松蔭神社を出て、萩の城下町を散策しようと駐車場に向かう途中、偶然見つけた石碑です。
松陰神社の駐車場左側に、自然石の石碑が建てられています。
表には『薩州 田上藤七 長州 久坂玄瑞 土州 坂本龍馬』とかかれ、中央に『薩長士連合密議之處 岸信介書』左側に『文久二年一月 鈴木勘蔵宿之跡』と刻まれています。
ネット情報によると、この場所は石州街道の沿道にあたり、鈴木勘蔵の旅人の宿があったところで、1862年に土佐の藩士坂本龍馬が、同じ土佐藩の武市半平太)の書簡を持って、松下村塾に寄宿していた久坂玄瑞を訪ねて来萩したようです。
たまたま薩摩藩士の田上藤七も、久坂玄瑞にあてた書簡を持って来宿していたので、久坂を中心にして偶然にも薩長土がここに会し、後日の薩長連合を暗示する会合になったようです。
この歴史的遭遇の場所を記念して、山口県出身の元総理大臣岸信介の書になる碑を建てたそうです。
松下村塾を初め、日本の近代史にゆかりのある松蔭神社には、天皇皇后両陛下及び皇太子、皇太子妃両殿下も当地を訪問され、記念の石碑が建っています。
松蔭神社を後にして、萩の街を巡ってみました。
こちらは、『観徳門』です。
藩校明倫館の遣構で、孔子を祀る聖廟の前門です。
1849年の建築で、明倫館の旧地である明倫小学校敷地内に残されています。
藩校は藩士とその子弟を対象とした江戸時代の藩直営の教育機関です。
現在の明倫小学校の入り口に建てられている『長州ファイブ』の説明板です。
1863年の幕末に、5人の若者が横浜港からイギリスに向けて出航します。
長州藩が外国の情報を入手しようと5人を派遣したのです。
その長州ファイブとは、井上馨(不平等条約改正に尽力した初代外務大臣)、遠藤勤助(造幣事業の父)、山尾庸三(グラスゴーで造船を学び、東京大学工学部の前身である工学寮を創立)、伊藤博文(大日本帝国憲法を発布した初代内閣総理大臣)、井上勝(鉄道の父で、新橋-横浜間に日本初の鉄道を敷きます。)の5人です。
ここにも長州藩士の日本への影響力をあらためて感じます。
続く......................................................。
松陰神社の駐車場左側に、自然石の石碑が建てられています。
表には『薩州 田上藤七 長州 久坂玄瑞 土州 坂本龍馬』とかかれ、中央に『薩長士連合密議之處 岸信介書』左側に『文久二年一月 鈴木勘蔵宿之跡』と刻まれています。
ネット情報によると、この場所は石州街道の沿道にあたり、鈴木勘蔵の旅人の宿があったところで、1862年に土佐の藩士坂本龍馬が、同じ土佐藩の武市半平太)の書簡を持って、松下村塾に寄宿していた久坂玄瑞を訪ねて来萩したようです。
たまたま薩摩藩士の田上藤七も、久坂玄瑞にあてた書簡を持って来宿していたので、久坂を中心にして偶然にも薩長土がここに会し、後日の薩長連合を暗示する会合になったようです。
この歴史的遭遇の場所を記念して、山口県出身の元総理大臣岸信介の書になる碑を建てたそうです。
松下村塾を初め、日本の近代史にゆかりのある松蔭神社には、天皇皇后両陛下及び皇太子、皇太子妃両殿下も当地を訪問され、記念の石碑が建っています。
松蔭神社を後にして、萩の街を巡ってみました。
こちらは、『観徳門』です。
藩校明倫館の遣構で、孔子を祀る聖廟の前門です。
1849年の建築で、明倫館の旧地である明倫小学校敷地内に残されています。
藩校は藩士とその子弟を対象とした江戸時代の藩直営の教育機関です。
現在の明倫小学校の入り口に建てられている『長州ファイブ』の説明板です。
1863年の幕末に、5人の若者が横浜港からイギリスに向けて出航します。
長州藩が外国の情報を入手しようと5人を派遣したのです。
その長州ファイブとは、井上馨(不平等条約改正に尽力した初代外務大臣)、遠藤勤助(造幣事業の父)、山尾庸三(グラスゴーで造船を学び、東京大学工学部の前身である工学寮を創立)、伊藤博文(大日本帝国憲法を発布した初代内閣総理大臣)、井上勝(鉄道の父で、新橋-横浜間に日本初の鉄道を敷きます。)の5人です。
ここにも長州藩士の日本への影響力をあらためて感じます。
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