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コンビニ深夜営業反対の意味が分からない件

コンビニの深夜営業は温暖化に反するそうだ。以下私の頭の中の妄想、なのでソースとかはきちんと調べていません。

深夜電力料金が安いのは昼間電力量と夜間電力量で差があり、電力会社が発電量の時間当たりの平準化をしたいという理解であった。発電能力はベース発電(1日を通した最低限の発電能力)+変動量調整(昼間電力量-夜間発電量)で規定でき、最も発電量が大きいと思われる猛暑昼間時に必要な発電能力がインフラとして求められているてな感じ。発電量が最も落ち込むとき(冬の深夜?)でもその設備は必要。なので必要総発電量が一定であれば使用電力が昼夜・季節で平準化されれば、発電設備は最小限で済み、発電効率も上げられるであろう。以下、ベース電力が上昇すればエネルギーの効率化が図れ、温暖化ガス排出量が下がるという前提で論じます。

今仮定した使用電力平準化が発電効率上昇が正とすれば「コンビニ深夜営業」は悪いことではないと思う。深夜の営業効率が悪くて電気を無駄に使用しているのなら、止めたほうがいいかもしれないが、冷蔵庫は止められる訳も無く、照明を使うことがどれだけわるいのであろうか。しかも業界は深夜に配送をしているので経済損失につながらないと主張している。また悪評高い道徳のおでましか。

逆に考えれば人間が昼に活動し、夜寝るのは不経済であるということが導き出される。現在の給与体系は夜間手当てを支給して工場は24h操業をしているが、昼夜の平準化こそが温暖化対策となるとすれば間違っているわけだ。

例えば昼間だけ営業し、夜間は何もしていない企業は土地の効率化が悪いのは勝手だが、エネルギーの標準化からは最悪で、ペナルティでも取ればいい。例えば使用電力が環境負荷とリニアな関係と考えるよりは、使用電力×昼夜変動値みたいな部分の方が環境負荷を語るには正しいのではないか。例えば1kW/hを24h同じだけ使うのと、昼間だけ2kW/Hで夜間は0kW/hで使用する企業が同じ環境負荷だとは思えない。

そう考えると「コンビニ深夜営業」はエネルギー問題を効率化する上での必要最低限のインフラだともいえる。それを否定するという論理がさっぱりわからないのだ。

悪意な想像すると、「深夜に活動するのは不良で、不良のための24営業は不要」という環境とは全く関係ない道徳論者。あとは総使用電力量が増えていると勘違いしている算数能力欠如者とか。どっちにしてもかなり痛い人か。もっとも総電力使用量が増えることにより、結果環境的に優しくないと言うことが実証できれば賛成できる。まぁ絶対そのようなことはないと思われるのであんまり心配していないが。

そう考えると単なる印象とモラルを強制する人が居て、それに反論できない社会形成が行われていることが貧しい。そんなこと一瞬で分かると思うのであるが

環境問題は票になるであろう、予算も獲得しやすいであろう。でもそれは本当か?と思うことのほうが最近増えてきた、(いや昔も多かった)。

結局コストかかりすぎ。反省できないのね、環境は。

サボって資料を集めていないので断言した割には自信がありません。間違っているなら引っ込めるので連絡ください。

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救急車無料存続案

過去のエントリーで救急車が本来使う必要が無い人間がフリーライドするため現場が疲弊するという問題に対し「有料化」という提案をした。

有料化の欠点は、自分がさほど重要でないと勝手に判断してその結果不利益を被るというもの。救急車を呼ぶことを遠慮して(金が無くて)その結果不幸になってしまうことを防がなくてはいけないという考え方がある。そこを補強するのが以下である。

まぁそれでもいいと思うのだが現状のシステムを大幅に変えることとなり、反発があるというのであれば、ゲーム理論の「しっぺ返し戦略」方法で行けばいいのではないか。しっぺ返し戦略はルールを破るとそのしっぺ返しを行うという概念だ。具体的に言えば「3回無駄な救急車を呼べばその後相手にしない」というもの。まぁ「狼が来た法」と言った方が分かりやすいかも。こんなことは誰でも思いつくし実際提言されているが、理論的な裏づけがあれば採用しやすいのではないかと思うのだ。

通報時の技術的な対応としては電話番号からのブラックリストを消防署が持てば良いし、そのルールを理解できない人は撃沈していただかないといけないというロスはあるのだが。刑務所に行くために犯罪を犯す人が居るご時世では受け入れられるのではないか。

この方法の欠点は「いけにえ」が必要なことと、いけにえの存在が正しく理解できるかということにある。救急車を毎日呼んでいる人が「あと3回意味無く救急車を呼べばもう来ません」と通達しても「どうせ」と思われたら意味がない。そして事件が起こってもそれを知らなければ同業者の抑止力にならない。

でもなんらかしらの対応を求められているのも事実。有料化は徴収コストがかかりそうなので、この方法はどうであろうか。

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義務・高校教育を軽んじるのはやめて欲しい件

ドラマ見過ぎです、月~水、土はドラマです。その中で永作と新垣・戸田をムシなんてちょっとありえない状況なのですがつまんないものは仕方がありません。まぁおかげで飲みが減ってちょうどいいのですが。なので木・金曜日はデフォルトが飲みです。

そのドラマなのですが、「太陽と海の教室」「モンスターペアレント」で「学校の教育は役に立たない」と断じているところ。おいおい、使うって、そんな風だから文系の奴らは技術に興味がない、というかそもそも勉強しようともしない。以下愚痴です。

たぶんこれらの脚本を書いている人も、技術やコストが分からなくても生きていけると勘違いして大損こいていることさえ気が付かないで居るのではないでしょうか。特殊な文筆業の常識でメーカーが直面する技術(科学)を「社会では使わない」と一刀両断するのはとんでもないことだ。従来技術系は社会科学に興味を持たなかった、あれは文系君の仕事みたいに、ところが昨今の経営改革で否が応でも経営学・経済学・会計の知識を求められる、社会科学を日々勉強しているのだ。例外は多数居るが、部課長になった際、経営陣と議論をするにはこれら社会科学の知識が必須なので若いうちから勉強しようと言う機運がある。ところが文系君は「科学ってなぁに」なのだ、知らないことを恥に思わない神経がグレート。

ジェンダーを引きずるせいか、女性は出世意欲というか人を使うことに遠慮のかけらが見える。「所詮この程度」というのを自分も周りもポジショニングしてしまうわけだ。おまけに頭が悪いわけではないから、出世競争に興味がないので、自分のポジションの最適解になる。そしてそれは会社の最適解ではない。その上技術の勉強をしないので部署間コミュニケーションが機能しなくなる。本社担当者(コーディネーター)はそれでもいいと思っているのだ。

(科学は知らなくていいと公言している)馬鹿は相手にしたくないのだが、商品開発系→研究所→工場と仕事が依頼されてくる、スタートが馬鹿なので技術系は相手をしたくない、というか絡みたくない。もちろん研究所や工場が本社の苦労を知っているわけではないが論理的な説明も無いので本社の苦労が分からないのだ。そしてそれでもいいと本社が思っているのがかなり不思議。

私も本社勤務の経験があるが、「商品仕様」を決めるというのは絶大な権限で、その開発スケジュール管理や技術コーディネートは本社が作成する。だからこそ研究所・工場も本社の言うことは表面上は言うこと聞くのだ。本社のペイペイが工場長・研究所長に直談判できるのにしない、という意味が分かってないらしいorz。

経営のイノベーションは技術系には「お尻に火が付いた」状態だ、もちろん旧態依然の方(部分)もいるであろうがトレンドとしては経営を理解しようとする機運がある**。ところが足元の文系君は営業にしろ商品開発にしろ、自部署の論理で動くのだ。

自部署の論理で動くことはその人にとって見ればリーズナブルであろう。商品開発は「売れる」ことが至上なのでコスト構造に気を使わない、営業は自分の財布じゃない(=無料)ので利益額よりも売り上げ額を重視する。でもそれでいいのか?技術に興味も持てず、経営にも興味が持てず、しかも職人になる気もない。行き当たりばったりで近未来のビジョンを描けていないのが理解できないのだ。

本筋に戻るが、自然科学・社会科学のどちらも軽んじるのは企業人として不完全だ。最低でも中学理科くらいは常識だろう、いや高校科学(物理・化学等)は企業人の常識だろう。不完全を補って余りある人は学者にでもなればいいのだ。そして「国語」もレトリックではなく論理を使えよ、ロジカルに説明できないでどうして仕事がスムーズに行くのか。

自然科学系でも統計学や論理学を修めていない人は非論理的になりやすい、しかし共通の職種の土壌がない人が議論するには最低限の知識が必要であり、それを上手く伝えるツールが必要だと思うのだ。それを「数学」を知らなくても生きていけるという発言は個人的な印象であるだけで、一般化するのはどう考えてもおかしい。まぁ馬鹿のことを「馬鹿」と扱って世の中が上手く行くのであればそうするが。そうでないから問題なのだ。

「学校で教わることは役に立たない」という認識はかなり特殊な認識だと思う。それを堂々と中高生の見ているドラマでのたまうのは害悪だ。まぁその脚本を書いている本人がその重要性を知らないと言うことは理解できる、概ね損をしていて、その実態に気付かないと言うことであろう。

中堅メーカー商品開発の悩みどころ~だめリーマンの思考法

**実務や概念としては工場にしろ、研究所にしろ理解しやすいと思う。というよりは概念だから理解できるのであろう。原価率が会社の経営にどのような影響を及ぼすか、合理化が会社にダイレクトに利益をもたらすかということをしがらみ抜きで理解できる点で。

 

 

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エコランの極意、正体は減速だ。

旧聞の上、クルマを持たない小生だが、周りを賑わしている燃費低減運転の極意として「加速はゆっくり」というのがあった気がする、多分それは半分正解半分間違い。

というのは「減速してはいけない」が正解だからだ。もちろん減速しないための加速はゆっくりした方がいいに決まっているが寄与度は減速の方が高いであろう。

加速はいわゆる燃費の問題で、加速度が高ければエンジン負荷は高くなり燃費が悪くなる。ところが減速はその後の加速を必要とするため、減速しなければ加速する必要が無いのだ。減速しなければゆっくり加速する必要もなくなるというわけ、なので減速の方が大事なのだ。回生ブレーキが無いクルマで渋滞時燃費が悪いのは、加速→減速を繰り返すためなのはご存知の通りだが、減速しなければ加速は必要ないということになる。なのでアクセルオフ&ブレーキを踏むのはエコランではご法度なのだ(必要なブレーキを否定しているわけではない)。必要に応じてエンブレ(エンジンブレーキ:アクセルオフによるエンジンの抵抗)も忌避してニュートラルにすることも。フットブレーキもエンジンブレーキもブレーキには変わりないので峠の下り坂でエンブレを使わないのはトラブルの元なので注意。過加速を防ぐには急加速もNG。しかし、急加速をしないだけでは効果半分なのだ。

要はアクセルを踏むのはガソリンを消費するのだが、ブレーキ(含エンブレ)も同じくガソリンを消費するのだ。

減速しないというのは先読みと言うか予測が必要になる。前が赤信号になったらアクセルオフにして緩やかなエンブレで減速し、前のクルマが動きだすのを読み、最低速度をいかに下げないかというゲームにもなる。減速しないためには加速しすぎるのはご法度で、巡り巡って減速しないために加速しないということになる。

一番最低なのが等速(一定速)運転時、アクセルオンとオフを繰り返す運転だ。オンで加速し、オフで減速するという燃費にも同乗者にも優しくない運転だ(これは正直酔う)、というかそんなクルマには乗りたくない、下手糞タクシー&バスめ。

私が練習していたのは「減圧計(ターボの場合加圧計)」を見ながら(過給圧が)一定以上にはアクセルを開かない(=加速度を上げすぎない)と同時に、信号青→加速→信号赤→減速の際、アクセルを踏む回数を極力一回にすること(踏む→キープ→緩めるで1回)、そして前の車が動き出すタイミングを見計らってブレーキを解除し、最低速度を上げることだった。加速→等速(一定速)→減速(その減速は最低限に)→加速といった具合

これでランタボ(A175A)で最高15km/lを叩き出したし、北海道旅行の際、レンタカー(スターレットEP:ノンターボ)で平均時速40km/hで40km/l以上を出せた。どちらにせよ、よっぽど平均速度が低くなければ高速のほうが燃費が悪い状態だ。多分右車線を中心に走っていると高速時の空気抵抗が大きく燃費に悪さをするのだと思う。

プリウスで燃費チャレンジしてみたいがどんなものだろう。プリウスは減速後の加速を電気で補っているとすると、プリウスには効かない運転法かも。

 

実はブースとを上げ過ぎない、下げ過ぎないという峠で攻める際のテールスライドでのアクセルの微調整の練習だったりするが。

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好きな仕事に就くという妄想

私の身近には早々と辞めてしまう若者が居ないので新聞記事などを鵜呑みにした上での印象を。

まず受け入れ側からの視点。3年で辞めた若者を採用するという理由がピンと来ないから想像で論じる。3年といえば社内研修をやる企業では実質2年半、実務の経験は期待できない。その若者も「この業界ではないところでチャレンジしたい」と宣言しているに等しいので同じ業界には進まないであろう。ということは受け入れ企業は実務を期待しているのではなく、3浪生、もしくは3留生を取るのと同じ感覚なのであろうか、少しは社会常識があるという前提で。しかし、正規の社内教育プログラムを受けていない者をどのように使うのか。配属先に任されることになるのか。そのような人材を受け入れるのは余程の人手不足でなければリスキーだ。またはそういった前提で人材の流動性の高い業種なのであろうか。よく分からないが給料面以外でそんな職場が魅力的であるという可能性が有るのか、よく知らんけど。

例えばBtoBの営業職の場合、営業のセンスはある程度汎用的なスキルであろう。デリバリーや在庫管理、新商品への対応スケジュール、価格交渉など。しかし継続取引でのデリバリー管理だけでは価格低下圧力が増すため、新規商品の採用を要請する必要があり、そのためには技術の勉強が必要なのだが、そういった勉強にはコストがかかる。

なので営業力も未熟で業界常識も無く、当たり前だが商品知識も無い者を採用するということはあまり状況がよろしくない業界に限られる。

一方、3年で辞めてしまう方はどうであろうか。これは色々な理由があるであろう。先輩を見ると給料が上がらないとか、やりたい業界・職種でなかった、上司が嫌い、職場の雰囲気が悪いなどだ。今挙げた理由のうち転職に値するのは「先輩の給料が安い」のみであろう。それ以外であれば転職を考えるよりスキルを磨いた方がいいと思う。

例えば新人が2~3年先輩を追い越すのは非常に大変だ。人脈・経験・スキル、どれも劣るからだ。少々頭(カン)が良くても若いうちは2~3年の遅れは絶大なのだ。なので3年で辞めるのは3浪したのと同じか以下なのだ、「同期」という割と便利な存在が居ないので「以下」と表現した。実際、同期は情報収集や人脈に非常に価値があるので、同期が居ないのは孤独な戦いとなる。例えば同期の上司の課長には「○○と同期です」と言えば話が通じ易い。なので3浪以上のハンデとなる。給料の上昇率がそのハンデ以上を見込めない限り、転職は負けである。転職を考えたらまず、退職金込みの生涯賃金を計算すればよいであろう。

上司が嫌い・職場の雰囲気が悪いという事例は、受動的な感覚と理解すべきだ。上司の要求に応えられないから嫌いになるのであって、実力が付けばどうにでもなる。他部署と付き合うようになれば転勤を願い出ても良い。自分の仕事環境は自分で作るのだ。なので転職先でも同じことが起こる可能性は低くは無い。何故かというと、その本人が仕事そのものを勘違いしている場合が多い。またとんでも上司だとしても実力を磨かないうちの反逆は無駄でしかない**

職種に対する思い入れは微妙な部分が多い。技術系であれば研究職を目指したら工場・技術職に回されたなど。どの会社も同じというわけではないが、仮に研究職に憧れていても、単純に憧れるのではなく、状況を理解しよう。研究職は同じ作業の繰り返しみたいな部分が多く、「研究」に憧れを持つというのは理解できるが、現実はそうでもないよと言いたい。技術系であれば自企業の研究の様子は2~3年では見通しが付かないであろう、なのでやりたい職種の現実が見えてきていないと思う。派手で出世コースの部署といっても役割によってその重みが全然違うとか。同じ部でも課が違えば全然違うというのは良くあること。

研究・開発系に行きたかったが生産・工場系に配属になった人は悩ましいかもしれない。実はロジックが全然違うからだ。それでも生産系の仕事にはそれなりの面白さがあり、無駄ということは無いと思う。3年で辞める気であれば、3年で全てを理解するぐらいの努力をまずはした方がいいと思う。その上で「やはり駄目だ」というのであれば反対はしない。

現職場が嫌いでイメージで転職したいというのは絶対に止めた方がいいと思う。まずは自分の仕事を3年で極めてから考えた方がいい。単純な職場であれば3年である程度極めることは難しくないであろうから、上下1~2年の人材で1番にならないと転職で成功するのは難しいと思うのだ。

ちなみに私の周りに転職経験者が割と多く居るが、前職を生かした人しか居ない。若年での転職者は取るメリットが存在しないからだ。それでも実力が合っても人脈面で損をしたり、やはり実力が無い(と思われる)者が多い。理由は簡単で「実力が合ったら辞める理由が無い」と思われるからだ、そして実力があるにもかかわらず辞めるのは出産以外では適応性に問題があるという色眼鏡で見られるからだ。

一方、転職は部署採用の場合が多いので、研究なら研究で採用となる。この点ははっきりしている。しかし、人気部署は正規採用者が独占していることが多いので若年採用はなかなか無い(経験者は別)。

まとめると若年者の転職は(1)転職先で同年齢の人達に差を付けられる、(2)定期昇給率に差がないと金銭的に損をする、(3)人気部署の採用は少ない、(4)圧倒的な実力差が無いと挽回しずらい、(5)嫌な上司はどこにでも居る、(6)「こんな筈では無かった」というのは結構多い。

というところか、健闘を祈る。多くの若者はそれより今の仕事を好きになるくらいのめり込めばと老婆心ながらに思うが。

 

実力とかスキルとか漠然と論じたが、これは仕事を論理的に進めるということ。自分のするべきことを上司と論理的に議論し、やっつける能力のこと。やっつけることがいいこととは思わないが、その実力が無いのに「自分は正しい」というのは単なるアホサクというか未熟なのだ。要は未熟状態から脱却しないと自分ひとりで戦う(転職する)のは大変だよということ。

**嫌いな上司に楯突いていたら飛ばされた、実力があれば拾ってくれるところもあるさ(笑)。飛ばす先が無い人(飼い殺し)もよくあるパターン。

***我が社は非常にヌルイ社風で、(我が社の)中堅の人が転職して食っていけるのか非常に心配になる。ご多分に漏れず余りいい噂は聞かない。ヌルイ社風で通用しない(上司・仕事をコントロールできない)のに他社で上手く行くわけがあるはずも無く、実際その通りのようだ。中堅でもそうなのか、中堅だからそうなのかはどっちもどっちということか。

****給料に不満があって転職した人は満足している様子。他人と給料を比べるのではなく、転職しなかった絶対値を元に現給料が満足するかという天秤にかけて転職したようだから。ある大手企業子会社に転職した人は生え抜きも居るし、親会社からの左遷もあるし「出世は諦めた」がそれでも生涯賃金が上なので仕事を好きになれば納得できると言ってた。仕事を好きになるのは仕事を続ける上では当然です。

 *****実は私は新卒就職時、機械系だったこともあり設計・生産技術系に興味があった、もちろん具体的な知識があったわけでもなく。そして研究職になったがそれはそれで楽しめた気がする。他の同期に「研究所いいね」と言われたがピンとこなかった。何に仕事の尊厳を見出すかはその仕事に打ち込む以外分からないのかもしれない。

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BtoB営業マンに期待すること

私はメーカー研究所勤務なので、営業は日々使う資材メーカーと、新規に開発していこうとする資材メーカーと実験機器メーカーに限られる。そんななかで営業に求めることを述べてみたい、いわゆるBtoBだ。もちろん理想論だと思うけど。というのは最近ぼんくら営業マンに振り回されてエライ目に遭ったからなのだ。

(1)自社商品の知識が希薄

多品目を扱う実験機器メーカーならともかく日々使う資材はとんでもなく種類が多いというわけではない。細かな仕様の違いとか、その特長を質問していちいち持ち帰るのはどうかと思う。その商品の細かいことを知りたいこともあるが、まずは使ってみたいからの概要を聞いてもピンとこない営業マンは多い。デリバリーや納品スケジュールが気になるのは分かるが自社商品への簡単な技術的な質問ぐらい答えろって言うの。分からなければ技術屋を連れてくればいい。技術屋を連れてきたら来たで、その議論の中身を全然理解していないのはおかしいだろ。商売する気が無いなら研究所に来るな、もう推奨しないから、はっきり言って欲しい「御社とは取引したくありません」と。

(2)商品を使えばどれだけ得になるのか説明できない

展示会で名刺を置いてくると、飛び込みの営業のアポがくる。来る者拒まずなので忙しくなければ会うようにしている。どんなネタがあるか分からないからだ。要望を伝え、その中でどのような提案があるかと聞くとまず困るらしい。自社一押しの製品を説明に来たのにそれはいいからと言われるからだ。彼はそれでもその商品の説明をする。そこで私は必ず「弊社がそれを採用すればどんないいことがあるのか教えてくれ」というと困った顔をするのだ。新商品は高コストであることが多い、一方私が欲しいのは余程需要にマッチしない限り、安い技術が欲しいから。もちろん展示会現地でも電話でも伝えてある。それでプレゼンできないのでは来る意味がよく分からないのだ。

この間「生分解性プラ」の売込みがあった、性能は良さそうな上、コストと実績の返答もまずまずであった。コストはある程度度外視して、技術的に使えるレベルまで経験を積みたかったので良い売込みであった。「カーボンフットプリント的(トータルCO2排出量:原料が植物由来でも原料製作時にCO2を排出していたら論理的に環境対応とはならない)には使う意味があるのか」と質問したら、頭を掻いて「疑問がある」と正直に答えた、経路が複雑なので答えは出ないとも。他社の営業マンに同じ質問をしたことは何度もあるが、意味が通じなかったり、持ち帰ると言って音信不通だとかでその営業マンのような技術対応はほとんど無かった。

研究屋としては常に新しい商材を求めている。コストと性能が合えば直ぐにでも検討したいし、戦略的に経験したい分野があるのも事実。ところが第1印象で「この営業マンは技術的な対応が不可能だ」という烙印を押されたらもう付き合えないのだ。我々が何を欲しているのかを理解できないからだ。

クレーム対応も同様だ。大量生産の品物では現場のミスでクレーム品が届けられることもあるだろう、新規商品に過去の資材を充てていたら不具合を起こすこともあるだろう。そこでの対応がキレイな営業マンは好印象だ。私だってメーカーの一員なので製造トラブルがあることも承知しているし、無茶な対応を求めているのではない。クレームの内容を一報入れてその対応策を練るにあたり、こちらから催促しなければ連絡して来ないとか、近々のスケジュールを守れない・遅れる連絡が無いとか。まぁここまでひどい営業マンにあったのは初めてだったが。

結局、営業マンは御用聞きではないということだ。もちろん飛び込みで自社製品を売り込むことでもない。企業の活動は自社製品を買ってもらうことで顧客に得をさせるという基本的なことなのだ。もちろん価格を下げて売ることだけが顧客の利益ではない。「従来の技術であればこれだけの費用がかかるが、新しい技術では(この点を許容してもらえたら)これだけ安くなります」というような提案能力なのだ。

放っておいても注文が来てデリバリーに細心の注意を払うことを求められる営業職もあるとは思うがそれはペイペイの仕事であろう。新しい注文を取りに行くにはこのような提案能力が必要なのだが、、、、。

そういう営業マンがあまり居ないと思うのは私だけ?

 

参考)事業開発時の成功法則「作る前に売る」「仕入れる前に売る」ビジネス本マニアックス-働くひとのためのスキルアップ ビジネス書エトセトラ-

 

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日本人に平和・友愛主義者が多い理由

グルジアの戦争をある点ではロシアと米国の力関係を見据えてグルジアが先走りしたのではとの論調が多い。やはり気になるのは「停戦」を主張するだけ、停戦は多分問題解決の先送りだろう。「こうあるべき」という論調が出ないことが民族・歴史・宗教の上で根深い問題をはらんでおり、単純に「こうあるべき」が主張できないのであろう。

サヨクと称される方々を大雑把にくくるとマルクス・レーニン主義と避戦派(九条派)に分かれると想像する。ここでは避戦派を平和・友愛主義とする。いわゆる「戦争反対派」のことだ。私の世代は「戦争は悪」という教育を受けてきたのでそういう方々が多いのは想像に難くない。以下は本を読まずに勝手な妄想です。同じようなことを主張されている方も居るかもしれないし、根本的に間違っているかもしれません。

 

民族のモザイクの地域や中東の小競り合いを見てると根本的には日本人に理解できないことが多い。理解できないのは主に宗教や民族問題。逆を言えば日本人は平和・友愛主義を受け入れる土壌があるということだ。

日本には基本的には民族問題が存在しない。アイヌ・琉球などの少数民族が独立をしたいという話は聞かないし、鎖国を敷いていた薩摩も根本的には民族問題ではない。朝鮮族が日帝時代に移住してきたが、彼らとて帰国・帰化を選択する自由がある。

宗教問題も存在しない。日本人の多くは無宗教なのか仏教徒なのか神道なのかよく分からない、よく分からないほどどうでも良いこととして扱われている。他人に自分が信仰している宗教を押し付けることも無ければ反目することも少ない。自分は自分、他人は他人というスタンスが常識というコンセンサスが行き渡っている。○○教だからといって迫害されることがなければ、○○教の既得権を拡大するという行動も見られない。過去には比叡山と織田信長が闘争した歴史があったが、三傑(信長・秀吉・家康)が宗教の力を徹底的に削いだ、また明治期には文化財を捨てたという悪の側面もあるが廃仏毀釈で宗教色は取り払われた。他国は知らないがそのおかげもあり、日本には宗教問題が無い。

陸続きの国境も存在しない。紛争になりがちな陸続きの国境も存在しないことは他民族との接触も必要最低限なので、紛争は少ない。現在はEEZの関連で国境をきちんと決める必要があり、それで日本も他国と国境紛争を抱えているが基本的にはお金の問題で面子やら泥沼にはまりそうな理由は無い。

明治政府は「日本人」というのを利用した。過去は封建主義で日本国内に色々な国があり交流もそれなりに少なかった状態であったが、ナポレオン期のフランスのように「日本人」を意識し、国内宥和政策をとった。なので民族問題や地方問題は少ない。ネタで扱われるような会津は長州が嫌いという程度で収まっている。それでも若いカップルがロミオをジュリエットの様になるわけでもなく完全にネタ扱いだけど。

戦後の日本には「国境・民族・宗教」という問題が無かった。現在の紛争多発国の論点は結局それらなので、日本人には紛争の意味を理解できないのであろう。だからこそ平和・友愛という理想主義を受け入れる土壌が合ったのではないか。

もひとつ。太平洋の安全保障を米国と対等に築こうとした場合(日本の安全保障を日本独自で築かないといけないとき)、平和友愛は成り立たないと私は思っている。なので米国(米軍)が居るという安全を確立した上での論理なのではないかと。

日本は人口が多く、経済発展が大きくアメリカは無視できないとか、韓国・台湾を含めた極東・太平洋安全保障がある中での「平和友愛論」なのではないかと思うのだ。

このような日本の状況が平和友愛を受け入れる土壌だと思う、そして「何故平和を望まないのだろう」という思考停止を助長する土壌があるのだ。これってすごい幸せなことだと思う。なので日本人は多分アメリカ人よりも数倍幸せだ。

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デブは電車禁止と喫煙痩せがほざいてみる

私は喫煙家で痩せている。寿命は短い。それに対してはどうこう思わないのだが、あまりの禁煙バッシングを主張されると標題の件を言いたくなる「喫煙家も迷惑をかけるけど、デブも迷惑をかける。喫煙家はタバコを吸わなければ善良な市民だがデブはいつでもどこでも邪魔だ。」と。いえ、本気ではありません、逆恨みです。当然ですが喫煙デブを貶める意味でもありません。ネタですのである程度だけ本気にしてください。もちろん全無視も望んでいません。ちなみにそのような人が居るか居ないかは知りませんが「嫌煙デブ」にからんでます。そもそも不快な主張なのですが、いやらしく述べます。あくまでもネタです、ヒステリックな主張に対する。ちなみに私個人がデブを嫌いというわけでもありません、それでも邪魔デブは嫌いです。先鋭的な嫌煙家に会った事がないのですがデブだと勝手に信じてます。

ちなみにこのロジックだと喫煙デブは最低×最低の最最低男となってしまうのですがそれでは都合が悪いので、喫煙の有無は除外して考えよう。そして地味な公害でガム愛好者というのも居るのですが大人の都合で割愛します。

社会設備は標準体型を基準としている。なので自由空間を占めるのはあまり問題はないが、一人当たりのスペースが決まっている空間をはみ出すのは精神的な圧迫感だけではなく、はみ出すことによりこちらと接触し、デブ特有の体温を押し付ける。想像して欲しい、飛行機のエコノミークラスで、新幹線の指定席で隣がデブだったら。デブのほとんどは自テリトリーをはみ出す。新幹線・飛行機で言えば肘掛を独占する/いやはみ出す、下手すれば膝もはみ出す。これは言い掛かりの一種だが暑い。しかもデブは体を脂で覆われているため体温を外に逃がすのが苦手なため、汗をかき、暑がるので非常に暑苦しい。

何故デブは隣に迷惑をかけるのか?隣にはみ出し迷惑をかけているのは明白なのに意識しているようには全く見えない。新幹線で真ん中の肘掛を独占するのはデフォだし、足は睾丸涼風モード(股全開)、こちとら邪魔オーラでかばんで足を突っついても、肩で押し込んでも反応はまず無い。私自身の経験では極々少数の方達だけの反応であった。なのでデブが隣に来るのは災難だ。しかも率が少ないのであれば諦めもつくが諦めの境地に至るには納得できないデブ発生率なのだ。デブほど気を使って小さく座席の中からはみ出ないという圧迫を日々受けているとは思うのだが、デブは他人との接触と慣れているので気にしないらしい。なので私のとっては「たまの不幸」であるがデブにとっては「日常茶飯事」なので、他人との接触に慣れている。だから反省しないのだ。

なんか他人を陥れるのって趣味じゃない、気分が悪くなってきた。嫌煙を強固に主張する人の気分が分からない。相手を罵倒してるだけで建設的でない上、人格に問題があるのだろうな。まぁ多くの嫌煙家がそうだとは思わないが。

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レジ袋は環境問題と関係ないはずなのだが

長いエントリーですが分割するのが面倒だったのでこのまんま。

プラごみリサイクルの動き(容器リサイクル法)にしろレジ袋有料化の動きにしろ、なんか本質を忘れた議論でどうもしっくりこない。それもそのはずで両者ともそもそも論は「ゴミの減量化」が目的で環境問題(ゴミ問題は広義でいえば環境問題だが)ではないからだ。だからロジックが破綻している。

税金を徴収したり、支出したりはかなりロジックの整合性を求められる。しかしトレードオフや利権(既得権を守ろうとか新たな利権が欲しかったり、損をする人がいたり)の調整を「政治決着」で玉虫色になったりはすることはあっても、そもそも論としての論理整合性は堅牢であったはずだ。役人は専門性については疑問符は付くにしても文書作成能力(論理の構築)には有能なのだ。

それがどうも疑わなければいけないのが環境関連の政策だ。

容リ法はゴミ処理施設の能力の問題で、ゴミの量を減らすのが理由であった。入り口の時点で資源に回せるもの回す、焼却場の能力が足りてないので燃やさなくて済む物は埋め立てるわけだ。その分別収集 費用を商品の価格に乗せるのが容リ法なのだ。

これは容器の重さに掛かる税金の従量制である、容器材料を減らすというインセンティブが働くはずだったのだが世の論調は斜め上を行っているというのはこれまでの主張どおり。

ゴミを減らすインセンティブはもう一つ方法があって、ゴミ回収費用を従量制とすることである。指定のゴミ 袋に処理費用を乗せて、それ以外のゴミ収集を拒否するのだ。無料ならゴミの出し放題であるが、有料であればゴミを減らすのは当然であろう。そこで今まではレジ袋で出していたゴミであったが指定の袋でないと認めないことにしたのだ。東京都松江市等でこの手法を用いている。

でもアレなんだよなぁと思わせる事件もあった。東京都はこの指定ゴミ袋を巡って重大なミスを犯した。上述したように焼却炉の能力が足りないので指定ゴミ袋制度は出し放題のゴミを減量するのが目的なのだ、そしてゴミ袋自体を有料化し、それ以外を認めないという案を作成した。ところがそのゴミ袋は「焼却炉を傷めないのか」という質問に対して「燃焼カロリーを抑えるために炭カル(炭酸カルシウムCaCO3)を袋に混ぜた」と回答した。その時はそれでもその論理整合性はあった、しかし炉の整備ができた現在も東京都はプラゴミを助燃材と使用して、生ゴミを燃え難い指定袋で燃やしている。うーん、よく分からん。この論理整合性の無さは異常だと思うのだが。

これはなんとなく環境ブームに乗ってしまって、論理整合性を役人が放棄したように思えるのがゴミ・環境行政なのだ。専門性も無い上にロジックの構築もできない環境行政屋にどんな価値があるのか教えて欲しい。

 

ここまでが前置きです。杉並区ではレジ袋有料化の法制化の動きがある。杉並区では指定袋での収集なので、レジ袋は「直接ゴミになる」としているのだ。それはそれで正しいが、それと環境問題を結びつけるのはさすがに無理がある。杉並区の環境目的税のねらいとしくみには「環境対策の一層の充実を図る」とあるのですが具体的な効果や目的は一切無くこんなことで徴税が許されるというのが全くもって理解できない論法なのです。なにしろ具体的な目的・金額・使用目的がないのですから理解できる方が不自然です。また杉並区レジ袋削減協議会というのがあるようだがこれには「レジ袋は、使い捨て文 化の身近な象徴」とあり、やはり具体的な効果は謳われていません、象徴を無くすために何故徴税をしなくてはいけないかの説明は一切ありません。

なんか目的のはっきりしない、思考停止の観念論が罷り通る感じが否めない、それで徴税するとは、恐ろしい。

その上、私の属している自治体ではゴミ指定袋が無いので、この議論が単なる地域限定の話だと思っていたのですが、マスコミの報道っぷりはその背景を説明しないので、それ(レジ袋無料)ではいけないような気分が醸成されつつあるように思える。いかんなぁ。

 

さてこのレジ袋有料化の政策は誰が得するのであろうか。これは流通であろう。今まで無料で配っていたのが有料になり、有料になったとはいってもゴミ袋内の小袋として利用されていたのでそれなりに需要はあるだろうし。小袋が無ければ市民は小さい指定袋で出す対策も考えられる、ゴミ指定袋の売り上げも増える。おまけに自分の店だけではなく地域の店全部が行えば競争上の不利も無い。賄賂を払ってもやりたい政策だ。ところが流通は反対声明を出している、また杉並区以外にこの法案が波及するかは微妙なところ。何でだろう?てっきり流通と区長(区議会)が結託する以外のインセンティブが考えられないのだが。不思議だ。

ひょっとしてガチ?要はごみ減量の流れを環境にすり替えるのはかなりの無理がある、というか分かってない?「信じる者は救われる」的では救われないって、根拠の無い事を信じても。分かっててやってるのであれば利権がらみの御食事券だと思ったがそうでもないのかやはりそうなのか、まぁどっちでも駄目だこりゃ。

 

当時は燃焼カロリーと言っていたような気がするが使用PE量が同じであればカロリーは同じ、燃焼速度を抑えて急激に炉の温度が上がらないと言いたかったと予想する。

**ゴミを減らす方法はもう一つある。収集回数を減らせばいいのだ。週3回を2回に減らせば収集費用 は軽減されるし、ゴミが減る。ゴミが臭う夏季以外は可能であろう。

***ごみ減量運動のひとつのきっかけは海外の500mlPETボトルのミネラルウォーター解禁でした。外圧に負けて解禁したのをきっかけに国内メーカーも500ml以下のPETボトル製品を出しました。それまでは1リットル以上しか認められていませんでした。それがきっかけでゴミ処理能力が追いつかなくなりそうになりました。さらに追い討ちをかけたのがダイオキシン問題です。焼却炉は高温で燃焼させると炉が傷む訳ですが、低温での焼却はダイオキシンが発生するということで大いに叩かれました。ダイオキシン類での健康被害はカネミ油症がありますが、ゴミ焼却場は現在の知見で言うと全く問題がありませんでした。これがきっかけでプラゴミ焼却忌避の動きがあり→埋立地が足りなくなりそうになり→高温度高能力焼却場建設という流れの上にあります。本当にその投資が必要であったか?多分無駄であったでしょう(まぁこれは見解によると思いますが)。

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保存料無しは嘘か危険かのどちらかだ

標記の件、加工食品に詳しくは無いけれど、ど素人でもないという観点で。

アサ○飲料のサイダーのCMで「保存料ゼロ」と謳っていることを考えてみる。保存料というとなんか合成食品添加剤的なイメージがあるのか「無い方がいい」という扱いのような気がする。少し実態を紹介しよう。

このCMの表現は法律上はともかく科学的には間違っている。なぜなら炭酸がpH(酸性度)を下げているから雑菌の繁殖が抑えられるというわけで、炭酸が保存料なのだ。植物由来エキス(果汁等)を含まない酸性飲料は法律で殺菌の必要がないとされているほどの存在なのだ。ちなみに炭酸を含まなければこの飲料は殺菌の必要があるであろう。菌の混入率の高い果汁が含まれているものでは60℃×10分程度の殺菌が必要となる。一方中性飲料(牛乳分を含むコーヒー等)はpHでは菌の繁殖が抑えられないためレトルト殺菌(120℃×20分)程度が必要なのだ。同様の扱いとしてpH調整剤などもある。

菌を殺す能力は無いけど、一定以下に減らした菌を増やさない薬剤もある。簡単に言えばアルコールだ。なので酒精というものがそれに当たる。当然であるが普段飲む物だ。そして多くの場合は加熱するまで保たすことが目的なので、加熱調理をすれば揮発する。

他にもある。菌は水がないと増えられないので水(自由水)が無ければいいのだ。糖分を増やすことだ。従来からの保存食であるジャムなどの糖分が多い製品がそれにあたる。これに至っては砂糖(糖分)が保存料に該当する。なので糖分減少品は足が早い、保存料をケチっているわけで当然だ。

まだある。イオン濃度が低い方から高い方へ水は移動するので(浸透圧の原理)、塩分が高ければ雑菌内の水分が浸透膜を通って脱水症状をきたすため、傷み難い。塩蔵品や干物がそれに当たる。この場合は塩が保存料である。減塩品は足が早い、こちらも当然。

保存料という単語に脊髄反射することがいかに愚かであるかわかるであろう。もちろん保存料(保存料になりうる物質)の全てが安全というわけではない。しかし、間違った認識が正当な保存料を追いやり、食中毒リスクを高めたり、別の表現に逃げて結局消費者の不利にならないかということだ。

ステレオタイプの単純な化学物質忌避は馬鹿と断言できる。全ての物質は定義上化学物質だからだ。だから専門家も「馬鹿は放っておく」というスタンスになるし、正しい科学知識の上での主張でないとたしなめる気にもならない。まぁ馬鹿まっしぐら状態な訳だ。

不安を持つことは悪いことではない。しかし自分の思い込みに近い主張を持つ専門家だけの意見を聞くのではなく、他の主張も聞き、自分で勉強して判断して欲しいのだ。ほとんどは高校化学で理解できると思う。

不安と安心は安全とは違う概念であることを理解することが必要だ。

 

酸性にしろアルカリ性にしろ、菌は繁殖が不活発になる。ワインは酸性である果汁に酵母でアルコール発酵をしているが、これも酸性下では他の雑菌が生育不利であり、その影響を受けない酵母の独占を許すからである。ある菌が独占すると他の菌は繁殖できなくなる。納豆やヨーグルトなどの発酵食品が食中毒的に比較的安全なのはひとつの菌が独占すると他の菌が生育できなくなることが原因。そして酵母の独占的地位を補助するためにワインに亜硝酸塩を加える。なので亜硝酸塩を加えていないワインは一般的には菌管理が難しく高コストになり、菌・酵母管理が不安定なため味は不味くなる。

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女性アスリートが可愛いくてすばらしい件

この時期はこんな感じで甲子園のアルプスに注目が行くのだけど、いやはやどうして五輪のアスリートにも萌えます。有名どころとしては中国の飛び込み選手など。日本人も陸上の100mの福島さんはミス五輪になれるのではと。こんな美女特集のSiteも。

五輪も折り返しで、というかクライマックスの「世界最速の男」も9秒7を割って決まったようなので、雑感というかネタで。

注目したのは女子柔道と女子アマレス。谷本選手(女子柔道)と吉田選手(女子アマレス)の金メダルは圧倒的な強さであった。相手の攻めをかわす余裕度、攻めのスピード、共に圧巻であった。ちょっとした疑問というか好奇心なのだが、世界の頂点を圧倒的に極めた両名はお互いの異種格闘技戦に興味があるという物だ。柔道ルールで吉田選手が、アマレスルールは谷本選手が挑戦するわけだ。共に2連覇後なので、エキシビジョンでも面白い。特に谷本選手のアマレス参戦には興味がある。相手を崩して抑え込むというのはどちらの競技にも通じる物があるというのは度素人の発想であろうが。

先人が居るからなのだ。スピードスケートの橋本聖子選手が夏季トレーニングに用いていた自転車競技に出場していた。彼女の場合は夏季と冬季で季節が違うから可能であったのであろうが、吉田選手ほどの強豪は柔道界でも通用するのではという疑問がある。または重量級の柔道選手がアマレスに転向・兼任もできないかなぁ。かなり似た要素のある競技だと思うんだよね。吉田選手、谷本選手はもう極めたと思う。これがボクシングであれば上の階級を目指すのもいいであろう。しかし、同じ大会で二つの階級をこなすのが事実上無理なのだから、日程の違う競技に参戦したら面白いのではないかと思うのだ。例えば谷亮子選手(48kg)が伊調選手(48kg)が対決するとか。

指導者の立場での対戦でもお互いの競技の発展になるとかならないとか。

*女子柔道の上野選手もオール一本勝ちだそうだが試合を見ていないので割愛。

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民主主義というのは不完全極まりない

日本人にとって何らかの多量の感情をもよおす8/15近辺にウイグルやコーカサス地方の武装蜂起は「戦争」というものを深く考えさせられることです。日本人にとってこのニュースをきっかけに戦争という物を単純に捉えない訓練が必要だと痛感しました。同様に民主主義というのも完全ではありません。不完全な理由を述べていきましょう。

(1)民主主義というのは政策への理解度が高いグループに有利に働く。

老人は人生の経験者なので、政治や政策についてある一定の理解がある。年金問題・財政・福祉。その上で理念的な正解よりは自世代の有利を導くことは可能である。それを知っているので投票率が高い。

若年者はそもそも社会設計を理解できていない。お金、インフラ、現制度への認識は相対的に低い、だって経験がないのだから当然なのだ。選挙に行かない理由を「興味ない」「1票では変わらない」というのが象徴的であって、彼らは社会のルールをよく知らないのだ。大体正規社員になれない理由をグダグダと説明するのに精一杯な連中が政策について理解しているとは思えない。一方人生の先輩方はその辺をよく理解しているのでブレが無い。

(2)民主主義は結合し、声高に叫ぶ方が有利に働く

人生の先輩というか金の重要性を知っている老人と、無垢な若者が選挙で戦って勝てるわけが無い。さらに政策に物を言わない若年者と違って、老人は声高に論じるのだ。もちろん若者はその重要性に気付いていない。こんなんで勝負するのか状態なのだ。

(3)老人は次世代に冷たい

老人は自分の子(子孫)には優しいが、それ以外の若年者は嫌いなのだ、権益を侵すライバルだ。なので個人的に自分の子孫にはたっぷり遺産を残す(援助をする)が、社会的に若者を優遇する気はさらさら無い。自分の子孫さえ軌道に乗れば良くて、他人のご子息がどうかは全く興味が無い。彼らが税金をきちんと納め老人への年金が滞りなく払われればそれでいいのだ。

(4)若者は政治に興味を持つ理由が無い

宗教がかった論調、例えば「戦争反対」とか以外では若者は自分の未来に政策が関与しているということを理解できていないので余程の政策でも反対できないのだ。例えば少子化を心配するのは老人も現役世代も同等であろう。しかし、年金を削って出産費に充てるという議論は出てこない。現役世代にとって政策で「何ができるか」ということを知らないからだ。現在の老人も若年のときはそうであったであろう、日本人の生命よりも社会発展の方が重要視されていたからだ。

ここから導き出される結論は民主主義の制度を理解している方が有利で、それを理解できない若年層は不利だということだ。老人が「選挙の投票に行って支持候補を当選させる」と考えるか「選挙に行っても世の中は変わらない」と考えるかの違いだ。後者は負け犬根性なのだ、そして何が負け犬なのかは理解されていない。しかし老人は当然理解しているのだ。政治家も職業人なので自分の理念ではなく、顧客重視の行動を取る。あとはorz。

なので、選挙制度の改変で18歳にしても全く意味が無い。というよりは老人が結束する理由ができるというものだ。政治家は若年層の取り込みをパフォーマンスで行うことはあっても真の顧客(老人)重視であろうし。。。

ここで「解」を論じられればいいのだが「解」は無い。若者が政治よりも身近な異性の方に興味が向くのは当然で、さらに言えば社会システムを理解できるはずが無い。

なので民主主義は不完全な政治システムなのだ。不完全であるということを理解していないと理想が花咲く。どっかの国の悪口を言ってもいいけど、それほど我が国(民主主義)は立派ではないことを覚えておくように、とくにネラー。

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終戦記念日に思うこと

多くの人は先の大戦への反省は理解しているであろう。非戦闘員への加害や被害の悲惨さ、特に原爆投下や大都市への空襲といった無差別大量殺人の被害は日本人が一番身にしみているであろう。しかし、戦後は終わっていない。日本が何故戦争を行ったのかという点を「軍部」の責任になすり付けて、被害者意識から抜け出せていないからだ。また「軍部」が犯した虐殺は「軍部」に責任があるということで責任を転嫁していないであろうか。

もうひとつ理解し難い日本人共通のコンセンサスがある。米軍の非戦闘員への無差別攻撃(原爆投下をはじめとした主要都市への空襲)を許容している点だ。私もこの点ではそのような理解なのであるが、論理的に考えれば「アメリカ許さない」というところがスルーされているのだ。戦争の悲惨さを言うのであればその加害者へ伝える必要があるのではないか。そういった活動をほとんど知らない(せいぜい原爆被害を伝える程度であり、非戦闘員無差別虐殺を非難しているわけではないと理解している)。

戦争という物の本質、被害をことさら言い募るだけではなく、何故起きたのか?どうすれば起こさなくて済んだのかという点での議論があまりにも少ない。小生が小学生の頃学んだのは「戦争というのは悪」だというだけ。何故起きたのか、どうすれば起きなかったのかという点は不適当な教育だけであった。不適当な教育というのは誰かを犯罪者に祭り上げることで完結してしまった、軍部であり、例えば東条という個人である。これでは戦争の本質を理解できないであろう。

民族モザイクのカスピ海・黒海沿岸ではまたもや戦争が始まった。民族の独立と大国の権益が小国のグルジアを舞台に戦争を引き起こした。この戦争は日本人が戦争に対する思いとかけ離れているであろう。民族独立をかけたオセット人と石油パイプラインを守りたい・チェチェンへの影響力行使のために親ロシア政権が欲しいロシアの思惑。ちょっと考えただけでも「戦争は悪」という概念で解決できる代物ではない。

日本人が「戦争は悪だ」という前提は、日本が自称単民族国家で、陸続きの国境を有しておらず、日本が先進国なので経済制裁をちらつかせば「話せば分かる」と思っているからではないか。私がまさにそのような人間なのだがこれはどう考えても馬鹿だ。自分の立場で物を考えて、世の中はそのロジックで動くはずだというのは幻想以外の何物でもないという事実と向き合うのが怖いのだ。

いつ、日本は戦後から脱却できるのであろう。日本は韓国・中国・ロシア・台湾と国境問題を抱えている、そして発射される可能性は低いが北朝鮮からミサイルがこっちを向いている。日本人が戦後から脱却できなければ、周辺諸国が日帝から脱却できなければ解決は永遠に無理であろう。まずは日本から感情を排した戦争観・外交観を論理的に共有するべきであろう。そしてそれは別に右よりである必要は全く無いはずだ。

 

参考 グルジアの政治基礎知識「世界の新火薬庫」にロシアはどう向かい合うべきか ロシア・カフカス地方とテロ~all about、

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人事制度ってなんのためなのか

馬鹿みたいにオリンピック見てます。谷本さんの決勝戦は漫画のようでした、そう「YAWARA」みたい。相手選手が内股を狙って技を仕掛けている途中に、あっという間に内股で1本。おまけに負けた選手が呆然としている様がもう漫画。うちにあるYAWARAを全巻読み直すことが決定しました。

話は全く変わるが、人事制度がここ10年くらいでややこしくなった。当時ピンと来なかったのだが「情実人事」を廃すことであったような、いわゆるえこひいきをやめようと。それから成果主義の時代になった。目標を低く見積もること、来期のテーマを見据えてこっそり来期用のテーマを温めて出来そうと判断すれば「はい、やります」と大見得を切るというテクニックだけは上手になった(気がする)。成果主義は協力体制(チーム体制)などが上手くいかないということで廃れ気味らしい。そして最近は折衷案だ。

人事の見える化や、成果主義はエコヒイキを顕在化した。当時は上層部が課長になるべく人材をごぼう抜きで引き上げた。それに対して批判が起こったらしいのだが。現在は課長になるべく人材を早期に選定して、主任→係長→課長の線路に乗せると言う訳だ。その間の失敗はほとんど影響が無い。エリート選別(好き嫌いの選別)が若年化しているのだ。所詮人事は好き嫌いなので失敗を軽く見る理由はいくらでも存在する。なので初期に上層部の印象で「優秀」というレッテルを貼ればそれで人事一丁上がり状態だ。当然回りは総スカンだ。だんだんそいつ(が仮に良い奴でも、というより良い奴である場合が多い)に協力者が居なくなる。その下の世代は次世代のホープとして彼(女)に期待して群がるが。しかし若年時は所詮どんぐりの背比べであることも事実なので協力体制を取れない人材は突如駄目レッテルを貼られることもある。歪な人間関係が形成され人材の潰し合いを奨励しているわけだ。

さらに客観性と評価者・被評価者の合意性を重視する余り、マニュアルの文言を重視しろという。そんなことで客観性が担保できるわけが無い。失礼を承知で言えば「アホ」なのだ。その意味では現在主流の成果主義・人事評価マニュアル主義は大失敗であろう。

そして理解できないのは「今までの人事制度」=駄目駄目ということ。結局のところ人事が決定するのは通信簿みたいに1~5で決まる(結論は新旧同じ)、そのプロセスの公平性・客観性の重視、=社員のモチベーションupを期待しているようだが所詮通信簿なのだ。いくら制度設計をしても最後は上述のように情実人事は避けられないのだ(というか露骨になった)。

人事制度に不備を訴えるのは評価者と被評価者が合意でていない時であろう。そしてその理由は上司の情実人事なのか被評価者の勘違いなのかはその制度を用いても永遠に共通解はもたらされない。というより他の人材にとって時間の無駄。完璧な人事制度など存在しないという点で割り切れないのか。人事評価制度に文句を言う奴は私の知っている限りでは全員頭が悪かった。所詮最後は情実だということを知っていれば、ありえない仮定(公平性)を論じたり、というか馬鹿なのだ、私憤を義憤に何の疑問も無く置き換えられる程度に。馬鹿な奴に引っ張られる人事もアレだが。

少し提案。人事の不満の多くは上層部の主観的観念に起因すると思われる。なので外部チェックを入れればいいのだ。関連他部署の評判を人事評価に加えればいいのだ、他部署の管理職が面倒なことになるとは思うのだが。例えば営業系の昇進試験には他支店長も加わり、「そいつが上がるのであれば」的な議論が出来るのではないか。「好きを上げる」のを抑えるのは無理としても「そいつが上がるのであればこいつが先に上がるべきだ」論があって、1年で上に上げられる人数が決まっていたら少しは競争原理が働く。

もう一丁。人事評価は結局のところ好き嫌いなので、異動を申し入れる制度を補完すべきであろう、まぁ普通はそうなっているが。嫌いな上司の下では成長できないと思えば、すんなり言えるであろう、上司の上司には。そういった人材のミスマッチを防ぐとか。人事は観念主義ではいけないと思う、現実主義でなければ不幸な人は救われない。

なので旧来の人事制度、「あなたはCです」でいいのではないかと思う、現在のように「能力」「成果」「協調性」等をいちいち書いて面接するのではなく。そのような指導は面接時だけに行えば良いのではなく、日々行うのが仕事だと思うのだ。だいたい「あなたは協調性にいまいちなので積極的にコミュニケーションをとってください」と言われたと言う事を聞いたことが無いし、実現可能だとは思えない。

昔を思うと情実人事が結局消えていない(いやむしろ露骨になった)ので、私が昔のままがいいと思うのは間違っているのであろうか。

人事担当者を批判しているのではありません、最近の人事評価トレンドを批判しているわけです。人事担当の方々は買ってきた「ソフト」の文言の正当性や細かい論理性をチェックしなければならず、逆に下らない仕事に追われ、大変だろうと同情したくなります。

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鶏がらスープの限界

ここのところ暑くて外出はせず、だらけています。空いている電車での通勤は苦にならず、会社は冷房完備なので夏休みは特に無く仕事します。帰省の予定もないし(まぁ帰省はどちらも日帰りなのだが)、別に仕事が忙しいわけではないけど。

それとこれとは関係ないが土日のたびにスープだ。先週は蝦餃子鍋、今週はビシソワーズ(冷性ポタージュ)とパエリア。方向性が見えてきた。ナチュラルで美味い物を作るという目的。(興味のある人は料理タグで見てください、スープのチャレンジの歴史が分かると思います)

基本は(化学調味料を使わない)料理本通りのレシピで行うのだが、化学調味料を使わないレシピではコクが足りないという悩みを解消すべく改良を行ってきたがなかなか難しい。奮闘をまとめよう。コクというのはラーメンに耐えるような味の濃厚さだ。

(1)濃度を考える

鶏がらスープの基本レシピは本によって様々で、水1リットルに対して何羽の鶏がらを使うのか差があったので検討した。鍋が3リットル程度なので、鶏がらを1~3羽入れたがコクの改善は認められなかった。

(2)化学調味料を考える

ここでやはり化学調味料の力を借りないと改善できないのではないかという疑問が生じたので(1)鶏がらスープの有無、(2)化学調味料(コンソメ・鶏がら等)の有無のマトリックスを実行した、鶏がらなし、化学調味料なしは単なる水なので実行をしていない。結論は鶏がらスープのみでも、化学調味料のみでもコクと旨味のバランスは取れない。このマトリックスでは鶏がらスープ+極少量の化学調味料がベストであった。

(3)他の材料も考える

化学調味料+挽肉というレシピが本に合ったので、鶏がら+挽肉スープを実践した。結果は多少ましにはなるがやはりコクはたりない。しかし上品にはなる。あっさり仕立てのスープにはいい。多分挽肉依存。豚骨も試したが旨味は複雑になるのだが臭いの好き嫌いが出るのとコクには貢献しなかった。脂分を除去しているからかも知れないが。

(4)鶏がらから離れる

実はこれが正解にイチバン近かった。鶏ムネ肉を茹でたスープがコクは足りないかも知れないけど一番美味かった、とても上品。さらにこの出汁に挽肉を投入したのも美味(コンソメ等)。この出汁に蝦の殻を煮立てるのもなどもgood(例えば冬瓜と蝦の中華スープなど)。

(5)鍋には鶏がら出汁+化学調味料で十分だ

鍋のように徐々に具材の出汁と灰汁が出る物は鶏がら出汁ベースで十分とも言える。例えば我が家では餃子鍋だ。水餃子を寄せ鍋チックに頂くのだがこれは鶏がら出汁+化学調味料で十分だ。他にも海鮮トマト鍋などもそう。鍋はスープは脇役になる上、具材が灰汁を出すのでスープの完璧さよりも混沌とした味を楽しむ方が現実的であろう。具材に貝類を入れる場合、出汁を目的とすることも多い。ただし出汁が素材を殺す場合もある。蟹鍋はすっきりとした出汁で食したい。なので我が家では昆布+鰹で蟹シャブを行った上で寄せ鍋に移行する。

実験設計者がど素人なので結論ではないのだが、家庭でラーメンのようなコクのあるスープを化学調味料の力を借りずに行うのは非常に難しいと思う、というか成功できていない。白湯スープのように脂を乳化すればまた別なのかもしれないが。気軽に味わうには鶏がら+化学調味料が良いことが分かった。

この課題は適当な試行錯誤は行いますがこの程度でやめておきます。次の目標はブイヤベース等の魚介出汁にチャレンジしたいですね、嫁が「うん」と言えばの話ですが。

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