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できる人は謝罪できる人、だと思う

標題の件、単なる主観と言うか根拠の無い仮説なんだけど。

個人的なことながら読めは謝罪をしない、謝らない。自分が悪いとは思っていないんだろうなというのは百歩譲って分かるけど、連れに不快な思いをさせたとしても「私が悪くなければ」謝らない。謝って不快な関係をリセットした方が得だと私は思うのだが世の中そうで無いらしい。過去には「wood君は謝るので偉い」と褒められたことすらある。それはどうでもいいけど、相手がある関係においてなんらかしらの行動を協働するには相手に不快の念を与えるのは不利なのだ。自分が悪いかどうかではなく、相手が不快かどうか、その原因が誰にあるかということ。

簡単な例を挙げると電車が遅延して私が待ち合わせに遅れたとしよう。この場合、私には全く責任は無いのであるが、連れは私が来なかったことで不快になる。ここで「電車遅れちゃって」で済ますと連れが不機嫌になる場合もある。遅れたのは電車かもしれないが連れにとっては私が遅れた事実には変わり無いからだ。そして私が謝罪しないことにさらに連れが不機嫌を増幅することもあろう。この時「遅れてゴメン、電車が遅れちゃって」と言えばどれだけ違うか。言い訳野郎と謝罪君の違いだ。ここで連れが不機嫌になるのはおかしいとか、そんなことでは何も変わらないという御仁はこの際ほうっておく。

前置きはこの程度で

「できる」とぼかしているのは仕事を含めた人間関係だけではなく議論なども相当する。仕事での潤滑材もこの謝罪を素直に言えるかで違うような気がする。私個人でもなにかあった(先輩の手を煩わせた)際、素直に「申し訳ない」と言える人のほうが好感が持てる、下手すれば謝罪の出来ない奴は「馬鹿」か「仕事ができない」と判断する。そしてその謝罪は精神的な負担を除けば無料なのだ。そして精神的な負担は前述のように後から「謝罪しない方」が効いて来るので、謝罪はして損はないのだ。もちろん揚げ足取り的に「裁判では謝った方が悪い」という説もあるかもしれないがそんな例は私の生きている限り一度も無い。

これが顧客との関係であれば素直に受け入れられると思うのだがいかがでしょうか。しかし、顧客といえども基本的には対等な契約関係なので顧客に出来る事は全ての関係者・取引先にしても全然損は無い。若い人がプロジェクトを仕切れば、経験したことが無い部署からの突っ込みや、経験豊富な人からの突っ込みも多数あろう。これを主張と相反すること、論理の不備を分けて考え、後者についてはきちんと謝罪しなければプロジェクトは紛糾するであろう。

そもそも論であるが、「謝罪」を屈辱と感じているならそれは誤りだ。謝罪は関係者への精神的なしこりをほぐす行動だから。仮にあなたが関係者・取引先のミスにより不快な念を生じて、謝罪されなかったらどう思うか?また謝罪があればどう思うでしょうか。謝罪をされたから下にみるということは無いと思う。なので謝罪は無料で相手をほぐせるツールなのだ。謝り過ぎるとうざったいけど。

少し話を進めると、blogなどで議論を行うときも論理のズレを指摘されても謝る人をほとんど見ない。なのでお互いが議論の修正を出来ず、違う次元の主張を言い合っているだけで噛み合わない。議論のズレを認める、論理が不備があればそれを認める(=謝罪する)がなければ議論などできないのだ。そして強烈な論理で場を仕切る事は見たことがあっても、がっぷり四つに議論が展開されているのを見たことが無い。

これは「謝罪」=「負け」という一大勘違いと、感情に起因するプライドがそう判断しているのであろう。しかし謝罪の効能は相手が拒絶の感情を持っているとき、議論が出来る状態へ引き戻すツールなのであるから積極的に活用しない手は無い。もう一度言うが「自分が悪い」という観点に立つのではなく「相手が不快になったか」という観点で考えるべきだ。そして身近にそれで失敗した人は掃いて捨てるほどいる。先人の失敗は学んで損は無い。

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