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趣味の話など

たけるんの青春デンデケデケデケ…番外編:鍵盤遍歴(その2)

2020-05-30 | 私のバンド歴
(その1から続き)

社会人になって初めてのボーナスで、初の自前のキーボードとしてRoland D-70を購入。
リンダも使っていたD-50の上級機かつ、既に慣れ親しんだD-10の単純な76鍵バージョン
と思いましたが、プリセットの音がエントリー機のD-10よりかえって少なくて、使い
こなせませんでした。会社の納涼祭(ベンチャーズを弾いたのもこのとき)の歌謡生
バンドで使いましたが、あまりの暑さのせいか(暴走で?)一時的に音が出なくなる
といったトラブルも経験しました。
2年後にはD-70を下取りに出し、プリセットが多いJV-90に買い替えましたが、これも
使いこなせたとはいえませんでした。ピアノ曲が弾けるようにと76鍵盤にこだわって
いたのが仇となり、D-70よりはマシだったものの大きく重く持ち運びが大変で、ハード
ケースに入れると車のテールゲート開口にひっかかり、新車のカロゴンの内装がすぐに
ひっかき傷だらけになってしまいました。

最初に導入したD-70のプリセットが少なかったため、追加の音源として買ったSC-33
とWindows95ブームがDTMのきっかけとなりました(記事参照)。実はその前には、
キーボーディストたるもの打ち込みの知識も必要、とシーケンサ専用機(MC-50MK2、
記録媒体は2DDのFD)も導入したものの、それこそ使いこなせず、SC-33につないで
せいぜいドラムマシンとして使った程度でした。もっともこのセッティングは、当時
全パートコピーに勤しんでいたベンチャーズ曲の宅録に大活躍しました。また一度だけ
ライブに用いたことがありますが、同期モノなどという大層なものではなく、ビート
ルズを演奏しようとしたものの、曲を知るドラマーがいなくてやむを得ずでしたが、
これも恥ずかしい黒歴史です。(なお同期モノは、比較的近年になってTripping…で
実現しました。まさかGet Back TourのテクノComing Upを再現するとは、当時は想像
もつきませんでした)
そういえば、DTMに移行する過渡期には、リズムだけ打込みで、上モノは手弾きで
多重録音する、なんてこともやったことがあります。たしか最初にやったのはそれこそ
シンコーのスコアを参考に"Martha My Dear"、2曲目は耳コピーで007「ロシアより愛
をこめて」のテーマで、オケ曲の完コピ第2弾でもありました。(後でMIDI化した際、
グワーンと銅鑼を鳴らすところがあって、そのためにドラム用のchが2つ必要となり
面倒でした)

関西移住以降、キーボードはリハとかセッションで臨時で弾くことはあったものの、
ライブでは会社の軽音楽部以来久しく弾いていませんでした。関西での音楽活動復帰
のきっかけの一つとなったイベント「みんなの歌謡show」で、担当曲に「あなた」と
いう大曲があり、本来のキーボードが担当するピアノ弾き語りに加えて、もう一台の
キーボードを他チームから借りてきて、私がストリングスを入れることにしました。
もともとキーボードは原曲の再現度を高めたいという目的でやっていましたが、それ
を実証した形になりました。

「みんなの歌謡show」のリハでは、他チームの知人の女性キーボーディストがJuno-D
を軽々と持ち込んでいるのを見て、私もJuno-Diを導入するきっかけとなりました。
ミナエンに出入りするようになって始めた自分のイベント「デンデケ祭」は実験の場
でもあったので、少しずつJuno-Diの運用範囲を広げ、ビートルズの曲の4人以外の
パートの再現は、他のプレイヤーからも好評だったと思います。
Juno-Diは恐ろしく操作が簡単で、オクターブの上げ下げやスプリット機能を駆使する
などして、初めてキーボードの機能を使いこなせたといえます。操作性に加えて軽量
で取り回しが良いのも特徴ですが、安価なこともあって標準装備するスタジオも多い
ので、さらに楽になりました(笑)

キーボード導入以来ずっと気になっていた、ピアノ曲の演奏時に61鍵では足りない
問題は、散々迷って安価な電子ピアノを導入するいうことであっさり解決し、これ
が想定外にハマりました。悩むくらいなら、早よ買えばよかったという感じ。
昔買ったままになっていた譜面を引っ張り出したり、最近では歌謡曲のピアノソロ
譜を何冊か購入するなど、すっかりハマってしまってます。暇さえあればすぐ弾ける
という環境のおかげで、初見力があがったり、以前ならこんなの無理と思えるような
フレーズが弾けるようになるなど、まだこの年齢になっても、少しでも上達が感じ
られるのは嬉しいです。
昨年~今年にかけては、会社の軽音楽部以来となるキーボード担当の名目で、とある
ユニットに加入することになりました。さてどうなることでしょう。

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たけるんの青春デンデケデケデケ…番外編:鍵盤遍歴(その1)

2020-05-29 | 私のバンド歴
当ブログを始めたての頃、私の「バンド歴」の連載に影響されたのか、知人が同様の
トピックの連載を始めました。その中で、知人はバリバリのギタリストにも関わらず、
最初に楽器に触れたのは実はピアノのお稽古だった、という意外な話を知りました。
ちなみに私が当ブログをgooで始めたきっかけは、その知人のブログだったりします。

実は私も、一番最初に触れ、最も歴が長い楽器は鍵盤ということになります。
物心がついた頃、父の仕事上のつきあいだったのか、家に電気式リードオルガンが
ありました。つきあいがさらに深まったのか?、数年後のある日、突然オルガンは
下取りされ、電子オルガンに代わりました。
今でも後悔していることの一つに、幼少期に鍵盤楽器を習っておけばよかったという
のがあります。16分音符がズラリと並んだフレーズを、初見で華麗にパラパラと弾き
こなせたらと思いますが、そこまでには至っておりません。当時はせっかく楽器が
あるにも関わらず、ねこふんじゃったすら弾けず、せいぜい片手、それも左手でメロ
ディをなぞる程度のことしかできませんでした。少なくても中学校までは、ピアノを
バリバリ弾きこなす男子というのは見たことがなかったです。

それが少し変わったのが、兄が付録目当てで明星を買っており、その付録というのが
ヤンソン(Young Song)という歌本でした。当時の新曲の歌詞とコードはもちろん、
旬のアーチストやアルバムの特集がメロ譜付であったり、コード表も時々巻末の付録
に付いていました。そのコード表を見様見真似して、メロディの進行に合わせコード
さえ押さえれば伴奏になることと、音の並びに法則性があることに気づきました。
よってコードの知識はギターより先に鍵盤で得たことになります。

中学校ではなるべく部活に入るようにとのことで、苦手な運動系を避けて文化系と
いう消極的な理由で、あまり深く考えずに吹奏楽部に入りました。ようやく譜面が
読めるようになったのは1年生の終わり頃で、まずはリズムから、次いで演奏上の
♯や♭の意味を(臨時記号としてではなく調として)理解したことが、既に持って
いたコードの知識と結びつき世界が広がりました。

譜面が読めるようになって間もない頃、昔のヤンソンのビートルズ特集を引っ張り
出して、例えばア・ハード・デイズ・ナイトは原曲を聴く前にそれで曲を知りました。
キーがGの曲なのにFのコードが使われていたり、メロディもGのメジャースケール
から外れるFやB♭が(それこそ臨時記号で)出てくることが不思議でした。今の
語彙で言うならブルーノートで、この曲ではジョンの歌唱部分だけに出てくるのが
興味深いところです。

ビートルズに本格的に興味を持ち初めて買った楽譜は、シンコーのサージェント・
ペパーのピアノ譜でした。サージェント・ペパーに限らず各アルバムありましたが、
ソロピアノ譜で、タイトル曲のサージェント・ペパーに至ってはメロが16分音符
だらけで難し過ぎました。その次に手に入れたのは36曲入りベストの弾き語り譜で、
のちに追加でvol.2を手に入れるほど愛用しました。これでLet It Beのピアノ伴奏を
マスターしたのが大きな収穫で、さらにポールソロのMaybe I'm Amazedもライブ版
で載っていたのが良かったです。

余談ながら、そういった経緯もあってシンコーの楽譜には絶大な信頼を寄せていま
したが、全アルバムのバンドスコアが出た時は、実際に弾いて違和感がある箇所が
けっこうありつつも「楽譜に書いてあるし」と真に受けていました。吹奏楽出身と
いうこともあって、耳コピーは邪道という思いが若干あったのですが、そもそも
作曲家自身によらない譜面は耳コピーによって作成されたものであって、採譜者の
解釈の違いもありうる、いっぽうで耳コピーはミュージシャンとして重要なスキル
の一つである、ということをだいぶ後(大人)になってから理解するに至りました。
身近な方やプロに至るまで、諸先輩プレイヤーのお教えに感謝いたします。

余談が長過ぎましたが、そのうちにベスト弾き語り譜を用いて、電子オルガンで重ね
録りをするようになりました。MTRを導入するはるか以前の話で、両手で弾くスキル
もまだなかったため、左手伴奏、右手伴奏、メロディをバラバラに演奏し、最初に
録音したパートを再生しながら次のパートを弾くという恐ろしく原始的な方法を用い
ました。
その方法を応用し、(またも)ヤンソンの特集のメロディ譜をもとに、オーケストラ
がフィーチャーされた中島みゆきの「縁」という曲(アルバムは名曲「ファイト!」
が入っている「予感」)の完全コピーという行為に初めて挑みました。ただ完コピと
はいっても、楽器は電子オルガンだけで、わずか4種類のプリセットのリズムにない
打楽器等の再現のすべはなく、試しにシンバル代わりに鍋の蓋を叩いてみたりしたも
のの、ポコンと余韻のない鈍い音を立てるだけで話になりませんでした。後年MIDIで
オーケストラを雇わずして脳内スコアをほぼ完全に再現した時は、「すごい時代に
なったものだ」と感動しましたが、まさかそういったテクノロジーが実際の業界の
仕組みにまで影響を及ぼし、プロの世界でも今日のカラオケ全盛・生オケ衰退を招く
とまでは考え及びませんでした。
そういった意味では、某所の歌謡曲イベントでいまだに赤本を用いて、ショボイなが
らも生バンド演奏をやっているのは、貴重かつ意義があることだと思います。

さて、進学した学校には、教養系の科目を複数クラスが受講するための「合併教室」
なる大きな教室があり、鍵がかかっていないグランドピアノがあったので、ほぼ毎日
といっていい程弾いていました。ネタにしていたのは例のビートルズベスト弾き語り
譜で、Maybe I'm Amazedもめっちゃシャウト&ファルセットしていたので、キ〇ガイ
と思われたのではないかと、今になってゾッとします。マジで黒歴史です。

弾き語りのコード弾きから脱却したきっかけは、NHK教育の「ピアノでポップスをⅡ」
という番組を見てでした。講師は作曲家の服部克久で、生徒は4人家族全員(父母姉弟)
という設定でした。そのNHKテキストにあったLove Me Tenderを件の合併教室で弾いて
いたら、フィリピン人の留学生がやってきて「テンポはもっとゆっくりだよ」と言われ
たり、他の曲をリクエストされて一緒に歌ったり、シンコーのとても古いビートルズ曲
集をもらったりしました。そういえばラジオ体操の耳コピーにチャレンジしたのもこの
頃でした。(記事参照。念願の譜面が載ってたNHKテキストを入手したのは、丸一年後
の確か企業実習の間だったか、行く途中だったと思います)

ギターを始めて少し経って、ビートルズのサージェントペパーと同じことができると
いう理由でMTRを導入しましたが、そのMTRを友人に貸す代わりに、友人の不調の
Roland D-10を修理に出すという名目で長期借用しました。一時的にMTRを返して
もらった合間には、BCCのコピーバンド大会のデモテープを作成したり(記事参照)、
Martha My Dearを手弾きで多重録音したりといったこともしました。借用があまりに
長期に渡ったのと、D-10の修理代が意外と安くついたこともあり、修理代はレンタル
料代わりにこちらで持ちました。

(その2に続く)
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最後の赤胴車

2020-05-24 | 一寸お出かけ(関西)
阪神武庫川駅はホームが武庫川の真上にありますが、ホームの西端に行くと乗換
通路があり、川の西岸沿いを走る武庫川線に乗り換えることができます。わずか
1.7kmほどの短い路線です。



武庫川線専用の改札。本線からの乗換時もこの改札を通る必要があります。



左側は本線と武庫川線を結ぶ連絡線。急カーブです。



昭和時代からの阪神電車の塗装は、上半分がクリーム色、下半分は各駅停車専用の
車両(ジェットカー)が紺色で「青胴車」、特急急行系の汎用車両が朱色で「赤胴車」
と呼ばれていました。青胴車はまだ多く見られますが、赤胴車については置換えや
塗替え(ジャイアンツ色化?)が進み、残るのは武庫川線の車両だけとなりました。



必ずしも赤胴車だからという理由ではありませんが、今では通勤車で珍しくなった
片引戸が特徴的です。



この最後の赤胴車も、タイガースおよび甲子園球場をイメージした新塗装の5500系
昨年11月の工場公開でチラ見せ)への置き換えが、5月末に予定されています。
…が、つい先日、6月以降への延期が公式に発表されました。
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レットキス

2020-05-23 | 音楽
セッションやライブはご無沙汰していても、じっくりと「おうちでミュージック」
に向いたネタには事欠かないにも関わらず、何かにつけてスローハンドな(そう呼
ばれたい?)ワタシで、お披露目は緊急事態宣言解除後という周回遅れの体たらく
となってしまいました。

以前の「クシコス・ポスト」(徒競走の曲)の学校シリーズの流れをくんで?、
今回はフォークダンス。
フィンランド生まれの曲で、坂本九や橋幸夫のカバーで知られているようですが、
CMにもちょいちょい使われているので恐らくご存じだと思います。

「ジェンカ」
http://musictrack.jp/musics/84034

私にとってこの曲は、なぜか総合電機H社のイメージがあるんですよね。ククレット
という名の電子レンジのCMに坂本九の歌唱で使われていたようです。(ものすごく
古い話でした)

古いといえばこの曲の打ち込み作業で、実は20年も塩漬けになっていました。
半分ぐらいはサクサクできて、おっイケてるやんとつい聞き入ってしまい、それ
以上の作業が進まなかった(私にとってはよくあるあるです)のと、逆にBメロ
でマリンバがどう弾いているかでつまづき、手が止まってました。そういえば、
前奏のドラムがシンプルながらもかっこよくて、Aメロの終わりでつい巻き戻して
しまい、そこからもなかなかに先に進めませんでした(笑)
色々その辺りお聴き頂ければと思います。
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サンロクトオ時刻表で見るウミセンヤマセン?

2020-05-15 | Weblog
仙台から東北本線の下り列車に乗ると2駅先の岩切で、盛岡方面へのメインルート
と利府止まりの支線(通称:利府線)に分岐しています。支線のほうにはかつて
利府からさらに先の区間(山線)が存在し、こちらがメインルートだったことは、
とくに廃線マニアでなくとも鉄道ファンの間では比較的知られている話だったり
します。

ここで関連する歴史をおさらいします。(ウィキより抜粋引用加筆)

日本鉄道時代
1887年12月 郡山-塩竃(のちの塩釜線塩釜港)間開業(塩釜線は1997年廃止)
1890年4月 岩切-一関間開業(岩切-(旧)松島間は、いわゆる「山線」)
国有化以降
1944年11月 陸前山王ー品井沼間(いわゆる「海線」)開業。当初貨物営業のみ。
      塩竃線・岩切-陸前山王間を東北線に編入
1956年7月 陸前山王 - 品井沼間(海線)を旅客列車の主要ルートに変更。
      塩釜駅開業。新松島信号場を駅に変更して新松島駅(現・松島駅)開業。
1962年4月 (旧)松島 - 品井沼間(山線)廃止。
1962年7月 利府 - (旧)松島間廃止。新松島駅を松島駅に改称。
      ((旧)松島駅の代わりとして、海線と山線の交差部付近に)愛宕駅開業。
(仙台以北の電化は1965年であり、山線は非電化・単線のまま廃止)



1944年に海線が増設された理由は、山線には16/1000の急勾配があり、戦時中の
輸送力増強の障害になったためとされています。
小学生の頃に、そのようなヒストリーを(たぶん宮脇俊三氏の)本で知り、地元と
いうことでとても興味深いものがありました。旧線廃止前の地形図のコピーを取り
寄せたり、小5の時には初めて廃線跡を自転車で散策しました。地元とはいっても、
当時の自宅からは往復で60kmほどになり、ママチャリでの激走で最後はヘロヘロに
なりました(笑)

現在、利府線では日中毎時1~2本程度の列車が運転されていますが、山線存在当時
に山線と海線との棲み分けがどうなっていたのか長年関心を持っていました。今回、
山線廃止直前の1961年、昭和36年10月(サンロクトオ)全国ダイヤ改正の時刻表を
入手し確認できたので、以下にまとめます。

まずはサマリー
1. 仙台-小牛田間 下り
(1)優等列車
 海線経由:16本(荷物列車2本もここに含めた)
 山線経由:1本(団体専用列車。山線内の停車はなし)
(2)普通列車
  岩切着:2本
 海線経由:9本
  塩釜着:3本(「海線」の途中だが、上記とは別に)
 山線経由:7本
  利府着:3本(「山線」の途中だが、上記とは別に)
計41本

2. 小牛田-仙台間 上り
(1)優等列車
 海線経由:17本(荷物列車2本もここに含めた)
 山線経由:0本
(2)普通列車
  岩切発:2本
 海線経由:10本
  塩釜発:3本(「海線」の途中だが、上記とは別に)
 山線経由:6本
  利府発:3本(「山線」の途中だが、上記とは別に)
計41本

ウィキの記載には、1956年に「旅客列車の主要ルートに変更」とあり、たしかに
優等列車はほぼ海線に移行したようですが、廃止の半年前でも山線にそれなりの
本数の普通列車が残っていました。意外だったのは、利府発着、塩釜発着といった
区間列車がいくつも設定されていたこと。また、仙台から上野方面に1駅先の長町
発着の列車もありますが、これは長町機関区があった関係でしょうか。

詳細は添付の通りとなります。(時刻表のまんまコピーではなく、当該区間を抜粋
し、あらためてExcelで作成しました。ので、たぶん?大丈夫)



岩切-品井沼間の距離は、海線経由で21.6km、山線経由で21.2kmでほぼ同じ、前後
の主要駅である仙台-小牛田間(43.1/42.8km)の所要時間を比較すると以下の通り
になります。

仙台-小牛田間 下り
 海線経由 優等列車(*):40~62分
 海線経由 普通列車:60~94分
 山線経由 普通列車:64~76分

小牛田-仙台間 上り
 海線経由 優等列車(*):43~58分
 海線経由 普通列車:59~98分
 山線経由 普通列車:66~78分

*小牛田通過列車は除く

単線のせいか、経路に関わらず所要時間のばらつきが非常に多く、海線・山線の
有意差はないともいえそうですし、最速の普通列車どうしの比較では海線のほう
が若干速いといえるかもしれません。

ところで、当時の列車番号はアルファベットのサフィックスで車両の種類を区別
するということはしてなかったようですが、時刻表は四角囲みで"気"と気動車の
表記があるため、当表では気動車の列車番号にDのサフィックスを便宜上つけて
います。(現在の列車番号は一般的に、サフィックスがMの場合は電車、Dの場合
は気動車、無の場合は機関車牽引を示しています。但し大都市圏で高頻度運転する
電車等には異なるアルファベットが充てられることがあります)

今回参考にした山線廃止前の時刻表、最初は某オークションで探したところ、50
年以上も昔ということもあってか、状態が良いものは皆無にも関わらず結構な値段
でした。何気なくポータルサイトで検索したところ、古い時刻表でもオフィシャル
でKindle版があることが分かりました。Kindleは専用端末でなくても無料アプリに
よりPCや携帯で見ることもでき、紙の古書に対する値段と状態への懸念も一挙に
解決した次第です。
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