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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その38の2 『萩』

2008年01月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
吉田松陰は、以前に紹介した黒船来航で知られるペリーが2度目の来日の時、海外での見聞を広げたいと、黒船に密航を企てたがアメリカ側の許可が下りず失敗に終わったそうです。



松下村塾の隣に、吉田松陰の家があります。
密航を企てたことで、萩の野山郷に幽閉されてしまいます。
その後、生家で預かりの身になり、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受け、維新の指導者となる人材を教え育てました。



1858年に、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだため、吉田松陰は激しくこれを非難し、時の老中・間部詮勝の暗殺を企てます。
長州藩はこの動きを警戒して再び松陰を投獄し、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰を江戸に送るように命令します。



江戸にて、松陰は老中暗殺計画を自供したため、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処され手しまいます。 このとき吉田松陰29歳でした。
獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残します。
写真は吉田松陰の家です。



処刑を覚悟した、吉田松陰が両親に送った手紙の中に書かれていた、別れの言葉です。



『親思う心にまさる親こころ、今日のおとずれ何ときくらん』、青年期を獄中で過ごした吉田松蔭の両親への気持ちが現れています。



松蔭神社です。
安政の大獄で小伝馬町獄中にて刑死した遺骸を、高杉晋作、伊藤博文等が江戸より運び、この地に埋葬し社を築いたのが松蔭神社ということです。



本殿は尚は2年に造営され、神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところから、大夫山と呼ばれました。



松蔭神社の一角にある、この建物は花月楼と呼ばれる茶室です。
この建物は1776年に長州藩7代藩主毛利重就が、表千家家元7代如心斎の門人、川上不白が献上した図面によって、三田尻の別邸に建築した茶室であり、花月楼の名称は、茶事七事式の第一である花月式に由来していると説明されています。
この茶室はのち萩の平安古に移され、さらに1888年に品川弥二郎が松本橋袂の自宅に移していたものを、1959年に現在地に移築されたそうです。



もう少し境内を回ってみます。

続く.........................................................。