豆の育種のマメな話

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北海道における大豆生産の挑戦(3)省力機械化への対応

2011-09-13 18:48:01 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

遅れていた機械化

北海道の農家戸数は,1965年の20万戸から2009年の45,000戸まで,45年間でおよそ22%にまで減少し,減少傾向はなお続いている。また,高齢化も急速に進み,大豆生産において機械化,省力化が必須の条件となってきた。

北海道における大豆の10a当たり投下労働時間は,15年前には17時間で,てん菜の19時間に比べればやや少ないものの,馬鈴薯の9時間より多く,小麦の3時間に比べれば極めて多い状況にあった。平成22年の10a当たり投下労働時間をみると,大豆で8.09時間まで半減していて,かなり機械化が進んだことを示している(因みに,てん菜14.91時間,ばれいしょ8.33時間,小麦3.68時間)。当時の作業体系では,収穫脱穀調製作業に45%,除草作業に35%を要する点が特徴であり,収穫脱穀調製作業の軽減を第1の目標として挑戦した。

コンバイン収穫への歩み

わが国の大豆は,耐裂莢性が易であり,点播のため最下着莢位置が低く収穫作業のネックになる点が多いこと,大粒で流通上外観品質が重要視されていることなどが機械化を遅らせた要因と考えられる。しかし,秋が遅く寒い時期に,腰を屈めて実施するニオ積み作業はつらく,埃まみれになって行う脱穀作業は,大豆の作付け意欲を減退させる大きな要因であった。

1961年にはビーカッタ,1968年にはビーンハーベスタが開発され,ビーンハーベスタは急速に普及が進んだ。1980年代後半には7075%の普及率である。しかし,この時代のビーンハーベスタによる収穫は,裂莢損失を裂けるため,朝露の残る早朝に作業をしていた。この頃,コンバインの導入も始まったが普及は2%前後で試行錯誤の時代であった。その後,クリーナなど調製機械,機械化適応性品種の開発,機械収穫を前提とした条播密植栽培技術の確立などが進み,コンバインの普及率は1995年で27%まで増加した。

十勝農試の成果 「カリユタカ」から「ハヤヒカリ」「ユキホマレ」「トヨハルカ」

大豆の機械収穫のために重要な特性は,耐裂莢性,最下着莢位置,耐倒伏性,密植適応性,枯れ上がりの良さなどが考えられる。耐裂莢性は,コンバイン収穫時の衝撃による子実の飛散損失に影響し,最下着莢位置と耐倒伏性は刈残し損失に影響する。

十勝農業試験場では,1975年から機械収穫向き品種の育成を目標に品種改良に取り組んだ。北海道の白目大粒の良質品種に,東南アジア,アメリカ合衆国および中国品種から難裂莢性因子を取り組むことを当面の目標にした。難裂莢性の導入品種は小粒,晩熟,無限伸育で耐倒伏性が劣るなど難点があり,難裂莢性の導入は必ずしも容易でなかったが,1991年「カリユタカ」を育成することができた。しかし,「カリユタカ」はまだ耐冷性,耐病性が不十分であり,さらに改良の余地を残していた。

その後十勝農業試験場では,耐冷性の褐目中粒種「ハヤヒカリ」(1998,十系679号×キタホマレ),早生の白目中粒種「ユキホマレ」(2001,十系783号×十系780号),耐冷性の主茎型・大粒種「トヨハルカ」(2005,十系739号×十交6225)などコンバイン収穫適性の高い品種を順次開発した。中でも,「ユキホマレ」は早熟性が生産者に好まれ普及が進み,北海道の主幹品種として貢献している。

省力化の目標値は10a当たり3.7時間

機械化による省力化,軽労働化は,今後の大豆生産振興にとって極めて重要な課題である。道立農業試験場では「21世紀初頭における技術的課題と展望」1994で省力化の目標を検討したが,コンバイン収穫の導入と手取り除草省略のための狭畦幅栽培によって,10a当たりの投下労働時間を小麦に近い3.7時間と推定している。この目標値は現行の45%強で,まだ目標値に達していないが,小麦のように大豆をつくるという畑作農家の夢は実現しつつある。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆 

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鼓琴の悲

2011-09-13 18:37:07 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

中国の「世説新語」に鼓琴の悲しみという言葉がある。琴をこよなく愛した顧彦先が死んだ時,家人は故人が愛用した琴を霊前に置いた。そこへやってきた友人の帳季鷹は悲しみの余り,その琴で一曲ひき,「顧彦先は再びこれを弾じることはないのだ」と言い,泣きながら,家人に挨拶もせず帰ったという故事に基づく。ここに掲げた故人は,どなたも十勝農業試験場での在任中に交際を頂いた方々である。故人らの愛した,自然,人と酒,仕事に,琴の調べを奏でたいと思う。

◇泥臭いまでの育種家

谷村さんは,十勝農試大豆育種の3年先輩で,19676月に創設なって間もない中央農試大豆育種指定試験地へ異動になった。その時,筆者は2年目を迎えたばかりであったが,彼が分担していた育種材料を全部引き継いだという因縁がある。その後彼は,中央農試でダイズわい化病抵抗性育種に情熱を傾け,さらに植物遺伝資源センターでは種子生産と遺伝資源収集に力を注いだ。退職後はパラグアイの地で,種子生産の専門家として活躍した(1993-95)。

育種家には,系統を維持し続ける愚鈍なまでの頑なさと,系統の廃棄を決断する時に求められる大らかさが合わせ要求されるとすれば,谷村さんはまさに泥臭いまでの育種家であったのかも知れない。彼の野帳に選抜の系譜を辿りながら,ふと思うのであった。

 人を愛することから育種は始まる

十勝農試へ着任した時,犬塚さんは隣の研究室にいた。インゲン豆の育種担当であった彼は,若い研究者達に育種の何たるかをいつも語りかけていたように思う。人を愛することから育種は始まるのだと。

作物は生きている。生産物は人が食べるもの。だから,育種において誤魔化しはいけない。畑を歩け,草を取れ,作物と語れ,と常に諭されていたように思う。彼は,「銀手亡」「福粒中長」「福白金時」「北海金時」など菜豆の育種を担当した後,作物科長として小麦や蕎麦の試験に取り組んだ。その後,彼は上川農試の専門技術員として異動するが,この試験場でまた一緒になるという巡り合わせであった。研究室は違ったけれども,同じ屋根の下での18年である。

十勝農試職員の親睦会誌「十勝野」に掲載された,後木さんの紹介記事によれば「曲がったことが大嫌い。耐アルコール性やや強。飲むほどに声量が増し,時と場合によっては酋長の娘が踊りとなって飛び出す」とある。頑ななまでに貫いた正義感。併せ持つ陽気で柔和な顔。それは,人を愛し,育種に賭けた男の生き方だったのだろうか。

◇確かな記録は武器になる

背が低く,色白であるが,体躯はがっちりした男。柔和な顔と物静かな語り。元気な頃の松崎君である。彼は,1967十勝農試へ就職し,甜菜の試験研究に従事する。私とは1年前後しての研究生活スタートであり,約20年間一緒に十勝農試で過ごすことになる。しかし,彼は働き盛りに,志半ばにして病魔に見舞われる。彼の強い意志は繰り返される治療に耐え,小康を保つかに見えたが,医療の効果もなく長い闘病生活に入ることになる。中央農試験勤務になり,久しぶりに再会した彼は,もはや私を識別できるような状況でなかった。そして,19941112日帰らざる人となった。享年50才。

研究者にとって,新しい発想や工夫が大事であることは言うまでもないが,設計を綿密にし,確かな記録を残し,理論的な解析を進める事も極めて重要である。のデータ収集,整理の緻密さは際だっていた。不明な点は彼に問合せるのが最善と,何度お世話になったことか。また,彼のアイデア,確かな記録が多くの場面で役立った。パソコンが普及していなかった時代に,彼が示した情報収集と整理の努力を,いま我々は見習うべきでないだろうか。精度の良い試験があって,正確なデータを示せるからこそ,いつの世にも研究者は信頼を得ているのだから。

マラソン大会でも静かなスタートを切り,後方からヒタヒタと追いつき,いつの間にか真っ先にゴールしていた君の姿を思い出す。

◇緑の地平線の会

成河さんが現役を退いてからのことである。時折,北海道へきては昔の仲間と集まり,「作物の遺伝資源に関わる話題」「DNAと形質発現の距離」「導入遺伝資源の放生について」「DNAと形質発現の距離」「人と自然との共生について」「海外農業事情」など,勝手に話をしては酒を飲む機会を作っていた。その集まりは,高橋先生の門下生で氏に年齢が近い者達からなり,「緑の地平線の会」と称した。

成河さんは,十勝農試に入った時の大豆育種研究室の先輩であるが,十勝農試では低温研究や小豆・インゲン育種でも成果を上げ,その後農水省の北海道農業試験場や野菜茶業試験場で活躍した。氏の周辺には多くの仲間が自然と集まるような,奇特な人柄であったように思える。十勝農試を離れるころには癌の治療を受けていたが,苦しみを顔に出さなかった。その病も快癒し,退職後は仏門に入り長円寺(愛知県西尾市)住職を務め,正法眼蔵を研究するなど,才能豊かな生き様であった。

緑の地平線の会が4年目を迎えるころ,体調すぐれず車椅子の生活を送っていたが,「車椅子でも北海道へ行けるよね」と会への参加を心待ちにしていたという。2006年逝去。

手元には,氏の短編小説「シャルウイテイー」が残された。成河さん,聞こえますか,「緑の地平線の会」を今年も開催しましたよ・・・。

参照:土屋武彦2000「豆の育種のマメな話」北海道協同組合通信社 240p. (追補2011) 

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