竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 偶然の一致? 詩体歌と漢詩

2018年03月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 偶然の一致? 詩体歌と漢詩

 本記事はずいぶん昔に一度 弊ブログに載せたものを手を入れ焼きなおしたもので、本人としますとある種の備忘録のようなものです。
内容的には昔の記事の焼き直しですから、なんら新奇性はありません。「なんだ、昔、見た」です。


 さて、漢詩について「漢詩は通常,偶数個の句から成り,偶数句の末尾の字は同じ響き(韻)を持つ字に揃える。これを『押韻(おういん)』あるいは『韻を踏む』という。場合によっては最初の第一句の末尾も韻を踏む」と漢詩の言葉遊びである「韻」を解説します。漢詩作詩では詩を朗詠するときのその発声のバランスや言葉遊びから韻を踏むことが大切であり、その整った形式を五言詩や七言詩では絶句や律詩と称するようです。中国語や朝鮮語は閉音節言語に区分され、言語特性上、同音異義語と云う語彙が限定されますので、言葉遊びでは同音字からの「韻」と云うもので行います。日本語は開音節言語に区分され、特性的にたくさんの同音異義語を持ちます。そのため、文章では誤解を生じないように漢字を用い対象物を特定するようなことをしますが、話言葉では同時に複数の物事やそれぞれの人が違うものを想像する可能性があります。ある種、和歌での掛詞と云う言葉遊びです。有名な和歌の掛け言葉に「あかし」と云うものがあり、歌で「明し」、「赤し」、「証」、「明石」などと色々な言葉を想像させるものがあります。
 他方、万葉集には漢語の表現を大いに利用した歌があります。次の集歌1700の歌で使われている「金風」の「金」の用字がそうです。これは、陰陽五行の思想に基づくものですから、音を借字する万葉仮名の意味合い以外に漢語や漢詩の影響があったとしても良いのではないでしょうか。ついでに金は黄金色に通じますから、五行からの秋を示すと同時に秋の黄葉のシーンをも示していると思われます。ある種、漢字文字を使った掛詞です。これは日本人特有の漢字文字遊びです。

集歌1700 金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 鴈相鴨
訓読 秋風に山吹(やまふき)の瀬の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(か)ける雁に逢へるかも
私訳 雲行き怪しい秋風の中に山吹の瀬の音が高鳴るとともに、空の雲に飛び翔ける雁を見るでしょう。

 ただ、理解しないといけないのは、漢詩が最初に詠われたときから韻を踏む五言や七言の絶句や律詩が存在したわけではありません。韻を踏む漢詩の歴史は、インド仏教の音韻学を取り入れた南北朝斉の武帝の永明年間(483-492)以降の「永明体と称される漢詩」の流行が最初とされています。そして、その永明体の漢詩が広く詠われるようになったのは唐代と云われています。つまり、時代と歴史から韻を踏む五言や七言の絶句や律詩の形式論を持って、日本の近江大津宮・飛鳥浄御原宮時代の漢詩を評価することは出来ないのです。
 古今和歌集の原歌は一字一音万葉仮名だけで表記された歌で、歌中に表語文字である漢字の力を一切排除したものです。これにより、先ほど説明しました開音節言語特有の掛詞の遊びが最大限に出来るのです。しかしながら、古今和歌集の一字一音万葉仮名歌の成立までには天平二年の大宰府で詠われた梅花の宴から約二百年の時の流れがあります。確かに飛鳥時代の遺跡物から一字一音万葉仮名表記で記された歌を発見することは可能ですが、今のところ、最初から一字一音万葉仮名で和歌を詠い、記述すると云う態度は確認されていません。一字一音万葉仮名で和歌を詠うと云う意思が判明するのは梅花の宴以降です。およそ、韻を踏む漢詩の歴史や作詩論は、ちょうど、和歌において一字一音で表す万葉仮名表記の成立・完成に二百年の歴史があるような姿に似ていて、一字一音の万葉仮名表記の草仮名表記である古今和歌集以降の歌論で、漢語や漢字の持つ字の力を重視した本来の万葉集の歌を評価できないことに通じます。和歌の作歌技術論でもこれを忘れることは出来ません。

 この中国や日本の歌の形式の歴史から見たとき、人麻呂時代の中国(隋・初唐)では、やっと韻を踏む五言や七言の絶句や律詩などの漢詩のルールが整い、笛や銅鑼に合わせて歌う「賦」から近世の漢詩スタイルで「詩」を吟じるようになって来ました。その五言絶句の源流にあるのが六国の宋代に現れ大流行した子夜歌で、呉声歌曲と呼ばれる南朝歌謡の一つです。
 飛鳥時代と云う時代や当時に日本で使われていた「呉音の中国語」と云うその言語の地域性から推測すると、額田王や人麻呂たちは和歌を創作するのに、この呉声歌曲に代表される南朝歌謡を参考にした可能性があります。南朝歌謡以前の漢詩は、おおむね、宴会場で楽団を配して笛や銅鑼に合わせる儀礼的な「賦」や「楽府」、儒教的価値観を持つ説文的な「辞」の形式ですから、気分に合わせて口吻で詠うものではありませんでした。およそ、漢字(漢語)で詩を表し、主に女性が娯楽・享楽的に口吻で詠う呉声歌曲は、額田王や人麻呂たちの和歌に通じるものがあるのではないでしょうか。参考に日本の宮中などでの楽団を配して楽奏から歌うものに催馬楽と云うものがありますが、この催馬楽は平安時代中に興った手拍子や琵琶などの独奏で詠う白拍子に取って代わられます。楽奏を必要とする賦や辞から詩に遷り行った姿と似たものがあり、昭和時代ですと「小鉢叩いてちゃんちきおけさ」の世界から想像してみてください。識者が好む伝統からすれば相当に品下がった状況ですし、演芸です。
 このような前提条件で、額田王の集歌1606の歌と呉声歌曲「華山畿」を見比べて見てください。制作年代には約150年の時間差がありますが、歌の題材及び場面と発想はまったく同じものです。ただし、その呉声歌曲の伝来の時期を考えると朝鮮半島の動乱を通じて大陸との交流が活発化した斉明天皇の頃かもしれません。また、飛鳥・平城京時代の日本人は漢語を呉音発音で行っていますし、額田王は渡来系氏族の出身ともされていますから、集歌1606の歌の背景には非常に興味あるところです。さらに古事記・日本書紀に載る記紀歌謡や万葉集の雄略天皇の御製に見られる歌謡のような長歌と万葉集の和歌(短歌)では、その表現方法に大きな相違があります。
 和歌での、その歌の表現方法の時代における相違を思う時、人麻呂の詩体歌の表現の由来は、いったい何処なのでしょうか。

額田王思近江天皇作謌一首
集歌1606 君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋し風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
漢詩 夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと
所歓:女性の寝所で歓びを与える人、転じて恋人のこと

 集歌1606の歌も華山畿も、ともに女性歌人の歌です。先にも紹介しましたが、発想的には非常に似たもので、その相違は日中の言語表現の差だけのようです。
 さて、正式の日中交流を小野妹子の遣隋使以降としますと、608年頃から隋や唐の文物が本格的に渡来してきたと考えられます。つまり、額田王の集歌1606の歌が詠われるまで、わずか40年ぐらいなのです。ここで、万葉仮名の表記に注目して人麻呂の初期の歌を、漢詩の雰囲気で見てみます。

人麻呂歌集より
集歌2240 誰彼我莫問九月露沾乍君待吾
訓読 誰(たれ)彼(かれ)を吾に莫(な)問ひそ九月(ながつき)の露に濡れつつ君待つ吾そ
私訳 誰だろうあの人は、といって私を尋ねないで。九月の夜露に濡れながら、あの人を待っている私を。

 この表記を見るとき、人麻呂もまた呉声歌曲の表現方法にヒントを得ていたのではないかと想像してしまいます。その私の想像を判り易くするために、集歌2240の人麻呂の歌の詩句の順番を入れ替えて遊んでみますと、次のような形が現れてきます。これを先ほどの華山畿と並べて紹介します。

君待吾 誰彼我莫問 九月露沾乍
君待つ吾 誰れ彼れと我に問ふなかれ 九月の露に濡れいるを

夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと

 上段が日本語の和歌の変形で下段が中国語の漢詩です。当然、日本語と中国語では語調が違いますから和歌の変形になっています、しかし、不思議な世界です。呉声歌曲は宴や酒楼で女性が詠う娯楽の歌謡とされていますから、和歌が呉声歌曲に関連するものならば、娯楽として恋唄が主要テーマとなり、集団歌謡の旋頭歌から単独口唱歌の短歌となるのは必然です。また、日本で歌垣における掛け合いの男女の相聞歌と同様に、中国の呉声歌曲においても重要なテーマです。
こ れは偶然でしょうか、これもまた万葉集の主要テーマと重なるものです。私は、人麻呂のいわゆる古体歌(特に最初期の5字+5字+3字の表現)は、人麻呂達が漢詩から和歌(短歌)を築き上げる過程の一端を示唆するものではないかと想像しています。また、呉声歌曲は楽奏を伴う伝統・正統の賦や辞ではありません。民衆の娯楽レベルのものです。同じように人麻呂たちの歌も漢文・漢詩の世界からしますと、書面表記はなされていますが正統の文芸ではありません。大和人の楽しみとする世界です。最初 和歌は宮中の正式行事式次第の中ではなく、その行事が終わった後の肆宴で詠われる娯楽です。斯様に共に民衆のものである事も偶然でしょうか。
 どなたか、この方面に詳しい方に正論を教えていただければ幸いです。色々と探していますが、漢語漢詩と初期和歌(古体歌)の関係を簡単に説明したものはなかなか見つけられません。発声学に依るものはありますが、詩自身に注目したものは白川静氏のもの以外について見つけられていません。


 話題が変わり、ここからは脱線の与太話です。
 岩波文庫「中国名詩選」などを眺めていて感じることですが、距離感や時間の流れを示す修辞としての自然の状況を歌う詩句はありますが、山野河海の「自然自体」の情景を歌の直接のテーマとしたものはあまり見つけることが出来ませんでした。漢詩の生い立ちが、儀式での賦や贈文の辞などの「人」がテーマの中心だったからでしょうか。そうしたとき、万葉歌人の阿部仲麻呂と王維や李白との関係が非常に気になります。場合によっては、人の介在を必要としない日本人の「自然」の情景に対する感性について、晁衡(阿部仲麻呂)を通じて王維や李白に影響を与えた可能性があるのではないでしょうか。
 当時、人の介在を必要としない日本人の「自然」の情景を詠う詩人の代表が柿本人麻呂です。紹介する人麻呂が詠う集歌1816の歌には、中国人の詠う漢詩とは違い、そこには人の姿はありません。夕刻に西に沈み逝く太陽の光と東の弓月が嶽の稜線を昇りゆく残照の光の帯がテーマです。明るい山稜が刻の移り行きで光の帯を狭め、最後に弓のような光の帯となる光と闇です。そして、その光は蜻玉のように妖しく色変わりするのです。この歌の世界は、その光の帯と霞の懸った闇の山容のコントラストの美しさにあります。

集歌1816 玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏微
訓読 玉(たま)蜻(かぎ)る夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく

 阿部仲麻呂が遣唐使として唐に赴いた奈良時代、人麻呂歌集は世に広まり、山上憶良の類聚歌林も人に知られていたと思います。阿部仲麻呂が、晁衡として漢詩を詠ったとき、そのベースには漢詩から和歌を発展させ、その進歩を遂げて最高水準に達した和歌から漢詩を見直した感性があったのではないでしょうか。大和人が自然を詠うとき、そこには「人」と云う介在はありません。自然そのままの姿を詠いますが、その自然そのままの姿に人の感情が隠されています。この心の表現方法は人の存在を介して自然を詠うと云う大陸的姿とは相違します。

望月望鄕 晁衡(阿部仲麻呂)
翹首望東天 翹首(げうしゅ)して東天を望み
神馳奈良邊 神(こころ)は馳す奈良の邊り
三笠山頂上 三笠の山の頂の上
思又皎月圓 想ふ。又、皓月(こうげつ) 圓(まどか)なりや


 おまけとして、ここで晁衡(阿部仲麻呂)より少し前に二人の日本人が中国で同じテーマで歌を詠ったものを紹介します。二人は帰国を同じくする遣唐使の一員と思われ、二人が詠う歌は同じ詩歌の題材です。私は同じ宴会で披露された詩歌と思っていますが、一人は和歌で、もう一人は漢詩で望郷の思いを詠っています。なお、唐留学僧である釋辨正は本名は伝わりませんが懐風藻には出家前は秦氏であったとしますので帰化から百年以上を経た日本人です。一方、山上憶良は帰化一世または二世ではないかとする説があります。そのような家庭の背景を持つ二人です。

山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
標訓 山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
集歌63 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
訓読 いざ子ども早(と)く日本(やまと)邊(べ)へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

釋辨正 懐風藻 二首より一首
五言 在唐憶本郷 一絶 唐に在りて本郷(もとつくに)を憶(おも)ふ
日邊瞻日本 日邊 日本を瞻み
雲裏望雲瑞 雲裏 雲瑞を望む
遠游勞遠國 遠游 遠國に勞し
長恨苦長安 長恨 長安に苦む

 以前に紹介しましたが、和歌を詠った山上憶良は日本挽歌や貧窮問答に見られるように美しい対句の漢語で歌を歌える人物ですし、人麻呂時代の和歌を研究した人物です。その遣唐使通訳である彼が、あえての在唐での和歌です。漢詩で歌が詠えなかった訳ではありません。あえての和歌です。
 一方、釋辨正は若き日の玄宗皇帝の碁の相手をするような社交性溢れる人物で、その才能により血を後世に伝えるために唐朝廷により還俗させられ女性をあてがわれ、二人の児をなしています。そのような人物の帰国での歌です。
 参考として山上憶良が残した日本挽歌の前置漢文と漢詩を以下に紹介します。斯様に憶良は正統な漢文も漢詩も自在です。しかしながら、憶良は大和人として和歌を優先し、漢詩を後に置いた雰囲気があります。ただし、憶良は花鳥風月よりも社会や人を詠った人ですので、そこは大陸的な歌人の雰囲気があります。

盖聞
四生起滅 方夢皆空
三界漂流 喩環不息
所以
維摩大士在手方丈 有懐染疾之患
釋迦能仁坐於雙林 無免泥亘之苦
故知
二聖至極 不能拂力負之尋至
三千世界 誰能逃黒闇之捜来
二鼠○走 而度目之鳥旦飛
四蛇争侵 而過隙之駒夕走
嗟乎痛哉
紅顏共三従長逝
素質与四徳永滅
何圖
偕老違於要期 獨飛生於半路
蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛
枕頭明鏡空懸 染均之涙逾落
泉門一掩 無由再見
嗚呼哀哉
愛河波浪已先滅
苦海煩悩亦無結
従来厭離此穢土
本願託生彼浄刹


 色々と遊びました。律詩となる和歌の創成期に当たる飛鳥・奈良時代の人々は呉声歌曲などの口吻で詠う漢詩スタイルなどをヒントに大和人の民謡のリズムで大和心を歌に詠ったと思われます。当然、最初は模倣からのスタートと思います。一方、同時に飛鳥・奈良時代の人々は万葉集や懐風藻が示すように正統な漢文・漢詩でも作品をものにしています。つまり、漢詩的に表記する技術は存在・使用しています。
 これは文化創成期だからこそ生じた事柄でしょうか。阿蘇瑞江氏の唱えた略体歌・非略体歌進化論は柿本人麻呂だけに収束しすぎることや遺跡発掘物などから現在では否定的な扱いですが、和歌スタイル創成期では模倣として略体歌・非略体歌が呉声歌曲に似たものとなるのは仕方がないかもしれません。
 その時代の人々は正統な漢文・漢詩を創作出来、同時に大和に宣命大書体があり朝鮮半島に吏読があったとしますと、詠う歌を漢語に大和言葉の「てにをは」を借音漢字で表し添えて書面に写し取ることはあったかも知れません。しかし、詠われる歌自体が記紀歌謡・童歌(わざうた)や催馬楽の状態でしたら、まだまだ、律詩の和歌には距離があります。
 妄想ですが、飛鳥浄御原宮の時代、大和歌や演芸を好まれた天武天皇の好みで和歌のリズム感が生まれ、そのリズム感でもって良く歌を詠い・書面に表現できた第一人者が柿本人麻呂だったかもしれません。天武天皇は万葉集からすれば近江大津宮時代から和歌を詠い、同時に現代までに伝わる五節舞などの舞踊を鄙の演芸からプロデュースされたお方です。ある種、芸能関係の演出家の性格を持たれた人物ですので口調の良い流行歌を作ることも可能性があるでしょうし、天皇のプロデュースによる大和言葉と相性の良い定型詩ですと、その普及は交通・通信が悪い古代でも瞬時のことではないでしょうか。このような可能性があるが故に奈良時代初期までには記紀歌謡・童歌や催馬楽のような古風で不定形の民謡ではなく、定型・律詩の和歌が九州から関東まで、天皇から里長クラスの民衆までに普及し詠われたのではないでしょうか。

 ある種の備忘録のような記事のため、とり止めも無い与太話があちらこちらと跳び散らかしました。反省の次第です。

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