(有)花沢不動産

趣味の話など

あけましておめでとうございます

2024-01-01 | Weblog
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2024年 元旦
有限会社花沢不動産 社長

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あけましておめでとうございます

2023-01-01 | Weblog
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2023年 元旦
有限会社花沢不動産 社長



今年も初日の出を拝むことができました。
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初日の出

2022-01-01 | Weblog
明石・南二見にて。

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あけましておめでとうございます

2022-01-01 | Weblog
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有限会社花沢不動産 社長


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ゆく年くる年

2021-12-31 | Weblog
今年も大変お世話になりました。よいお年を。

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あけましておめでとうございます

2021-01-01 | Weblog
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2021年 元旦
有限会社花沢不動産 社長

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ゆく年くる年

2020-12-31 | Weblog
今年も大変お世話になりました。よいお年を。

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サンロクトオ時刻表で見るウミセンヤマセン?

2020-05-15 | Weblog
仙台から東北本線の下り列車に乗ると2駅先の岩切で、盛岡方面へのメインルート
と利府止まりの支線(通称:利府線)に分岐しています。支線のほうにはかつて
利府からさらに先の区間(山線)が存在し、こちらがメインルートだったことは、
とくに廃線マニアでなくとも鉄道ファンの間では比較的知られている話だったり
します。

ここで関連する歴史をおさらいします。(ウィキより抜粋引用加筆)

日本鉄道時代
1887年12月 郡山-塩竃(のちの塩釜線塩釜港)間開業(塩釜線は1997年廃止)
1890年4月 岩切-一関間開業(岩切-(旧)松島間は、いわゆる「山線」)
国有化以降
1944年11月 陸前山王ー品井沼間(いわゆる「海線」)開業。当初貨物営業のみ。
      塩竃線・岩切-陸前山王間を東北線に編入
1956年7月 陸前山王 - 品井沼間(海線)を旅客列車の主要ルートに変更。
      塩釜駅開業。新松島信号場を駅に変更して新松島駅(現・松島駅)開業。
1962年4月 (旧)松島 - 品井沼間(山線)廃止。
1962年7月 利府 - (旧)松島間廃止。新松島駅を松島駅に改称。
      ((旧)松島駅の代わりとして、海線と山線の交差部付近に)愛宕駅開業。
(仙台以北の電化は1965年であり、山線は非電化・単線のまま廃止)



1944年に海線が増設された理由は、山線には16/1000の急勾配があり、戦時中の
輸送力増強の障害になったためとされています。
小学生の頃に、そのようなヒストリーを(たぶん宮脇俊三氏の)本で知り、地元と
いうことでとても興味深いものがありました。旧線廃止前の地形図のコピーを取り
寄せたり、小5の時には初めて廃線跡を自転車で散策しました。地元とはいっても、
当時の自宅からは往復で60kmほどになり、ママチャリでの激走で最後はヘロヘロに
なりました(笑)

現在、利府線では日中毎時1~2本程度の列車が運転されていますが、山線存在当時
に山線と海線との棲み分けがどうなっていたのか長年関心を持っていました。今回、
山線廃止直前の1961年、昭和36年10月(サンロクトオ)全国ダイヤ改正の時刻表を
入手し確認できたので、以下にまとめます。

まずはサマリー
1. 仙台-小牛田間 下り
(1)優等列車
 海線経由:16本(荷物列車2本もここに含めた)
 山線経由:1本(団体専用列車。山線内の停車はなし)
(2)普通列車
  岩切着:2本
 海線経由:9本
  塩釜着:3本(「海線」の途中だが、上記とは別に)
 山線経由:7本
  利府着:3本(「山線」の途中だが、上記とは別に)
計41本

2. 小牛田-仙台間 上り
(1)優等列車
 海線経由:17本(荷物列車2本もここに含めた)
 山線経由:0本
(2)普通列車
  岩切発:2本
 海線経由:10本
  塩釜発:3本(「海線」の途中だが、上記とは別に)
 山線経由:6本
  利府発:3本(「山線」の途中だが、上記とは別に)
計41本

ウィキの記載には、1956年に「旅客列車の主要ルートに変更」とあり、たしかに
優等列車はほぼ海線に移行したようですが、廃止の半年前でも山線にそれなりの
本数の普通列車が残っていました。意外だったのは、利府発着、塩釜発着といった
区間列車がいくつも設定されていたこと。また、仙台から上野方面に1駅先の長町
発着の列車もありますが、これは長町機関区があった関係でしょうか。

詳細は添付の通りとなります。(時刻表のまんまコピーではなく、当該区間を抜粋
し、あらためてExcelで作成しました。ので、たぶん?大丈夫)



岩切-品井沼間の距離は、海線経由で21.6km、山線経由で21.2kmでほぼ同じ、前後
の主要駅である仙台-小牛田間(43.1/42.8km)の所要時間を比較すると以下の通り
になります。

仙台-小牛田間 下り
 海線経由 優等列車(*):40~62分
 海線経由 普通列車:60~94分
 山線経由 普通列車:64~76分

小牛田-仙台間 上り
 海線経由 優等列車(*):43~58分
 海線経由 普通列車:59~98分
 山線経由 普通列車:66~78分

*小牛田通過列車は除く

単線のせいか、経路に関わらず所要時間のばらつきが非常に多く、海線・山線の
有意差はないともいえそうですし、最速の普通列車どうしの比較では海線のほう
が若干速いといえるかもしれません。

ところで、当時の列車番号はアルファベットのサフィックスで車両の種類を区別
するということはしてなかったようですが、時刻表は四角囲みで"気"と気動車の
表記があるため、当表では気動車の列車番号にDのサフィックスを便宜上つけて
います。(現在の列車番号は一般的に、サフィックスがMの場合は電車、Dの場合
は気動車、無の場合は機関車牽引を示しています。但し大都市圏で高頻度運転する
電車等には異なるアルファベットが充てられることがあります)

今回参考にした山線廃止前の時刻表、最初は某オークションで探したところ、50
年以上も昔ということもあってか、状態が良いものは皆無にも関わらず結構な値段
でした。何気なくポータルサイトで検索したところ、古い時刻表でもオフィシャル
でKindle版があることが分かりました。Kindleは専用端末でなくても無料アプリに
よりPCや携帯で見ることもでき、紙の古書に対する値段と状態への懸念も一挙に
解決した次第です。
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It was 30 Years Ago Today (Vol.4)

2020-03-28 | Weblog
その4:初めての関西(1990年11月)

私が在学した学校では、会社見学と修学旅行を兼ねた研修旅行なるイベントが
ありましたが、その行き先を決める際に、関西は893がいるのでイヤという
意見が結構ありました(笑) 田舎モンのなんちゅう偏見かと(そもそもどんな
ことをしたら893のご厄介になるのかと)言いたいところですが、それから
30年近くを経た昨年の抗争を聞くと、そういった心配も止むなしかもしれません。
担当教授の意見もあり、結局は関西も行程に組み入れられることになりました。
実は私も(勝手知っている)東京での自由行動のほうが良かったのにと思って
ましたが、初めての関西は大変印象深いものとなりました。私もその年の3月に
見た、ポールのGet Back Tourの音源がアルバム化された"Tripping the live fantastic"
のリリースも確かちょうどその頃で、楽曲の記憶の再生(脳内BGM)とも一緒
になっています。
以下、訪れた各都市のインプレッションを手短かに。

(1)奈良
バスで、法隆寺、平等院、奈良公園、のいわゆる観光コースを回りました。
「いいとも」でネタにされた、吉永小百合の「鹿フン」がまだ記憶に新しかった
こともあり、奈良公園の鹿の多さと、エサ目当てなのか妙に人間慣れしているの
が印象に残りました。

(2)大阪
奈良からの帰りのバスで、夕刻に阪神高速の環状線を通過しましたが、車の多さ
と詰め詰めの車間に驚きました。
友人のリクエストで、道頓堀にお好み焼きを食べに行き、美味しかったのですが、
自分の家のお好み焼きも結構イイ線であることも知りました。マヨは最近になって
の流行りではなく、当時からありました。
宿が淀屋橋だったので必然的に大阪市営地下鉄に乗りましたが、千日前線などに
鋼製の旧型車がまだいて、コイルばねにも関わらず乗り心地が良いことに感心
しました。

(3)京都
オフの日に大阪から往復して行きました。行きは阪急6300系、帰りはJR113系快速。
JRの快速は阪急の特急よりも体感的に速かったですが、それでも途中で後発の
新快速にブチ抜かれたのに驚きました。
見物先は旅行ガイドで事前に吟味しましたが、公共交通機関では金閣寺、清水寺、
天龍寺と3か所程度を回るのが精一杯で、奈良の時のようにバス行程のほうがあり
がたかったです。初めて嵐電にも乗りましたが、後半は時間切れ気味になりタクシー
も使うことに。予備知識はありませんでしたが、11月の清水寺は紅葉が素晴らし
かったです。当時の写真を見ると、今ほどではないにせよ外国人(ただし欧米系)
は多かったです。

(4)神戸
バス移動の途中、山幹のNHKの辺りで休憩も兼ねて1~2時間程時間が与えられ、
多くは北野観光したようですが、私は(地元にはなく、当時知りたての?)ハンズ
で買い物をしてきました。
オフの日にも、伊丹見物に行った後に、空港バスに乗って三宮に行きました。バス
は阪神運行のふそうで、リベットだらけの恐ろしく古い型(70年代製)だったこと
が印象的でした。阪神高速3号線を経由するのは今と同じですが、現HAT神戸の辺り
にはまだ大きな製鉄所がありました。
三宮には賑やかなアーケードが二本あるうえ、さらに高架下もあって、大都市と呼ぶ
にふさわしい買物人口の多さとオシャレさを実感。年月を経て震災前の街並みの貴重
な記憶がだいぶ薄れてしまったのは残念です。

(5)姫路
奈良からのバスは大阪駅北口までで、その後姫路まで117系新快速で行きましたが、
夕刻のラッシュの激混みでしばらく座れず、沿線の光景を見た記憶はありません。
姫路の宿は駅裏の新しい街並みにありましたが、駅を挟んだ表側には賑やかかつ
昭和なアーケードがあり、地元のかつての姿にも似ていて懐かしさを感じたのと、
神戸ほどではないものの意外と大きな、むしろ地元の街に近い規模の街、との印象
を持ちました。
現存天守を見るのは初めてだったと思いますが、これぞザ・日本の城と思うと同時
に、天守の中は意外と殺風景と感じました。

(6)伊丹と飛行機
当時の伊丹は大阪"国際"空港で、各国の国際線も含めてあらゆる飛行機が高頻度で
飛んでいました。今は北ターミナルがJAL系、南がANA系という分け方ですが、
当時は大手としてJASもあって、北が国内線ターミナル、南が国際線だったと記憶
します。
双発機しか離着陸できない現在とは異なり、当時は幹線用の大型機といえば多発で、
ジャンボ機のそれも初期型が主流、JALのDC-10、ANAのトライスターもまだいました。
トライスターはキャセイのも来てたと思います。
近距離路線用には、当時日本のプロペラ旅客機の代名詞のような存在だったYS-11が
殆どで、ボーディングブリッジを使わないためか、各社混じって専用のスポットに
集結していたように思います。

オフの日に伊丹見物するほどにも関わらず、飛行機に乗るのは実はこの旅行の復路が
初めて(往路は陸路)で、隣席の友人の手前、平静を装っていたものの、内心はドキ
ドキしていました(笑) 離陸前後や着陸前に床下からギュイーンと不規則に発する謎の
異音も、今でこそフラップの動作音と知っていますが、何この音?と不安になりました(笑) 
地元の空港は、寒い季節に強烈な蔵王おろしが吹くことでマニアには知られてますが、
学校が空港の近くにあったので実体験として知っており、最終着陸態勢のゆらゆらで
緊張度マックス。接地は一瞬の静寂の後に不意にドカンと来たという感じで、ちょっと
ハードランディング気味だったと記憶します。但しその時の操縦士さんの名誉のために
補足すれば、実際の加速度にビビリ係数が1.5ぐらいだったかもしれません笑

連載・完
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It was 30 Years Ago Today (Vol.3)

2020-03-24 | Weblog
その3:BCCコピーバンドコンテストに出る(1990年8月)

バンド歴にも書いた話です。
当時ギターマガジン誌を毎月買っていたのですが、同誌に突如BCC(ザ・ビートルズ・
シネ・クラブ、現 ザ・ビートルズ・クラブ)のコピーバンド大会の出場者募集の告知
が掲載され驚きました。
テープ審査があるとのことで、もう時効なので書きますが(既に以前にも書いてます
が)、当時固定のバンドは組んでなかったため、デモテープは2人編成の想定でMTR
で多重録音して作りました。多重録音だとバレないようわざと音質を落とすために、
MTRではdbxをoffにしたり、ダビングはドルビー抜き・パンなし(モノラル)でノー
マルテープにする、といった姑息な手も駆使しました(笑)。封書にカセットテープを
同封すると定形外になるため、郵便局の窓口に行ったところ、若い局員さんが「応募
されるんですか」と、なぜかコンテストのことを知っていたのには驚きました。
テープには"For No One"と"Put it There”(当時エレアコは持ってなかったのにどうした
のか謎)の2曲を入れ、前者でなぜかテープ審査を通ってしまい、慌ててピアノ男子
を呼びつけ、キーボード2人編成で地区予選に出ました。
会場は地元の市民会館で、「小ホール」ながらも数百人は入る立派なところで、当時
BCCが盛んに開催していた?「復活祭」と称するフィルム上映会(故にシネクラブ)
の余興的な扱いながらも、たくさんの観客やちゃんとしたPAもいてビビリました。
当時は全く演奏慣れしてなかった(バンド形式で人前で演奏するのは、恐らく前年の
学祭での初ライブに続いて2回目)うえに、急造&チート(笑)のユニットということも
あり、演奏の出来は想像に任せます。
地区予選には他に二組出場し、一組は"To know her is to love her"という、当時公式盤では
聞けなかったデビュー前のカバー曲を演奏(良い演奏でしたが地味かつマニアック過ぎた
か?)、もう一組は地元のトップ進学校の高校生バンドで、ドラムが"Octopus's Garden"
を歌い、一学年年下ながら安定した演奏で、彼らが地区予選を通りました。進学校の彼ら
とは年齢が近いこともあってすぐに打ち解けて、控室で一緒に「抱きしめたい」などを
歌ったりして、スタッフから「仲良くするのはいいけど、静かに」と注意された程でした。
確か講評でも「控室で別のユニットどうしがセッションしてた」と触れられ、まさにビー
トルズがつないだインスタントの友情といえます。
後日談としては、就職後に知り合った音楽友のGさんが、ほぼ同時期のコンテストで九州
地区から全国大会に出て「ジョン・レノン賞」を獲得したという話を聞かされ、偶然に
驚きました。

なおこの年は、企業実習や当コンテストの後にも、某ロボコンへの応援のために代々木の
第二体育館に行ったりして、夏休みだけでもイベントの多い年でした。

その4に続く?
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