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趣味の話など

たけるんの青春デンデケデケデケ…番外編:鍵盤遍歴(その1)

2020-05-29 | 私のバンド歴
当ブログを始めたての頃、私の「バンド歴」の連載に影響されたのか、知人が同様の
トピックの連載を始めました。その中で、知人はバリバリのギタリストにも関わらず、
最初に楽器に触れたのは実はピアノのお稽古だった、という意外な話を知りました。
ちなみに私が当ブログをgooで始めたきっかけは、その知人のブログだったりします。

実は私も、一番最初に触れ、最も歴が長い楽器は鍵盤ということになります。
物心がついた頃、父の仕事上のつきあいだったのか、家に電気式リードオルガンが
ありました。つきあいがさらに深まったのか?、数年後のある日、突然オルガンは
下取りされ、電子オルガンに代わりました。
今でも後悔していることの一つに、幼少期に鍵盤楽器を習っておけばよかったという
のがあります。16分音符がズラリと並んだフレーズを、初見で華麗にパラパラと弾き
こなせたらと思いますが、そこまでには至っておりません。当時はせっかく楽器が
あるにも関わらず、ねこふんじゃったすら弾けず、せいぜい片手、それも左手でメロ
ディをなぞる程度のことしかできませんでした。少なくても中学校までは、ピアノを
バリバリ弾きこなす男子というのは見たことがなかったです。

それが少し変わったのが、兄が付録目当てで明星を買っており、その付録というのが
ヤンソン(Young Song)という歌本でした。当時の新曲の歌詞とコードはもちろん、
旬のアーチストやアルバムの特集がメロ譜付であったり、コード表も時々巻末の付録
に付いていました。そのコード表を見様見真似して、メロディの進行に合わせコード
さえ押さえれば伴奏になることと、音の並びに法則性があることに気づきました。
よってコードの知識はギターより先に鍵盤で得たことになります。

中学校ではなるべく部活に入るようにとのことで、苦手な運動系を避けて文化系と
いう消極的な理由で、あまり深く考えずに吹奏楽部に入りました。ようやく譜面が
読めるようになったのは1年生の終わり頃で、まずはリズムから、次いで演奏上の
♯や♭の意味を(臨時記号としてではなく調として)理解したことが、既に持って
いたコードの知識と結びつき世界が広がりました。

譜面が読めるようになって間もない頃、昔のヤンソンのビートルズ特集を引っ張り
出して、例えばア・ハード・デイズ・ナイトは原曲を聴く前にそれで曲を知りました。
キーがGの曲なのにFのコードが使われていたり、メロディもGのメジャースケール
から外れるFやB♭が(それこそ臨時記号で)出てくることが不思議でした。今の
語彙で言うならブルーノートで、この曲ではジョンの歌唱部分だけに出てくるのが
興味深いところです。

ビートルズに本格的に興味を持ち初めて買った楽譜は、シンコーのサージェント・
ペパーのピアノ譜でした。サージェント・ペパーに限らず各アルバムありましたが、
ソロピアノ譜で、タイトル曲のサージェント・ペパーに至ってはメロが16分音符
だらけで難し過ぎました。その次に手に入れたのは36曲入りベストの弾き語り譜で、
のちに追加でvol.2を手に入れるほど愛用しました。これでLet It Beのピアノ伴奏を
マスターしたのが大きな収穫で、さらにポールソロのMaybe I'm Amazedもライブ版
で載っていたのが良かったです。

余談ながら、そういった経緯もあってシンコーの楽譜には絶大な信頼を寄せていま
したが、全アルバムのバンドスコアが出た時は、実際に弾いて違和感がある箇所が
けっこうありつつも「楽譜に書いてあるし」と真に受けていました。吹奏楽出身と
いうこともあって、耳コピーは邪道という思いが若干あったのですが、そもそも
作曲家自身によらない譜面は耳コピーによって作成されたものであって、採譜者の
解釈の違いもありうる、いっぽうで耳コピーはミュージシャンとして重要なスキル
の一つである、ということをだいぶ後(大人)になってから理解するに至りました。
身近な方やプロに至るまで、諸先輩プレイヤーのお教えに感謝いたします。

余談が長過ぎましたが、そのうちにベスト弾き語り譜を用いて、電子オルガンで重ね
録りをするようになりました。MTRを導入するはるか以前の話で、両手で弾くスキル
もまだなかったため、左手伴奏、右手伴奏、メロディをバラバラに演奏し、最初に
録音したパートを再生しながら次のパートを弾くという恐ろしく原始的な方法を用い
ました。
その方法を応用し、(またも)ヤンソンの特集のメロディ譜をもとに、オーケストラ
がフィーチャーされた中島みゆきの「縁」という曲(アルバムは名曲「ファイト!」
が入っている「予感」)の完全コピーという行為に初めて挑みました。ただ完コピと
はいっても、楽器は電子オルガンだけで、わずか4種類のプリセットのリズムにない
打楽器等の再現のすべはなく、試しにシンバル代わりに鍋の蓋を叩いてみたりしたも
のの、ポコンと余韻のない鈍い音を立てるだけで話になりませんでした。後年MIDIで
オーケストラを雇わずして脳内スコアをほぼ完全に再現した時は、「すごい時代に
なったものだ」と感動しましたが、まさかそういったテクノロジーが実際の業界の
仕組みにまで影響を及ぼし、プロの世界でも今日のカラオケ全盛・生オケ衰退を招く
とまでは考え及びませんでした。
そういった意味では、某所の歌謡曲イベントでいまだに赤本を用いて、ショボイなが
らも生バンド演奏をやっているのは、貴重かつ意義があることだと思います。

さて、進学した学校には、教養系の科目を複数クラスが受講するための「合併教室」
なる大きな教室があり、鍵がかかっていないグランドピアノがあったので、ほぼ毎日
といっていい程弾いていました。ネタにしていたのは例のビートルズベスト弾き語り
譜で、Maybe I'm Amazedもめっちゃシャウト&ファルセットしていたので、キ〇ガイ
と思われたのではないかと、今になってゾッとします。マジで黒歴史です。

弾き語りのコード弾きから脱却したきっかけは、NHK教育の「ピアノでポップスをⅡ」
という番組を見てでした。講師は作曲家の服部克久で、生徒は4人家族全員(父母姉弟)
という設定でした。そのNHKテキストにあったLove Me Tenderを件の合併教室で弾いて
いたら、フィリピン人の留学生がやってきて「テンポはもっとゆっくりだよ」と言われ
たり、他の曲をリクエストされて一緒に歌ったり、シンコーのとても古いビートルズ曲
集をもらったりしました。そういえばラジオ体操の耳コピーにチャレンジしたのもこの
頃でした。(記事参照。念願の譜面が載ってたNHKテキストを入手したのは、丸一年後
の確か企業実習の間だったか、行く途中だったと思います)

ギターを始めて少し経って、ビートルズのサージェントペパーと同じことができると
いう理由でMTRを導入しましたが、そのMTRを友人に貸す代わりに、友人の不調の
Roland D-10を修理に出すという名目で長期借用しました。一時的にMTRを返して
もらった合間には、BCCのコピーバンド大会のデモテープを作成したり(記事参照)、
Martha My Dearを手弾きで多重録音したりといったこともしました。借用があまりに
長期に渡ったのと、D-10の修理代が意外と安くついたこともあり、修理代はレンタル
料代わりにこちらで持ちました。

(その2に続く)
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