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ボーナスの季節が近づきました。

平成18年度の決算も出揃い、ボーナスの支給額の交渉に入る季節となりました。

ところで、ボーナスの支給額は例年、「何か月分なのか?」、「何百万円なのか?」が話題ですがそもそもその適正額はいくらなのでしょうか。

簡単に考えると優先的配分先として、借入金の返済、経常利益を投資家への配当、設備投資及び内部留保、会社員への賞与となりそうです。では借入金返済と設備投資はある絶対額が必要なはずですから経常利益を除いた額は2分すればよいのでしょうか?投資家への配分が投資効率5%を従業員に100万円程度のボーナスを最低限の取り分として、その残りを投資家と従業員で分配する事となります。

例えば資本金100億円、従業員100人の会社が経常利益8億円稼いだ場合を考えましょう。(税、設備投資などを引いた額と仮定します)

資本回収額を5%とすると投資家への配分は5億円です。従業員への最低限のボーナスとして1億円(@100万円)、残りの2億円を投資家と従業員とで折半した場合、投資家はさらに1億円、従業員に1億円です。投資家には1%の増配、従業員一人当たりのボーナスは200万円です。

私は管理職でなければ労働組合幹部でもないのでどういう経緯でボーナスの額が決まるのかさっぱり判らないのですが上記のような説明に出会った事がありません。利益額も利益率も違う業界横並びで勝った負けたと言っています。ただ上記の説明はあくまで一例で間違っていたり、足りない部分があるかと思います。バランスシートやキャッシュフローを社員に叩き込むなら労働分配率にも言及して欲しいというのが趣旨です。

経営者は経常利益がいくらになったらボーナスがいくらになるのか、または資本金や社員などのリソースに対する経常利益率がいくらになれば給料の水準がどう変わるのかをオープンにすべきでしょう。経常利益率が良い会社を目指していますが、その結果労働分配率がどうなるのかを明らかにしていく必要があると思います。

いままで労働組合ってなんのためにあったのかさっぱりわからん。某公共交通機関のように給料がものすごく高いという成功例があるのはわかりますが(その会社が良いかどうかはまた別の話ですが)。

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地方自治

長崎市長選は元市長グループ(娘婿・横尾氏)が勝てなかったようです。ニュースで断片的にしか見ていないのですが「率直に言わせてください。長崎の皆さま、父、伊藤一長はその程度の存在でしたか!残念です」さらに「伊藤一長が浮かばれないと思います。父の愛する長崎で、父がこのような仕打ちを受けるとは思いませんでした!」といった御息女の発言がありましたが、世襲を是とすることを当然という反応、行政手腕に対する疑問に市民はNoを突きつけたようです。各新聞社はあの事件をテロリズムという論調しましたが、動機がはっきりしないテロリズムというのは違和感がありましたが市民は感情に流されずに判断したと言えそうです(横尾氏では市長に相応しくないという意味ではありません)。

閑話休題

高知県東洋町では原発ゴミ反対派が当選したようです。前町長が「核廃棄物は科学的に安全」という国の言い分を受け入れて(危険かもしれないが現時点で問題はない)、補助金が必要だという主張は受け入れられなかったようです。

過疎の地域では人口密度が薄く、行政サービスの効率が悪くなります。補助金をもらって行政サービスを維持するという選択肢よりも、健全な行政サービスを町民が選択したというべきでしょう。もちろん「健全」とは高コストを町民が負担するという意味です。人口密度の低い自治体が人口密度の高い自治体に対して高コスト体質なのは必然で、さらにマスがなければ絶対高価な設備は期待できず、県に頼る構図は当然の帰結でしょう。

実はこのような現象は都会(?)でも起こっています。相模原市は近隣4自治体と合併し政令指定都市を目指していますが紆余曲折がありました。まずある自治体からは相模原市の借金体質が嫌われ一時合併協議会から離脱問題が起きました。またある自治体は相模原市ではなく経済的に関係のある八王子市との越境合併を望みました(八王子市の方から拒否されました)。では相模原市は何が何でも4自治体と合併したかったのでしょうか?

実は合併する事により政令指定都市への道が開けると同時に、過疎地域との合併は高コストである事が議論されました。近隣4自治体のレベルは違いますが面積が増えるほど人口が増えず、相模原市の標準行政サービスを広範囲に行うことがかなり高コストだったからです。ところが近隣4自治体は相模原市に請われて合併したというスタンスですから行政サービスは上がることがあっても落ちることはないというスタンスです。前述のように相模原市は借金が多いため、財政改革が必要といわれているのですが政令指定都市という目標があるせいか、被合併地域の要求を飲んでいるようです。私としては身の丈にあった市政を期待していたのですが。

ユニバーサルサービスとは全国一律のサービスを受けられるという精神のようですがその受益負担が一律であれば経済的になりたちません。ユニバーサルサービス自体を否定する気はありませんがその受益負担は文字通りに近いことが望まれます。地方切捨てではなく、ある程度の行政サービスを期待するのであれば、ある程度の人口密度になるように調整する必要があるのではないでしょうか。

これから労働人口が少なくなるという時代であればなおさら行政サービスのコスト意識(効率)が重要になると思います、重要であって欲しいです。

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無所属って何者?

統一地方選挙、神奈川県相模原市、市長選、市議会議員選では自民党公認の方は居なかった。党員は居てもおかしくないが党公認はいない。国政の与党が首長選にも議会選にも候補を送らないのは異常事態ではないであろうか。

無党派というジャンルが世の中にあるらしい。国政選挙で無所属は役に立たない、もしくは禊(みそぎ)が済んだ後、出身母体へと復党する。無党派層とは本来、支持政党が特になく、そのときの政策で候補者に投票するという意味で、無所属に投票するといういみではない。

それが地方選においては政党政治が機能していないように見えて非常にわかりづらい。無所属でも会派を形成しているし、実際は政党政治が行われているように見える。

なぜこのような事態がおきたのであろうか?知識のない頭で想像するに①自民党はマスコミが無党派層と無所属をごっちゃに宣伝したと理解し、市民には政党政治が悪い印象になっていると思い込んだ。②選挙の争点を明確にしない事で投票率を下げ、地盤が強固な候補者にとって有利になる戦術に出た。

昨今をにぎわしている県知事の汚職は無所属の首長だ。所属母体がはっきりしていれば首長といえどもチェックが入りやすい。議会との連携がへたくそで身内の企業優遇を地元還元と言い、議会もチェックをなかなか入れられないのが無所属のような気がする。

昨今は政党政治を無視している。これでは官製談合もなくならなければ、長期ビジョンもないであろう。政党の基本主張をそのまま地方自治体でも行われるのがわかりやすい。仮にある争点だけがクローズアップされたときでもその争点だけで首長を決めるわけではないであろうに。やはりバックボーンとしての党派は明確にしていただきたいものだ。その点、民主党と共産党は理解しやすい。

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通勤定期で得する人

通勤定期券更新の時期が来た。

今年から定期券は購入証明のため、購入した定期券をコピーの提出と、更新前の定期券のコピーの提出が義務付けられた。なんのためにこんなことをするのかさっぱり判らない。

私の職場は最寄り駅(徒歩5分)とは別の路線の駅(徒歩15分)があり、別の路線の駅を通過する人でも、最寄り駅での定期券を購入する事が認められている。これらの人は遠い駅までの定期券を購入し、最寄り駅までの差額をポケットに入れている(ちなみに私はこの恩恵を得られない。)。これは厳密には脱税に相当するであろう。給与所得とみなされても仕方ないからだ。

この制度変更により誰が得をするのか。そう、電鉄会社である。

不正(?)をしていた人は最寄り駅までの定期を購入して使用しないだけなのだ。出張などでは最寄り駅を使用するし、雨の日などに最寄り駅を使用する事もあろう。使わない定期を買っても使用者は損はしない、会社は得も損もしない。通勤経路を変更が伴わないからだ。

なぜ、会社はこんな馬鹿馬鹿しいことを決めたのであろう。会社の事務量は増え、会社は金銭的な得をせず、社員の可処分所得が減る。ただ電鉄会社が儲かるだけ。馬鹿人事の胸中を想像すると「不正により儲けるのはまかりならん」というスケベ根性のみであり、会社の全体の利益よりも自分の感情を優先させたということであろう。はっきり言って大馬鹿だ。

じつは、過去にこんな事もあった。駅から遠い事業所に通うためバスを使う権利があった。当然バスの使用を申請するのだが、バスカードを買い、健康のために駅から歩いていた。人事からバスを使わないのに申請するのは不当だというクレームが来た。実は雨の日や二日酔いの日などはバスを使用していたし、その人事担当者も判っていた。彼は頭のいい方法を思いついた。バスカードの現物支給である。他の利用をすると厳密にはばれるのではあるが細かく言わなかった。そのため会社はかなりの額を節約できたであろう。ところがこれは裏金になった。給与明細には現物支給としてバスカードが毎月渡されている事になっていたのだ。はっきり言って脱税で裏金作りだ。もらってもいないものが給与明細に記載されているのであるから。

結局、交通費は努力をしたお父さんにあげるのが健全であると思うがどうであろうか。

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経済学と科学と工学

どうも環境問題は難しい。容リ法はゴミ処理方法を対象にした法律に対して、京都議定書は温暖化を意識したものだ。両者はひとくくりにすれば環境なのであろうが精神は全く違う。

温暖化議論はIPCCの報告書でひとまず人為的な影響で温暖化が進むということで決着したように見える。これは科学的事実ということにしよう。温暖化を止めるには温暖化ガスの排出を極力なくす以外なく、そのためには化石燃料を使用する限り理論的には「温暖化先送り」という結論が導き出せる。

しかし経済学者は「温暖化ガス排出規制を行ってもそれは費用効果として見合わないではないかというグループが居る。ロンボルグ氏一派である。池田氏はその急先鋒であるが「経済的に無駄である、その余った金を途上国の発展に遣えばいい」という意見だ。

それに対して、科学者安井氏久野氏(官僚出身なので科学者ではないかも)は池田氏の脇の甘さ(本心?)を突き、「科学を否定している」と筋の違う反論をしている。池田氏の主張のキモは「経済的に割が合うか」であり、科学的事実とは無関係だ。池田氏はIPCCの科学的主張に対して眉唾らしいがそれを受け入れた上で論じているので整合性に矛盾はない。

私事ではあるが工学部機械工学科出身で大学に入ったとき先生から「いかに安く物を作るかが工学部の本質」だと教わった。実際、現在企業の研究所で働き、開発をやっているが、コストと機能と品質と納期が重要課題で特にコストだ。その工学部出身としては池田氏の意見は「なるほどな」と思えるのであるが科学屋には通じないらしい(というか判っていて反論していると思うけど)。

しかし、IPCCレポートは以前のエントリーで触れたように、政策的な部分がかなり色濃い。それに対して科学者は無視、経済学者は「政策的過ぎる」と批判的な模様。

以前にも触れたように、IPCCレポートは「発展途上国がどのような発展をとげるか」によるシナリオを用意してあって、途上国が発展しないと最悪のシナリオになるよって言っている。そう、ロンボルグ派の言い分を認めているのである。限りある資源・金を何に使うのかが政治であれば極めて示唆的である。

前回のエントリーではIPCCとロンボルグ派は矛盾しないと論じたが、科学者も工学的見地で物を考えたらどうであろうか。

地球の環境が変わっても人類にとって対策を打てればそれで良いのではないかという極端な意見もある。氷河やペンギンやサバンナ(自然の多様性)が途上国の人々の命よりも重いとか、石油はもう一切使わせないとは聞かない、科学者はそこを逃げているので尊い意見のように聞こえるが空虚に見える。

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歩くとき腕を振って歩く人

通勤の駅で腕を大きく振って歩く人が多い。男性が多いかな。

あれ、邪魔!!!ぶつかっても謝る人は皆無。混んでいる駅で腕をブンブン振り回すのはおかしい。特に傘を持っている人は凶器を振り回している。で、本人は自覚がない、さすがにぶつかると謝る人が多いが謝ればいいってもんじゃない。*1

ところで、この原因は小学校教育にあるのではないであろうか。昭和50年代の小学校教育はひどかった。運動会の行進で「腕を振りなさい」と教わる。道では腕を振らないようにとは教わらなかった。その名残が腕ブンブンオヤジだ。これを公害と呼ぶのであればその原因は学校教育である。TPOに合った歩き方を教育しようよ。登山や競歩では腕を振るのが合理的であろう。しかし、街中で腕を振って歩くのは迷惑行為だ。傘を振り回すなんて論外。

他にも学校教育が交通システムを破壊している事例がある。「歩行者は右、車は左」だ。当時は交通戦争などと呼ばれ交通事故死者が1万人を超えていた。その対策としてのスローガンだ。しかし、日本の交通システムは左側通行であり、「歩行者は右」は特例だ。その当時は車のモラルが低かったので歩行者は身を自分で守る必要があった。現在は追い越す側が安全を確認して追い越すという原則が認知されているので歩行者は左側を歩き、追い抜かす自転車、クルマが安全を保証することになっている。また(徹底されていないが)走行レーンは左側で右側が追い越しレーンだ、であるから歩行者もその原則に従えば携帯メール打ちながらボヤボヤ歩くのは最左側を歩けばいい。*2

日本には交通システムとして「~側通行」という大原則がないため、駅や歩道で正面から歩いている人に対してどちら側によけたら良いのか判らない。基本は左側通行なので左であろうけれども、鉄道各社によって原則が統一されていないのでスムーズではない。おまけに駅の構造がその原則により設計されていないから、ある電鉄では右側通行で整合性があるように貫かれているし、またある電鉄では逆ということになる。*3

歩道で自転車と歩行者が正面から遭遇して自転車が左に避け、歩行者が右に避け、事故が起こったらどちらが悪いのであろう?それって国が悪くねぇ。

そろそろ「日本は~側通行」の大原則を決めて、国民に告知した方がいいのではないでしょうか。つーかもうちっと考えろよ。

 

*1 腕を振って歩く若者も居るので最近まで(今も?)そういう教育が行われているのであろう。

*2 日本の高速道路などで走行レーンを走行するという法律に明記されている事が徹底されていない理由はこの大原則が明示されていず、右レーンを自分の都合で走ってもいいと思っているからではないか。そのため、「あおり運転で怖い思いをした」という逆切れというか開き直りが多発しているのではないか。

*3 設の設計は建物の利用効率だけでは決まらない。人の流れを想定して設計するので右側通行派電鉄ではエスカレーターも右側通行になる。だったら電車も右側通行にすれば良いのに。またそういう土壌なので人の流れに無関心な設計者がいる。浜松駅近くのコンコースのようにエスカレーターが互い違いに右側通行になったり左側通行になったりするといった馬鹿げた設計もある。

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音楽会に行きました

音楽教室の音楽会は下手なガキンチョの演奏を延々聞かされるイメージがあったが大人のための時間も用意されていた。ゲストとして音大生がピアノ、バイオリン、ビオラ、チェロ、フルート、声楽を独奏で披露した。4人の女子大生(2人は男)というだけで興奮もの、オヤジの耳(目?)の保養だ。

というと色眼鏡オヤジは疑いの思いを投げかけるのではないでしょうか。これが天使がいたのですよ。その子は山田麻実(この子かないまいち自信ない)さん。この教室の発表会に行くのは2回目だけど、前回高校生のとき上手いなと思った娘が芸大に進んだらしい。ルックスもいいけどバイオリンも絶品。小さいホールの生のバイオリンは最高ですね。前回はギミックなコンクール用の曲だった、今回もコンクール的な曲だったけど上手くなったせいか非常に聞かせてもらった(聞きたくない、聞いてもいい、聞かされるの3段階レベルがあると思うのです)。

あーあ、こういうエリートを身近に思わせて、教室は生産性を上げるのか。ゲストの皆々は単なる客寄せなのに。まぁ久々に音楽を生で聴いたけど聞かせるレベルを聞けてよかった。美人だからそう思ったのかもしれないが。またこうやって音楽教室は生産性を上げているのですね。

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貿易って?

前回の続きです。

長老は「若者の作る道具はなくても生活できる。我々の作る食料が他国に依存し、その供給を止められたら困るではないか!」と主張した。

若者は「今までの我々のノウハウを注ぎ込み新しいシステムを導入する事で、生産性を上げる事ができる。若者のやり方で食料を生産しよう、そうして価格競争力をつけて、不平等貿易を撤廃し、他国に若者が作った物をもっと買ってもらおう。それがみんなの幸せだ!」と主張したが長老は無視した。他国の品質に問題があった事を論い(あげつらい:こんな漢字知らなかった)長老の論理が正しい事を主張した。

 

若者が集まる都市は変貌した。以前を懐かしむ若者は長老の主張する「美しい国」に多少の共感を抱いた。科学技術がその程度であったならば合理的であった社会を「美しい国」と定義する運動があった。おかげで長老は当時の科学水準では合理的であった風景を神格化することを画策し、文化とごまかすことができた。あくまでイメージ戦略なのでどの時代の科学技術として合理的であったかということについては全く議論されなかった。

「他国」という存在がクローズアップされ他国同士で真っ当な貿易が始まった。他国同士の貿易は長老をはじめコミュニティの問題点となった。若者が売っていた製品が他国に取って代わったこともあった。若者が他国から材料を買って加工し、製品を他国に売るという戦略を推し進めていた、長老もそれを歓迎していたにも関わらずいざ食糧問題では貿易はまかりならんというため、若者は売り先を制限されてしまう。

長老でもある程度の生産性向上が図られた。そのおかげで自国で消費できる以上の米を生産してしまった。本来余れば他国に売ればいいのだがコストが高く売れる代物でなかったのである。そのため長老に金を払ってサボタージュをさせた。働かないかわりに金をもらえるのだ。当然生産性が著しく低い物を長老は作っていたがさらにコストも上昇した。若者に高い米を売りつけてある程度豊かな生活を送っているのだが、いざ自分の生産性の低さを指摘されるとヒステリックに受け入れようとはしなかった。

長老コミュニティでは若者が参入する事を拒み、他国から食料を調達する事も拒んだ。あとは長老は声高に叫ぶ。「食料を売ってもらえなくなったら我々は餓死する」と。

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貿易とは

原始生活において人間はコミュニティ内で全ての物を生産しなくてはならなかった。自分が必要なものは全て得て不得手に関わらず生産した。次第に生産が得意なものを自分の消費する以上に生産し、自分が生産するのは不得手なものを他者と交換するようになった。

「金(Gold)の価値」が発明されて、「貨幣・価値・値段」という概念ができた。そのため自分の得意なものを作り、それを売って、他の必要物資は購買した方が豊かな生活を送れるようになった。そんなのは当たり前だ。大量生産したほうが効率は上がるし、敢えて不得手なものを作るより、得手を極めた方が生産性が上がる。

前述で敢えて「金の価値」としたが、他のコミュニティーとも金で交換ができるようになった。暖かい地方、海の近く、山の近く、それぞれの得意の物産を売って、不得手の物産は外部調達してきた。貿易の概念である。貨幣の交換レートも決まってきた。

しかし、今までありがたがっていた村の長老が作る米は他所では安く品質のいいものができる事が一部に伝えられた。しかし、長老はその事実を受け入れ、貿易を禁じ、長老の作った物を独占販売した、「美味しいし、安全だし、昔からこのやりかたでやってきた」の一点張りで。たしかに長老の作った米は美味しい。でも米代をケチって違う物を欲しい人も居るが独占販売なので他所ではどの程度の値段で買えるのか知らされていなかったし、他から買っても美味しくないと洗脳されていた。

若手グループは手先が器用なものを集めて役割分担し、製品を大量生産し、隣町に売りに行くと、「我々の名産品である米と交換しよう」と言われ若手グループは困る。そこで貨幣との交換をお願いすると、「米を買わないなら購入の際、ペナルティとして罰金を上乗せする。」と言われた。若手グループは泣く泣くその要求を飲んだ。

若手グループは他のコミュニティーと売り込みの競争を行うのでどんどん生産性が高くなった。しかし長老は安泰を決め込んで生産性向上を行わず、付加価値を追い求めた結果、市場価格と著しい差が生じた。若手グループは生産性向上のノウハウを導入する事を提案したが長老は頑として拒んだ。今までを否定されるのも嫌だったし、新しいシステムに対応できないのは判り切っていたので「今まで」を維持するように長老は主張した。

若手グループは他国に商品を売り、貨幣を得る事ができた。貨幣を持って贅沢をすると団結力が衰え長老を突き上げる事ができなくなった。長老グループは依然貧乏なので結束力は固く、若手グループに人数では圧倒されていてもコミュニティの方針は牛耳る事ができている。

コミュニティの単位が大きくなってきた。以前は他所者と思っていたのが実は同じ言葉を話す「国」であることが判明し、他に国がある事がわかった。

他の国と他の国が貿易をしてお互いの生産性を上げている事実が明らかになった。それに追いつくには貿易上の罰則を撤廃して、お互いに儲けることが大切であることが証明された。

しかし長老は頑なに拒んでいる・・・・・。

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blogはディベートとしてのツール

ディベートの重要性を声高に主張する時代がかつてあった。その当時深夜番組でフジTVがディベートをゲームとして放送していた。決勝戦に至っては同じ論点を賛成・反対を入れ替えて主張しあうという純粋にゲームとしてのディベートであった。しかし面白かったがその後流行るわけでもなく衰退した。政治的な問題を題材とした割にはゲームに徹したという点がわかりづらかったのかもしれない。

日曜朝のTVは論争番組も多いけどいまいち論点が見えにくい。司会者の技量というか収束点が見えてしまい反論を押さえ込みがち。もしくは議論が発散してしまう。活字であれば「誰が馬鹿か」は明白であるが、雑誌対雑誌の議論はあってもなかなかディベートまで発展できなかったような気がする。

雑誌TVなどの旧メディアでは応答性が悪かったり、議論以外のテクニック、例えば主張を封殺する、論理をごまかす・すり替える、主導者が決めている落し所に誘導するなど。議論が見えにくかったし、雑誌などにいたってはその両方に目を通す必要があり世論の形成までは至らない。

現在、blogというツールがそれを担っているのではないか。例えば生産性をめぐる議論(からあれこれやと)もアルファブロガー達が丁々発止行っていたのは記憶に新しいところだ。

私がROMしている池田氏のblogコメント欄では慰安婦問題等で議論、ディベートが行われている。コメント常連さんたちのディベートだ。(表現はともかくとして)池田氏応援側の右派と少数ながら論陣を張る左派。活字で残っているので論理的な整合性、論理の基盤が明確になり、非常に参考になる。池田氏は文章が上手なため読んでしまう(納得してしまう)、しかしその意見に異を唱える人も居て論理トレーニングとしても面白い、さらに池田氏がそれを拒否しないため議論の穴が判りやすい。今後も是非続けて欲しいものだ。

このような現象はJSF氏お玉氏あたりでもあるし、bewaad氏のようにエントリーで論じる方もいる(エントリーだけでなくコメントにも丁寧に返されています)。

blogというツールが意見発信のツールとして評価を得てきましたが(書籍やドラマ化されました)、ディベートが行われている部分で非常に面白いと感じています。昨年あたりからエントリーの娯楽としての秀逸さが注目された訳ですがディベートも取り入れたコンテンツの優秀さに興味をそそる毎日です。

あっ、隊長も好きです。

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禁ガム、禁煙

朝の通勤でガムのカスを踏んだらもう気分は最悪。電車でオヤジが噛んでる、臭いが強烈、頭の中が甘ったるくなる。隣の兄ちゃんは口を開けてガムを噛み「くちゃくちゃ」と下品極まりない音を発生させている。iPod兄ちゃんなどかわいいもんだ。

嫌煙権推進派にとって煙草はこうなんだろうね。煙草は電車の中では吸わないが、臭いはガムの比ではないし、道路に捨ててあるゴミも煙草の方が多い。

また喫煙者の教養の低さにも問題がある。迷惑をかけているという自覚が少ない。税金払ってるんだ、健康など個人の勝手だろは論外として(迷惑をかけてる自覚がない)、外ならいいだろとか、断れば吸ってもいいとか、周りへ被害を撒き散らしている事に対して過小に評価している。

しかし、嫌煙者にも注文がある。弱い犬を追い詰めるなと。ある一定以上年齢の喫煙者全員は止められるものなら止めたいと思っている。「健康に悪いから止めなさい」と言っても全く無駄なのだ。JTの被害者なのだ。

単純に「お前は害悪を撒き散らし、現に私は迷惑している」ということを宣言すればいいのだ。副流煙で寿命が縮まるとか抽象的な事は言わない方がいい。そんな事を言えば「仕事はストレス、道を歩けばクルマに轢かれる。仕事辞めて家に居れば」といわれるのがおちだ。

喫煙者は馬鹿なのだ。止めたくても止められない。この気分は嫌煙者にはわからないであろう。我々も被害者なのだ。寿命を縮め、金をふんだくられ、家とクルマを汚し、周りから煙を吐くゴジラのように思われて。それでも止められない。

「喫煙にもメリットがある」というのは負け犬の遠吠えだ、そんなことわかってやれよ。嫌煙者に必要なのは煙草害理論ではなく、煙草システムの破壊(例えば煙草の広告を一切認めないとか)と喫煙者への愛だ。喫煙者が煙草を吸える場所を用意してあげて、あなた方から隔離すれば良いだけの事。そうすれば皆がハッピーになる。

もう一度。嫌煙者のアホな論理では喫煙者は反感を買って依怙地になるだけ。止めさせるのではなく、分離を行う方が建設的だ。
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イタリア人?

どうでもいい話ですが、
先日、嫁に窓掃除を頼まれた。窓はきれいにしたがさんは拭かず。それに対して嫁は

嫁「それじゃ顔を洗って、お尻を洗わないのと同じだよ」
僕「え? 僕、顔を洗ったあと尻を洗わないのですけど。。。」
嫁「え?」
僕「イタリアか~」
嫁「あはは。」

そう、イタリアには必ずビデがありますよね、何でも法律で決まっているとか。

嫁がイタリア人とは知りませんでした。
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美しい国である必要はないのでは

「美しい国」をよく聞く。日本はそこで生まれ育った人にとってはいい国であろうがそんなにいい国かなぁと思う。マナーも決して良くないし、犯罪も多い。そういった問題へのスローガンが美しい国っていうのはおかしいと思う。

美しい国との対比は美しくない国だ。どこかを想定しているのかは良く判らないが、どこかと比べたら美しい国だというのがぷんぷんしている。そう、ナショナリズムを誘導していると感じられるのだ。ナショナリズムは差別的な発想だ。日本は「美しい」よそは「美しくない」ことになるからだ。

歴史認識にしても正しいかどうか、事実であるかないかを争ったところでなんのメリットもない。国益のために論争を仕掛けるなら別であるが。というより国益をかけて論争を挑まれてるんだろうけど。

それに対する答えが「ナショナリズム」ではどうにもまずいのではないか。「日本人はすばらしい」などと馬鹿な事は言わない方がいい。

というより日本は美しいどころか馬鹿だ。一例を挙げるなら自由貿易を推進しないから。自由貿易を推進すれば皆が幸せになれる。貿易立国が自由貿易を妨げるなんて頭悪すぎ。「美しい水田」を守るため?美しい日本のため?農業の規制緩和を行い、競争力をつけて、自由貿易を推進するのが貿易立国ではないのか。食料自給率?農業は規制産業であるから何時まで経っても良くならない。食料自給率は競争力を磨いた結果で論じたらどうか。だいたい日本農業への安全性の期待はそんな安っぽいもんなのであろうか。

差別を助長して、既存のシステムを保護し、馬鹿である(かもしれない固有の)システムを賛美する「美しい日本」はやめた方がいい。

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音楽家の経済観念

知人からの話。

音大出の人が音楽で飯を食うのは難しいらしい。そりゃぁそうだろう。毎年1,000人以上輩出しているが音楽そのもので食ってけるほど雇用も市場もないのではないか。

東京音大のHPではH19年度は310人募集している、しかし卒業後の事は全く記述がない。卒業進路その他一切不明。

一方、国立音大では音楽系で320人、教員系で130人の募集。こちらはH18.3月の卒業生進路が記載されている。39%が一般企業・団体、23%が教員。残りは音楽教室だ。

音楽教室で生計を立てるのは難しいらしい、というか無理なのだそうだ、大手の音楽教室に勤めても月収が数万円とか。

就職をした知人の知人の話では音大には良家の子女だらけで自分で生活費を稼ぐという概念が薄く、「週5日も仕事をするとピアノに触れないよ」と忠告を受けるらしい。

この話を聞いて面白いなと感じたのは経済観念が薄いというよりもお金より音楽が大事であり、音楽は崇高な概念で、経済観念よりも上位に来ていると思えたことだ。私は音楽は所詮、遊びだと思っているが、彼らにとっては芸術なのであろう。もっとも私の概念では芸術は遊びの一種であるが。

彼らは練習する、よく練習する。それは偉いと思う。しかし、仕事もせずに練習して、経済的に何の寄与もせず、家事のできない言い訳に練習が出てくる。道具のメンテナンス費用も馬鹿にならない。言ってみたら遊び放蕩だ。別に崇高な何かを行っているのではなく遊び呆けているのだ。

マニアが給料を注ぎ込んでいる方が健全だ。結婚されている方でも生計が成り立っているのであればまぁ許せるのではないか。音楽家はたいした給料も稼がない。

彼らは役に立たないことに熱を入れている事を自覚した方が良いと思う。もちろん、止めた方がいいという意味ではない。周りを迷惑に巻き込まないで欲しいという意味だ。

無理だな。ちなみに嫁への愚痴です。

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釣られた~

その手があったか、池田信夫ブログに思いっきり釣られました。

他のブロガーの力作を期待します。

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