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護憲派が残念な件

僕は昭和40年代生まれでがちがちの「平和憲法賛美」を教育されてきた。高校ぐらいまではそれを真剣に信じていた。まだ革命戦士の生き残りが大学で見れたのだが平和憲法至上主義という概念はそれでも理解できなかった。

そして最近のインターネットで情報を得られる時代になり益々「護憲派」に論理性が乏しいことが暴露されてくる。例えば経済学大好きな人は経済学が理論的であればあるほど、実験にて整合性が取れていれば取れているほど「私の言う事は正しい」オーラが出てはいるが少数派である事は理解しているらしく、対応としては謙虚だ。政治の方針にいくら理論で効率的でも選挙で負ければ意味が無いわけで。

しかし護憲・非戦派は理論が美しく、陶酔し易いらしく論理闘争が極めて下手糞。理想論として美しいのは理解できるけれども「現実はちゃうやん」という指摘にあまりにも無防備なのだ、そして理論的な美しさがあるが故に論理闘争を避けると言う現実がある。

旧護憲派としてはこれではいかんと思うわけだ。

平和憲法が論理で負けてもいいじゃないかと思う、より現実的な平和を理想論で語るということがあってもいいんじゃないかと。それには現護憲派は弱すぎると言うか憤死しろと言うレベル。要は九条が原典化してしまい、原典化と言う事は宗教になっちゃったのだ。九条ならびに日本国憲法が原典化したので原典であることを目的化した論理が跋扈していると感じるのだ。それはまさしく宗教だ。

世界平和の基準は60年前とは違う、そしてその技術(法の運用等)が固定化している時点でナンセンスと断言しても間違いでは無いであろう。平和に対して「日本国は侵略戦争はしない」という点だけを見て、世界平和に貢献できなければ平和を語る資格が無いというものだ。九条派はそういった自己矛盾を内包している。

既に九条・護憲派にとって「平和」は陳腐化している。そしてそれを受け入れるべきであろう。論理の原点が間違っていると認識すべきであろう。また彼ら自身で「平和」の定義や平和へのプロセスの方法論を真面目に考えるべきであろう。彼らはあまりにも考えなさ過ぎた。リベラルには期待している。でもこの爆弾を抱えたリベラルには政権を預けられない(小沢氏は保守本流だとしても)。

彼らは①国民が期待していることを実現したいのか、②自分たちのパラダイスを作りたいのか?が良く分からない。自分たちのパラダイスを作りたいのであれば少数派閥に甘んじていればいいと思うし、国民のもやもやを解決しようという高尚な趣旨があれば国民の言葉に耳を傾ける必要があると思う。護憲原則主義で議席を減らした社民党は多数の国民を説得しようとするのかということ。

ちょっと妄言。私自身はサヨクの考え方は割と好きだ。なのでだからこそ現実的な論点で論争を行って欲しいというか、理論構築をして欲しいものだと思うのだ。少々のぼろがあっても理論の美しさでカバーできるのに(現在は全然出来て無いというか馬鹿丸出し)。

本当に残念なんですけど。

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