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反原発と原発推進という二択論

どうも原発を再稼動しない、廃炉という意見と再稼動という意見の二元論は白黒はっきりしている、ということは単純にイデオロギの議論でありどこにも収斂しない。というかその中間論はないのかと思う。
例えば消極的賛成派はグレーな名案を述べてもいいと思うんだけどあまりない。現行の原発を稼動するかしないかという点にこだわっている。

少し脱線。反原発派はイタリアとドイツの判断を英断だと褒め上げるが、彼らは彼の国が電力のアウトソース可能という点を軽視しすぎていると思う。ドイツ・イタリアにも出来るなら日本にもできるという楽観論はあまりにもアレだ。福井県と青森県を「原発国」として独立させて、アウトソースするとでもいうのかしら。

閑話休題。グレーな意見としての例を幾つか挙げてみたい。

1)夏だけ原発稼動
例えばOpenブログでは繁忙期(夏だけ)原発を稼動せよという提言を行っている。地震や津波に季節性は無いのであるが、1シーズンごとに何時まで稼動するという約束の下に原発を稼動するという契約はありだと思う。まぁ今でも13ヶ月稼動後に点検の為に止めるのであるが、有期の契約をすることによって、原発への嫌悪感を低減する事は可能だと思う。例えば5年後までに火発を増やすとして、「5年間夏だけ原発稼動」という契約は悪くないと思う。

2)安全性を高めるべく新設する
東電の官僚化というか、安全への論理の精緻さを求める余り、現行原発の安全性は設計当時と変わらないと思われる。また設計精神には津波が考慮されていない可能性が高い。安全性は不断の努力で1%から0.1%へ、0.1%から0.01%へと進化するものであるのが普通であるがそれが適正に行われていない可能性が高いことが明らかになりつつある。ということは現代最新鋭の原発と福島第1原発では安全性に雲泥の差があると考えられる。もちろん、津波対策を

現行原発の安全性を全て疑って、徐々に最新鋭に買い換えるという方法論もありだと思う。例えばフエールセイフを重視しつつ、それでも事故が起きた際の被害を最小限にする技術、例えばサイズを小さくするとかという考え方は有ってもいいと思う。

3)現有設備の再点検
現有設備の比較的新しいモノや、東日本と違うシステムの西日本の設備が耐震レベルと津波対策を比較的低コストで実現できるのであればそちらを選択するのもありであろう。そして瀬戸内海に今回のような津波対策は必要ないであろう。過去の津波の倍程度、地震の3倍程度を考えて未だ余裕があるのであれば再稼動でもいいのかもしれない。それでも冷却システムが暴走すると燃料棒が溶融するようなシステムであれば安全制が高い方式に改造・新設を検討することもありであろう。

 

というような案が先ず浮かぶ。こういったグレー論の方が現実性が高い気がするがどうであろうか。

 

ちなみに原発で足りない部分をガスタービンを含む火発で対応する場合、京都議定書における温暖化ガス削減という義務に反する。温暖化ガス排出権を他国から買ってこなくてはならなくなるわけで、燃料費高騰以上の電気料金の大幅な値上げは甘受するということであろう。もっとも電源三法がすごい補助金という噂なのでそれで相殺できるかもしれない。

 

ちなみに僕の意見。過去にもエントリーを挙げたが発電のソースを国民が判断すべきかという問題がある、その意味は発電の自由化とグリーン電力への補助金の支出額だ。あとは電力会社の経営者・株主が決めればいいと思う。

多分現行電力会社の株主はリスクが存在する原発を止めて欲しいというのが本音であろう。電力会社はコストに利益を乗せて電気を売る権限があるのでぶっちゃけコストは度外視できる。しかしそのコストがグリーン電力買取価格とか、マイクロ発電設備設置費の負担を国が負うとかすると、もう経済原則が無茶苦茶である。なのである意味政府は何もしないことを望む。当然温暖化ガス排出権は誰かが買ってくる必要もある。

政府が(原発被害の保険の成立以外の)何もしなければ、神の手やらで落ち着くと思う。その結果電気代が高くなったり、停電したり、その結果雇用が無くなったりは良く分からんが。

 


電力会社が「電力の安定供給」ということをきっちり行っているから、企業は東南アジアに対する稼働率という意味でのコストメリットを感じていると思うんだけどね。

インフラの安定性が担保されない日本には企業は興味が無いと思う。またサービス業も大変だろうな、消費を演出するという意味で電気は有用だ。暑いときには寒いくらいのコーヒースタンドで一服したいし。

 

原発を白黒で語るのは無理があるし、不毛だと思う。グレーソーンを語るべきだと思う。

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原発は経営判断で

今回の東電福島原発の対応について冷静に考えてしまう。今現在の被害者にはお悔やみを申し上げたいが、その被害を補償されたら、それ以前の電源3法と補償金を考えると冷徹に考えざるを得ない。

今回の被害者は所謂先例という立場で、東電が潰れるかどうかを含めて政府は冷淡だ。

で、政治も自治体も世論もヒステリックになっている気がする。要は大きな概念で言えば被災者がどういった街造りを模索するかということであり、多くの被災者が現有の土地に家屋を再建したいという。論理的には100年で3回程度の被害を受けているわけであり、そこに税期を投入すべきかという壮大な論理の整理が必要となる。自治体ごとに異なるとは思われるが再掲復興理念は自治体ごとで異なるはずであり、そもそも自治体が機能していない自治体もあるであろう。それを全て政府の責任に帰するのは、馬鹿であろう。政府の責任にしておけば健康な生活が得られるのであれば馬鹿も結構だけれどそうではないであろう。

 

馬鹿が意見をまとめられないので復興が遅れている(ということになっている)わけであるが、だったら意見をまとめればいい話だと思うんだけど。理念屋は理念に反した成功例を認めない狭量的な意識を多分に振りまいているがみっともないので辞めた方がいい。

 

理念屋の説得力のまるで無い原発廃止論がある一方で、電力株主が脱原発を提案してきた。これは強力な提案であると思う。

彼らの意見は「原発は経営的にリスクがある、なので止めろ。電力企業は供給した電力に利益を乗せれば経営が成り立つ」ということが骨子だと思う。原発がどうもコスト的には引き合わず、リスクを抱えることへの懸念を表明しているわけで、株主とすれば「出来ることだけすればいい」という表明に他ならない。原発破壊という保険が存在しない、さらに国は説明義務を求める割には保障はしない。国の責任範囲は天下りと原発保有自治体に補償金を投げてくれる程度であることが判明した。株主とすれば原発は再稼動するよりも高コストでも火発を導入して、電気代を消費者に転嫁したほうが余程健康的である。

 

原発反対論は市民活動家よりも株主が推進するであろう。そこの判断は市民活動家が考える理念ではなくて「お金」である。

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利権も外圧も権利も降ってくるもの

自民党の石原幹事長が「原発ヒステリー」と述べたらしい。僕個人的にはそう思う、その理由は日本は江戸時代から論理の精緻さを論争するだけで政策論争というものを経験していないからであろう。僕の史観を述べてみる。

 

明治革命は議論の末に成立したものでもなければ、市民革命という性格ではないことは明白だ。米国・露西亜・英国という外圧と変革を嫌う尊皇攘夷という保守的気分が幕府を苛めた。特に長州は身銭をきったとは言え、幕府を苛め抜いた。長州藩・薩摩藩ですら、革命成立が確定するまで尊皇攘夷がお題目で薩長下級士族は尊王攘夷を信じていたことであろう。

倒幕という革命原理は尊皇攘夷だったのであるが、薩長の幹部は明治政府で開国・西洋化にしてしまった。武士階級が10%として、改革の主導が薩長土・幕府であることを思うと、ほんのごく一部の知識階級が改革を指導して(それも数十人というレベルなのではないか)、樹立した明治政府は結局、革命というよりは「政権交代であった」のだと思う。(幕府・薩長開明派が政体はともかく、同じ方向性を持っていたということだ)

 

明治革命は薩長・幕府の天才が成し遂げたマジックだと思う。逆に言えばそこに参加していない人は「与えられた」と思わざるを得ず、そもそも「尊皇攘夷」はどこに逝ったのかと疑問があったであろう。最も経済合理性という概念が導入されて、官からの払い下げで大儲けとか、重農主義から重商主義や工業主義が展開されて、給与所得者も増えたようだ。(豊かになる第一歩だと)

 

明治~大正期と政府首脳は「戦争は財布と相談する」という常識を有していたが、日本人は世論で熱狂するという悪癖は直っていなかった。幕末時に大久保・西郷・木戸が実の世論とは違う開国に舵を切ったのだが、まぁそれは天才的なマジックであったのであろう。明治後期は伊藤・山縣・西郷といった幕末の開明派の末裔が居たが、大正期には手品師も居なかったし、手品が成立する組織でもなかった。

 

そして大正~昭和期はマスコミが国民を煽って、天皇の神格化や軍部の論理化が形成されたのだと思う。ここでいう論理は江戸期の朱子学のように、論理の精緻さは現実を無視できるという程度のモノ。まぁ日本は日中戦争・太平洋戦争で負けることになるのであるが、合理性がとことんまで削除された結果であろう。「上官に反論しない」というのは反合理的精神の最有力のもので、論理の精緻さを求めた結果であろう。なので負けた。

 

その後、民主主義を注入された。市民が求めたのではなくてお上から下ってきた。吉田と鳩山の関係は興味のあるところであろう。政治家が地域的に密着してきた歴史から見れば政策論争がきちんと行われたか微妙だと思われるが。

日本の近世からの歴史では、市民は革命を行使できなかった。せいぜい知識階級が汗をかいた。

で、現在なのである。常に外圧で政策を決定してきた近世~現代までの歴史観がある。

 

やっと本題。

現在までの原発推進は石油ショックというパニックで醸成された。1970年代初頭の石油ショックは脱石油という外圧が政策の根本で、原爆というアレルギーが多少あったにしろ根拠の無い理想論は無視された。現在の理想屋と同じく、現実的な処方が無い理想論は単なる馬鹿であり無視されたわけだ。当時のOPEC(世界石油輸出機構)はアラブそのものでそれは強大であった。

今現在も同様の圧力がある。
簡単に言えば、今までの原発は「安全である」という論理的な精緻さを駆使したので現実的には分からないけれど「安全なもの」として処理されている。だけどそんなことで論理闘争をしても意味がないわけで、この主犯の一部は反原発派が責任を負う必要があると思う。ようは「より安全」を両者が求めなかった事実の積み重ねが被害を大きくしたのは間違い無いであろう。ここで反原発派が「俺は悪くない」というスタンスをとったとすれば、また何十年か後に同様の幼児的な政治感をで打ちひしがれることになるであろう。

 

僕の感覚で言えば、論理の精緻さを政治に求めることはそのこと自体がおかしい。軍事でも経済でもとにかく何でも。
例えば震災復興増税の是非を考えてみよう、反対論者はそのことで「より不景気を招く」と論ずる、推進論者はプライマリバランスの向上が物価安定に寄与し、原理原則を優先すべきだと言う。僕はどちらの意見もそれなりに信頼たると思っている。要は基本方針をきちんと策定して、在野はともかく一旦決まった政策を与党も野党も御用学者も信じることだと思う。それが出来ない。

信頼できない理由がある。本当に困って国民合意した経験がないからだと思う。戦後の混乱期に餓死するであろう配給制度を、実際に餓死者が出ても政府の言い分を優先する公務員気質があって、なので市民はユルイ選挙制度で満足していると思う。

 

なので日本人はいろいろと不得手がありそうだ。そこを研究すると商売ねたになるかもしれない。

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借り易さか貸し倒れ防止か

金融庁:連帯保証を禁止…経営無関与の家族・知人 ~毎日jp

 

本当かどうか分からないけれど、中小企業の社長は会社は有限責任なので社長が連帯保証していると聞いたことがある。貸す側は返って来る見込みが無いと貸せないわけで、その信用度で金利が異なる。

 

例えば貸し金1億円を貸し倒れリスクが10%として、限界利益を考えると金利20%が必要なケースを考える。ところがそんな金利で借りる奴は踏み倒し前提としか思えず、結局成立しない。その企業がその金利でも本当に資金を必要としていてもだ。

それはオーバーな表現としても、連帯保証は元金の貸し倒れリスクを少なくする方便としては有効だと思う、社長の個人資産を担保に入れるとか。「連帯保証人=担保」であり、担保があれば安く貸せるということでしかないのだと思う。逆に言えば担保がなければ高い金利で借りるか、借りられないということだけである。

ということは連帯保証人という制度は担保の人身御供だということか。信用も担保も無い人は借りられないわけで、超法規的制度が連帯保証人ということなのであろう。

ということは借りられない人がまた増えるのであろう。グレーゾーン金利撤廃でパチンコ屋が経営危機らしいけど、同様にまぁそんなに問題にはならないのであろうか。

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見える危険と見えない危険

前記事 海洋汚染と放射線汚染のどちらが許せるか~だめリーマンの思考法

で、日本の環境屋は前者に敏感であり、後者には冷淡だ。このことを指摘した。そのごコメントがあって考えさせられた。コメント欄で述べるのも良いのであるがエントリーとして挙げて見る。

 

CO2問題や放射線問題で敏感になっている、特に放射線問題ではパニックとしか思えない言動がblogやNetで飛び交っている。離婚してでも子供を連れて福島を去るとか、給食が信じられないから弁当持参とか。
彼らの共通項は『数字』に触れないこと、イメージである。男性の一部で放射線を測定をして煽っている人も居るが、放射線が測定されたことが危険指標であると満足しているようだ。

実は僕はそもそもガイガーカウンターって何をどういった原理で測定しているのか知らない。まぁそんな男が彼らを批判するのはお門違いなので、一連のエントリーは批判ではないことを認識して欲しい。

放射線もα線とかβ線とかγ線とかX線とかいろいろあると思うんだけど。私はシーベルト/hとかももう理解が面倒で投げ出してしまった。未熟な僕が例えば理解した単位にベクレルというのがある。1mol(アボガドロ数)での核分裂の数値らしく、分母足るべきアボガドロ数自体が10の23乗と巨大な訳で「その絶対値が大きいから驚く」という行為自体がアホらしいとしか言いようが無い。

 

話を脱線する。以前も述べたと思うんだけど、機械屋である僕はグラフなり原理を理解するには、次元を意識しないと意味が無いと思っている。化学屋や生物屋からからよくかわれるのであるが、彼らは現象に着目していて理論式に疎いのではないかと勘ぐっている。機械屋は理論式を級数化(多項式化)して、式を単純にして次元の「寄与度」を考えるのをモットーとしている(機械屋一般の理解ではなく私の理解です)。理学屋からは恐ろしく単純化する馬鹿の輩であるが、それでも理論式を頭に思い描きながらどの次元が優先度が高いかを頭に思い浮かべるわけだ。

そこで機械屋は要素を整理して単純系で考える。そして単純化するに至るにはどの次元を重要視したかが鍵だ。そのためには単位や次元は非常に大事なのである。逆にあらゆる要素を包括した実験では複雑系で処理しているわけで、統計という概念で処理せざるをえず、それは理論を構築するという意味での科学かという疑念が僕にはある。

 

僕は単位や測定原理を咀嚼するのが面倒で投げ出してしまったわけであるが、パニックになる前にその程度の勉強はした方がいいと思う。まぁ「お前が言うな」であるのではあるが。

 

やっと本線。

放射線パニックを構成している要素として、戦後日本人が刷り込まれた「原爆症」というのがあるであろう、原爆症がどの程度の被曝でどの程度起きたのか統計的なデータは無いようである。悲惨さはものすごいものがあるようだ。それが見えないという点が大きいと思われる。

ヒステリック的な反環境団体はその要素として「放射線」「CO2」「遺伝子組み換え」「化学肥料」を挙げることが多い。どれもその因果の証明は出来ない、「彼らは見えないモノを嫌う」という仮説だ。

見えないということは被害が軽微であると証明でもあるけれど、それは幽霊を怖がるのと基本的に同質なのかもしれない。見えなくても過去のデータから勉強すれば被害の量はある程度想定できるにも関わらずだ。

 

以前に「イメージを刷り込む左翼」ということを考えたことがある。日本人は固有の宗教観があり、例えば「穢れ」を嫌う。「穢れを嫌う」には「何か分からないものは拒否する」という感情があって、理論よりも感情を優先する宗教観があると思う。また仏教と儒教は「古いことはいいことだ」という前提があって、新しい技術を嫌う。ここを安保で負けた左翼が引き継いだ気がする。また日本人原理的な感情である「穢れを嫌い」「古いことはいいこと」が知識としてではなく、感情としてなじんだのであろう。漫画「美味しんぼ」の古式主義が大いに受け入れられたのはそのことと無縁でないであろう。

ここまでのキーワードというか要素は「見えないこと」「古くはなかったもの」を考えると放射線被害を過剰に拒否する背景が浮かび上がる。

 

一方で昨年メキシコ湾で海底油田が暴発した。ものすごい環境破壊だと思うのだけれど日本の世論は関心が薄かった。例えばCO2の関係と海底油田の漏れとどちらが環境破壊度が高いかというアセスメントは学者が行っていると思う。さらに放射線をばら撒く原発という問題が浮上した。しかし市民は冷淡で、原発>CO2>海底油田 であったように思う。それこそ「見えるか見えないか」なのだ。

 

ということは市民は「見えること」はみえているからこそ被害が自分のところまで来ないことが見えているから軽視して、見えない危険には見えないから不安というフィルターで濃縮しているということだ。

 

原発問題を経済的な問題として処理しようとするとしっぺ返しが来るのは必然だと思う。

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分配という利権

ネタです。

僕の職場は2フロアーになっていて、僕は受付側の住民。来客の少なくない人が手土産を持ってくる。担当の人が分配の面倒さに手に余ると受付(庶務)に分配を委託する。

例えば1階に10人、2階に20人の住民が居ると仮定しよう。来客が5ピースの手土産を持ってきたらグループで消費すればいい。30ピースのブツを持ってきたら全員に配分すればいい。10ピースの手土産だったら?

それはもちろん内緒で1階住民で消費される。20ピースだったら?1階で10ピースを配り、2階で「自由配分(お好みでおとりください)」って感じか。
配分というお仕事は身内を優先して、その後平等を装うというシステムだということだ。ここまでは納得されたであろうか。

一般の会社でもこのような不正は原理的に存在してる。市民活動家が政治家に清廉潔白を求める暇があれば、出納は公表されているのだからそこを洗えばいい。というかこの点を不正と呼べるかどうか、しかしこういう点の延長上に不正が存在するのは事実だとも思う。

ということは政治家が予算を決め、配分を決めるということは多少の身内贔屓がゼロではないという事実だ。だからこそ政府(自治体)の支出先は明確でなければならない。

 

このロジックはまさに分配の利権を目の当たりにしたので、、、受付嬢(差別的な表現ですいません、他に思いつかなかったものですから)は多大な権力者であるという理解に至る。あのニコニコした美人マダムが悪の権化とは。そういえば美人だけに用もないのに話しかけられて喜んでいる御仁が多い気がする、利権の限度を探っているのであろう。


(あの例えです。実在する人物を想定して描きましたが、利権を分配する人は言い逃れが出来る理由と誤差があるということです)

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海洋汚染と放射線汚染のどちらが許せるか

昨今話題であったCO2問題は、電力業界というよりは輸送(自動車・トラック)がガソリン(または軽油)を使うという問題であった。石油採掘期限は30年前からずっと40年で、原油価格や採掘技術が上がれば採掘可能な油田は増えている。新興国が爆発的に石油消費量を増やしているけれど、それ以上に技術が追いついている。結果は採掘年限が変わらない。そして増えている油田の多くが海底油田である。

原始地球の気温はそれは高かったらしい。そんななかで海の珪藻類が大気のCO2を地中に固化した結果が石油だの天然ガスだのである。それを掘り返して燃やせば原始地球の大気に戻る方向で、温暖化係数が高いCO2が増えると地球温暖化が進む。そのスピードはともかく原理はそうだ。

つい数年前先進国はその温暖化のスピードを緩めることを決定した、京都議定書である。このコアは「遅らせる」という点にあり、極論すれば問題の先送りである。

近い将来先進国が車を低燃費で動かす努力目標が出来たが、新興国に対するリーダーというべき存在で、化石資源を輸送・移動に使用してもいいかという問いには答えていない。CO2問題は理念でいえば非常にやっかいな問題であるのだ。

 

Fukushimaはそこを吹き飛ばした。地震と津波のダブルを想定しなくてはいけない日本とそうでない国では温度差があるであろうが、とにかく日本はやらかした。原発が民間企業に任せてもいいかという問題もあるし、問題が起きたときにどうすればいいのかという多大な問題を提起した。日本の場合、原発は発電コストが安いといわれていたが電源三法や揚水発電を組み入れると高コストという試算もでてきた(ソース失念)。

 

一方で油田の海洋汚染も結構酷い。昨年のカリブ海の事故は記憶に新しいけれど「原子力でなければ安心」というわけにはいかない。

環境屋にも立場がいろいろとあるだろうけれど、「自分の居住区が安全であればいい」という立場もあるであろうし、いや「地球全体で環境を考えるべき」という立場もあろう。そういう意味では地震大国日本では原発離脱を勧告して、他国では原発推進するという合理的な世論はあっていいと思う。しかし環境屋というのは科学的な立場よりも感情を前提とした輩が多いためそこまで高度な意見を構築できない。

 

ということは環境問題は○か×かの問題に帰着してしまう。ドイツ・イタリアの地震や津波の危険性を僕はよく知らないのだけれど、そういう知識は反映されない。ドイツもイタリアも原発の危険性をフランスに外注する旨を採択した。(原発離脱ではない、あくまでアウトソースだという点に注意)

 

本来であれば学者がまとめた意見を政治家が実行に移せばいいのだけれど、市民運動というか選挙の票で左右される。

個人的な意見では海洋汚染も放射線汚染もどっちもどっちだと思われ、だからこそより安全な原子力に邁進してもらいたいなと思います。今までは安全性に対する緊迫度が「対外説明」だけに費やされていたことが暴露されたということで。安全に対してなにもしてこなかったことが暴露されました。そりゃそうですね、ありもしない「絶対安全」を約束させられたのですから。絶対安全であれば改良は効率(コストダウン)の方にしか行きません。

 

人類はFukushimaをきっかけに温暖化加速を選択したようです。また海底油田の依存度が高まることは必須です。

 

要は海が汚れるか、住んでいる地域が汚れるかの選択で、技術が多少の判断ソースとなるでしょうけれど、あくまで「多少」ということでしょう。でしたらまぁ海ですね。漁業関係者涙。

 

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誰がするかというより何をするか~菅総理心情を忖度してみる

菅総理は辞めるべきという民放の論調であるが、「何故菅総理が辞める必要があるか」が僕には分からない。党内の人気が無い、野党が対応してくれない。どれも好き嫌いの範疇だと僕は感じている。そういう目(菅総理がどういう失点をしたか)で見ると、いよいよ訳が分からない。
ちなみに私は菅氏の左翼特有の市民運動由来と思われる強権的な手法は好ましく思っていない。個人的には官僚を使わないと宣言した時点で、自分を万能と帰する旧中国王朝の皇帝のようである。

政治の機微を理解できない、といって万能でないことは当然で、本人が万能だと思っていることには、政府の機能として問題を抱えているであろう。

 

でだ、だからといって谷垣氏の「お前には協力できない」という宣言もどうかと思う。歴史的には未熟の安倍氏、党内調整不確かな福田氏、選挙の顔としての党の期待を裏切って選挙時期を間違えた麻生氏。そういう歴史を有している自民党は似たようなもんだ。そして谷垣氏は菅総理に総選挙をできないことを理解していて総辞職を迫った。最悪だろ。

自民党は選挙の時期を見越して総理に辞任を求めるのはお家芸であろう。しかし、そのお家芸に震災を利用した。クズだと思われても仕方がないであろう。

 

閑話休題。
菅氏が政権の延命を画策しているという報道が多く、与党が菅総理の辞任を求めているとのことであるが、菅総理はロジックとしては全く理解できないであろう。というか民主党のいいかげんさに辟易しているのではないか。辞任を推奨する幹部の誰もが何が問題であったのかということに論理的に説明できないであろう。本人が悩んでいない事象に、悩む事象を側近が奏上して、さぁ腹を切れと言われても切る腹はないであろう。

腹を切るならクーデターを失敗した小沢氏であり、恥をかいたというよりは支持率を落とした谷垣氏であろう。だから菅氏はその機微は理解する必要は無い。

 

というよりは菅総理に辞任を進言した幹部を公表して「クーデター幹部」をレッテル貼りしてもいいんじゃない。どうも民主党は派閥を拒否したことで幹部が強権的で、票を獲得するに当たっては理念的ではないし、なんか面倒くさい感じがする。

 

結論じみたもの。

政治家という人種を許容するのか、しないのか。田中角栄氏は国土の均等成長のきっかけを作ったと思う、しかし成長はそれぞれの地域の問題であり、税金の投入は分からないけれど。ある一定以上発展した日本は国会議員が利益供与を行う時代は終わったと思う。選挙制度よりも、国会議員が利権に口を出すことを止めさえすればいろいろと変わる。

極論すれば「利権」は何時何所にでも存在するであろう。しかしそれは議員や公務員でなくてもいいと思う。ということは国土開発に税金を遣う必要がないし、その分配人である役人は削減できる。

 

PS:公務員の人には不快なエントリーだと思います。しかしそこまで単純化した議論が成立しているとは思いません。ネタということで。

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菅総理の人望について

どうも菅総理はとてつもなく人気が無いらしい。具体的な失点は無くても。まぁそういう事例はちょい過去にもたくさんある、福田氏とか麻生氏とか。

福田氏は与党調整に失敗して、支持率が落ちて選挙の顔で無いという烙印であった。この過程も論理的に正しいか分からないけれども、選挙の顔に麻生氏が抜擢された。麻生氏もリーマンショックという危機を受け止めてしまった。選挙の顔であるはずが1年続けて、その仕事ぶりには納得がいったが案の定選挙に負けた。与えられた仕事をしなかったという点では最悪であろう。

小泉氏引退のあとの福田氏はねじれで不幸であった。

 

閑話休題。与党総裁の権限というのはどういった種類のモノであろう?党総裁=総理が理不尽な政策を推進しようとしたらそれを抑えるのが党の良心であろう。しかし自民党も民主党も党総裁の言うことに全面的に従うことは無い。それは当たり前だと思うんだけど、両党の政治家はそれを根本として理解してなくて、まぁ票の売買だとおもっているらしい。特に民主党は政策と政権を別途に見たいらしい清潔感が逆に「永田メール」を創造した。清潔感とは闘い慣れていないという意味で、経験不足=馬鹿ということ。

 

話をさらに脱線させる。マスコミは事実を垂れ流すことだ。事実はどうでもいいし、その事実は誰も評価できない。不安も結構、放射線も結構だ。不安で旦那と離婚して非難するのも結構だ。

 

話を元に戻す。「菅氏だから遅れた」という論評が多い気がする、そこが全く理解できない。繰り返すが私は菅氏にシンパシがないので、というよりあの独善的な態度はどちらかというと好きではない。もっとも鳩・菅・小沢では菅氏を好む。

 

与党が同調した不信任案が出たわけだ。どれほどのことかと思う。友達になりたくない人物なのかしら。

それでも総理退陣論は論理ではないと理解している。ゲンバサンには期待していたんだけど、さらに自民・公明・みんな・は政局に乗っかった。

あーあ、次は共産党か。

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エレベータや電車の扉で通せんぼをする人

標題の件、目的階・駅で一番に降りたいのか、もう乗せたくないのかよく分からないんだけどすごく邪魔。エレベータでは奥に詰めるまで根気良く待っていてやろうとか、電車であれば引き摺り下ろすか体当たりしたい気分になる。今度試してみようかな。

エレベータで延々譲のを待つとか、邪魔な扉付近占拠のおばさんの足を引っ掛けて上から踏んづけてやろうかとも思う。

 

と感じると、マナーって大事だと思う。いざ自分が困ったときに周りの信任を得ることが大事だったり。例えばなんだけど痴漢冤罪はこの手の輩だから周りの協力を得られなかったとか妄想が想起される。

 

昔は若者の専売特許であった、ヘッドフォンの音漏れも今やおっさんの専売特許になりつつある。「うるさい」と注意した方がいいのか、やり過ごすのがいいのか悩むところだ。まぁ僕がそもそも面倒くさい対象なので一般的でないことは認めるんだけど。

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スレンダーさんを応援する

女性誌売り上げナンバーワンはなんとセブンティーンらしい。ちなみに職場で購入していて熱心ではないが読者である。

ふと気がつくとセブンティーン出身の有名人が多いのに気付いた、というより女性誌出身のモデルは僕の好みであるスレンダーさんが多い。(ということもあって会社でとっている女性誌を斜め読みしている)

ちなみに現在のセブンティーンではドラマアスコーの武井咲、いまどきムスメの北山詩織・岡本杏里・OBの佐藤ありさ。ペプシの桐谷美鈴、映画告白の橋本愛、ミスタードーナツ剛力彩芽、大御所栄倉奈々。歴代で言えばもうすごいことになってます。北川景子に田中美保、古くは吉川ひなの、長谷川京子とそうそうたるメンバーです。

という事をここ1年くらい気付いてチェックするようになったわけですよ。今瞬間の一押しが追い鰹のCMいまドキムスメの北山詩織さんです。

 

女性誌出身のモデルは男好きな感じが無いですよね、痩せ過ぎている場合が多いですし。件のセブンティーンはまさにそうでトップモデルの桐谷美鈴さんはスレンダー好きの僕ですらちょっとやせすぎだなぁと思います。

でもMoreあたりになるとばらついてきます。加藤夏希とか(AKBの)篠田麻里子とか居ます。まぁMoreも職場に置いてあって、ほぼ全員ホットパンツというバラエティの無い格好で辟易するのですが。

 

 

というより黒髪・ぽっちゃりだらけのAKBの中で篠田さんはMoreモデル、板野さんはカリスマギャルを目指している異色の存在なのでしょう。スレンダー好きはグラビアはアレなので、お目当ては女性誌から探しましょう。

 

6/22追記 大政絢さんもなんですね、気がつかなかった。雑誌だとわりと化粧が同じなので埋没するんですよね。ああいう顔好きなんだよね。

 

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【要望】電車でのアナウンス

朝夕の通勤電車がうっとうしくなってきた。デブが半袖でひっついてくる。

 

まぁそれは仕方がないとして、窓の開け閉めのコントロールを車掌さんが出来ないものであろうか。あともう一つ、窓を開けた際には、開けた人が閉めるということの徹底。

そもそも電車の「車内が暑ければ窓を開けろ」というのはその通りなんだけど、エアコンをかけているのかといった情報も合わせてくれるといいなぁと思う。軽くエアコンをかけつつ窓を開けた方が涼しいのかは良く分からないけれど。

あと「車内が暑ければ窓を開けてください」というアナウンスには「窓を開けた人が責任を持って窓を閉めてください」というアナウンスを続けて欲しい。明らかに窓を閉めた方がいいのに窓が開いている場合が多い。

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イデオロギで原発を語る人

イデオロギを前提として議論を語るのは、「相手を説得してやろう」ということが主眼で、それは議論でないと思う。言い負かし合いというべき仕合だと思う。
多分、そしてお互いが論理の脆弱性を指摘されても自分は認めなければいいだけで、ゲームや議論は成り立たない。それは審判の居ない口げんかということだ。

僕は説得されることが多い性格を有していて、要は相手の論理を聞いてしまう。「あぁ負けだな」と思えば素直に相手の主張を認めるし、議論は勝ち負けではないと思っている。

しかし、負けないための議論は不毛で、論点をずらしたり相手の失点を突いたりする。それは討論技術の世界であり、本質的な議論は望めない。相手の論理が正しければそれを認めるという姿勢がなければそもそも議論は成立しない。だから日曜朝のTVの討論会は見ない、くだらないからだ。

 

閑話休題。不幸にも僕は機械屋で理念と一番遠いところで大学教育を受け、企業でも技術開発をメインに担当していて、理念や理論よりは事実の方が大事であった。事実から理論補強を再構築するという脳内構造を建築してしまったわけだ。だから事実を無視した(事実不鮮明な)理念・理論がこうだからという論理は全く受け付けない。

例えば「コラーゲンを食したら肌がぷりぷりになる」ということを調べたことがある。コラーゲンは分子量が大きいたんぱく質で、消化器はたんぱく質を吸収することが出来ない、せいぜいペプチド(アミノ酸2個程度)か。コラーゲンを構成するのはグリシンというアミノ酸で、これは体内で創生出来る。なのでグリシンを創生できる元素を食しておけば済む話で、コラーゲンを食する意味は余りない。しいて言えばコラーゲンを組成する元素を摂るのであればコラーゲンを食するのがまちがいないというところか、だがそれはコラーゲンである必要性は全くない。

 

一つだけ間違い無い事実。結論ありきの議論は不毛だ。どんだけ不利な事実があってもお互いに認めないであろう。それは知性的な政治論争に不向きである。イデオロギで政治動向が変わるのはアルカイダとかと次元が同じであることを理解したほうがいい。

 

そう考えると日本人は原発を冷静に考えられない確率が高いように思う。推進派も否定派もイデオロギで論じているから、議論で収拾しない。さらに悪いのは私のようなちょっと距離を置いた人は積極的に意見を言わないので無視される。これならサイコロに頼んだ方がいいのかもしれない。

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食が理念的になるのは置いておいて、なぜかくもステレオタイプなのか

僕は食い物は美味いものが好きで、安全は割りと軽視している。フーズフォーラス社の食中毒事件があっても、衛生的な店では肉塊を削ぎ切りし、器具はアルコールで消毒しているのを見ると、俄然食べたくなる。
牛は流通過程が複雑で、馬肉は流通が一貫的で生食用が存在したとかあらたな知識が増えた。
焼き牡蠣の焼きが不十分で当たったことがあるのだけれど、その2週間後には生牡蠣を食していた。まぁ勉強しないというか馬鹿だね。

東南アジアでのカットフルーツや生野菜も割りと平気。基本カットフルーツはホテルでしか食さないけれど、初ドリアンは屋台だった。屋台で麺を食したときの薬味(ネギ・パクチ)は生だし。

 

そんな中で私は無農薬や有機野菜にあまり価値を認めない。論理的に美味いかどうかに関係ないからだ。無農薬や有機は手間がかかるのでその手間分だけ美味しい可能性はあるけれど、農薬使用が前提の美味い改良品種は食せないし、虫が食って苦味成分とか生成している可能性もあるわけで。美味い野菜や果実に有機・無農薬は関係ないと思う。もちろん慣行農法で不味いものもあるであろうし、有機・無農薬で美味いものもあると思う。関係ないといいたいだけだ。さらにいい加減な有機だと発酵未熟の大腸菌たっぷりの糞尿がかかっている可能性というリスクもある。

 

標題の件であるが、この「食」を理念・道徳・倫理と捉えたい人は本当にステレオタイプだと思う。キーワードは無農薬・有機・地産地消・非GM、あとは食料自給率。もちろんそういうブランド化を推進した人は偉いと思う、付加価値を醸成したわけだから。僕が疑問なのは何故ステレオタイプなのかということだ。その発展系が「ホメオパシ」などの現代技術否定派であろう。

これは僕の勝手な想像であるが、昭和一桁~団塊が左翼にかぶれたことと関係が深いのではないかと思う。青い理想論が「非武装」や「社会主義」に発展し、徹底した論理主義で論理のためなら現実は無視できるという過激な原理主義だ。それは自民党政治に敗れるわけであるが「人権」「公害」「環境破壊」に飛び火した。原爆・終戦直後の不作・公害などがある一定のグループを形成したのではないかと思われる。

本来ならば環境問題も軍事問題も人権問題も複数の解決法や提案があって然るべきであり、現在では技術的に済んでしまったものもある。それが永遠と一つしかなく綿々と続いていて繰り返される。不自然極まりない。

この問題がステレオタイプなのは実は彼らがあまりに複雑な論理をこなす事ができず、思考停止して、彼らは指導者の言葉を丸呑みしているのではないかと思っている。原理主義というのはぱっと見美しく、そりゃ複雑な現実を原理で切っていければかっこいい。しかし現実はそうでないというのが政治の世界なわけで。そこを疑いもせずに信奉するのはちょっとうらやましい。

20年前まではインターネットは一般的でなく、学術書は高くて買えず、図書館で閲覧・コピーするのがせいぜいであった。それが今では役所広報と図書館が自室にあるのと割と等価で勉強しようと思えばできる、けどしない。当然であるが老人はインターネットを使いこなさないのでコミュニティの大本営発表を信じるという、なんか皮肉にならない状況になっているのだと想像する。

 

この状況は商売的には美味しいらしく、コラーゲンとかグルコサミンとか健康食品が跋扈するのは必然であろう。識者や権威が「有用だ」と言えば、背景を考えずに走る。コラーゲンみたいな分子量がでかいものが胃からそのものを吸収できるわけないだろと小言を言いたくなる。

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クールビズ実践編

日曜日に近所のアウトレットパークに行ったらバーゲンをやっていてついつい無駄遣いしてしまいました。

とはいえボーナスで夏物のスーツを買おうと思っていたのです。ところがクールビズの影響もあって、黒(ほんとは茶が良かったけど無かった)のウール・シルクの薄手のジャケットを購入してしまいました。合わせるパンツが無かったので細かい柄のグレンチェックの超薄手のウールパンツも購入、ついでにシャツで都合2万円の散財。スーツを買っていればこれでは済まなかったのでまぁいいか。あとはベージュの綿か麻のパンツを買えばバリエーションが広がりそうだ。マリンテイストがあるので(着る気にはならないけれど)カジュアルでも着れそう。

スーツは楽でそれなりにスタイリッシュでいいんだけど、偏りがちなスタイルに風穴を開けたということで少しずつバリエーションを広げたいかな。まぁその分別の投資も求められるのであるが、飴色のウイングチップとか、あとベルトもたくさんは持ってないし。

あとカチコチのYシャツだけれど、メッシュが半袖Tシャツに形状で裏地に形成されているブツを購入した。下着が要らないそうだ。今日は涼しかったのでまだ未着だけれどどうなんだろう。あと化繊のYシャツも(都合3着、買いすぎでしょ)。今までは綿のYシャツが多かったので、涼しい系の化繊やリネンのシャツを増やしたい。

ちなみに僕は1週間に5枚のシャツを消費してクリーニング、次の週は別の5枚を、計10枚制を敷いている。さらにスーツでの出社を要求されていないのであるがスーツが楽である点と、電車で他人と肌接触をしたくないという理由から夏でも上着を着ている。どうせ上着を着るならということでスーツを着用している。別におしゃれなジャケットでもいいんだけど今回冒険してみるに至った。
シャツの予備があるので無駄な遊びというか、減価償却が終わるシャツもあるので1点2点の失敗は許される。
その上で、ビジネス感を阻害せずに安いおしゃれのチャンスかと思うわけだ。

 

カッコイイおっさんを見つけるとそれをまねしようと思うのだけれど、僕のワードローフと相談しないといけないのでなかなか上手くはいかない。

何が言いたいかというと、スーツ主義だったのだけれどジャケット+パンツの冒険をすることにしたということに過ぎない。

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