(有)花沢不動産

趣味の話など

It was 30 Years Ago Today (Vol.4)

2020-03-28 | Weblog
その4:初めての関西(1990年11月)

私が在学した学校では、会社見学と修学旅行を兼ねた研修旅行なるイベントが
ありましたが、その行き先を決める際に、関西は893がいるのでイヤという
意見が結構ありました(笑) 田舎モンのなんちゅう偏見かと(そもそもどんな
ことをしたら893のご厄介になるのかと)言いたいところですが、それから
30年近くを経た昨年の抗争を聞くと、そういった心配も止むなしかもしれません。
担当教授の意見もあり、結局は関西も行程に組み入れられることになりました。
実は私も(勝手知っている)東京での自由行動のほうが良かったのにと思って
ましたが、初めての関西は大変印象深いものとなりました。私もその年の3月に
見た、ポールのGet Back Tourの音源がアルバム化された"Tripping the live fantastic"
のリリースも確かちょうどその頃で、楽曲の記憶の再生(脳内BGM)とも一緒
になっています。
以下、訪れた各都市のインプレッションを手短かに。

(1)奈良
バスで、法隆寺、平等院、奈良公園、のいわゆる観光コースを回りました。
「いいとも」でネタにされた、吉永小百合の「鹿フン」がまだ記憶に新しかった
こともあり、奈良公園の鹿の多さと、エサ目当てなのか妙に人間慣れしているの
が印象に残りました。

(2)大阪
奈良からの帰りのバスで、夕刻に阪神高速の環状線を通過しましたが、車の多さ
と詰め詰めの車間に驚きました。
友人のリクエストで、道頓堀にお好み焼きを食べに行き、美味しかったのですが、
自分の家のお好み焼きも結構イイ線であることも知りました。マヨは最近になって
の流行りではなく、当時からありました。
宿が淀屋橋だったので必然的に大阪市営地下鉄に乗りましたが、千日前線などに
鋼製の旧型車がまだいて、コイルばねにも関わらず乗り心地が良いことに感心
しました。

(3)京都
オフの日に大阪から往復して行きました。行きは阪急6300系、帰りはJR113系快速。
JRの快速は阪急の特急よりも体感的に速かったですが、それでも途中で後発の
新快速にブチ抜かれたのに驚きました。
見物先は旅行ガイドで事前に吟味しましたが、公共交通機関では金閣寺、清水寺、
天龍寺と3か所程度を回るのが精一杯で、奈良の時のようにバス行程のほうがあり
がたかったです。初めて嵐電にも乗りましたが、後半は時間切れ気味になりタクシー
も使うことに。予備知識はありませんでしたが、11月の清水寺は紅葉が素晴らし
かったです。当時の写真を見ると、今ほどではないにせよ外国人(ただし欧米系)
は多かったです。

(4)神戸
バス移動の途中、山幹のNHKの辺りで休憩も兼ねて1~2時間程時間が与えられ、
多くは北野観光したようですが、私は(地元にはなく、当時知りたての?)ハンズ
で買い物をしてきました。
オフの日にも、伊丹見物に行った後に、空港バスに乗って三宮に行きました。バス
は阪神運行のふそうで、リベットだらけの恐ろしく古い型(70年代製)だったこと
が印象的でした。阪神高速3号線を経由するのは今と同じですが、現HAT神戸の辺り
にはまだ大きな製鉄所がありました。
三宮には賑やかなアーケードが二本あるうえ、さらに高架下もあって、大都市と呼ぶ
にふさわしい買物人口の多さとオシャレさを実感。年月を経て震災前の街並みの貴重
な記憶がだいぶ薄れてしまったのは残念です。

(5)姫路
奈良からのバスは大阪駅北口までで、その後姫路まで117系新快速で行きましたが、
夕刻のラッシュの激混みでしばらく座れず、沿線の光景を見た記憶はありません。
姫路の宿は駅裏の新しい街並みにありましたが、駅を挟んだ表側には賑やかかつ
昭和なアーケードがあり、地元のかつての姿にも似ていて懐かしさを感じたのと、
神戸ほどではないものの意外と大きな、むしろ地元の街に近い規模の街、との印象
を持ちました。
現存天守を見るのは初めてだったと思いますが、これぞザ・日本の城と思うと同時
に、天守の中は意外と殺風景と感じました。

(6)伊丹と飛行機
当時の伊丹は大阪"国際"空港で、各国の国際線も含めてあらゆる飛行機が高頻度で
飛んでいました。今は北ターミナルがJAL系、南がANA系という分け方ですが、
当時は大手としてJASもあって、北が国内線ターミナル、南が国際線だったと記憶
します。
双発機しか離着陸できない現在とは異なり、当時は幹線用の大型機といえば多発で、
ジャンボ機のそれも初期型が主流、JALのDC-10、ANAのトライスターもまだいました。
トライスターはキャセイのも来てたと思います。
近距離路線用には、当時日本のプロペラ旅客機の代名詞のような存在だったYS-11が
殆どで、ボーディングブリッジを使わないためか、各社混じって専用のスポットに
集結していたように思います。

オフの日に伊丹見物するほどにも関わらず、飛行機に乗るのは実はこの旅行の復路が
初めて(往路は陸路)で、隣席の友人の手前、平静を装っていたものの、内心はドキ
ドキしていました(笑) 離陸前後や着陸前に床下からギュイーンと不規則に発する謎の
異音も、今でこそフラップの動作音と知っていますが、何この音?と不安になりました(笑) 
地元の空港は、寒い季節に強烈な蔵王おろしが吹くことでマニアには知られてますが、
学校が空港の近くにあったので実体験として知っており、最終着陸態勢のゆらゆらで
緊張度マックス。接地は一瞬の静寂の後に不意にドカンと来たという感じで、ちょっと
ハードランディング気味だったと記憶します。但しその時の操縦士さんの名誉のために
補足すれば、実際の加速度にビビリ係数が1.5ぐらいだったかもしれません笑

連載・完
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It was 30 Years Ago Today (Vol.3)

2020-03-24 | Weblog
その3:BCCコピーバンドコンテストに出る(1990年8月)

バンド歴にも書いた話です。
当時ギターマガジン誌を毎月買っていたのですが、同誌に突如BCC(ザ・ビートルズ・
シネ・クラブ、現 ザ・ビートルズ・クラブ)のコピーバンド大会の出場者募集の告知
が掲載され驚きました。
テープ審査があるとのことで、もう時効なので書きますが(既に以前にも書いてます
が)、当時固定のバンドは組んでなかったため、デモテープは2人編成の想定でMTR
で多重録音して作りました。多重録音だとバレないようわざと音質を落とすために、
MTRではdbxをoffにしたり、ダビングはドルビー抜き・パンなし(モノラル)でノー
マルテープにする、といった姑息な手も駆使しました(笑)。封書にカセットテープを
同封すると定形外になるため、郵便局の窓口に行ったところ、若い局員さんが「応募
されるんですか」と、なぜかコンテストのことを知っていたのには驚きました。
テープには"For No One"と"Put it There”(当時エレアコは持ってなかったのにどうした
のか謎)の2曲を入れ、前者でなぜかテープ審査を通ってしまい、慌ててピアノ男子
を呼びつけ、キーボード2人編成で地区予選に出ました。
会場は地元の市民会館で、「小ホール」ながらも数百人は入る立派なところで、当時
BCCが盛んに開催していた?「復活祭」と称するフィルム上映会(故にシネクラブ)
の余興的な扱いながらも、たくさんの観客やちゃんとしたPAもいてビビリました。
当時は全く演奏慣れしてなかった(バンド形式で人前で演奏するのは、恐らく前年の
学祭での初ライブに続いて2回目)うえに、急造&チート(笑)のユニットということも
あり、演奏の出来は想像に任せます。
地区予選には他に二組出場し、一組は"To know her is to love her"という、当時公式盤では
聞けなかったデビュー前のカバー曲を演奏(良い演奏でしたが地味かつマニアック過ぎた
か?)、もう一組は地元のトップ進学校の高校生バンドで、ドラムが"Octopus's Garden"
を歌い、一学年年下ながら安定した演奏で、彼らが地区予選を通りました。進学校の彼ら
とは年齢が近いこともあってすぐに打ち解けて、控室で一緒に「抱きしめたい」などを
歌ったりして、スタッフから「仲良くするのはいいけど、静かに」と注意された程でした。
確か講評でも「控室で別のユニットどうしがセッションしてた」と触れられ、まさにビー
トルズがつないだインスタントの友情といえます。
後日談としては、就職後に知り合った音楽友のGさんが、ほぼ同時期のコンテストで九州
地区から全国大会に出て「ジョン・レノン賞」を獲得したという話を聞かされ、偶然に
驚きました。

なおこの年は、企業実習や当コンテストの後にも、某ロボコンへの応援のために代々木の
第二体育館に行ったりして、夏休みだけでもイベントの多い年でした。

その4に続く?
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It was 30 Years Ago Today (Vol.2)

2020-03-23 | Weblog
その2:企業実習(1990年7月)

私が進学したのは工業系の学校で、夏休み期間中に企業実習があり、実習先に愛知
県の鉄道車両メーカー(どこかバレバレ?)があったので応募しました。同級生の
中では恐らく最遠隔地での実習で、個人的にも3週間近くも親元を離れて過ごした
のは初めての経験でした。

実習先および会社寮は名鉄豊川線の沿線にありました。近くの踏切の音が電子音で
なく本当の鐘の音(カンカンではなくチンチン)だったのが印象的でした。
名鉄に乗るのは「国鉄最後の日」に5,000円で乗り放題の切符で明治村まで行った
以来で、パノラマカーに乗るは初めて。絵本に載っているような電車が、とくに
珍しがられることもなく日常の通勤電車として使われていたり、豊川線のような
単線の支線に乗り入れたりするなど、ふだんは地方のJRしか利用したことがない
私にとっては、ちょっとしたカルチャーショックでした。当時はパノラマsuperが
が全席特別車(有料)の特急として走っていましたが、特急の次に急行より早く
特別料金不要で乗れる列車に「高速」という妙な名前の種別があり、パノラマカー
はそれによく充当されていました。5500系、AL車もまだいて、昨年末に引退した
5700/5300系
はまだ新車でした。5700/5300系はパノラマカーを近代化したような
車両で、両者とも同じような車両なのに、なぜか5300系の方の乗り心地がゴツゴツ
していることが不思議でしたが、たまたま逆方向のホームに停まっていた現車の
床下を見て納得。5300系は5000/5200系(SR車)という初期の高性能車からの車体
更新車で、台車や一部機器は旧車からの流用だったというわけです。

工場ではTEC100系、名鉄1000系パノラマsuperなどが絶賛量産中でした。実習では
FFTを使って振動解析の真似事をさせてもらいました。パソコンはOSという概念が
できる以前の時代で、学校ではNEC(N88BASICの時代)でしたが、国産より速いと
いう理由でYHPを使っていました。
昼食時には食堂でNHKを映していて、朝ドラ再放送の「凛凛と」が印象に残っています。
ソプラノサックスがフィーチャーされたインストのテーマ曲もお気に入りで、CDを
探しましたが、当時はTVサントラ曲のシングルというのは稀で、見つかったのは大分
後でした。結局これはアルバム内の1曲で、情報すらなかったため、当時は見つけよう
がありませんでした。「凛凛と」は朝ドラでは珍しい男性主人公でしたが、演じた田中
実は残念なことに若くして鬼籍に入られました。
名古屋メシ圏ということで、特に寮メシの赤だしが濃い&塩辛いのに驚きました。休日
に駅前に遊びに行った時の、そば屋のカツ丼の味噌汁は少しマシでしたが、基本的には
似たようなもの。今も赤だしが出てくると、当時のことが懐かしく思い出されます。
(後日注:この4月からの朝の連ドラの中で、豊橋出身の奥さんが作る赤だしの味噌汁
に福島出身の主人公がギョッとする描写がありますね)

電車に囲まれて夢のような(笑)実習も3週間近くが過ぎて、最終日に工場のお偉い様に
あいさつに行った事務所には、「当社で製造された車両」としてTOMIXの鉄道模型が
びっしりディスプレイされていて、当時お休みしていた鉄道模型熱が再燃したきっかけ
となりました(笑)。帰宅後さっそく7000系パノラマカーの模型を探したのですが、当時
はなぜか生産中止とカタログに明記され、どこの店にも見当たらなく悲しかった思い出
があります。夏の終わりになって地元のデパートで白帯車を見かけたのを、本当はノー
マル仕様が欲しいのにと散々悩んだ挙句、なけなしのバイト代で押収しました(笑)

行きの東海道新幹線は0系で、東北新幹線の200系よりも時代遅れの感じがしましたが、
帰りは実習先でも量産中だったまさに最新鋭の100系。座席は前後間隔も広くしっかり
リクライニングするし、内装も洗練されているのに驚きました。帰路の途中(大好きな
(笑))東京に寄り道して小学校の時の同級生に会い、地下鉄博物館に無理やり同行させて
呆れられました(笑)。大してお金を持っていない学生の私は「うまい・やすい」牛丼に
ハマっていましたが、初めて銀座ではない新宿の松屋に連れていかれ、味噌汁付である
ことを知りました。さらに東京からの帰路は、突然の思い付きで東北新幹線をやめて、
在来線経由で当時デビュー間もない651系「スーパーひたち」で初めて常磐線を完乗した
のも思い出です。

その3に続く?
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It was 30 Years Ago Today (Vol.1)

2020-03-16 | Weblog
1990年は思い出深い出来事が色々あった年で、これも以前から書こう書こうと
思いつつ書きそびれていました。ちょうど30年という節目を機に振り返ります。
(バンド歴など、過去記事と重複する記述があるのはご容赦下さい)
昔話をしたがったり、最近より昔の出来事をよく覚えているのは、齢をとった
証拠かもしれません。
時はバブルで経済絶好調、世の中は自信に満ち溢れ、この世の春が未来永劫
ずっと続くものだと思い込んでいました。そういえば、当時「新型コロナ」と
いえば自家用でもタクシーでもよく見かけたクルマの名前でしたが、まさか30
年後に忌み嫌われる名前になるとは思いもよりませんでした。当時一世を風靡
した4ドアハードトップの(カリーナ)"ED"も然り…

その1:ポールソロ初来日(1990年3月)

確か年が明けてすぐに新聞告知があり、駅前の百貨店の中のぴあにチケットを
買いに行きました。チケットは、Sが7,000円、Aが5,000円という、学生にも手
が届く、今から思うと破格の安さでした。

来日時の記者会見がMZA有明で行われ、Matchboxが演奏されるシーンが、フジ
系「スーパータイム」で1分間だけ放映されました。確かフジサンケイグループは
当公演のスポンサーの一つで、「スーパータイム」といえば、幸田シャーミンの
印象(というより名前のインパクト?)が強いですが、既にこの時は安藤さんの時代
でした。安藤さんはてっきり局アナかと思ったら、当初からフリーだったみたいです。
話が脱線しましたが、当時はMatchboxがポールのサウンドチェックの定番曲と知らず、
なぜポールがリンゴの持ち歌を歌っている??と不思議に思ってました。

実家から東京までは、周遊券を使うと追加料金なしで急行に乗れるので、往復とも
急行「八甲田」号に乗ることにしました。往路は最寄駅を午前1時過ぎの発車で、
夜行列車ながら座席車(14系座席車)だけ、午前7時前に上野に着きました。
早朝の到着で時間があったので、まずは当時はまっていた矢田喜美雄著「謀殺下山
事件」を片手に、綾瀬の事件現場を見に。事件当時田んぼだった現場周辺が住宅街
の中の公園に、複線だった常磐線が複々線に、さらに近くには首都高6号線が走る
など40年間の変貌ぶりに驚きました。(さらに20年後には、つくばエクスプレスが
並行し、現場をオーバークロスする東武伊勢崎線が複々線になり築堤も高架になる
など、さらに大きく変貌)。
下山総裁の足取りということで三越日本橋本店にも寄り、あわせて日本橋の他の
百貨店(高島屋、東急)や銀座も見て回りました。バブル絶頂期ということもあり、
とくに三越本店や高島屋の豪華さ巨大さには圧倒されました。三越のエレベーター
はエレベータガールが常駐する手動運転で、エレベータの前は時計針のような階数
表示など、昔ながらのものがかえって風格がありました。

ここでようやく初ポールの印象(笑)
東京ドームは当時国内唯一のドーム球場で、気圧の関係で出入口では突風が吹く
と兄から脅かされ、冗談だろう?と思っていたら事実でした。あれだけえげつない
風が吹くのも逆に東京ドームぐらいでしょうか。
今ではライブ不感症で、気のせいかもしれませんが、今より音量(特に低音)がデカ
かった気がします。スクリーンの"NOW"の文字とともに、Figure of Eightの冒頭のE
の音はまさにグオーンと腹に響く感じ。JetはWOAで聴き慣れていたせいもあり、
前奏のブラスのシンセ代用はちょっと違和感を感じたかも。当時の最新ヒットシングル
かつお気に入りのMy Brave Faceは、FM誌(当時の音楽情報の入手手段がこれだった
のも懐かしい)の事前情報のセトリに載っていなかったので、演奏してくれたのは
嬉しかったです。Yesterdayはテンポを落とした落ち着いた感じで、Keyのウイックス
のストリングスアレンジも含めこの時のバージョンが一番好きです。ラストのGolden
Slumbers…も今よりも感動したハズですが、忘れてしまいました。
特に印象に残ったのはオーディエンス(という語は当時一般的でなかった)の年齢層
の高さで、その時は曲名を知らなかったTwenty Flight Rockで、髪の毛が薄くなった
40代ぐらいのおっちゃんが、中腰になってノリノリで頭上で手拍子を打っていたのに
は、当時18才の私はひいてしまいました(笑)

21:00ライブ終了で、水道橋から上野21:30発の復路の列車に乗るのは無理がありました。
上野駅はプラットホームが高架と地平で二層構造になっていて迷ったこともあり、あと
少しのところで「八甲田」号に乗り損ないました。
とりあえず後続の「津軽」号に乗り、途中の福島から奥羽線経由になるためそこで降り、
3月でまだ寒い中待合室で始発まで一夜を過ごしたのが最大の思い出となってしまい
ました。

その2に続く?
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