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乾いたサウンドってなんだ

同僚と音楽の80'sの話をしていて気付いたことがある。僕はアメリカンロックのような重厚なエフェクトがかかったアレンジよりも軽く乾いたサウンドが好きだと言うことらしい。

例えばU2のSubdy Bloody Sunday

軽いドラムがいい、ギターが主張しすぎていない。他にはJudyandMarryからBlue Tears

僕はpankって本場モノは好きではないけど日本のパンクは好きだ、
有頂天~心の旅

hello orange sunshine~Judy and Mary

PVがかっこよかったのに見つからなかった。

アメモノだとCarsか、十分に重いけど

あとBeetlesはいい、乾いている。

 

安っぽい・チープというか乾いたサウンドが好きなんだなと感じた。シンセサイザー(死語だよね)が被っていたり早びきとかいらん。先に挙げたミュージシャンも売れると重厚派に変わるので困る。

もっと端的に言うと軽いのがBand Aidで重いのがUSA for Afriva
Do They Know It's Christmas?~Band Aid

重い方、MadonnaのLike A Virgineをプロデュースしたナイルロジャースが重いのをところどころ入れてくる。We are the world~USA for Africa


もちろん重厚な音楽も嫌いというわけではない。というかjazzやclassicは重いのがすき。Coltraneとか交響曲とか。80'sはアメリカンロックをはじめ重いですもんね。

では甘重。超重量級。

From the new wold 第4楽章 Dvorak:Symphonie Nr.9 "Aus der neuen Welt"--4.Satz

考えてみるとモーツアルトの音って軽やかで乾いてる、だから好きなのか。もう貼るのはよすけど。

なんか自己満足的だ。満足した。

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詰まんないけど音楽ネタで

惰性でマイ音楽史と。よく聞くけど素性が分からないというこてこての音楽を紹介できたらと思う。コメントにyoutubeのLinkを貼るのは大歓迎。

ドラマなど、音響でよく使われるのが

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PCの実寸表示の雑感

PCの画面はoffice2000のwinwodがレイアウト表示を実装する時点で、adobeがreaderを配布した頃に図面のやり取りに端を発したと思う。
文書の出来栄えを考慮しつつ文書作成したり、図面をpdfファイルでやり取りしたり。ちょうどその頃17"でモニター表示は原寸に近かった。

今支給されたディスプレイは19"で17"と解像度が同じ。当然画面表示のサイズは異なるわけで、、。さらに一番の問題だと思うoffice2007でレイアウト能力が向上されたかというと、、ゼロ。

システム担当の同僚に愚痴をこぼすと、「画面にスケールを当てて電話しているのはwoodさんだけですから」と冷たい対応。なのでPC更新もディスプレイだけは従来の17"での稼動許可を取った。少し勉強したところPCには実寸表示という概念が無いらしく、17"はたまたまらしい。ぼくはそれでCRTも液晶も生きてきたんですけど。
ちなみに家のPCは23"の16:9で解像度は1920*1080らしいのだが割りと原寸表示できている。

うがった見方をするのであれば原寸表示が過去は出来ていて、ディスプレイメーカーの論理(サイズのバリエーション化)で原寸表示が壊れていると思ってしまう。

 

脱線。僕が従前使っていたのが古いAutoCADLTで、Win7に乗らない。なのでJW-CADに乗り換えようと考えているんだけど、いかんせんおっさんは適用能力が劣っている。AuotoCADでは実寸で書いてプリントは縮尺指定なので画面上で正しさは問わないと言うか問えない。そういうものとして教育を受けているのでそのことに違和感は無い。

OS変遷での違和感を述べたけど、技術が上がっていて、選択できない仕様というのはストレスが溜まる。インターフェイスが変わるのは理解しても、旧来のユーザーが使えるようにして欲しい、office2007以降のことだ。

脱線した。これほどPCの技術が進んでも実寸表示という概念が無いということに頭を痛める。OSの進化は誰かにはいいことなんだろうけれど、僕にとっては改善点が全く出来ていなくて、ハードも反乱するかという感じ。pdfにしろ閲覧ソフトは実寸が見易いとか、図面とか非常に重要な意味を持つと思うんだけど、それは僕だけなんですよね。

負け犬です。

 

しかし訴えたい。図面は実寸でモニター表示するべきだ。先のPCに詳しい同僚はwordで書いた文章を印刷して確認している。レイアウト表示が最も機能していない瞬間である。そしてexcelになんで未だに印刷イメージが存在するのか???PCがモニターで原寸表示できないのは、エクセルというメジャーなソフトがレイアウト表示できないのは犯罪である。印刷用紙を幾ら無駄にしたのか。マイクロソフトは直ちにレイアウト時の「原寸表示」に努力していただきたい。それが省エネ・省資源だ。

下らない事に注力するなということ。

ちなみにマイクロソフトは馬鹿なので、アドインを売るのはいいと思います。液晶のサイズと解像度を決められる画像ドライバが求められているのです。
僕が望んでいるのは多分ローテクで、それすら出来て居ないと。

 

まぁ一方で、テクノロジ更新を老害がわめきちらすという報道もあり、まぁそれは正しいんだと思うんですけど。とにかくWin7/Vistaとofice2007への共感が全く無いんですよ、全く。

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office2007に悪戦苦闘中

職場のPCのWindows7にようやく慣れてきた、使いにくいエクスプローラーに。でも不満はある。2000/XPで読めなかった2GB以上のSDを読めるようになったがその動作は不安定でデジカメのデータを消された。進歩は不安定を受け入れるしかないのは理解するけど、2GBで普通は十分なので歓迎はしない。

僕にとってはwin2000/XPでオフィス用のコンピュータはセキュリティを除けば一応の完成を見たのだと思う。もちろん2000年頃のハードは頼りなくて3DCADはそれはそれは心もとなかった、それでもハードさえ性能が上がれば何とかなったし、CADや3Dはグラボを積めばなんとかなった。win2000の功績はnetwork構築の簡便さとUSB2.0だったと思う。USBメモリは10年前に買ったSDのカードリーダーを今でも使用している。実験器具やSEM、マイクロスコープはLANにつながっておらずデータ移動用のメディアとしてUSBメモリーが必要なのだ。そしてデジカメを扱うことも多いので、SDカードリーダーが現役なわけだ。同僚が借りに来るくらい便利だ。PCの周辺パーツで10年現役は珍しいと思う。

 

本題。上記と同様にoffice2000は画期的であった。丁度一太郎とLotusを凌駕した頃ではないか。2000/XPがソフトを超えてカットアンドペーストが実現された頃で、Win95の欠点が解消されつつあった頃だと思う。そこで2000/XPの長所を生かしたオフィスツールがoffice2000だと思う。excelは数式の検索も簡便になったし、wordもレイアウト入力という斬新な機能が便利だった。
ちなみに当時excelで不満だったレイアウト入力も進化していないし、入力画面の印刷との整合性も整っていない。テキストボックス内の段落処理が無いのも変わらず。

そういう意味ではoffice2000は発展途上のビジネスソフトだったけど、現在(office2007)もそこは直っていない。そして不満は一杯ある。
おまけソフトで言えばoffice2000のphotoeditorは僕にとってまだ現役。苦労して入れました。リサイズとカットが簡便で軽いソフトだ。閲覧にもお勧め。

 

例えばexcel, wordにしてもCADもインターフェイスはレイアウトいじりまくりだった。よく使うアイコンを集中的に配する。殆ど使わないアイコングループは消して画面を広く取る。なんなんですかあの2007のリボンとやらは。あのアプローチは嫌いではない、初心者はいつでも居て間口が広い設計になっていると思う。でもアレを使わない権利を無視した設計はどうなんでしょ。今の技術ならそこを選択するコトだってできるでしょ、デフォルトを2007にして、選びたい人は2003ver.を選択できるようにするくらいのことは簡単でしょう。2003デフォルトアイコンを表示させるアドインは在るけど、アドイン上ではやはりレイアウト変更が出来ない。やって欲しいことはやらずに、やらんでいいことに手をつけるのは困ったもんだ。しかも私には会社支給なので選択権がない。滅びろoffice2007!

 

若い頃はOSの進化に興味津々であった。変更直後の不具合の不便さを乗り越えて。実際DOS3.1からWin3.1は衝撃的であった、Macには負けてたと思うけど。さらにWin3.2からWin95も衝撃的であった!UNIXとWin3.2をつなげてLANを形成してたのだけれど設定の簡単さに泣けた。さらにWin95がOSを偽装していたのだからいろいろと楽になった、もちろんバグにも泣かされた、DOS上で動いていたソフトをWin95で動かすわけだから。そしてWin2000でも苦楽はあった、DOS時代のソフトはまだまだ生きてたし。

そう考えるとVista/Win7にしろ、office2007にしろ、何で劣化するのであろう。今のハードでWin2000/XPが動くかは知らないけれどセキュリティのことを無視すると面倒臭いと言うか、従来のオペレートが成り立たない時点で僕は嫌い。

若者はこの変化をどう受け止めているのであろう。周りにマクロや数式を行使する若者が居ないのでよく分からん。ちなみに家のパソコンは随分前にwin7になってます。Webの閲覧とかがメインなので細かい仕様はどうでもいいんです。でも仕事で使うとなるとそうでないわけで。

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理念は大人の事情を考えない

テレビで原発反対のデモを写していた。なんか気持ち悪いなぁと思ってみてたら、「脱原発が福島の子供の命を守る」みたいなことを叫んでいた。

???今福島の原発は全て止まっており、原発を廃止しようがしまいが子供の安全とは全く関係ない。もちろん、事故が実際に起きたわけだから他の原発が安全かどうかは気になるし、政府の言う安全が当てにならないのも分かる。でも現状福島県は関係ないじゃないかと思った。

また福島県の現状は危険であるという認識は恐らく間違っている。放射線量は思ったほど高くないし。その間違った前提を元に理念を語られても説得力が無いばかりか、それらの団体には信用できないし協力も出来ない。

この間違った情報をもとに訴えかけても「福島は危険じゃないよ」で終わりである。少なくとも野田総理はそういう立場だ。野田総理から見たら説得力ゼロというかデマの先導者に見えるであろう。政治家は国民の過半数が間違った情報を元に訴えかけても、知性が適切な判断をしなくてはならないはずだ、選挙を気にする政治家に出来なくても官僚には出来るはずだ。できるよね多分、そう信じるよ。

 

 

理念を重視してしまうと勉強もしないし損得勘定も出来ないみたいだ。おまけに嘘をつく。

話は脱線するが、大津波での対応に「政府の仕事が遅い」と菅総理は評判が悪いようであったが、できない大人の事情ってモノがある。

大人の事情とは例えば
ダイオキシンが悪い→野焼き禁止→瓦礫溜まる→政府の対応遅い である。訳知り顔に「政府の対応が遅い」という人はダイオキシンも大嫌いだったのでは?
食は国の根本→農地を勝手に開発禁止→開発には許可が必要→被災地復興にも許可が必要  である。大店法とかいわゆる弱者を守る法律は利権であり、経済活動関連の法とは弱者を守る利権なのだ。安全を確保のためにいろいろな法律もある。これらががんじがらめになると法律に手足を縛られて何も出来なくなることくらいは直ぐに想像できる。
問題となった松本大臣の発言はまた来るであろう津波に対してそのまま同じ街を作るのか、新しいモデルを作るのかという合意を地元で取りなさいという意味であったと理解している。これも時間が掛かる、考えていることは全員が同じでないし。

話を元に戻す。
この大人の事情が理解できない程度の人が陰謀論を述べるのではないかと想像している。理念で大人の事情に邪魔されると陰謀論を述べるのだ。地元政治家は電力会社から金を貰っている。そのこと自体は陰謀論では無いけれど、なんか賄賂みたいに思っているのではないか。迷惑施設の受け入れ料を貰うのは当然では無いか。政治家のポケットにカネが入るはずは無いとまでは思わないけれどそ、自治体の定期的な収入が途絶えるのは結構辛いと思うけどなぁ。

損得は複雑に絡みこんでいて、経済界は電気の安定供給と低コストを望むであろうし、電気代が2~3倍になるのは嫌がるであろう。実質被害のないことへ支出が増えることを嫌がる人も居るであろう。温暖化ガス排出を低減させたい人も嫌であろう。私は嫌だ。

みたいなことを考えていたら面白い読み物があった。

熱心な人はおそろしい~レジデント初期研修用資料

多分このデモを起こした人も熱心で道徳的なのであろう。それを理念と置き換えて読んでもストンと落ちる。
僕は道徳を論理で説明できると考えているのだけれど、そこには損得という感情が地べたに横たわっている。そしてその道徳的に熱心な意味は「自分の評判を高めたい」であり、それは得につながる。先の「原発反対」には得を説得しているに見えないのでキモチワルイと思ってしまう。

デモ隊がすべきことは理念で訴えかけると同時に「得する話」を織り込むことだ。
例えば「原発を揺るがすような地震はここ10年で3~4回起きている。柏崎原発もやばかった。東海大地震だって起きることになっている、そのとき震源地が原発に近くないという保証はどこにもない。もしもがあればそのときの経済損失がどれほど大きいか今回証明したではないか」などだ。

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なんでDQNと紳士は股を拡げるのか

エレベータとか電車の扉の真ん中にポジションを決め込んでいる人がうざい、邪魔。

オフィスビルのエレベータで緩いポジションで立つのは分かるけど、乗ってくる人が居ればその人のためにスペースを作るのが常識だと思うんだけど。詰めれば済むのに詰める気もなくて結構な割合で「お前はもう乗れない」オーラを醸しだして奥に詰めない人って結構多い。というか信じられない。

もう一例、扉の前にポジションをキープしたい人が居て、彼・彼女は扉が閉まるタイミングとは関係なく無駄で邪魔をする。後から乗ろうとしてもどかない。自分さえ良ければルールを無視するのはもうデフォルトだ。

以前、そろそろ閉まる頃を見計らって乗ってきた人がどかずに扉地域をポジショニングしていた人が次の駅で扉が開いた瞬間に押されてこけてた、僕は当時むかついていたので避けようと思えば避けられたがそのまま腕を踏んづけた、ざまぁー。本人は何が悪くてどうすれば良かったかを多分理解していない、不幸だと片付けたであろうコトは想像できる。

 

枕はおいておいて、標題の件。

何故紳士は空いている電車→そのうち混む電車の座席で股を拡げるのか?僕は個人的に知性ががっかりでかつ本能に忠実で、インキンで、、、、まぁ残念な人かと思うと、、そうではなくてバッジを付けている人が少なくない。ここで分からないのがバッジをつけていて無法を行うと言うこと。僕なんか心が小さいので、酔ってやらかさないように、もし平時の僕がおそそをしても会社にばれないようにバッジは必要最低限のときにしか付けない。バッジをつけて無法(まぁ本人は無法だと思っていないのであろう)を働くのがすごく理解できないのだ。

例えばなんだけど電車や駅で写真を撮って「馬鹿企業・迷惑企業」というようなのを載せるサイトを作ると結構面白いと思う。邪魔な奴を晒して追い込めば、そういうことを続ければお行儀よくなるというのは妄想であろうか?

 

あともう一点。扉近くにポジションキープを願う人の足を引っ掛けて、こけさせて、踏んづけるという活動があってもいいと思う。とばっちりも多いかもしれない。読めないほうが悪いと強弁してみる。

 

追記 おばさんというか女性はカバンの中のモノを出し入れする頻度が多い。その度に脇を拡げる。隣人を攻撃したいのか、汗蒸れ防止なのか。

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まだまだ情報化社会と遠い件(帰宅難民の戯言)

9/21関東直撃の台風で帰宅難民になった。ダメなのが分かっていたら会社に居たけど行けると判断して途中で止まった。会社の判断が遅いからか、いや近所に住む同僚は有休をとって帰ったのだから自分の危機管理の無さを嘆くべきであろう。

15時前頃に京浜東北線が止まって、横浜駅から地下鉄で新横浜まで行って、15:30頃に小机で止まった。16時頃その電車は中山までは行ってくれた。そこでファーストフードに避難した。
横浜線では中山~町田間で運休になったが、JR東日本の運行情報の発表はそれは酷くて、横浜線は止まったことがそもそも黙殺だった。

その間定期的に運行状況を確認したのだが、そもそも横浜線が止まったという情報が無く、当然運転再開をネットで調べるのは困難な状況となった。会社に戻るにもちょっと無理そうだったのでそのまま店に根を張った。

雨が止んで、風が少なくなった頃(19時半頃)、駅に向かうと「運行が再開されたとのコト」。その割には電車は来なくて、Web情報では相変わらず横浜線情報は無かった。

結局予定時刻から5時間遅れで自宅に帰ったわけだが、その大半はファーストフード店で小説を読んでいて、煙草は吸えるし飯は食えるし空調は利いているし、と比較的ストレスフリーで過ごせた。
しかし独りだったので運行の確認の作業はできず、ネットでも横浜線の情報はないし、風が比較的収まった頃合を目処に、また山手線が運行再開をしたという情報を元にファーストフード店を後にした。たまたま横浜線が運行していた。動いたのが遅かったのかもしれない、情報があればもちょっと早く帰れたかもしれない。

JRの運行状況の更新が遅い。しかも横浜線に至っては「遅い情報」すらなかった、何も無かった。これでは利用者は駅で待ってるか、会社や飲食店で無駄な時間を消費せざるを得ず、合理的な判断をとれない。
ちなみに運行開始した列車はいつ再開したのかがよく分からないのだけれど、通常よりも空いてるくらいだった。多くの人が早く帰ったのか、運転再開の丁度いい電車をゲットしたのか理由はよく分からない。

 

運行情報の迅速性と正確性を望む。情報化社会といえどもまだまだな面はあると思う、それが今回だ。正確な情報を皆が共有し、人が殺到することも想定できるが人はそれを織り込んで動くであろう。情報が正確・迅速で無くていい理由にはならない。

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木造住宅、植物性内装材が必要な理由

僕はマンション住まいで住宅のことは詳しくないのだが、疑問がある。標題の件「木造住宅は何故あるのか」である。

戦前工業が発達していなかったことは木材は構造物を構築する材料としては安価であったであろう。原材料を採取しても50年くらいで再生するし、輸送運賃も石よりは安い。手頃な材料であることに疑問は無い。合板材は低コストであるのは明快だし。

しかし現在では工場で規格化された部材である鉄骨の方が安いと思われるし、壁も石膏ボードのようなパネルの方が安いであろう。

木材等の植物性材料の欠点は明快だ、火事に弱い。オフィスでは構造物はもちろんのこと内装材にもほとんど見かけない。調度で少し見られる程度だ。これはオフィスは不燃物で設計されているからで、文書などの紙は仕方が無いとしても、オフィスは火元が少なくても火事を強く意識している。ところが火元が多い住宅で、燃えることが明快な木材などの植物材料を構造物や家具に使用するのは非常に非合理的だと思のだ。
軽量鉄骨にしても鉄は1千℃で溶けるわけで、内装に木材を用いない方が火災の際の構造上の安全性は高くなる。
当然、木製(植物性)の柱・壁・フローリング・畳・家具はセルロースで燃料と言っても過言では無い。火災が起きた際には火の回りが速くなり、逃げ遅れ、助かる可能性が減る。そもそも火災が起きる可能性が高くなる。

マンションは鉄筋コンクリートで構造物が燃えることは無いけれど、内装材や家具が燃えて焼け死んだら意味が無いのだ。

まぁ木造住宅が鉄骨住宅と比べて非常に安いのであれば理解できるが、プレハブハウスや軽量鉄骨の建設工事を見ているとプラモデルみたいで、とても高コストに見えない。

 

ちなみに僕の家は冒頭に述べたようにマンションで鉄筋コンクリート製だ。ところが内装はキッチンと壁紙・天井以外は木材が多い。具体的には床はフローリング、襖は紙(っぽい)、桟は木材、扉は木製、全ての家具は木製、あと畳。壁紙・天井は不燃材であれば良心的であるが塩ビに見える。ボヤが起きたらこの部屋は炎が出るであろう。危険だ。

 

日本の従前の文化的と思われる建築物や家具や内装材は木製が多かった。というか殆ど紙と木と草で出来ている。そしてそれが人間的に優しいとか和むという文化があって、本格的な木造住宅は高級品というイメージがある、危険なのに。

植物性材料で構築された家屋が高級であるという感覚は世界規模では別にノーマルではない。欧州では何百年かけて石造りの街並みを形成して、それはそれは美しいと絶賛だ。中を見学したこともあるが暖房設備を追加したり、電設したりと改造しながら使い続けている。ヨーロッパの美しい街並みは文化財でもなんでもなくて実用されているのだ。ローマ中心部の歴史的に美しい街並みのアパートメントの家賃を聞いてびっくりした、1百万円/月はざらだそうだ。(その額で借りる人が居るほど経済的に価値があるということ)
ヨーロッパで数百年住宅を使い続けられる理由は使い勝手も別に悪くないのと、火事に耐性があるということだろう。ボヤのたんびに立て替えていたら町中(百年単位で)新築だ。
当然のことながら日本では、火事が起きたら延焼するのでそのエリアは新築するしかない。地方人でも隣家に延焼しないという程度の住宅事情でないことは理解できますよね。

日本で石造りの住居が普及しなかった理由はいろいろと考えられる。材料が身近ではない、輸送費が高い、山が多い(住居と山林は不可侵)。逆にヨーロッパでは平地が多いので森林を切り開いて畑にしたので、恒常的に燃料である薪を供給する森林不足があった。建築材料である石が豊富にあった。等

 

でも現在は工業が発達して文化的な意味以外には木材などの植物材料を家屋構造建材や内装・家具に用いる合理的な意味は薄くなってきた。価格的な意味でも火災予防の観点からも。

防災と文化的価値観の問題だ。その点でこだわりが無ければオフィスのように植物性材料を排除して安全性を追求することは可能なはずである。無機質な感覚は嫌だ、木のぬくもりが欲しいという人は「火災のリスク」理解して選択すべきだし、現代設計では無機質なカッコイイデザインも多数ある。

 

素人なのでよく知らないけれどテナントオーナーの意向で難燃材での店舗作りで古風な内装を表現できてるレストランとか、アバンギャルドなカフェとかあるんじゃないかな。

とにもかくにも日本の住宅は植物性材料で溢れている、火事になれば全てが灰になる。もっとも木材は一気に燃えないので1千℃になると飴になる鉄骨よりは安全だという意見もありそうだけど。それにしても内装が燃えすぎるので避難経路の確保が出来ないとか。あとマンションの火災の映像を見ていると燃え過ぎているのは内装由来だと思うのは穿っているのか。

 

木造住宅の存在意義が分からない。内装・家具に木材系、植物系素材を多用する理由が分からない。いや分かる文化的というか慣習が木を重要視している。しかしそれは危険ではないかということだ。木製を重視するのであればリスクがあることを一般化すべきなのではないか。これらの難燃材化を一般化するだけで火災の死亡者を半減以下に出来るのではないかと妄想する。

木材は加工がし易くて安価であるというのも分かっている。ちなみに火災件数は6万件超で死者数は2.5千人である。これを多いと見るか少ないと見るか。

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不買運動に意思をまぎこませている件

大手新聞社がフジテレビへのデモを報道したらしい。しかし花王本社へのデモは報道されていない。

そのなんかフジテレビへの不買運動が「フジテレビを見ない」ということでは全く効力を発揮できないので、フジテレビの大手スポンサーである花王社に噛み付いたと理解している。ちなみにその大元の理由は問わない、僕自身意味が無いと思うし、差別主義だと思うし、資本主義社会で何が問題か分からないし、彼ら韓国タレントが日本にいい印象を持っていないかどうかも全く関係ない。

過去に日本人でアメリカで成功した人は居るであろう、その人が親米かどうかはその人の評価とは全く関係ないと思う。

 

花王製品のおすすめの代替品~はむ速2ろぐ

でいろいろと提案されている。これが徹頭徹尾だめで、、、でも信用する人が居るんでしょうね、、h7EBL2UV0、さんお疲れ様です、馬鹿丸出しです。何がだめかと言うと、普通は業界1位の花王がダメなら順次2位メーカーを紹介すればいいはずなのになんか違うランキングが乗ってる。CM露出が高いメーカーをお勧めすると自己矛盾があるというのであれば、新聞なんかで宣伝している商品もあるし。なんらかの意思<例えば天然系>を感じる。さらに宗教的な主張を感じる。
となるとCMを出している大手は除外して、下位メーカー推しでやばい物件ばかりだ。どうやばいかは同業者なので論述を控える。

で馬鹿が釣られた。

花王製品お勧めの代替品~はてなブックマーク

まぁなかには「釣られないぞ」宣言もあるが、釣られた、大漁だ。

 

大手の企業の安全性管理を無視した下位メーカー重視は消費者に得ることが少ない。多分はてなブックマークに賛意を表明している人の多くは下位メーカーはその製品がとがった商品で万能向けではないという事実を理解できていないようだ。要は一般向けとマニア向けを同率に論じている。多分それが釣られた理由であろう。

というか「はてな」の住民がメーカーで仕事をしていないというか、どういうことをしているかを知らないということが面白い。

 

大手メーカーは最大公約数てきな商売をする、多分だけどその割り切りはP&Gをはじめ外資の方が多いという印象がある(僕の印象です)。様々な消費者が居る中で、合わない消費者をぶった切るのが外資大手のP&Gで、割と丹念に対応するのが花王という印象がある。もっともぼくの印象でP&Gに喧嘩を売っている意思はございません。

というより割りと保証されている大手よりも弱小メーカーを推奨する理由が分からない。何故分からないかというと品質基準はどのメーカーにもあるはずでそれを担保できるかどうかという疑問だ。中小メーカーの商品が問題があるというわけではない、品質保証体制は大手の方が信頼できるはずで、あえて知らないメーカーを選ぶ理由が分からないだけだ。

 

で、話を戻すと、推奨された企業は香ばしい企業が多い、強引な推奨はなんらかのデモの主張以外の意図を感じる。

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日本人のお人よしさと特殊性

日本人は宗教観に支配されずに低コストで社会運営を出来ていたのではないかと述べました

一方で相手を無条件に信じてしまう無防備さは論理的にはありえません。日本人にとって「約束を守る」のは任侠でも政治でも経済でも、普通で非常に重要な感覚です。その感覚は約束を履行すれば相手の信任が得られるという利益が損失を上回るという日本人の常識を貿易とか外交に展開するのは、感覚として常識かもしれませんがロジックとしてはおかしいです。

例えば企業間で取引をする場合、世界基準では契約を取り交わし責任の所在を明らかにさせます。日本企業間では信用の度合いで取引企業が限定されるという傾向があると僕は思っています。「なんかあったときはよろしくね」という無茶な要求が暗に含まれているのです。だからこそ入札の際には単純に値段が安いという理由では採用されません、いくら全うな商品でもその暗黙の了解とその履行能力が問われるわけです。

しかし「信を守る」というのがどうも美的で論理を超越してしまっています。また日本はWWⅡで悪役を演じた歴史を有しているので、「日本は信の国である」ということにことさらこだわっていると感じます。僕自身も面子としての信は重要だと言う価値観を有しています。まぁ太平洋戦争でも日ソ不可侵条約を信じてエライ目にあったし、一旦信用すればとことんやる多分国民性なのでしょう。あれほど蹂躙してくれたアメリカ様への変貌ぶりはちょっと考えられません。もちろんだからこそアメリカ様も日本に過剰とも思われる支援をしてくれたのでしょう。

このことは韓国との対応の違いを感じさせます。韓国は北朝鮮と国境を有していましたが、日本もソ連と国境を有しています。でもなんか平和ボケできる日本の性能はすごいと思います。実際に地続きの国境を有しテロリストが事件を起こす韓国と、せいぜい漁船が拿捕される・領空侵犯が行われるのでは危険度も違うことでしょう。
戦後の危機感の違いは日本は実現不可能な反戦気分が蔓延したことと、軍事政権が権益を模索した韓国との違いでしょうか。

まぁ日本人は「こっちが侵略する気がないから」という理由でソ連も北朝鮮も共産党的な友好国だと本気で考えていたのだからもうどうしようもない信義主義である。もっともその左翼の信義主義は画餅だったのであるが。

 

僕自身も全てを疑う生活を経験していないので「平和ボケ」なんですが、日本が平和ボケできる理由があると思う。平和ボケは低コストである。
いちいち相手を疑うのは非常に高コストである。取り引きの失敗・事故を想定して、その責任を負える企業としか付き合わないことで保証を担保する。排他的だが保険よりは安い。
さらに海外事業にすこしだけタッチしたのであるが、現地メーカーと取り引きしたけど条件設定だけで面倒で、技術・納期・品質いちいち確認しなくてはならない。しかも言葉も慣習も違うし。とにかく面倒くさい。

大手日本メーカーが東南アジアに進出する際に、周辺企業が進出するのはよく理解できる。技術コーディネーターの不足と、あうんの商慣習が必要なのだ。トヨタが単独で進出してもトヨタはろくすっぽ経済活動は出来ないであろう。

 

日本語しかできない技術屋にとって、他人を信用しない・契約内容を重視したスタイルは非常に面倒臭い。面倒とはコストだ。グローバル企業に勤めていないモノの雑感。

もしそれが正しいと仮定すると日系企業がそのまま企業群として進出していて、日系企業同士が密に取り引きしているのは理解できる。労働力だけ現地で調達して、「あうんの関係」を維持したいのだ。タイとかインドネシアでの日系企業の日系企業依存率は異常だと思う。というのは日本の商慣習が非常に合理的であるということが示唆されるのかもしれない。しかしそれは世界標準ではない。

 

契約書を吟味するのが世界の標準だとしても、契約書はいいかげんで商売が廻るのがJapan standerdということか。そしてそのJapan standerdは結構競争力があって、、。だって生産性に寄与しない法務部門の費用負担が少ないのだから。
特許特許といっても特許収入が少ないことを嘆く前に特許収入と法務部門の収益を考えればいいということになる。多くの企業で法務部門は稼げてはいなくて、だったら日本的経営でいいじゃんということになる。いくら論理が欧米式を推奨したとしても。

そういうことをつらつらと考えていると提携が上手く行っている技術集団は日本企業同士という感じがする。販売権を買っている商社的な商売は別だろうけれど。例えば化学素材業界は資本と会社の地図が分からないほど複雑なわりに他国企業がほとんど入っていない印象がある。商社案件は別かもしれないが。あと日産が過去に切った系列子会社は多分全部日系。トヨタでも部品サプライヤ大手に外資は居ない気がする。

 

ウエットな日系企業のお付き合いは結構意味があって、お互い得をしているのであろう。

標題の件、日本企業は日系企業同士で「あうん」の関係を構築して、それが競争力の源泉なのか。なんか正しい気がする。

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レッテル貼りと固定化した思考

脱原発という空気~アゴラ(池田信夫)

池田信夫氏が過激な言論で一部に大きく嫌われているというのは知っていたが、嫌っている人は言論の中身ではなくて個人攻撃になっている。

脱原発という空気~はてなブックマーク

大学入試のときに「評論文は「段落変え」「紋きり口調」には飛躍や誘導が必ず入っているから気をつけろ。」と習った。元記事もそう読める。
しかし批判はそもそも中身を読んでいない、なんか個人攻撃や次元の違う話をもちだしたり、工学的思想の意味が分からなかったりする。

 

例えば3.11以前も原発の危険は指摘されていて、だからこそ過疎地に原発を置いた。千年に1回は事故が起きるかもしれないと考えていたわけだ(40年に1回に危険度格下げされたが)。そこを安全か危険かの1ビット思考で「危険なら置くな、安全であれば東京に置け」という、まぁなんともお粗末な議論を行っていたわけだ。そして僕はこの残念な論争に引きずられて「もっと安全を」という至極普通の努力が置き去りにされたと考える。

ようは批判者は批判の方法論やその妥当性を考慮せずに結果ありきの理想という空論を述べるので現実主義者には相手にされない。

池田氏が述べるように冗漫な環境政策が水俣病をはじめ多くの公害を生みましたが、その反動は過剰な化学物質管理という多大なコストを支払っています。まぁ理想屋にはそんな事実はどうでもいいんでしょうけれど。

 

話は変わりますが工学は科学とは割りと遠い位置に居て、結局「お金」の学問です。素晴らしいけど高くて使えない理論を使えるまでに安くする技術を追求するのが工学です。そこは安全性にもその思想はあって、危険は確率で考えます。「無い」というのは存在しない考え方です。しかし理想屋は「無い」ことを求める。論理的に存在できない理想を追求しているのです。で、どこかで妥協するのですが、工学屋は「でもそれって高くつくよ」という反論に「そんなことは関係ない」と。

じゃぁカネを払えばいいのですが、払う気は全く無いようです。無い袖は振れない。

端的な例ですが朝日新聞は「出来るか出来ないかではなくて、まず目指そう」と述べたそうですが、工学屋は「高いか安いかを考えよう」です。工学屋の考え方は小さな不都合を無視しがちで、公害のようなモノを過少に見積もる可能性は少なくありません。だからといってカネを無視した議論は成立しない。工学的思想の欠点を述べても何も変わらない。工学屋の不作為を監視するのが本来のやり方です。

僕個人は理想はないので原発でもなんでもよくて、値段で決めます。反原発派は値段の話が無いので意味が分からない。もちろん放射線癌化リスクも、汚染土壌除去も、原発再稼動する際のみかじめ料もおカネで決まると思っています。おカネというのはなんらかしらの価値を強引に指数化したもの。代わりの指針があれば「おカネで決まる」という大前提をひっくり返されても全く困らない。
しかし「人の命は地球より重い」というのは指針にならない、なぜなら人間は必ず死ぬからである。

 

話を元に戻すと、人間は論理で考えるのはすごく苦手というか面倒くさくて、簡単に結論が出せる方法を採択したいようだ。農薬=危険→無農薬=安全などの簡単な式での判断で思想を固定化すると議論の手法が簡単になる。ところがその大前提が議論となると話が噛み合わない。
宗教の大前提を疑う議論はタブーだ、例えばキリストが復活したというのは嘘だからキリスト教は嘘だなどという人は居ない。信教の自由を侵す考え方だからだ。
反原発をはじめとした環境原理主義者はこの宗教になっている。大前提を問題視すると議論をすり替えるのでまともな議論にならないのだ。

レッテル貼りは思考方法としてはすごく簡単だ。だが視野が狭くて議論に柔軟ではない。もちろん本人はレッテルを貼っているとはつゆ知らないとも思うけど。

 

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製造業は付加価値をつけることが目的である、それがブランド戦術だ。あと高級ニッチ。

製造業は新入社員の仕事~mizuiro_ahiruの日記

僕は主に国内向けの消費財メーカーに勤務しているけれど、この記事はロジックとしては概ね賛成できる。もちろん製造業の定義とか、Appleは製造業だろと突っ込みどころはあると思うが。このブログ主は現実を無視したロジックの抽出を記事にしているとか(学生?)、海外とガチンコで大量生産(例えばエルピーダとか)競争を行っている企業の視点であろう。

しかし海外市場で戦っている企業も、国内市場で戦っている企業も、その方針・分野・戦略で闘っている企業は極少ないと思う。例えば巨大化学プラント等の原料メーカーであったり、輸送費を跳ね除けるほどの高付加価値素材を提供できる素材(鉄鋼等)メーカーだったり。または量が多くなく市場が分散している高級自動車もそうかもしれない。

メーカーは「付加価値」いわゆる技術だったりブランドを売っているわけで、例えば同じコンセプトで同じような品質の現代とトヨタのクルマでどちらを選ぶであろうか。日本ではトヨタのブランド価値は絶大で、そのブランド価値をさらに上昇するためにレクサスを出したり、プリウスを出したりする。

国内流通だって同様だ。「今まで」からかなりドラスティックに変貌した。例えば酒屋・煙草屋は税収に関係あるからという既得権益だったけど壊滅した。理由は先進的な流通企業が生産性を向上したからだ、というより既得権益に乗っかって改革をしなかったから自滅したとも言えるけど。デフレというけれど流通のコストダウンを無視したデフレ論は有り得ない、まぁ勉強がかなり足りない。物価が下がってGDPも下がれば立派なデフレだけれど、流通改革がコストダウンを実現して売価が下がったことをデフレというのはなんかおかしい。しかもGDPは円ベースで一応は上がっているし(データ探すのが面倒で勘弁してください)。

 

脱線する。Link記事主には申し訳ないんだけど、モノを生産スピードや品質管理手法の向上で「良い品質をより安く」というもの作りはバブルの時代に終わったと思う、もちろん設備産業はまた違うと思うけど。じゃぁ設備産業はどうかというと、「高品質」「特殊仕様」というニッチに活路を見出しているわけで、中国等の需要増低コスト企業とのガチンコは基本的には有り得ない。
今日の日経に「エルピーダ、国内生産4割を台湾移転~日経」という記事があったけど順次移転をするわけです。

じゃぁ日本が何で食ってくかというと、消費財では「ブランド」でしょう。クルマ・家電等の耐久消費財から食品・化粧品・洗剤など日本ブランドは健在です。東南アジアのカルフールに行けば日本かと思うほどの売り場です。東南アジアの多くは日本車がほとんどですし、家電はソニー・パナソニックの売価が高いです(LGも幅を利かせてるのですが売価が安い=安売りの目玉=安くなければ売れない=ブランド価値が日本以下)。食品は菓子等でロッテやカルビーが独壇場でした、コーヒー紅茶は現地またはユニリーバがつよいのかなぁ。生活雑貨はP&Gとユニリーバが強くて、その後花王か(結構三つ巴)。現地メーカーは殆ど無い。もっともカルフールは中高級ショップだということもある。

日本ブランドは割りとすごい。その意識が無いと「日本企業は弱い」という雑誌の主張を真に受けてしまう。店頭を支配しているからといって利益が積めるかは別問題だとはおもうけど概算はできる。

 

Link記事ではメーカーをOEM工場と想定しているけれど、Appleだって製造業であり、日本の製造業の構図をあまり理解していない感じがする。もっともロジックとしてはすごく秀逸であることは間違い無い(だからこそその対策は行われている)。製造コスト削減・品質向上で人件費1/10の東南アジアと勝負するという時点で間違っている。消費財メーカーで日本が勝負しているのはブランドであり、素材産業では特殊分野であり、、、と闘う分野は基本的にずらしている。さらにニッチや高級素材は研究設備に併設している必要があって、そのような品目は簡単には生産拠点を移せないであろう。

だからこそ日本は食えているわけで、何も過去の遺産で食い忍んでいるわけではない。

 

mizuiro_ahiru氏の主張も理解できないわけではない。例えば大田区ですごい技術集団が居るという話がよくTVであるが、彼らは税金を払っているのであろうか?ようは儲けている様に見えないわけだ。技術がすごい、でなんなの?儲けて税金を払う企業が偉いに決まっているじゃん。税金を払っていなければいくらスペースシャトルに技術供与しても意味無いじゃん。技術者兼社長に経営能力が無ければオーナー兼技術者となって経営をアウトソーシングすればいいのに。

 

商品設計者に会計の質問をすることはよくある。売上(販売企業への発言力)と利益とどちらが大事なのかというロジックが固まっていないことが多くて、固まらない理由もまぁ理解できるのだが。ここは「理解できない」ことにした方がいいのかもと思う。クレームがあったときには駆け込まれ、事前に問題がなかったか検証期間があったはずだとかいわれ。

どっちがいいのかわりと悩む。会社の利益を考えて、無茶な製品を是認するか。技術屋として事故を最大限考えて無用な冒険は却下するか。僕はエポックメイキングが好きなので、「いいよ、やれば」と言いがちなので困る。

 

脱線して、さらにとりとめがなくなった。ゴメン。

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宗教は必要なのか

日本人は無宗教とよくいわれるけれど、そもそも宗教ってなんなのって疑問がある。この文章は社会学では常識または間違っている記述があると思う。理系のアホが考えた雑文という立ち位置。

 

僕は宗教史を全く知らないけれど、宗教は哲学的な要素を除けば、明日生きる貧乏な人が「希望を持つ」ための理由としての信仰がスタートであったと思われる。

しかしユダヤ教のようなギルドを形成するモラルやルールを共有する目的というのがある。現在の宗教はこれに近くて、信仰のためではなく、モラルやルール等の「基本的なもの(以下「基準」)」を共有するためにあるのではなかろうか。
例えば子どもに社会ルールを教える際に「いいからママの言うことを聞きなさい」では説得力が無いので、「神様が言った」ということにしておけば話は簡単だ。そして日本では「鬼に食われる」とか「お父さん(または偉い人)に怒られる」とかでしのいだようだ。

多分日本人は馬鹿なので「鬼に食われる」「年長者に叱られる」根拠がなくても信じることができたようだ。多分外国では「証明して見せろ」といわれたら困るので聖書やコーランが必要だったのであろう。まぁそれは嘘である。キリスト教やイスラム教は「神との契約」という概念があるなどと説明されればそんなものかなと思うけれど、幼少の頃から刷り込まれているであろうからそんなことはどうだっていいに違いない。好ましい行為、やってはいけないことがコミュニティで共有化されており、子供への教育方針がぶれない、結果良好な社会が築ければ良いのであろう。

それは日本のようなやり方でも構わないし、宗教で「基準」を皆で共有するのも一つの方法であろう。だから民族や地域や宗教で常識は異なるし、宗教がなくても別の方法があればやっていける。
日本人の行儀の良さは東日本大震災での大人しく並ぶとか暴動が起きないことを絶賛する海外メディアがあったようであるので、このやり方・教育方針や教育方法は間違っていないのであろう。

 

一方で宗教はギルドという側面がある。ユダヤ教は典型的だ。為政者が住民を慰撫するために宗教を用いたが、カトリックでは気に入らないので分派した英国正教などもある。分派する必要があるということは戒律があるということだ。戒律は宗教への裏切りの踏み絵なのでその戒律の意味よりは公然と破る行為への批判が問題となる(日本の政治家がマスコミから批判されないというのと似てるかしら*)。戒律はその意味を超えて常識人との境目をはかるツールとして一般人に強要する。またギルドという側面は排他的になり易い。ユダヤ教は思いっきり排他的だし、キリスト教とイスラム教は十字軍の時代から現代まで戦争の歴史だ。神の名の基にいったい何億人死んだのかしら。

また宗教は自身の魅力を疑われないように荘厳さを演出する。まぁ古代中国の儒教もそうであろう。荘厳な建築・美術、何の生産に寄与しない聖職者を雇う必要がある。とても社会コストが高い。その社会コストの高さに反発したのがルターであり、プロテスタントなのであろう。もうこうなると「基準」さえ共有できれば宗教になんか頼らないほうが社会コストが低くていいと、その道のスペシャリストである日本人である僕は思うんだけど。あれはあれでないと「基準」が無くなってしまい、そうなるとマッドマックスや北斗の拳のような無法地帯になってしまうのであろう。

 

話は飛ぶ。日本の医療は医療関係者の収入の低さ(=医療費安)と善意(労働条件の悪さ)が、患者が過度に主張しない奥ゆかしさが低費用で高度な医療を提供できているという話だ(最近壊れかけてきているという話だが)。自己を過度に主張しないと異教徒(異邦人)に黙殺されたり搾取されたりする心配のある人々には相容れないシステムだ。

同様に「人を殺してはいけない」というルールが普遍的だと思っている日本人が多いようだけど、ちっとも普遍的ではない。異教徒は殺してもいいルールだって現在に生きている、イスラム原理主義やアフリカの一部地域はその典型であろう。日本の「基準」の中に「人を殺してはいけない」があって、それを刷り込まれているだけだ。日本人ですら幕末期京都ではそのルールは棄却されていて気に入らない人は殺したようであると坂本竜馬氏に聞いた。

 

そう考えると日本の宗教に頼らないやりかたは非常に社会コストが低く、同質の価値観を共有できている。それが「日本人すげー」なのであろう。

これは江戸期には無かった「基準」だったと思う。司馬の小説には薩人とか長州人とか出てくる。同じ日本でも藩が違えば国が別な状態で、価値観の共有もできていなかった。また身分間の交流もあまり無かったであろう。明治期に日清・日露の戦争を通じて「日本人」または「国家」という「基準」が短期間に出来たのではないかと思う。もちろん神道などを通じて日本人独自の共有感もあった、例えば禊(みそぎ)・穢れ(けがれ)が「遺恨を水に流す」という日本人にしか理解できない不思議な感覚を共有している。

 

話を元に戻すと、日本の宗教に頼らない「基準」教育システムは非常に社会コストが低く、かつ有効である。しかしこれは普遍的なシステムでは無いであろうことも容易に想像がつく。島国で単一国家・単一民族(言語)であったこと、人口密度が高かったこと、他国の侵略はあまり想定しなくてよかったこと等である。これはすごく特殊な条件でまぁ他には無い。地理的要素で言えば台湾・フィリピン英国くらいか、英国は人口が少ないし外敵もあった。台・比両地域とも多民族国家だし、フィリピンは16世紀に帝国主義に飲み込まれた、台湾は20世紀に異民族の日帝・国民党(外省人)に支配されたので歴史的に幸福とは言えなかったであろう。

 

となるとやはり「基準」を共有するためには明文化した聖書・コーランを持つキリスト・イスラム教でなくてはならないということになる。となると世界はどれだけ負の要素があっても無いよりはマシな宗教を、その負の側面(排他的とか)を受け入れていくしかないのであろう。日本人にとって非常に悲しいロジックであるけれど。

 

ここで突飛な提案というか妄想である、東京を無宗教特区にしてはどうか。十七条憲法を社会規範「基準」として、戒律からの離脱を推奨し、宗教間の差別することを禁止するのだ。ムスリムは飲酒もトンカツもOKだし、ヒンズーは焼肉OK、異教徒間の恋愛もOK。そのかわり評判のシステムとして村八分を推奨し、横紙破りは退去いただく。江戸期は身分証明書携帯は必須だったらしいので国民ID制も復活していただいて、評判のシステムを強化していく。入国テストがあってもいいかもしれない。あと売春への緩さも日本独特であろう。東南アジアにその精神は輸出され、なんか恥ずかしいことになっているが。
日本の低コストの社会教育システム・「基準」教育システム、戒律からの離脱を強みに生かして経済発展を狙うのだ。ニューヨークが何故発展できたかというと来る者を拒まなかったから発展できたのだろうが、その上級版を構築するのだ。ギルドのルールを明示して、ギルドほどの拘束性を持たないシステムの提供である。特にタブーの排除である。

 

というかタブー排除しすぎだろ日本人。

 

*マスコミは政治家にとって聖書の無い宗教警察なのであろう。マスコミはマスコミ教を形成しているのだろう。嫌な話だ。

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県という組織が底知れない馬鹿であるということが露見した件

枝野経産相が福島県知事に謝っていた。謝られた知事側も受け入れていた。

具体的に何を謝っていたかはよく理解できなかった。多分原発関連だと思うんだけど、具他的に何が問題なのかは明示されなかった。謝れば済むという文化は日本的で責任問題を先送りする有用な手法だけれど、これほどまでに「何を」が理解できない儀式は無いと感じた。謝罪を受け入れた知事は何そ受け入れて、何に不満なのであろう。全く理解できなかった。その割には大臣に対して高飛車という印象を受けた。
(福島県知事は結構偉いらしい、その割には馬鹿っぽかった。←個人的な印象です。福島県民は自県の正当性を主張したほうがいいと思います、原発の被害を受けたことは同情に値しますが、あの態度では、「福島県民は馬鹿なんだ」という印象を与えかねません。福島社民党党首が「だから福島なんだよ」という悪口を言われることを非常に懸念いたします。福島社民党党首は福島県とは全く一切関係有りません。)

 

震災復興で各種法律が足かせとなって上手く行かないということは理解できる。国が予算をつければ復興が上手く行くとはとても思えないんだけど菅氏はそれで批判を受けた。理念からロジックから徹頭徹尾理解できなかった事象を菅氏は甘受した。各種法律はその理由があって、例えば粗悪住居を除外する法律があるから被災地に簡易住宅の建築許可が下りないとか。まぁ想像はつく。それは政府の責任というのにはあまりにも短絡的だ。
例えば僕は「瓦礫は焼却すればいい(Link面倒なので)」と論じたが、有毒ガスが出るので法的にはご法度だ。横紙を破っていいかは地方自治体の即興で判断できない問題である。自治体自身に問題があるわけではなくて成熟した法秩序は即効性を求めらる震災とは合い受け入れられないという事実を述べたいに過ぎない。誰が悪いと言う問題ではなくてシステムの問題であって、システムが悪かったと決断できるかどうかもわからない。

政府が予算をつけても県が行政執行できない理由があるのだ。もちろんくだらない条例が理由かもしれない、じゃぁその条例が下らないのかという判断は誰がするのか。当然ながら設定者である県や市町村はその判断をする権限を執行するのは民主主義的にはいろいろと問題がある。

この件をはじめ馬鹿馬鹿しい条例や馬鹿馬鹿しい健康被害懸念を盾に反対する人がいる限り、明文化された条例を「超法規的で却下」と判断することは難しい。国がつけた予算を執行できないのは法や地方自治体側に事情があるからだ。それを「政府の対応は遅い」という批判は言い掛かりの類で、、、。自分の首を締め◎×△、、、規制が入りました。

なので、国の資金があっても行き渡らない事情は、既得権益者との折衝であったり、法や条例で問題になるということが割りと大きなスペースを割いているという感じがする。法の問題は仕方が無い。安全性や透明性を担保しなくては。県は?それも同様に仕方が無い、市町村も。資金を引き出すには正当性と遵法性が必要なので資金の支出が遅れるのはある意味仕方が無いのだ。

もし「災害時は違う」という主張はありうるであろう、しかしそこには「災害の定義」が事前にあったという前提でしか存在できない。いや災害はそんなものではないという主張もあるであろうが、クーデターを起こそうとした主張との区別はなかなかつかない。

そこで、ドヤ顔で東北3県知事が政府に批判を述べる態度には違和感がある。「できない」レベルだったり理由は同じでしょ、そこを突っ込むのはある意味反則だと思う。被害者面するのも程が有ると。大臣呼びつけて謝罪させてる構図ですよね。権威主義って見た目が悪いのは当然ですが、もう支援する気が無くなっても仕方が無いですね。もちろん知事が醜いからといって県民が醜いわけでは無いですが。しかしまぁいろいろと県民は割り引かないとならないと僕の財布は論じていますし、僕自身も色々と割り引きますよ。

県が復興に上手くいろいろな面でリーダーシップをとれない事情は分かります。それを国の所為にするのなら、それは違うんじゃないの?

 

政府の予算執行はできたけど、現場レベルでは結構予算執行に障害があって、現実的に理解できない県民への言い訳ってことはないですよね?もしそれが理由であれば

「覚えてろよ福島」、「調子こいてんじゃねーよ」とぶった切られないことを心配します。というかこの際面子ではなくて本音で「あいつの所為だ」とぶっちゃければいいんじゃないですか?

まぁそうも行かないですよね。「実際にはある風評被害」をなかったことにして購入米価を設定するとかありそうですし。
兼業農家は来年の米作付けを必要最低限にした方がいいんじゃない?国民も専門家も自給率を高めれば(調達先を国内に絞れば)安全だと思っているようですし。

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鉢呂経産相辞任についての雑感

武田教授が「東北で野菜は作るな破棄しろ(意訳)」に一関市長が終戦宣言をしたようだけど、武田氏の発言は徹頭徹尾理解できないと言うか根拠も不明なので最後まで読むに耐えなかった。駄文以下である。頭がイカレテイル文章にいちいち突っ込むのは面倒なんだけど、セシウム137の経口で0.1mgと書いてあったがソースは見つけられなかった。ADI50であれば/kg単位のはずで、体重を乗じないとおかしいわけで、分かり易さ重視なのかもしれないけれどなんか出来損ないのSF小説を読んでいるようで最後まで読むのは無理だった。

その出来の悪いSF小説に対して一関市長は「考えが分かった」と折れたようだが何を分かったのか明示してくれたほうがいいと思う。子どもが大事だから出荷するなと理解したと言うけれど全くそうは読み取れない。そもそLINKの第1パラグラフからしてその出典を見つけられなかったのだ。僕の理解では根拠が大嘘なのでそれ以下も被曝の根拠は提示されず、ファンタジーとして支持する人は居るのかもしれませんが。まぁSF小説でも「大きな嘘」は一つだけで、そこからの展開する嘘が多いとしらけます。

武田教授の主張は嘘に嘘を塗り固める、データ根拠の提示がない完全に出来の悪いSF小説の典型であり、読むに耐えない、また情緒的な表現が多く科学者の文章とは思えません(実際に読んでいません)。一関市長は最大限の祝辞というか譲歩を述べたようですけれど、それでいいの?訴訟したら、首長だろ訴訟しろよ。

 

と枕が大きくなりすぎましたが、鉢呂経産相の辞任劇もどうもすっきりしません。各紙表現文言が異なるのです(ソース探したけど面倒もあって見つからなかった)、発言がテキストに起こされても前後の流れを無視すればイメージ操作が簡単なのは常識だと思うのですが、その発言自体が正しいテキストに起こされていての批判でないのは異常だと思うのです。ブラックボックスで批判されて、まぁ似たような発言はあったのでしょうけれど、大臣辞任でその根拠がこれほどまでに不明確なのはやはり異常でしょう。鉢呂氏は消極的自殺をしたのかしら。

 

 

野田首相「バリアー張ればいいだけ」 経産大臣発言で~虚構新聞

 

 

虚構新聞が一番正しい報道だと疑っている。ダメじゃん虚構新聞、本当のことを報道したら。さらにさりげなく違法献菌まで報道して。名が折れるよ。
一般報道には嘘が混じっていて、虚構新聞が真実を伝えるのは世も末だ。

 


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