ツアーのバスはホテルで客をピックアップしながら,カンクン市街地を抜けて,ユカタン州の州都メリダに通じる高速道路を西に走る。国道脇の草原風景は森に変わり,森を切り開くように国道が走る。陽射しが強い。目指すチチエン・イッツア(Chichén Itzá)遺跡は,ピステで高速を降り森に入る。この辺りに水を集めて流れる河が見あたらない。この森一帯は石灰岩に覆われ,雨水は地下に浸透,地下を流れる。所々に大きな穴があり,泉・井戸となっている。現地の住民はこの井戸の周辺に集落を作ったのだろう。チチエン・イッツアとはマヤの言葉で「泉のほとりのイッツア人」の意味だという。このようなセノーテ(聖なる泉Cenote Sagrado)は宗教的にも極めて重要で,願いを込めて或いは吉凶を占うため,水神に人身御供が捧げられ,宝物が投じられた。マヤ学の権威であるアメリカ人エリック・トンプソンの湖底調査に依れば,チチエン・イッツア遺跡のセノーテからも人骨や財宝が見付かっている。
遺跡の手前で,地底深くえぐられた泉に降りる。観光客が岩肌をしたたる水に濡れながら,涼に浸る。元気なアメリカンが泳いでいる。周辺の森の中には,洗濯物を干している現地の家々が眺められる。
遺跡のエントランスを入ると,ガイドがツアー客を英語グループかスペイン語グループに分けている。
「どちらにする?」
「スペイン語グループがいいわ」
スペイン語の案内人について歩く。直ぐ脇を,日本人の一団が日本語の説明を聞きながらせかせかと急ぎ足で通り過ぎて行く。
最初に目に入る遺跡がククルカンの神殿(マヤの最高神ククルカン:羽毛のある蛇の姿の神,カステイジョ),9段の階層からなり,4面に各91段の急な階段があり(91×4=364),最上段の祭壇を加えて365,1年の日数になるのだという。また,1面の階層9段は階段で分けられるので18段となり,マヤ暦の1年(18ヶ月365日)を表している。北面の階段の最下段にはククルカン東部の彫刻があり,春分の日,秋分の日の太陽が沈むとき,階段の西側にククルカンの胴体(蛇に羽が生えたように影を作る)が現れ,ククルカンの降臨と呼ばれている。
北西側には,戦士の神殿,周辺を石柱群が取り囲み,3層からなる(神殿内部にもう一つの神殿)。頂上には生け贄の心臓を献げたチャック・モール石像がある。さらに,セノーテ(泉)に立ち寄り,球戯場へと回る。球戯場の隣には頭蓋骨の台座(生贄の骸骨を大衆にさらした)があり,壁一面に多くの髑髏が掘られている。また,球戯場の東壁にはジャガーの神殿。ジャガーは強さのシンボルであった。球戯は豊穣の神に祈りをささげる宗教儀式で,戦いで勝利したチームの長は栄光を担い,自らの身体を神に捧げる習いがあっと言われる(負けた方ではないのか?)。斬首され,血潮が7筋の蛇となってほとばしり,その先から植物が芽を出している。
此処までの遺跡はトルテイカ文明と融合した新チチエン・イッツア,神殿の反対に回り込むように進むと旧チチエン・イッツアの遺跡がある地帯になる。天文台(El Caracol),尼僧院,高僧の墳墓・・等がある。マヤの文明には数字があり,ゼロの概念をヨーロッパより早い時期に所有し,天体観測の精度は高く,太陽暦の1年を365.2420日と計算していたという。カタツムリ型の天文台で観測した暦により,農耕を行い,遷都を繰り返していたのだという。
メキシコ南東部からグアテマラ,ベリーズに栄えたマヤ文明は,金属器を持たなかった,生贄の儀式が盛んであった,家畜を飼育しなかった,トウモロコシやラモンの実(Breadnut,Maya nut,Brosimum alicastrum)が主食,高度な数学やマヤ文字を使用,正確な暦,河川でなく天然の泉を中心に発展した,などの特徴を有する。トウモロコシやカカオの栽培は,焼き畑農業で段々畑を作り,湿地帯では高畦栽培が行われていた。
この遺跡はいつも観光客で賑わっているが,周辺は熱帯雨林。マヤの遺跡は今なお森に埋もれている。カンクンで砂浜に遊ぶも良いが,足を伸ばして,森の遺跡に古を偲んでみたら如何だろう。
「高度に発展した古代文明が,何故滅びたのだろうか?」
「疫病説もあるが,人口増による食糧難と部族間の争いが主原因だろう。イースター島の例もあるし・・・」
歴史は繰り返す・・・ということか。人口増加,食糧,資源,宗教,環境の問題が脳裏をよぎる。