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マーラー 交響曲第10番 他/セル&クリーブランドO <SACD>

2007年05月30日 21時06分31秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲第10番は、未完成であるが故に興味深い曲だ。通常、演奏されるのはマーラー自身がまがりなりにも総譜を手がけた第1楽章だけだが、毀誉褒貶はあるものの、イギリスのデリック・クックが補筆完成させたヴァージョンがあるせいで、比較的新しい指揮者はこの全曲を「マーラーの曲」として全曲演奏することも多くなってきたという経緯がまずおもしろいし、この補筆完成版というのも実はクックの他にも、マゼッティ、フィーラーなど様々な人が挑戦していて、それもかなりの数CD化されているである。

 私のような楽譜音痴の場合、クラシックの版違いというのはロクに違いもわからないことが多いのだが、版違い、ヴァージョン違いの類はジャンルを超えて好きなので、けっこう買い込んでいたりもする訳だ。このジョージ・セルとクリーブランドの演奏は、広い意味でその一種である。広い意味で....と書いたのは、実はこの演奏、デリック・クックが補筆完成させる前のもので、クルシェネック版といわれているものを用いたものだからである。詳しい事情は省くが、クック版がでるまでは、マーラーの交響曲第10番といえば、とにもかくにもここで聴かれる第1楽章と第3楽章しか存在していなかったからだ。

 さて、この補筆クルシェネク版だけれど、彼はアルマはの娘婿にあたる作曲家らしく、また一部シャルクやツェムリンスキーなども強力しているらしい。いわば濃い血筋での補筆ということになり、当時としてはそれなりに正統性を主張しうるものだったのだろう。だからこうしてジョージ・セルのような大指揮者がレコード演奏を残した訳だ。ところがこのクルシェネクによる補筆も、クックの見識ではかなり誤りがあったらしく、補正をほどこしているとのいうことで、そういった経緯もあって、クルシェネク版は現在ではまったく演奏されなくなった。逆にいえばその意味でもこの演奏には歴史的な価値があるともいえる。

 では、両者では何が違うのだろうか。そこであれこれ分析できればよいのだが、実は私にはよくわからない。じっくりと聴き比べれば、細部の違いはわかるかもしれないが、一聴した感じでは全く同じように聴こえるのが哀しい。むしろ、セルらしい、直線的でベタベタしない、すっきりとクリアな演奏が、この曲に潜む情念のようなものをあまりに希薄にしてしまっているという、演奏に係る印象の違いの方が強かったりするのだ。また、晩年のマーラーの心境を色濃く伝える第1楽章にくらべ、第3楽章「プルガトリオ(煉獄)」はなぜだか初期型マーラーに先祖返りしているような音楽で、続けて聴くと妙に座りが悪かったりするのも気にかかるところで、どうも版違いということをポイントに聴くとこの演奏あまり印象に残らないというのが正直なところだ。

 
 ちなみにこれは58年の録音だから、音質はけっこうナロウだし、いささかもやもやしたところがないでもない。メディアはSACDだから、マスターのクウォリティをそのまま伝えるクリアさや柔らかな透明感といった器そのものの品位の良さは感じるものの、逆に元ソースのクウォリティ的な限界も感じさもしてしまう。
 という訳で、なんか気紛れで取り出してきたアルバムだけれども、こうなるとクックの全曲版の方も聴きたくなってきたな(笑)。
コメント
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