■ 信濃毎日新聞の18年4月28日付朝刊に掲載された大正時代の縄手通りを撮影した写真(松本市博物館所蔵か)。火の見櫓が写っている。撮影者は火の見櫓にそれ程注目していなかったのかどうか、てっぺんまできちんと写していない。火の見櫓の位置は現在の交番のあたりと思われる。
丸太柱3本から成る櫓で、桟を等間隔に架けて梯子状に組んでいる様子が見て取れるが、後方の柱とどのように繋いでいるのか、写真では判然としない。
櫓の右側に持ち出した腕木に半鐘を吊り下げ、小屋根を設けていることが分かる。ちょうど立ち位置になると思われる高さのところに何か写っているが、それが何であるのか、分からない。足場ではないか、と考えたが、半鐘を叩く時に櫓の内側に入りこむ必要もないし、入るに入れないから足場は不要だろう。でも足場の他には浮かばない。
余談、でもないか、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』に縄手通りにあった背の高い火の見櫓に寮生が登ったことが出てくるが、写真の火の見櫓のことではなく、後継のものではないかと思われる。
東筑摩郡朝日村の火の見櫓 撮影大正14年