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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

The BEATLES / Ultra Rare Trax vol.1

2007年05月16日 21時26分07秒 | Beatles
 先月の「Unsurpassed Masters vol.1」のところで「この種のブートのもう一方の雄である」と書いたのが、この「Ultra Rare Trax」シリーズだ。前者がビートルズのセッションのプロセスを収録すること(同曲の沢山のテイクを収録すること)を主眼においていたのに比べると、こちらはヴァリエーションに富んだ未発表曲集という感じで、明確に編集方針が違っていた(両者もそのうちお決まりり先細りとなって、同じような感じりなり下がるのだが....)。もう一方の雄と書いたのはそういう理由による。

 それにしてもほとんど同じ時期、どうしてこんなにも高品質なソースが出回ったのだろう。有名なマーク・ルイソンの「レコーディング・セッションズ」の作業のプロセスで、流出したのは間違いないところだが、二方向に流れたということなのだろうか。それともソース元は一カ所だが、いかにもふたつのレーベルから出たように演出したのか、よくわからないが(おそらく後者なのだろう)、これもまた、まさに衝撃的なトラックの連続で初めて聴いた時はどぎも抜かれたものだ。

 ビートルズの最初期作品として知られていたに「One After 909」が、1963年に本当にレコーディングされていたことに驚いたことを筆頭に、セカンド・シングルとしてビートルズが拒否した「How do you do it」という作品。またレコーディングされたがお蔵入りになってソースとして有名な「if you've got troubles」、合体前に「Strawberry fields forever」のオリジナル・ヴァージョンなどなと、それまで文献でしか知ることができなったソースが実際の音(しかも超高音質で)として、我が家のスピーカーから次々に再生されたのは驚き以外の何者でもなったというところだ。おかげで私はこれらのソースのほとんどが収録され、正式なリリースとなる「アンソロジー」にはほとんど有難味を感じなくしまうことになるのだが....。
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HERRMANN / PSYCHO-Hitchcock Movie Thrillers

2007年05月15日 23時44分23秒 | サウンドトラック
 こちらは先日レビュウした「Great Hitchcock Movie Thrillers」の再発盤です。このアルバムは一番最初に購入したのはアナログ盤でしたから、結局2回買い直した訳で、私のこのアルバムに対する愛着が知れようというものですが(笑)、この再発盤はジャケが刷新されたばかりでなく、追加曲としてスタンリ・ブラック指揮ロンドン・フェスティバル管弦楽団の「白い恐怖」が収められているあたりが特徴となるんでしょう。ただし、残念ながらこの追加曲はハーマンの自作自演集というアルバムの体裁を損なってしまうことになるので(「白い恐怖」はミクロス・ローザの作品)、個人的にはあまり歓迎できませんし、ジャケのセンスも前の方がはるかによかったので、自分の中ではとりあえず買ってはみたけれど、ほとんど忘れがちなアルバムです。

 そんな訳でこのアルバムの注目すべき点があるとすれば、リマスターによる音質アップということになるんでしょう。この再発盤は92年、先にレビュウしたのが87年の発売ですから5年ほどの間隔があった訳ですが、この間にリマスター・ブームのようなものがはじまったおかけで、その恩恵を賜ったというところだと思いますが、とにかく音の鮮度が上がり、元々高解像度だったこの録音が更に見通しが良くなったのは収穫です(近年のリマスターのように無理に音圧を上げているようなところがないのもいいです)。
 ちなみに、「白い恐怖」は主題曲だけでなく、映画中の名場面の音楽をピックアップした小組曲風な構成ですが、なにしろイージー・リスニング・オーケストラ畑のスタンリー・ブラックの演奏ということで、かなり甘口なアレンジが施されているのが気にかかりました。まぁ、今となっては貴重な演奏かもしれませんが。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第1番/ラサール弦楽四重奏団

2007年05月14日 23時55分16秒 | マーラー+新ウィーン
 私のとって非常に難解な第1番ですが、ほとんど毎日のように聴き続けているおかげか、多少は「解りかけて来た」ような気がします。いや「いいなぁ、この曲」なんて思えるような段階でもないですが、まぁ、とりあえず曲の登場人物の顔をうっすらと覚えてきたというようなところです。実はこの曲、ラサール弦楽四重奏団による「新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲集」を購入した時、やはり似たような聴き込みをして、作品番号のないシェーンベルクが作った一番最初の弦楽四重奏曲(こちらもかなり晦渋な作品でありましたが)を聴いて、次にこの第1番に挑戦してすっかり玉砕したことがあったので、実は今回で2回目のトライとなる訳で、今回は少しはものにしたいとがんばっているのです(笑)。

 で、この曲これまではシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏を聴いた訳ですが、今度は前述のラサールの方の演奏をひっぱり出してきました。シェーンベルク弦楽四重奏団の演奏は「浄夜」の時に書いたのと同様、刺々しいところの全くないとても滑らかな演奏で、そのおかげで、この曲の構造面の巧緻さ、あるい知的楽しみみたいなところを、あまり表に出さず、大きな流れの中に様々な要素をごく自然に収束させたような趣がありましたが、さすがにラサールの方は、60年代後半~70年代前半という収録時期のせいなのか、現代音楽専門集団の特徴なのか、ともかくそのあたりをきっちりシャープに表現しています。リズムの鋭いアクセントもそうですが、ともかま譜面の意味するところをきっちり伝えるという意気込みが、きいていてビシビシと伝わってくるまさに真剣そのものといったシリアスな表情は息苦しいほどです。

 もっともそのおかげで、曲の緩急だとか、振幅といったものがかなり明確に対照されているので、各部分は非常にわかりやすいです。あまりにすーすーと流れてしまい、「あれ、ここもう第2主題だっけ?」とかいう風に、曲をポジションを見失いがちだったシェーンベルク弦楽四重奏団に比べると、ある意味解説的というか、わかり易い演奏にともいえるように思いました。
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ハイドン 交響曲第20番「雷鳴」/フィッシャー&AHハイドンPO

2007年05月13日 14時18分52秒 | ハイドン
 このところ3楽章制の曲が続きましたが、こちらはオーソドックスな4楽章の交響曲です。もっとも作曲された年代としては、モルツィン伯爵家に仕えていた時期の作品という説もあり、全体は約14分弱と短く、小振りではあるものの、あまり小細工を労せず一気に仕上げたような仕上がりといえます。そのあたりを象徴しているのが第1楽章で、序奏なしにかなり唐突に始まります。いや、今聴くともう優美ともいえる開始なんですが、当時の感覚だと、これはおそらくドッカーンっていうくらいに、かなり激しい曲頭だったんじゃないですかね。ちなみにこの曲頭にちなんで、20番は「雷鳴」と命名させてもらいましたか、この部分、ドッカーンというよりはドロロ~はンっていう雷みたいに聴こえるもんで....。続く、本編も快調そのもの、喜ばしい雰囲気に溢れていて、なかなか印象的な楽章に仕上がっています。

 第2楽章はちょい早めのテンポで進むアンダンテ・カンタービレで、弦楽合奏のみで進められているようですが、低弦のピチカートがリズム的にもアンサンブル的にも良いアクセントになっていて、とても心地よいですし、途中ちょっと陰りある雰囲気がふとしのびよってくるあたりもチャーミングです。続くメヌエットはそれこそ型どおりの仕上がりですが、弦と絡むホルンの響きがなんとも牧歌的、トリオでは弦が鄙びた雰囲気を醸し出しています。主部とトリオがあまりに対照的にならず一定した流れを保持しています。そういえば、第2楽章も比較的リズムが表に出ていましたから、この曲の場合、交響曲的な起承転結というよりは、全体がリズミカルに進んでいくというあたりが特徴なのかもしれません。ただ、三拍子の第4楽章はどうなんでしょう。なんだか、メヌエットの続きのような雰囲気強く、似たようなホルンの使い方も出てくると、最終楽章としはもう少しプレストらしいプレストで颯爽と終わって欲しかったという気がしないでもありません。
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FFXI <白魔道士70 メリポ@赤魔道士 260exp>

2007年05月12日 23時55分31秒 | GAME
 前回「ワタシ的にはそろそろ終わりにしてもいいかな?とか思いはじめました。」とか書いたんですが、けろっとして続けています(笑)。やったことは、その時に書いた白魔道士のレベル上げ。もともと白魔道士はLv50まで上げてありましたが、レベル上げを再開してみたら、けっこうおもしろくて、「あぁ、こっちもしばらく続けてみよ」ってな感じで約2週間。あんまりしこしこやってた訳でもありまんが、途中、ゴールデンウィークも入ってたことですし、順調に上がって本日Lv70に到達しました。このレベル帯は半年くらい前に赤魔道士で通った道ですから、相手をするモンスターもお馴染みさんばかりですし、赤と白はある程度作業が似ていますから、メリポの超高速狩りに比べると、Lv50くらいは実にのんびりした感じで、ラクに白の作業を学習できたように思います。

 ただ、状態異常回復ってのは、今度は赤の時のようなサポートではなくてメインの作業になりますから、けっこうしんどいものがありました。ワジャームのプークトラップとか、マムークのコカトリス、あとカダーバのインプとカエルとか、回復役が事実上ひとりだったりするとけっこうたいへんでしたが、それもまぁなんとか慣れてきたかなという感じです。あっ、あとのんびりと開始した白魔道士ですが、60代中盤あたりから、段々速度感があがってきて、Lv70だとかなりメリポに近いノリになってきています。そういう魔法詠唱しっぱなしという場面では、赤のファースト・キャストが欲しいっ!と白魔道士やってると思います、なにしろケアルとか私の方が先に詠唱しているのに、相手にかかるのは赤さんの方が早いですから、白出身と思われる赤さんと組むと、全てが後手後手に回る頼りない白って感じになりさがること数回でした。

 そんな訳でメリポの方は、ご無沙汰気味です。あんまりやらないと忘れてしまいそうなので、たまにやってますが、一瞬白魔道士との気持ちの切り替えができず、あたふたしてしまったりしてます。いゃぁ、他のジョブやってしまうと、マジで立ち回り忘れしまい焦りますが、いくつものジョブをいつでも切り替えられる、そういう頭の柔軟さが欲しいです。したがって、メリポ稼ぎは少なくてたった5ポイントでした。
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華西街の蛇

2007年05月11日 23時01分57秒 | 台湾のあれこれ
 台湾の激安ツアーに参加すると、旅行会社からあてがわれるホテルは、大体麒麟ホテルであったりする場合が多かった。このホテルは龍山寺という台北でも有名なお寺の近くにあり、この寺は日本でいったらちょうど浅草寺みたいな感じだから、麒麟ホテルは上野か両国といったポジションである。なにしろそういうロケーションだから、龍山寺にはよくいったものだが、龍山寺といってもお参りする訳ではなく、実はその近くにある華西街という屋台街に行ったということになる。ここはその昔は大歓楽街だったそうだが、現台湾総統の陳氏が台北市長在任時にクリーン作戦みたいなことをして、すっかりと普通の観光夜市になってしまったらしい。往事の雰囲気は、寂れきった反対側のメインストリートの奥深くを探索すると味わえたりするのだが、とにかく現在の華西街は観光夜市である。

 さて、この写真はその華西街の一コマである。単なる人だかりにしかみえないが(いや、単なる人だかりですが....)、これは華西街の真ん中あたりを歩いていると必ずぶちあたる光景で、みんなが何をみているのかというというと、蛇をさばいているのを観光客が怖い物みたさで眺めているのである。この店は蛇のスープだとか、血、あと胆汁なんかを飲ませるたり食させる店で、メインストリートにこの種の店が確か2つか3つくらいあったように思う。こうした店では、食材となる蛇をさばく様を実演でショーの如く見せるこのが名物になっていて、華西街といったらこれがトレードマークという人もいるくらいに有名らしい。、
 ちなみにその「蛇をさばくショー」はたいてい撮影禁止で、こんな蛇のへの字も写っていない、人だかりを撮っただけも写真だが、怖そうなオッサンに怒鳴らられつつ、決死の覚悟でとった一枚である。
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最近読んだ本

2007年05月10日 23時08分28秒 | Books
・落語名人会 、夢の勢揃い/京須偕充
 後に落語専門?のプロデューサーとなる著者が、寄席通いつめて少年時代や、レコーディング・プロデューサーとなってからの落語家との関わり、伝説の名人たちの高座や楽屋での姿などを非常に味わい深い文章でつづった一冊。非常におもしろく、出張の帰りの電車で一気に読んでしまった。私は落語が大好きだが、いにしえの巨人たちのことをCDでしか知らないことが多いため、それを補完する意味でも興味津々だったし、昭和の時代を描写した読み物としても一級品だと思った。特に円生にレコーディングを持ちかけにマンションで赴き、かの大家と対峙する場面は文章は落語的な視点による人物描写が実にすばらしく本書の白眉となっている。
 
・他人を見下す若者たち/速水敏彦
 現代の若者が持つ、他人を軽視しする、すぐにキレる、尊大といった特徴を、現実世界での裏付けのない自尊心という視点で読み解こうとしている本。著者はこれを「仮想的有能感」と名付けている。これがはなはだ根拠薄弱な仮説ということを著者は良く知っていて、まぁ、仮説の前の仮説みたいな感じで書いているのだけれど、その仮説を敷衍するために持ち出される事例はなかなかおもしろく、この仮説を説得力があるものにしている。ただし、ただしここでいう若者は、むしろ現代人と読み替えてもいっこうにおかしくないくらい現代人の特徴をとらえているとも思った。

・人蟻/高木彬光
 名探偵神津恭介を一旦退場させ、弁護士百谷泉一郎を登場させた昭和32年の作品。時は松本清張ショックが探偵小説界に吹き荒れている頃だから、それを意識したストーリー自体は本格探偵小説というより、経済ミステリーという感じで、それまでの神津物とはかなり違った趣になっている。もっとも、同時期の神津恭介がまるで百谷泉一郎みたいに行動する「死神の座」でもこうした変化が鮮明にでているから、とってつけた感じはしない。ストーリー的にはキャノン機関、政界の大物、そして百谷の恋愛とけっこう読み飽きないで最後までもっていく。高木作品というと文章があまりに直球ストレートで今読むとちょっと気恥ずかしいようなものが多かったけど、この時期の作品ともなると小説としてもけっこうこなれてきたことを感じさせる。

実はまだまだ読んでいるのだが、とりあえず今夜はこんなところで....。
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HERRMANN / Hitchcock Movie Thrillers

2007年05月09日 23時58分57秒 | サウンドトラック
 バーナード・ハーマンが担当したヒッチコック・スリラーの中から特に傑作を集めたアルバムです。指揮はハーマン自身、オケはロンドン・フィルという組み合わせですが、ハーマンは「き裂かれたカーテン」でヒッチコックと決別して以来、イギリスに移り住み、なかば悠々自適な生活の傍ら、自作その他の指揮活動をしたりして60年代後半~70年代前半あたりを過ごす訳ですが、その中の一枚がこれという訳です。ハーマンの作品はここ20年くらいくらいの間、再評価の機運が高くかなり作品がサントラ起こしやスコア再演という形でCD化が進みましたが、思えば60年代からこうした形で再録をしていたところをみると、ほぼリアルタイムで揺るぎない評価を得ていた人なのだなぁ....と改めて思ったりします。

 収録されている作品は、「サイコ」「マーニー」「北北西に進路をとれ」「めまい」「ハリーの災難」の5作品で、「北北西」だけはメイン・テーマしか演奏していませんが、他は10分以上のスペースをとり映画の主要な部分を集めた組曲という形で再演されていますから、聴き応えはありますし、作品の概要を知るには十分なものがあると思います。私はハーマン/ヒッチコックの作品というと、確かこれが最初だったと思いますが、このコンビによる作品を入門するには絶好なアルバムであり、まさに幸福な出会いだったと思います。当時の私は映画オタクでしたから、ヒッチコックの作品はけっこうな数みていましたが、「めまい」や「ハリーの災難」は当時まだ未見でしたので、おそらく映画音楽の方を最初に聴いてしまい、その後に映画を観るというパターンを経験したのはこれが初めてだったと思います。

 ことに「めまい」の方は、そもそも音楽そのものが「トリスタンとイゾルデ」を思わせるロマンティックな音楽だったせいもあって、映画を観る前から音楽だけでも十分に楽しめたですが、なにしろ映画そのものが私のベスト1ともいえる作品だったせいで、音楽の相乗効果も相まって、例のキム・ノヴァクが幻のようにかつての姿になって登場する後半のハイライト・シーンでは、それこそ身体がぶるぶると震えるくらい感動したものでした。ともあれ、この後、「めまい」を筆頭にバーナード・ハーマンと名が付けば、なんでも買いあさる日々が来る訳ですけど、とにかくそのきっかけになったのがこの一枚なんですね。

 ちなみに2年ほど前にレビュウしたサロネンのハーマン集も選曲的にはこれをベースにして他の作品をプラスしていたという感じでしたが、サロネンが今風に流れるように演奏していたのに比べると、さすがにこちらは本家本元だけあって、非常にドラマチックで重厚、とても濃い演奏です。また、フェイズ4によるデモ効果満点の音質もあって、今聴いても古びてないですから、このアルバム、これまで何度も再発されてきましたが、おそらくこれからも長い生命を保つのではないでしょうか。
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R.シュトラウス メタモルフォーゼン他/サロネン&ストックホルム室内O

2007年05月08日 23時52分34秒 | クラシック(一般)
 サロネンがストックホルム室内管とともに80年代後半に演奏した「新しい世代のメタモルフォーゼン」です。このコンビの演奏は先の「浄夜」でもそうでしたけれど、カラヤンやフルトヴェングラーが振った時の覆いがたく滲み出るくるであろう、この曲の文学性のようなものは(例えばリヒャルト・シュトラウスの晩年の心境だとか)、きれいさっぱりと洗い流し、非常にビューティフルな弦楽合奏の傑作として演奏しています。例えばカラヤンの演奏を聴くと、なにやら終戦直後の廃墟のようになった被災地の様子を映したドキュメンタリー・フィルムなんかが音楽から喚起される映像としてイメージされたりする訳ですが、こちらではそういうイメージはほとんど湧かず、むしろちいさいけれどござっぱりしたホールでの演奏会の風景だとか心地よく清潔なリスニング・ルームみたいなイメージが思い浮かんだりします。

 また、これも先の「浄夜」で感じさせた点ですが、このコンビの演奏にはひんやりとした独特の温度感の低さと、ゴデゴテしてないさっぱりとした響きがあって、この曲のやや沈痛な美しさとにとても良くマッチしています。フレージングというか歌い回しも清潔そのもので、20分あたりで感極まって号泣するみたいなところでも、節度を弁えた抑制感があって、逆にそのあたりも非常に心地良く響きますし、後半のテーマが再現するあたりの高ぶりと諦念が交錯するような場面では、ちょっとオーバーにいうと夢幻のようなな美しさすら感じさせて、けだし聴き物となっています。オーケストラの方も、ベルリンとかウィーン、あとアメリカのメジャー・オーケストラのような精緻さや風格のようなものはないとしても、ややこぶりでセンス良く演奏している様にはけっこう好感がもてますね。

 ちなみに、フィルアップにはやはり最晩年の曲である「二重小協奏曲(クラリネット、ファゴット、ハープ、弦楽合奏)」とサロネン自身が弦楽合奏用に編曲したオペラ作品「カリプッチョ」の前奏曲が収録されていますが、前者は厳冬の中にふと訪れた小春日和みたいな曲で、後者は元々壮麗であったに違いない原曲をぐっと典雅な趣を強調した編曲になっているように感じました(ちょっと全盛期のリヒャルト・シュトラウスくさい仰々しさを感じないでもないですが....)。
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20世紀アメリカ音楽の古典/ギターとフルートのための音楽集(ライリー他)

2007年05月07日 21時03分45秒 | クラシック(20世紀~)
 自分で勝手に「20世紀アメリカ音楽の古典」と名付けているシリーズの一枚。フルートとギターのデュオのための作品を集めたもので、テリー・ライリー以外は3人は私の知らない作曲家ばかりですが、フルートとギターのアンサンブルは独特な感触を持つせいか、それともアメリカという地域性なのか、はたまた20世紀の音楽という時代性なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とてもユニークな作品集となっています。簡単に収録曲をメモっておきます。

・ビーザー/「山の歌集」より
 非常にノスタルジックな曲で、よくわかりませんがアメリカン・トラディショナルな世界を彷彿とさせる出来です。夕暮れ時の荒野でたき火を囲んで、「そういゃぁ、昔、オレにも女房がいたよ、エリザベスって柄にもない名前でな....それからプイと家を出てしまったのさ」みたいな西部劇のシーンが似合いそうな音楽です(伝わってないか-笑)。まぁ、ある意味ウィンダム・ヒルなんかにも近い感触ですね。

・タワー/「雪の夢」
 隙間だらけのサウンドがなぜかシュールな既視感を誘う不思議な曲です。音楽的には無調的な感じですが、切れ切れのモチーフが空間のさまような様はかなりモダンなものですし、途中の両楽器の絡みなどなかなかスリリングですが、ギターとフルートという丸くてウォームな楽器故なのか、この手の曲にありがちな冷たい無機質な感触がなく、奇妙なぬくもりを感じさせるあたりが魅力です。

・ライリー/「見捨てられた歌」
 ミニマム・ミュージックの大御所の作品ですが、例のシンプルなモチーフの繰り返しによるサイケな音の幾何学紋様というよりは、乾いた情感とエスニックさが全面に出ているあたりがおもしろいところですかね。この人の作品はガチガチにシリアスなところよりは、リラックスして妙にユーモラスな音がむしろ魅力だったりするところある訳ですが、そういう特徴はこの作品にもよく出ています。構成する5曲の中では、2曲目の「夢見る人」が一番ミニマムっぽく、8曲目の「悲しみ」のどろーんとしたけだるいムードや9曲目の脱色されたようなタンゴのムードも印象に残ります。

・リーバーセン/「フルートとギターのためのソナタ」
 私と同世代の作曲家の作品だけあって、ゲンダイオクガク的な理論先行の難解さのない、リラックスした作品になっています。「夜想曲」は奔放なフルートとしっとりとしたギターのアルペジオの絡みがどこか神秘的なムードを醸し出していますし、「アレグロ」は文字度通り早いテンポで進む。エキゾシズム+テクニカルなインタープレイといった趣のある曲ですが、このあたりまでくるとなんとかなくマクラフリンとシャクティの演奏を思い出したりもしますね。

・シックリー/「窓」
 1~2分と短い曲三つで構成された作品。これもニューエイジ風な淡い心地よさがある作品で、東洋風でもあり、中近東のようなでもあるような無国籍なエキゾシズムとヨーロッパ的な透明感が心地よい作品です。
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ブライアン・フェリー/フランティック

2007年05月06日 17時14分29秒 | ROCK-POP
 2002年に購入して、2,3回聴いたまま放置してあった作品ですが、もう5年も経ってしまったんですね。ブライアン・フェリーといえば、ロキシーの「アヴァロン」とソロの「ボーイズ・アンド・ガールズ」があまり極上のAORサウンドして完成され尽くしていたため、その後の作品はどうもこの2作を引きずりつつも、これを超えられないという感じが強かったですが、この作品では前作のノスタルジックなジャズ・スタイルの導入で吹っ切れたのか、ようやく「アヴァロン」の呪縛が解けたような仕上がりとなっています。一口にいえば、70年代中盤~後半のソロ作品の雰囲気に戻ったというところでしょう。全面的に参加している訳ではありませんが、その時期のソロ・アルバムの常連だったポール・トンプソン(ロキシーのドラマー)、クリス・スペディングなどを久々に起用しているあたりで、音楽的狙いはもは明らかといったところでしょう。

 アルバムは「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー」からスタート。冒頭のボーカルを聴くと、まごうことなき初期型フェリーのヘナホナしたあの歌い方が復活していて、おもわずにやりとします。バックでうっすらと絡むストリングスの細い響きはアン・オデールのアレンジを思い出させたりしもしますし、カントリー・フレイバーは「ベールをぬいだ花嫁」に近かったりもして、私のようなオールド・ファンにはたまらまく懐かしい音ですね。ともあれ、これまでのフュージョン系のミュージシャンと打ち込みを起用したきらびやかなサウンドとは全く別物の音になっていることだけは確か。
 気がついたところだと、4曲目「ゴッデス・オブ・ラヴ」あたりは、初期型ロキシーの賑々しさ+ハウスという感じでけっこうモダンなサウンドですし、アラン・レネの「24時間の情事」を題材にした「ヒロシマ」も似た路線で楽しめます。カントリー・フレイバーが強い曲も多いですが、11曲は「サンシメオン」だけは「アヴァロン」路線のゆるやかな空間サウンドですかね。

 そうそう、フェリーといえば、つい最近ディランのカバー大会をやらかした「ディラネスク」というアルバムを出しているようですが、イーノが大分関わっているらしく(「マムーク」あたりからイーノとは本格的に復縁した模様です-笑)、これまたおもしろうなのです。ただ、私はディランの歌あまり良く知らないので、おもしろ味半減かもしれませんが。
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チック・コリア/マッド・ハッター

2007年05月05日 23時22分17秒 | JAZZ-Fusion
 78年の個人名義の作品で、「不思議の国のアリス」を題材としたジャズとしては、珍しいコンセプト・アルバム。この種の作品としてはソロ名義の「妖精」やRTFの最終作となった「ミュージック・マジック」、あとちょっと毛色は違うけれど「マイ・スパニッシュ・ハート」なんかが共通する感触があって、弦楽合奏やシンセのマルチ録音によるオーケストラ的なサウンド、女声のスキャット・ボーカルなどを導入して、従来のジャズの枠を拡大していくような指向は先の作品とよく共通していると思う。前にも書いたけれど、とにかくこの時期のコリアは創作意欲がみなぎっていたらしく、あれやこれやと思いついては、即アルバム化してしまうというパターンが続いていたので、いささか似たようなアルバムを乱発気味だったきらいないでもなく、このアルバムも前述の要素が音として出てくるにつけ、正直「またかい」と思ったりもするのだが、新味としてはアコスティック・ピアノがかなり大々的にフィーチャーされているあたりだろうか。

 1,2,3曲目は、序曲的なオーケストラ・サウンドで、ミステリアスな雰囲気を奏でるシンセ・オーケストラとファンタジックなアコピの組み合わせが中々美しい。続いて室内楽風な弦楽とアコピのとりあわせで例によってバルトーク風、更に続くボーカルをフィーチャーした3曲目では新古典派風な乾いたユーモアが全面に出ているが、これはちとやりすぎか。この後、短いインターリュードをはさみつつ、フィーチャーされるのは、まず4曲目の「ハンプティ・ダンプティ」。アコスティック・バンドでもお馴染みのシャープなリズムのキメが登場するカッコ良すぎる名曲で、6曲目のボーカルがフィチャーされた「フォーリング・アリス」だが、結局は中間部のファレルのサックス・ソロあたりの高潮感がハイライトとなる。
 後半は8曲目の「ディア・アリス」と9曲目「ザ・マッド・ハッター・ラプソディー」のふたつの大作がメインになっていて、前者は「フォーリング・アリス」と同タイプのミディアム・テンポでじんわり盛り上がる曲で、ここでもスティーブ・ガッドのドラムに挑発された各人のソロが熱い。後者はゲストのハービー・ハンコックをフィーチャーした作品で、ラテンのリズムにのって、キーボード・バトルが展開してスリル一杯。

 という訳で、コリアのこの手のアルバムとしては、音楽そのものはかなり洗練されてるし、諸作の中では一番聴きやすい内容だと思うのだが、どうも曲の物語性みたいなものと、テンションの高いインプロってどうもしっくりこないなぁ。前にも書いたけど、やっぱこういうことをやるとなると、英国のロックバンドにはかなわない気がする。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第1番/シェーンベルク弦楽四重奏団

2007年05月04日 21時08分37秒 | マーラー+新ウィーン
 とにかく筆舌に尽く難く難解な音楽だ。この作品番号7だから「ペレアスとメリザンド」のたった2つ後である。作曲年も1905年で「ペレアス」から再来年の作曲ということになるから、無調だの12音だのという新しい概念を導入した訳ではない。この時期のシェーンベルクはまだまだロマン派の範疇で作曲をしていたはずだし、複合的な要素を単一楽章に流し込むという循環形式のはヴァリエーションは「ペレアス」だって同様だった。なのに非常に晦渋さ、とっつきにくさはいったいなんなのだろうと思ってしまう。なにしろテーマは全曲に循環するテーマがやけ地味でほの暗いもので、ちょっと展開だのなるとすぐに主題を見失いがちだし、緩徐楽章やスケルツォに相当する部分も私には抽象度が高すぎて、なにか無味乾燥なものに感じしまうののだ。

 資料で調べると、「浄夜」とか「ペレアス」のような標題性の強い音楽は止めたということらしい。要するにこの作品からは、例えばブラームスみたいなより抽象度の高い絶対音楽みたいなもの作風を狙いはじめたということで、弦楽四重奏というフォーマットはまさに格好のものだっただろうが、その狙いはともかくとして、肝心の音楽の仕上がりといえば大傑作というにはちと厳しいのではないだろうか。自分は作曲などとは全く縁がない人間だが、そういうものを志す人がこの譜面を読むと、非常によく書けていると感心するのではないか、しかしよく書けているからといって、音楽として楽しめる訳でもないという典型的な例ではないだろうか。

 ちなみにこの作品、全体を自分なりに分けみると

・第1部 主題提示部-展開部
・第2部 スケルツォ-第2展開部-第1主題再現部
・第3部 緩徐楽章
・第4部 第2主題再現部

と、まぁ、大体こんな感じになると思う。難解さとしては第2部の後半あたりが最高潮で、このあたりで大抵音楽の行方を見失ってしまう(笑)。時に後の「室内交響曲第1番」あたりを予見するようなアブストラクトな音響的な場面も出てきたりするのが、そのあたりも難解さに拍車をかけていると思う(第2部の最後でようやくテーマが回帰した頃には、なんで、今頃?みたいに思ってしまう-笑)。第3部ではようやっとロマン派らしい普通の音楽になるのもつかの間で、いつの間に第2主題が再現されたのかもよくわからないうちに音楽は終わってしまうとい感じなのである。

 ちなみ今回聴いたのは、シェーンベル弦楽四重奏団による演奏で、「浄夜」をあれほどしっとりと、何気なく弾いた今時の楽団だから、ひょっとすると、この曲も非常に分かり易い普通の曲に聴かせてくれるのではないと期待もしたのだが、残念ながら難解なままである。不遜なことを書かせてもらえば、この曲、主題操作とかそういったものをもっと切りつめて、せめて時間的に半分、いや30分以内くらいなら、作品としてまとまりが出た思う。標題も切れ目もなしで、全体が45分の単一楽章というのは聴く方の集中力も限界を超えているように思うえるのだが....。ともあれ、私のような人間が、こういう曲に慣れ親しむには、それこそ吐くほど聴くしかないということなのだろう。
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モーツァルト ピアノ協奏曲第21,27番/バレンボイム&イギリス室内O

2007年05月03日 14時46分52秒 | クラシック(一般)
 バレンボイムはイギリス室内管と組んで、60年代後半から70年代前半にモーツァルトのピアノ協奏曲全集をEMIで完成させていますが、これはその中からの比較的近年に単売されたものです。バレンボイムは確かこの後にベルリン・フィルと組んで新全集を完成させていますから、これなど忘れ去られつつある演奏なのかもしれませんが、80年代の頃は非常に評価の高い演奏だったように記憶しています。当時のバレンボイムは中堅どころのスター指揮者として、レーベルを超えて引く手あまたの活動をしていましたが、そもそも指揮者としてはこの全集あたりがその評価を高めるきっかけになったのかもしれません。

 さて、このCD購入したは既に10年近く前になるのですが、どういう訳か、演奏内容の印象が全く残っておらず、久々に聴いてみたところ、「ははん」ときました。バレンボイムのモーツァルトって、私にとっては(あくまでも私にとってはですが)、いささか鈍重なんですね。特に27番のような羽毛のように軽く、天上的な美しさが際だった曲だと、それが目立ってしまうもんで、おそらく一聴して、「これはオレの好みじゃないな」と思って放置してしまったんでしょう。

 オケが提示する第一主題は実にじっくりとした足取りで進んでいきまして、ある種の壮麗な美しさは感じるんですが、残念ながらこの曲にあって欲しいロココ風な軽やかさは今一歩という感じですし、ピアノも先日レビュウしたアシュケナージもそうでしたが、やや角がまるくシャープさないのが個人的にはイマイチという印象です。もっとも展開部で短調に転じて、そのピークで主題が回帰するこの楽章のハイライトともいえる部分では、かなり濃厚にロマンティックな表現で、これはこれで聴かせてくれますけれど....。

 第2楽章ではこの楽章のメランコリックなところをよく表現していて、多分、全楽章ここが一番良いパフォーマンスなのではないと思いますが、第3楽章になるとまた腰の重い、なにやらベートーベンでも聴いているような重厚な演奏になってしまうんですね。バレンボイムって、先日レビュウしたワーグナー集もも見事にそうでしたけど、緩徐楽章的な音楽は非常に雰囲気ある音楽を展開するものの、リズミックな音楽になるとややシャープさに欠けるようなところがあるんじゃないでしょうか。

 バレンボイムのモーツァルトといえば、交響曲の全集も確かしていたと思いますが、その41番など最終楽章では指定されたリピートの全て実行して10分近い演奏時間をかけ、フルトヴェングラーみたいなテンポの揺れを伴いつつ、まるで後期ロマン派とみまごうようなスケールの大きな音楽を展開していましたけど(これはさすがにCD化されてないと思います、思い出した聴きたくなってきた-笑)、要するにこの演奏もそういうところがあるんでしょうね。
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JACQUES LOUSSIER / plays Debussy

2007年05月02日 18時09分03秒 | JAZZ-Piano Trio
 バッハをジャズのピアノ・トリオにアレンジして演奏することで有名なジャック・ルーシェですが、近年はむしろバッハ以外のクラシックの作曲家を手がけることが多く、2000年に収録されたこのドビュッシー集もそうした一枚です。ルーシェはフランス人ですし、いつものファッショナブルな音楽のたたずまいからして、フランスの印象派などはおそらく得意だったんでしょう(というか制作サイドはそう思っているに違いありません)。これの他にもサティ集や当然のようにラベルも手がけていますが、じゃぁ、これがバッハのように楽しめるかというと、けっこう微妙なんですね。

 ここで取り上げられた曲は、当たり前といっては当たり前ですが、ほとんど原曲がピアノ曲なのですが、あまりに原曲のイメージに忠実過ぎて、いつもの意外性はないし、ジャズ的なインプロビゼーションの感興といったものも希薄だという気がするんですね。その理由のひとつとして、こに収録されたピアノ曲はそもそもピアノの独奏曲として、完璧に世界が出来上がってしまっていているということがあると思います。これを全く違った楽器やアンサンブルで演奏するならともかく、同じピアノでアプローチするには原曲の完成度が高すぎるんじゃないかと思うんですよね。そもそもドビュッシーのピアノ曲は、技術的も高度なものを要求しつつ、フランス的としかいいようがない独特の雰囲気をもっていていますから、オリジナルを敷衍しつつ、ジャズっぽいインプロに移行すると、とたんにドビュッシーの世界から浮き上がってしまうように感じました。

 あと、素材が素材だけにいたしかたないともいえますが、バッハの時にみせるような豪快にスウィングする場面がないのも少々さびしいです。5曲目「喜びの島」がいくらかそれっぽいところを開陳していますが、後はオリジナルの雰囲気を尊重するばかり、結局、ドラムとベースにはほとんど存在感がなく、背景でうっすら鳴っているだけみたいな曲も多く、おフランスの音楽をおシャレなBGMとして楽しみたいというムキにはいいかもしれませんが、私には少々退屈でむしろ原曲聴きたくなっちゃいました。
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