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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その36の2 『桂浜』

2008年01月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
竜王宮に向かう階段を上りきると、鳥居があります。
鳥居から桂浜を臨みます。



浜辺を上から見ると、綺麗な海だとよく分かります。
高知を代表する初日の出スポットとしも、有名な桂浜です。
正月は、坂本龍馬の像と一緒に、初日の出を見る人たちで賑わったことでしょう。



桂浜の雄大な景色を見ながら、坂本竜馬関係のネット上の資料を基に、幕末の動きをまとめてみました。

最初に、いつものようにお断りしておきますが、トッポパパは歴史研究家でも、史実に詳しいわけでもありません。 
龍馬に関する小説や、観光資料などを参考にしてまとめてあります。
実際に坂本龍馬に関しては諸説があるようで、何が正しいのかわかりません。
小説の中ではフィクション部分もあるようですが、その辺はロマンを含めての話として、読み流してください。

坂元竜馬は1836年1月3日に土佐の高知城下に生まれ、1853年に江戸に出ます。
1853年はペリー総督率いる軍艦4隻が浦賀に到着し、『黒船到来』と騒がれた時代です。

ここでいう、黒船が来航した浦賀とは、こちらのことです。

坂本龍馬は江戸の『北辰一刀流』で有名な千葉道場で剣術修行に入り、剣士として知られるようになります。



ペリー軍団は、いちど引き上げましたが翌年再来日します。
鎖国を続けてきた幕府は海外の国から開港を迫られ、危機感をつのらせて、江戸に藩邸をおく諸大名に命じ、海岸警防を固めさせます。 
坂本龍馬も土佐藩士としてこの任に着きます。
黒船来航後、幕府は各国から開港を迫られ、開港か鎖国かで揺れ動きます。
この頃、幕府は彦根藩の井伊直弼を大老にします。
しかし、1858年に井伊直弼は独断で通商条約を結び、日本の各地の港の開港を約束してしまいます。

井伊直弼に関しては、こちらをどうぞ

当時水戸藩、島津藩を中心に、攘夷論(侵略・侵入してくる外国に対抗する)が沸き起こり、幕府の政策に反対する藩士たちは捕らえられ隠居させられてしまいます。
これが『安政の大獄』です。
もう少しわかりやすくするために説明すると、勤皇と佐幕(さばく)という言葉が使われますが、佐幕とは「幕府を補佐する」側で、勤皇は天皇を尊ぶ側(倒幕側)と理解するとわかりやすいでしょう。



『安政の大獄』で、長州の『松下村塾』で知られる『吉田松陰』も斬首となります。 (吉田松陰に関しては、近々アップする予定です。)
この結果、1860年に攘夷派(佐幕派)は、井伊直弼に恨みを集中させ、水戸藩士と薩摩藩士により暗殺されてしまいます。 これが『桜田門外の変』です。



この時期に前後して、坂本龍馬は土佐に戻り、土佐の藩士、武市半平太などと一緒に土佐勤王党を結成します。
土佐勤王党は尊皇攘夷論(天皇を尊び侵略・侵入してくる外国に対抗する勤皇派)を強く唱えます。
水戸藩、島津藩の攘夷論は、幕府を中心としての攘夷論で、尊皇攘夷論とは異なります。 尊皇攘夷論者(勤皇派)は幕府側に反旗を翻すことになります。 
この勤王党の仲間には、高知の室戸出身の中岡慎太郎もいます。
土佐藩は尊皇攘夷を唱える長州藩よりであったため、京都を中心にして幕府側の藩士を『天誅』という名目で、暗殺が繰り広げます。 
その中心人物が武市半平太でした。
この過激な行動に反目した坂本龍馬は、再度江戸に戻り、世界観を共有する勝海舟に出会い脱藩をし、勝海舟の弟子になります。



この土佐藩の動きに対抗したのが幕府側の会津藩で、幕府によりこの動乱を治めるため京都守護職を任命されます。
この浪士隊に『新撰組』の前身である、近藤勇、土方歳三が率いる試衛館が加わります。
この会津藩の参入が、最後に白虎隊の悲劇につながるわけです。

会津藩と新撰組とのかかわりは、こちらからどうぞ

その後、幕府の弾圧を受けた土佐藩は、土佐勤王党は崩壊し、武市半平太は捕縛されてしまいます。
勝海舟と行動をともにした坂本龍馬はこの難を逃れ、各地を飛び回り海軍建設を進めます。
その後、新撰組による、『池田屋事件』が1864年に起こります。
この事件で坂本龍馬が塾頭を勤めた神戸海軍塾の熟生で土佐出身の仲間が殺されてしまいます。
この事件に怒った尊皇攘夷派の長州藩が兵を挙げ戦闘が激化しますが、このときは、まだ幕府軍の戦力が強く敗退します。
しかし、神戸海軍塾は閉鎖され、坂本龍馬は勝海舟の仲立ちで薩摩藩に入ります。



当初は薩摩藩は開国派で、長州藩は尊皇攘夷派のため、たびたび対立関係にありましたが、天皇の勅許を得た通商条約が結ばれては、もはや長州藩の尊皇攘夷論は成立しなくなります。
坂本龍馬は土佐の藩士、中岡慎太郎と一緒に長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛に『薩長同盟』を進言し実現させます。
この結果、開国も視野に入れて、富国強兵を図り日本をまとめなければならないとする、大攘夷論に変わり、倒幕へと一気に進みます。
木戸孝允は前述の吉田松陰の弟子になります。

同時期、坂本龍馬は薩摩藩より舟を借り、海運業を始めます。
本拠地は長崎でしたが、これを『海援隊』と呼ぶそうです。
(武田鉄矢の海援隊の名前の由来もここなのでしょう)

この頃から、長州は市民軍である奇兵隊を中心に、薩摩藩、海援隊の支援を受け、倒幕に向けて圧倒的な勝利を得て、戦闘は後の会津若松の戊辰戦争に入ります。
この会津若松の戊辰戦争の最後が、会津藩の白虎隊の悲劇になるわけです。



薩摩、長州が武力で幕府を倒そうとしている時、坂本龍馬は『富国強兵』による攘夷を唱え、『日本は一つにならなければならない』と土佐藩家老、後藤象二郎に大政奉還を提案します。
坂本龍馬と土佐藩が幕府側、反幕府側を説得し1867年、14代将軍徳川慶喜が京都二条城で大政奉還を宣言しました。
この大政奉還を幕府が承諾した裏には、征夷大将軍としての任を受けている幕府の力が無ければ、朝廷では国を治めることは出来ないという思惑もあったようです。



以上が坂本龍馬を中心とした、幕末の動きのようです。
まさに、日本の歴史を動かす中核の役目を担ってきた人物だったのでしょう。
詳細を調べれば、もっと複雑な流れなのでしょうが概略はこんなものでしょう。

ブログを長く続けていると、色々訪問した場所が歴史上のつながりがでてきて、よく分かります。
また、坂本龍馬の立像の目線は、アメリカとも、中岡慎太郎の故郷、室戸を見ているとも言われているそうです。