然保護は折り合いをつけられないであろうな。

今現在飢えている人にとってはサイはどうでもいいし、文化のために鯨を必要としている人もいる。一方で家畜の安全のために(狼の)絶滅のトリガーを引いた歴史を有す民族もある。

結局どうすんの?

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石油先物高騰は投機マネーが原因?

H.I.S.の見開き新聞広告(6/28日経)を見てびっくり、H.I.S.では料金表示をツアー代金と燃料追加代の総額表示と内訳が示されている。ツアーによっては燃料追加代の方が高いのだ。例を示すとグァム4日間2.98万円はツアー代が8.8千円、燃料代が21千円なのだ。

一方、6/28日経夕刊には「米の投機マネー規制焦点に」とのこと。原油市場に投機マネーが流入して石油高騰の原因との事、運用残高が4,5年の水準の10~20倍と言われるほど膨らんでるとの事。彼らは貯蔵タンクを持っているので実需家の側面も持つとの事。これらに報道にかなりの疑念を持つ。まず先物が市場価格をスポット的に高騰をもたらし市場バブルではないかという疑念は生じる。

そもそも石油の価格は需要>供給なら上昇トレンドであろうし、需要<供給であれば下降トレンドであろう。その値段でも買う人がいると思うからこそ、値段が上がるといえる。そして供給量は(1)カルテルによって価格を抑えているところは価格に見合えば増産する、(2)海底などの高コスト油田は価格が見合えば投資開発がなされ共有量が増える、その結果実需価格が決まるであろう。先物が上がり過ぎれば投資速度が上がるので価格はスポットはともかくトレンドとしては落ち着くことになる。

日経夕刊では「買い持ち」との指摘がある。石油と言うのは貴金属と違い保管にべらぼうな資金と費用がかかる。10年後も石油が上がり続けるというならば10年分買い付け、タンクにしまっておけばいいのだ。たぶんそのような投機判断はできないであろう。そして投機規制を行えば価格が落ち着くというならば空売りを仕掛ければ儲かることになる。そんな馬鹿な話があるわけない。先物の価格は開発投資誘因になりえても実需の価格に落ち着くに決まっている。食料などに至っては食料として買い手の付かないほどの価格まで引きあがれば、貯蔵することも困難で3年でごみとなる。

先物上昇トレンドは実需の予想という機能が働いており、油田開発投資の指標となる。無理に抑えると実需の予想が困難となり、油田開発投資が遅れ、急騰する恐れもある。

環境面を強調したいEU・日本の指導者は、石油価格の高騰が温暖化ガス排出抑制のインセンティブとなる。だったら投機マネーを規制しないで油田開発を規制したら?

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朝日新聞素粒子反論に釣られてみる

犯罪被害者の会、本社あて抗議文 「素粒子」めぐり(朝日新聞) - goo ニュース

どうも日本には言論の自由が無いらしい、といった反論を朝日新聞に期待する。なのにこの弱腰っぷり。この大本のコラムに個人的には不快感はあるが抗議を行うという意味が分からない。朝日がそれほど悪いことを行ったのか?そうでないはずだ。主義主張にいちゃもんをつけるのは分かるが被害者に対する「配慮」を気にしていたら原理的な言論などできやしない。被害者の感情は分からないでもないが、被害者にとって犯人が死刑囚の場合、死刑執行をしようがしまいが全く一切関係ない。自由刑なら釈放されることもあるとは思うが死刑囚は釈放がされないのだから死刑を遅らせても被害者はなんの不利益を被らない。

鳩山法相が死刑執行を下したと言うことは法律上責められない、しかし朝日はそれを知っている上での、死刑廃止論者としての意見(と私は理解した)なのではないか。死刑廃止法改正を願うキャンペーン(戦術)でしょ。「法に準じた執行を批判するのはおかしい」という批判(論調)は、法の在り方を疑問視するキャンペーンを理解していない(=馬鹿)といわざるを得ない。

「鳩山大臣は法に沿って死刑を執行したのだから批判はおかしい」という論理は、年金など世間を賑わす問題は「法はそうなっているんだらか批判はおかしい」ということになると気が付かないのか?「少なくとも法に沿って執行したのだから」ということを朝日への批判の根拠にするということは現在存在する法、あらゆる現行法が最適・最高(=無問題)だというのと同意だ。

私は死刑存続論者だが、他者の主張は尊重するつもり。あらゆる現行法が現在最適だとは思っていないし、私の主張に反対する人を排除する気も無い。現行法はあらゆる点で不具合があるので少しずつ修正が必要という認識、そのためには「現行法はおかしい」という主張が批判されると言うのは理解できない。

あっ、そうか。死刑存続論者が、世界の風潮に押し流されるのを危惧して、むりやり何でもぶっ潰そうとしているのか?はたまた裁判員制度を導入すると「死刑判決」を出せなくなるために死刑を急いでいるのか、死刑を下すことへの抵抗感が醸成されるのを危惧しているのか。とするとこの論の主は「微罪でも死刑」を推進していると思わざるを得ない。

とにかく朝日新聞は謝罪をしないでいただきたい。少なくともLink記事の「全国犯罪被害者の会」にとって死刑が延期されても(執行されなくても)何の損もしない。現被害者にとって死刑を国民が望まなくなっても全く損をしない。被害者遺族が目には目を論で加害者を殺したいのであれば朝日新聞の言う死神であろう。しかし朝日新聞はその批判部分は甘受しなくてはならないであろう。死刑廃止論者は遺族が感情的であることを論理反駁できなければその道は遠いと言わざるを得ない。少なくとも感情に押し流されてはいけないと思う。

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東披肉(トンポーロー)を食す

近所の肉屋に「皮付き豚バラ」が売っていたので東披肉を作らねばとの強迫観念が。いつもはラフティー(沖縄風豚の角煮)なのだが思い切ってチャレンジ。

東披肉は何が大変かというと「蒸す」過程があること。角煮はことことと煮てれば良いがなにかとハードルが高かった。レシピはベターホーム

工程としては、(1)ゆでこぼす(あく取り)、(2)煮る、(3)焼き色を付ける、(4)蒸す、(5)冷やす→油取り、なのだ。ちなみに煮汁を蒸すときに使用。規定時間は煮る・蒸すとも各1hだけど、蒸しは長めに。

結果:食感は店で食すレベル。蒸した際に煮汁が薄まったらしく味付けは薄め。最初から濃い目に味付けするか、最後に煮汁を煮詰めるのが良いでしょう。皮の部分はプルプルで美味い。角煮は庶民的な食感がするが東披肉はちと高級。

美味しいけど面倒なのでお勧めしません。

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暖簾を安売りしちゃいかんだろ

ナチュラル指向とは言えど休日の朝食のそばつゆなんかはインスタントで済ませることもあると言うわけで有名メーカーのつゆを購入。

現在お気に入りなのは盛田、愛知のメーカーで濃口醤油とつゆを愛用。愛知のメーカーは濃いのがお好きなのかちと高いけど愛用。

この盛田のつゆが切れた際、スーパーの安売り品を血迷って購入、超有名メーカー品。1リットル¥300以下なので文句を言えた義理ではないのだが、このつゆがエラストマー臭がして使用に耐えない、要はゴム臭いのだ(嫁も同感)。捨てようか迷い中。味が¥300以下なのは仕方が無いとしても異臭がするとメーカーの見識を疑うと言うか安いんだから我慢しろということか。やはり盛田を買っとけば、、、。だいたいその商品の定価を知らないし、安い商品を定価で買ったのか、スタンダード品を特売で買ったのか分からないと言うことはけしからんということ。その結果ブランドに対する不信が募ると言うこと。

この時決めたのはこの某有名メーカーの品はもう買わないと決めたことだ。消費者が数ある品物から選ぶ際は試食ができない以上はメーカーの信頼度と言うか暖簾・看板を信用するほか無い。低価格品であってもOEMを別とすればそのメーカーのブランドであると言うことを信用すると思うのだ。それが安全性だけだというならそれでも良いが嗜好品である調味料は味・風味のレベルが著しく劣っていたらそれは害悪ではないのか。という疑問。

せっかく築いた暖簾を極低品質の商品が傷つけないのかという疑問だ。もちろん私が感じたゴム臭は他の人は感じないということを前提として商品戦略を打っているなら批判の矛先がナンセンスであるのだが。

日清食品では超ベストセラーであるカップヌードルに似せたスープヌードルという廉価品を売っている。公式プレスには味は変えていないとあるが、私は味が違うと感じている、このスタンスにも多少の疑問はあるが、超ベストセラーとは違うと言うことはある程度明確なのでカップヌードルのブランドを傷つけることは無いであろう。同じカップラーメンでもブランドの住み分けが上手く行っている例ではないか。

廉価品を出すのはいいのだが、そのメーカーの暖簾を傷つける可能性は覚悟しておいたほうが良い。その意味では日清食品の戦術は有効であろう。

繰り返すがもうその超有名メーカーの商品を買うことは無いであろう、暖簾・ブランドを信用できなくなったからだ。やるのであればスタンダード品が認知されていて、その廉価版であることを明示しなければリスキーな商売と言える。

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逆宝くじ

宝くじはテラ銭が50%というとんでもないギャンブルだが結構人気を博しているらしい。かくいう私もその1人。買わなきゃ当たんないということで数学的な損得を無視して敢行。ここで特許にもなりそうも無いので逆宝くじをネタで提案する。

宝くじを買っていて思うことがある、「絶対に当たらない自信がある」と。であれば逆パターンはどうか。-(マイナス)千円でくじを売り、千口にひとつ百万円を徴収するのだ。これでは期待値が100%なので、50%にする(寺銭というか手数料)。具体的には参加する人は一口千円をあげる代わりに500口に1口外れがあるのだ、外れは百万円徴収。これに参加するであろうか?金欠のときなど参加したくなるかも。だって1/500の確率に当たるとは思えないもの、しかし確実に当たっている人がいると言うのは宝くじと同じ。

宝くじを買うと言うことはこれと同じなのだ。期待値というものを考えるとそういうことになるであろう。

しかし金欠のときなどは3口ほど買って飲みに行きたくなる気がするがこれって不健全かなぁ?宝くじを発行することは法律で禁止されているそうであるが、逆宝くじは法律で禁止されてるのかなぁ?だれかやってみない?

みずほ銀行は口座を持っている人は宝くじを買えるシステムだ、残金100万円以上の人はこの逆宝くじを買えるシステムを構築するのは簡単なことであろう。どう?

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朝倉内閣の行方

本意ではない環境ネタが続いたので軽い話題で。

月9のドラマの話しだし、荒唐無稽・奇想天外なストーリー展開を笑うのはその通りなのだが、結構朝倉内閣に高印象。

突っ込みは置いておいて、キムタク演じる朝倉総理の独断専行は小泉氏を髣髴させるし(スタッフは小泉待望論者だよね絶対)、桃太郎演じる野党党首には小沢氏への強烈な皮肉、秘書官は飯島秘書官を想像せずにはいられない。過去の派閥政治の象徴として寺尾聰演じる神林も面白い。

印象としてはストーリーの無茶振りが本質を阻害させていないというところ。人物描写に時間をかけた代償として1話ごとのテーマが希薄なのはトレードオフか(そもそもそれは度外視しているよね)。NHKのハゲタカのように1話ごとのテーマが明確であればもっと厚みが増すかもしれないが、その分人物描写に時間が裂けないので仕方が無いか。

がんばれ、朝倉総理。

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電源政策が語られない不自然さ

洞爺湖サミットへ向けて様々な提言がなされているが、具体的な技術の話は一切出てこない。数値目標であったり、排出権取引、夢物語(風力・水力)、などだ。ちなみに私は温暖化ガスによる地球環境への影響が人類に問題だと言う主張に疑問があるので原理的には反対なのであるが、政策を遂行するという別の視点からの疑問。

近い将来のことを含め現実的な政策のうち、電力問題は既存技術で政治的なコンセンサスを得ればすぐにでも実現可能なことがある。そう原子力発電推進、高速増殖炉等の付帯技術だ。原発は1日や1年の電力変動には対応していない、出力可変型になっていない。出力可変は火力や水力担当だ。これでは原発を推進しようにも運用できないのと同じなのだ。出力可変型を容認する、原発推進を容認するという政治的コンセンサスが現在では整っていない。

また原発に「絶対安全」を求めると、コスト的にも、現実的にも運用できなくなる。原発にあまり依存しないというのも政策としてはありだと思うが、温暖化ガスの排出量削減は夢のまた夢であろうし、石油・天然ガス高騰による電力価格高騰は避けられないであろう。そもそも世の中に「絶対安全」が存在しないと言うことを理解すべきだし、リスク=ハザード×発生率を取り入れるべきだ。1000年に1回の大地震を許容しないと言うのはナンセンスだ。被害も被害額で算定すべきだし、そのためには過疎地に原発を作ったり高深度地下を利用するのも手であろう。財政が破綻している自治体がリスクを売り、原発を誘致するのは決して人命軽視にはあたらない。

そういえば先の中越地震では原発の安全性が証明されたと思ったら、そうでないような報道もあった。不謹慎を承知で例えれば交通事故で人員の安全が確保されたがタイヤがパンクしたと問題視するような物だった気がする。炉が安全だったにもかかわらず「地面が波打っていた」とか。多分この手の主張する御仁は病気を治療するために注射を打ったら、病気は治っても皮膚がかぶれたとクレームを付けるに違いない。

原子力が当面の主役としても、出力可変を一気に進めるにはリスクが伴うので、電池も必要であろう。電池とは(揚水式)ダムに他ならない。ダムを2箇所用意して昼間は落水により発電を行い、夜間の余った電力で水を再びダムへ汲み上げる。ダムで全ての電力量可変を補えないであろうがリスクの分散程度にはなる。しかし、ダムは環境破壊の王様なのでこれもコンセンサスを得るのは難しいのではないか。

このように政治的コンセンサスさえあれば、現在の技術ですぐできる電力政策がある。これを放って置くのは理解不能だ。安全を犠牲にして新潟の原発を稼動させる必要は無いであろうが、声高な技術的におかしな主張をするグループには論理的な反駁をして政策目標を早く掲げる必要がある。臭い物に蓋をしている暇は無い。そのためには高知県東洋町の政策判断を客観的に解説することが望まれる。安全性に対する説明が足りなかったのか、補償金が安かったのか。

過激な環境主義はもう無視しても良いのではないか。自分の命の価格は無限大なので心配すればきりが無いのは分かる。しかしその主張を他人を巻き込んでまで行う必要性があるとは思えない。冷静に科学的な根拠を述べて、納得できなければその地を去るのが良心的であると思う。結果として間違った主張を吟味した経済損失は莫大だ。ダイオキシン、環境ホルモン、農薬、ワクチン、今挙げた物質への心配は杞憂であった。しかも人命へのハザードを心配する必要はそもそも無かった。これを反省できないグループの主張を聞く必要は全く無い。そろそろ人命の安かった時代と決別して、粛々と安全性の客観的な議論を元に政策決定されなければならないのでないの?

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中の人

前回の続きを推敲しながらアップしたら時間切れとなった。ログインを再度求めるのは許せても書いたテキストぐらいは無効にしないでよ、水の泡になった。頭には入っているのでもう一度書けなくはないけど、気力喪失。なもんで軽い話題で。

先日友人である中国人に「日本は良い国だね」と言われた。「ああそう」と答えるのが精一杯。だってどの程度いいのかがわからないのだ、仕方が無い。逆に「日本は悪い国だね」と言われても同様であろう。結局中の人は外からの視点・基準を持っていないので分からないのだ。

とすれば宗教問題も永遠に理解は難しいのが分かる。中の人にとってはその前提条件を問題にされても困るのだ。チベットで問題になっている、仮に欧米人に「仏教徒は危険だ」と言われれば、宗教に篤くない日本人は論理的に話せるかもしれないが、ガチの仏教徒にとればとんでもないと言うことになろう。同様に「日本人はエコノミックアニマルだ」と言われれば他者と比較ができなければ「そうかもしれない」と言わざるを得ない。

なのでムスリムやクリスチャンが多分そういう存在なのだが、そのなかで原理主義というのはもう批判するだけ無駄であろう。外部からの視点を頭では想像できてもやはり理解できないのは想像に難くない。

その処方箋は多分ある。例えば公開討論会などだ。理論が論理的かどうかを検証すればいいのだが、それに参加する義務が無いので、彼らの理論がいくら間違っていても、論理的に賛同を得られなくても関係ないのだ。だからテロリズムを賛同するし、自分の命を投げ打っても後悔しないのであろう。これでは歩み寄るのは無理と言う物だ。

中の人には何を言っても通用しないという事実を社会的に理解するべきだと思うのは過激であろうか。

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自然と闘う

夏は登山だ(←これど素人らしい)、自然はすばらしい。里山・田園の散歩も大好きだ。近所には里山がぽつぽつ残っているのでよく行く。でもこれは自然と闘ってきた歴史なのだ。

人類は自然と闘ってきた、病気や外敵、食料調達や天候。これらを克服するのが永遠のテーマだ。狩猟採集では食料調達が安定的でないので農耕畜産を行うし、食中毒を防ぐために食べられる動植物を改良すると同時に、熱を加えるなど調理法も改良してきた。それでも年に何人も天候災害(地震・洪水・噴火など)や食中毒(茸や河豚など)で亡くなっている。

野菜の原種、山菜などもアクが強くて、アク抜きしないと美味しく食べられない。アクは昆虫や動物に食べられないための毒素なので、アクが無いほうが美味しいのでその植物にとっては絶滅を意味する。現在の野菜は自然では生きていけない人工的な種といえる。ふぐなどは毒成分を体に蓄積することができ、外敵から種として身を守ると言える。

このように自然及び食物連鎖とは食べられない努力を積み重ねているものが生き残っている。食べられるよりも増えるほうが早いとか、外敵に見つからないようにするとか。栗などは大切な種子を食べられないようにイガにくるんだし、ブドウの様に種を撒き散らすために動物を利用する種もいる。

こう考えると食べられるために発展してきた野菜・果実・家畜は人間の手助けなしでは生きられない人工物といえる。「自然の物が一番旨い」というのは理論的にはともかく、論理的には間違いであるというのが分かる。キノコを見ても分かるが自然の動植物というのは元来とても危険なのだ。

多くの場合「自然を残そう」と言う場合限定的であることが多い。見た目の美しさに捉われて、自然に畏怖したときなどだ。科学技術が発展する前までは耕作に疲れた土地が洪水で表土の供給を行うので、「洪水はすばらしいメカニズムだ」などとたわけた事を言う人は現代にはいないであろう。蚊など昆虫が病気を媒介するので鯨はすばらしいが蚊は絶滅していい、といった論理整合性の無い場合がほとんどではないか。サンクチュアリとして自然を残すのであればなんとなく意味が分かるが、「自然と共生」など論理的な意味が存在するのかさっぱり分からない。

また里山風景は科学の力があまり及ばないので人間の都合の良いように環境を改変してきた文明物だ。自然の力を上手く使っているが自然ではない。美田を残すというのは文化保護であって環境保護とは関係ないことを理解する必要があるであろう。里山とは自然に対抗する手段なのだ。

このように生活シーンでの自然・ナチュラルなどの言葉はほとんどが偽善・誤りで使用されているのであろう。今後のエントリーで少しずつ食品添加物や食の安全について私見を述べていきたい。

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技術移転って何?~環境シンポジウム

環境シンポジウム、技術移転促進への疑問点

「環境技術を先進国から途上国へ技術移転が必要だ」という議論があったのだが本当だろうか。

特許期限は出願から20年だし、商売が基調に乗るには10年程度は必要だろう、その10年では設備の減価償却は終わらない。 特許が切れていたとしても技術移転が可能だとしても設備投資がなされるかは別の問題のような気がする。それだったら減価償却の済んだ技術を安く手に入れることを考えたほうが得なのではないか。

風力・その他エネルギー技術を移転しようにも途上国に投資があるかは別問題なのだ。それならば先進国で原価償却された、枯れた技術を導入したほうがメンテナンスの簡易さや費用の安さからメリットが多いような気がする。また原発のような設備にしても途上国が自前で建設するより先進国の企業の方が安く作れるであろう。自前で揃えるより、安く調達したほうが良いと思うのは素人考えだろうか?

 途上国が必要なのは企業が信頼するファイナンスなのではと思う。政治基盤が弱かったりデフォルトが起こりそうなら企業は入札に参加しないからだ。 技術移転て精神論のような気がする。

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温暖化ガス国際排出権取引についての弱い考察

体系的に勉強不足なのだが拙速で。サミットでイニシアティブを握りたいならとてつもない覚悟が必要かもしれない。

京都議定書では加盟国で温暖化ガス削減目標が定められたが、EUの目指す温暖化上限2℃をクリアするにはCO2濃度450ppmにしなくてはならないらしい(現在は360ppm)。そのためには現在増加傾向のCO2排出量を10年後までに減少傾向にpeak outさせなくてはならないらしい。そのために温暖化ガス排出を削減したいのだがさまざまな問題がある。京都議定書批准国(先進国、除く米中印)のCO2排出量は地球の排出量の3割程度なので京都だけでは意味がない。温暖化を防ぐには全員参加が前提となる。

先進国は温暖化の影響はまず途上国に出るのだから途上国も参加してとのスタンス。ところが途上国は「過去200年の先進国による環境破壊の被害者」というスタンスなので噛み合わない。そこで先進国は「経済発展を否定しない」とコメント。であるので排出権の設定も先進国は国民一人当たりのGDPによる分配を主張している、一方途上国は人口一人当たりの分配を主張している。現在先進国一人当たりのCO2排出量は途上国に比べものすごく多いので(例えば日本とインドの排出量はほぼ同じ、人口比から換算するとインドは1/5、アフリカ諸国はもっと差がある)、サミットでの環境問題方針一致は解決は非常に難しいと言わざるを得ない。

環境問題は外部性が強いのでCO2排出量を守るインセンティブが無いに等しい。囚人のジレンマではないが自分だけ抜け駆けしたいのだ。そこでcap and trade は有効な手段となりえるであろう。

例えば全世界の人口一人当たりの排出量を割り当て、CO2の排出権を先進国が途上国から買えばいいのだ。先進国は一人当たりのCO2排出量が多いので途上国から排出権を購入しないと現在の生活は保てない。そして途上国はその資金を元に経済発展を目指せばいいのだ。排出権の価格はオークションで決まるという米国の好きな方式。

長所は途上国は排出権を売ることで潤うのでインセンティブができること、先進国ではビジョンが明確になり投資を促すことができること。投資先は食料、原子力、電池など様々。また負の外部性が小さくできる。難点は先進国のGDPがかなり冷え込み、結局排出量を誰も守らなくなると言うのが最悪のシナリオ。

であれば現在の排出量を基準に各国が2050年までに排出量を一人当たりGDP基準から地球人一人当たり基準を設定し、そこに徐々に進めば良いのでは。途上国は増えるかもしれないし、先進国は半分では全然足りない。まぁ先進国同士の京都・ウルグアイラウンドでさえもあそこまで揉めたのでやっぱりかなり難しいか。ここは覚悟を決めるという選択もありだと思うが。

ちなみにIPCCの温暖化モデルは途上国の発展が大きな寄与を想定しているので途上国の発展は理にかなっている。(あくまでIPCCのモデルを信用したとしてだが)

新聞で賑わす排出権取引は企業間とかなんかチマチマしていて、実感が湧かない。企業間取引とかスケールが小さすぎる。そもそも国内間の排出権取引であれば総排出量が劇的に減るとは思えないんだが。

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「無駄を削減」?とほほ。。。

まずは無駄遣い排除=消費増税発言で福田首相(時事通信) - goo ニュース

家庭の会計じゃないんだから「無駄の削減」を総理大臣が言ってどうするの?地方時自治体でできないこと以外は全て権限を委譲して、予算が小さくなれば母数が小さくなって無駄は必然的に少なくなるけど、地方が選出した国会議員が国の予算を決めているので地方へ金を誘導するのは禁止にすれば無駄遣いはかなり減る。でもそうじゃないよね、多分。

無駄といえば境界は曖昧だが2つの意味があるであろう。「支出を切り詰める」と文字通り「無駄を削減」するだ。前者は財政支出を見直す、後者は文字通り。で、首相はその無駄という奴のレベルの認識は持っておられるのか?どこからが無駄でどこからが支出の切り下げなのかという点を。漠然とした無駄の削減などできるわけが無い。もしそれを本気で言っているなら政治家と言うか国家を経営するには能力に疑問を持たざるを得ない。

昨今、経営への取り組みで戦略とはなんぞやと巷で情報が氾濫している。一例では経営戦略は「資本の再配置」であるとのこと。社長がしなくてはならないのは資本が適正に運用されていなければ資本効率が落ち、会社が成長しないという。

もし社長が「(利益向上のために)無駄を削減します」と言ったらその社長は馬鹿にされるに違いない。それが社長の仕事かと。プロジェクトでも作って担当を指名してその担当の権限を保証すれば終わりだ。なにも経営の長が率先してやる事象ではないのだ。それよりも資本・資源の再配置と効率化を目指すべきであろう。

国家運営もそうでなくては困る。予算とは資源の分配であり、前年度+○○%というものでは無いはずだ。高齢化社会や社会福祉費を厚くするなら大幅にどっかの財源を削る、まさに資源の再配置である。

それをどっかの総務課長が「経費節減」てな(悪意はありません例えです)スローガンは止めてください、国家の首相の発言とは思えない。

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モラルを守る理由

ネタも無いのと、議論に少し興味を持ったのとで、モンスターの存在理由を考えてみる。

個人主義社会は成熟した社会を築けるか~だめリーマンの思考法 の続き。

Link記事をまとめると、(1)従来の日本はムラ社会内では傍若無人に振舞えば村八分にあうためモラルが均質化していた(当然守れない人はスピンアウトする)。(2)団塊の世代から徐々に個人主義に移行してきた。(3)強制力が無ければモラルは守らない。(4)個人主義社会の大先輩の欧米社会はキリスト教がモラル教育を担当してきたのか?(5)宗教での拘束力が無い日本では「お上」が(条例などで)担当するのか?といったもの。

非常識な人々の存在の「非常識」という定義も難しいものがありますが、背景を考察します。コメントではそれ以外の見方が提案されています、なかなか面白いので一読を。

ムラ社会が均質化されていたのは、ムラの長老の支配力が大きく、年貢を取りまとめたり、現金化する際に影響力が大きかったからでしょう。彼らの慣習に沿わなければ村八分に合い、それに耐え切れずに流れる人が居たとしてもおかしくありません。また家父長制度ではそのミニ王朝が家庭で発揮されたと思われます。そこで濃厚なムラ社会が形成されたのではと思っています。
一方、町もギルドが形成されているため工人町などという地名が残っています。やはりギルド内では均質なギルド社会を形成していたと思います。
明治期以降も緩やかな人民移動は行われたと思いますが家父長制度を色濃く残していたと言えるでしょう。

戦後核家族化が進み、家父長制度が崩れ、隣近所という存在が破壊されると「他所様に恥ずかしい」という倫理が無意味になったのではと想像しています。利害関係が存在しない所ではモラルを守る必要が無いので隣近所の付き合いが希薄なところでは様々なトラブルが絶えないと理由であると思っています。

ですから電車で傍若無人に振舞う紳士も会社では本物の紳士であることは想像に難くありません。

モンスターの存在は、「権利を主張すること」のデメリットが無ければ(村八分にされなければ)、際限なく権利を主張したほうが得だと言うこと(あまりに面倒だとコスト高になってしまいますが)が理由だと思っています。この際モラル的かどうかなど自分の利害関係が明確でなければどうでもいいということが想像できます。もうひとつはモラルに関する教育を受けていないので自分がモンスターで無いという認識をしている場合もあるかもしれません。それでも会社など利害関係が濃厚な社会では無茶をしないと言うことは、モラルを守る必要が無ければ守らない方が得だという自覚はあるでしょう。

マナーを守らない人間を無視するという態度もあるでしょう。関わり合いがなければ付き合うのは損だと言う考え方です。電車での化粧などはその典型ですかね(実害は無いけどムカつく)。それでは実際に迷惑に感じている場合はその方法は通用しません。そこで自身や他人からの強制力が無ければマナーの向上は期待できません。

親鸞の歎異抄では「全てを阿弥陀様が見ている」という強烈なモラル意識を訴えました。さらに「阿弥陀様が見ていて悪いことをしなければならない不幸な人が最初に救われる」と説いています。親鸞は「他力」というのを重要視したようですが強烈な批判を感じます、「阿弥陀様は悪いことは全てお見通しだよ」と。キリスト教でも似たような概念があるでしょう。宗教はモラルを強制します。

しかし、今の日本人にはモラルを守る強制力が見当たりません。モラルにスマートな人間が異性にモテルというわけでもなさそうです。ですからお上が面倒を見ないといけないのかなぁという主張だったのです。条例を事細かく決めて守らせる。たとえば禁煙条例とか騒音条例とか。

一方根源としては「モラル」とは何ぞや、という意見が出てもおかしくありません。具体的になればなるほど一致するのは難しいでしょう。属している社会の常識が、他の団体では非常識と言う例は多いでしょう。危険なのは自分の属するモラルが正しくて、そうでないモラルは無視するという行動です。これではお互いがモラリストであると思っていてもトラブルはなくなりません。その意味でも議会や自治体で議論された「お上」のお言葉(条例など)が有効であると思います。(ちょっと強引かなぁ)

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地名変更はそのエリアのアイデンティティを喪失する件

地震で被害を受けた方に恐縮しながらですが、奥州市ってどこ?と思った。

平成の大合併など、合併は奇想天外な自治体名を付ける。つくばみらい市などという史上最強の自治体がある。いったいどういうつもりなんだろう。

合併の際に名前はもめる原因の大きなひとつ。私も旧大宮市に住んでいたことがあるので分かるが、「さいたま市」にはがっかりした。それなら浦和市でいいじゃん。政令指定都市で一番影が薄いのは北九州市だそうだ。これも合併の強引な地名。小倉・門司・戸畑・八幡・若松が合併してできた町だ。小倉市にしとけばいいものを北九州市などというおよそアイデンティティが無いだけでなく、九州の北部を指す場合とかぶるので人はおよそこの名称を使わない。そして政令指定都市であるにもかかわらず、地名としては一般的ではない。通常北九州・南九州といえば漠然と福岡県佐賀県大分県と鹿児島県宮崎県熊本県を指すような気がする(ごめん長崎県、お前はどっちだ)。なんと、まぁご丁寧に鹿児島県には南九州市と言うのが存在する。いつできたのか知らないがMS-IMEにもシカトされている。

この歴史の教訓を破ってまでアホな地名を付けるのはなぜだろう。中の人がどう思おうが少なくともそのエリアのアイデンティティが育つことは期待できない。四国中央市(旧伊予三島市、川之江市)や奥州市(旧水沢市、江刺市)に至っては何県にあるかも分からない。そんな自治体が発展するとは到底思えない。両市とも製紙の町、競馬の町というアイデンティティがあり、新幹線の駅も水沢江刺だ。まぁいろいろあったのであろうが。

しかし「いろいろあった」では済まされない損失を認識しているのであろうか。一般に存在感がある地名を捨てれば土地に愛着をもてないであろうし、住みたいとか行って見たいとは思えない。貧乏になるのだ。例えばいわき市、有数の観光地(常磐・小名浜)を有しており交通の要所である平、歴史の勿来も存在感が全く無い。こんな例は捨てるほどあるのに。中野と野方が合併して中野区という笑い話まである。

歴史から学べないのかね、合併で変な名前を付けて成功した例を一例も思いつかないのだが。

*市名にWikipediaやchakurikiのLinkをはろうとしたが面倒でやめた。

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