物は試しにと、グーグルで 『 デンマーク チェス ベント・ラーセン 』 を
検索したら、ヒットしました。
例によって、あっちこっちウロウロしていたら、ラーセン氏来日時の歴史の一文が ・・・ 。
《 来日時は、30歳代でした 》
’73年冬の京都です ・・・
朝早く、M吉とN谷達が、慌ただしくヒゲを尋ねて来ました。
日本チェス協会からの仕事の依頼だと言う。
「 すわ? 何事だぁと 」 問うと、「 GMのB・ラーセンが来日した。」
京都に行きたいという事だから、現学生チャンピオンがいる同志社チェスに、
その接待役を任せると。
出迎えた後、取りあえず観光をしたいという事になり、ヒゲのアパート近くの
『 金閣寺 』 に決まった。
近くと言っても、殆んど知らない世界遺産。 案内どころか、自分が観るのに精一杯。
そうは言うものの、京都の学生の面子がある。
よせばよいのに、リップ・サービスのつもりで、ヒゲがシャシャリ出た!?
「 金閣寺はハデだが、一方の銀閣寺はジミなんです。 」 と説明をしようと、
“ 銀閣寺 ” は、 “ シック ” なんですと言ってしまった。
ほら、仏ファッション界で使う、 “ シックなドレス ” とか。
ヒゲがそう言い放った後、ラーセン氏は、一瞬困った顔をした。
この時、ヒゲはまだ気付いていません!
そして、2.3秒後、同氏が 「 it means ill? 」 と問うた時、ヒゲは間違えに気付き、
“ 真っ赤 ” になったので御座いました。
なんと、ヒゲは事もあろうに、 「 銀閣寺は、現在病気!? なんですよ。 」 と言って
しまったのだ。 (爆)
ラーセン夫婦を大阪のホテルに送る時、地下鉄でストがあっていた。
「 あのストライキは、何が原因なのですか? 」 と問われて、三人は顔を見合わせた。
「 知ってるや? 」 「 多分、賃金と思うけど、正確には解らない。 」
そして、 「 ゴメンなさい。 よく解りません。 」 としか返事が出来なかった。
やはり、学生といえども、世間で起こっている事を多少は勉強しておかなくっちゃと
思ったものでした。
別れ際、ヒゲは日本の土産にと、自署の 『 チェス・ノート 』 を差し出しました。
ラーセンは、ニッコリして、ついでにサインもしてくれと。
ヒゲ、生まれて初めてのサイン(日本語の)で御座いました。

次の日、大阪ロイヤルHで、同時対局。 ラーセンは、10人を相手にした。
日の丸を背に、ヒゲを入れた3人が上座に。 チャンピオン・フラッグだ。
ムザムザ負けるなよ! というわけだ。

ヒゲのボードの前に居るのが、ラーセン氏。
「 なんで、セーター着ていったの? スーツが当然でしょう! 」 と、
あけみ(今のカァちゃん)にとがめれましたが、あとのまつり。
なんで、だったんでしょう? ネクタイも持っていたのに?
慣れないオープニングを選ばれて、ひげは苦吟した。
時間を惜しげもなく使って解析して、おかげで局面は上手くいったが ・・・ 。
タイム・プレッシャーに追われていった!

日本チームの中では、ヒゲともう一人だけが有望らしい。
しかし、時間に追われてミスっていった。 ヒゲが悪くなってから、間もなくでした。
当時、世界チャンプ候補と呼ばれた、このGマスターは、ビックリするような手を指してきた!
それは、例えて言えば、王を守るべき近衛兵が、攻撃隊として出陣するようなものでした。
日本人同士では考えられない手だった。
「 誰が、陛下をお護りするのだー!? 」
その数手後、ヒゲは “ 世界は広い ” 事を身にしみて、投了したのでした!

時は流れ ・・・ デンマークの今日
ラーセン氏は、W杯サッカーの VS日本をテレビ観戦するのだろうか?
そして、あの時、ニッポンで会った奇妙なシック学生の事を思い出すだろうか?!
検索したら、ヒットしました。
例によって、あっちこっちウロウロしていたら、ラーセン氏来日時の歴史の一文が ・・・ 。

’73年冬の京都です ・・・
朝早く、M吉とN谷達が、慌ただしくヒゲを尋ねて来ました。
日本チェス協会からの仕事の依頼だと言う。
「 すわ? 何事だぁと 」 問うと、「 GMのB・ラーセンが来日した。」
京都に行きたいという事だから、現学生チャンピオンがいる同志社チェスに、
その接待役を任せると。
出迎えた後、取りあえず観光をしたいという事になり、ヒゲのアパート近くの
『 金閣寺 』 に決まった。
近くと言っても、殆んど知らない世界遺産。 案内どころか、自分が観るのに精一杯。
そうは言うものの、京都の学生の面子がある。
よせばよいのに、リップ・サービスのつもりで、ヒゲがシャシャリ出た!?
「 金閣寺はハデだが、一方の銀閣寺はジミなんです。 」 と説明をしようと、
“ 銀閣寺 ” は、 “ シック ” なんですと言ってしまった。
ほら、仏ファッション界で使う、 “ シックなドレス ” とか。
ヒゲがそう言い放った後、ラーセン氏は、一瞬困った顔をした。
この時、ヒゲはまだ気付いていません!
そして、2.3秒後、同氏が 「 it means ill? 」 と問うた時、ヒゲは間違えに気付き、
“ 真っ赤 ” になったので御座いました。
なんと、ヒゲは事もあろうに、 「 銀閣寺は、現在病気!? なんですよ。 」 と言って
しまったのだ。 (爆)
ラーセン夫婦を大阪のホテルに送る時、地下鉄でストがあっていた。
「 あのストライキは、何が原因なのですか? 」 と問われて、三人は顔を見合わせた。
「 知ってるや? 」 「 多分、賃金と思うけど、正確には解らない。 」
そして、 「 ゴメンなさい。 よく解りません。 」 としか返事が出来なかった。
やはり、学生といえども、世間で起こっている事を多少は勉強しておかなくっちゃと
思ったものでした。
別れ際、ヒゲは日本の土産にと、自署の 『 チェス・ノート 』 を差し出しました。
ラーセンは、ニッコリして、ついでにサインもしてくれと。
ヒゲ、生まれて初めてのサイン(日本語の)で御座いました。

次の日、大阪ロイヤルHで、同時対局。 ラーセンは、10人を相手にした。
日の丸を背に、ヒゲを入れた3人が上座に。 チャンピオン・フラッグだ。
ムザムザ負けるなよ! というわけだ。

ヒゲのボードの前に居るのが、ラーセン氏。
「 なんで、セーター着ていったの? スーツが当然でしょう! 」 と、
あけみ(今のカァちゃん)にとがめれましたが、あとのまつり。
なんで、だったんでしょう? ネクタイも持っていたのに?
慣れないオープニングを選ばれて、ひげは苦吟した。
時間を惜しげもなく使って解析して、おかげで局面は上手くいったが ・・・ 。
タイム・プレッシャーに追われていった!

日本チームの中では、ヒゲともう一人だけが有望らしい。
しかし、時間に追われてミスっていった。 ヒゲが悪くなってから、間もなくでした。
当時、世界チャンプ候補と呼ばれた、このGマスターは、ビックリするような手を指してきた!
それは、例えて言えば、王を守るべき近衛兵が、攻撃隊として出陣するようなものでした。
日本人同士では考えられない手だった。
「 誰が、陛下をお護りするのだー!? 」
その数手後、ヒゲは “ 世界は広い ” 事を身にしみて、投了したのでした!

時は流れ ・・・ デンマークの今日

ラーセン氏は、W杯サッカーの VS日本をテレビ観戦するのだろうか?
そして、あの時、ニッポンで会った奇妙なシック学生の事を思い出すだろうか?!
バックナンバー見ると、もう2年以上ブログを
やっておられるのですね。
しかし内容が、濃いいですね。
読み物としても十分な内容ですね。
Mマウンテンさん、健在のようですね。
これからもちょくちょく覗かせていただきます。
夜中に起きて試合見ました。
よかったですね。決勝トーナメント進出
ヒゲがネットにハマり出した縁で、又お近づきになれそうで、嬉しいですよ。
M・マウンテンさんとは、時々飲んでます。
飲み会もしたいですね。
《 ブログの代打ち役を務めています。ヒゲは、Wiiだけで遊んでます。 》
以下のブログで知りました。
http://monsieur.ddo.jp/newblog/2010/09/post-140.html#comments
natsuo (2010年9月11日 23:59) | コメント(2) | トラックバック(0)
お昼を食べてアイスコーヒーで一服しているとチャイムが鳴る。今日は消防設備の点検をしに人が来ることになっていたのだった。天井のあちこちに点検用の器具を押し当て、ピロピロと警告音が出るのを確認すると、3分くらいで点検員は去っていった。その後は折紙やピアノで過ごす。4時を過ぎたころに外へ出て近くの床屋で髪を切ってきた。これで頭から出る汗の量を少し減らせる。
昨夜、Bent Larsenが75歳で死去したとのニュースがあった。ラーセンは20世紀に活躍したデンマークのチェスプレイヤーで、特に1960年代から70年代にかけては、世界チャンピオンへの挑戦者争いでいつも名前が出るような超強豪だった。しかし結局、彼は一度も挑戦権を得ることはできなかった。挑戦者になれそうでなれなかった人は他にもたくさんいるが、彼の名前はその中でもチェス界に浸透しているように思う。それはおそらく、Nimzo-Larsen Attackのように彼の名がついたオープニングがあるからというだけではなく、フィッシャーの引き立て役としてよく登場するからではないか。フィッシャーがラーセンのシシリアンドラゴンを端攻めからたたきつぶし、"My 60 memorable games" の中で "pry open the h-file, sac, sac ... mate!" と書いたゲームは有名である。恐ろしく強かったにも関わらず、それより強い人間がいたせいで斬られ役として記憶されてしまうというのは、全く皮肉というほかはない。フィッシャーとラーセンは公式戦で14回対戦し、フィッシャーの11勝2敗1ドローだった。
故人を偲ぶつもりで、ラーセンがフィッシャーに勝った2局を今夜は並べてみようと思う。
ニューヨークタイムズの記事
http://www.nytimes.com/2010/09/11/world/americas/11larsen.html
合掌
ヒゲのBラーセン氏との対局、貴重な経験を喜ばれました。所で、ナツオ氏は、福岡までチェス対局でおいでみたいですね!アユさんと、接点はあるのでしようか?
ナツオさんは、詰め将棋にも造詣が深く、短編詰将棋部門の、看寿賞を受賞したこともあります。
数年間の福岡選手権で、私も対局したことがあります。その対局後、会場の片隅で、これ解けますか、面白い詰め将棋なんです、と簡単そうで盲点のある3手詰め詰め将棋を出題、アユさん、岡村さん、私、ほか将棋もすきな者で、あーでもない、こーでもない、とチェス選手権会場の片隅で盛り上がったことを思い出します。
ああー、ただ一つ、酒量がどのくらいか、存知あげません。(笑)