(有)花沢不動産

趣味の話など

たけるんの青春デンデケデケデケ…番外編:鍵盤遍歴(その2)

2020-05-30 | 私のバンド歴
(その1から続き)

社会人になって初めてのボーナスで、初の自前のキーボードとしてRoland D-70を購入。
リンダも使っていたD-50の上級機かつ、既に慣れ親しんだD-10の単純な76鍵バージョン
と思いましたが、プリセットの音がエントリー機のD-10よりかえって少なくて、使い
こなせませんでした。会社の納涼祭(ベンチャーズを弾いたのもこのとき)の歌謡生
バンドで使いましたが、あまりの暑さのせいか(暴走で?)一時的に音が出なくなる
といったトラブルも経験しました。
2年後にはD-70を下取りに出し、プリセットが多いJV-90に買い替えましたが、これも
使いこなせたとはいえませんでした。ピアノ曲が弾けるようにと76鍵盤にこだわって
いたのが仇となり、D-70よりはマシだったものの大きく重く持ち運びが大変で、ハード
ケースに入れると車のテールゲート開口にひっかかり、新車のカロゴンの内装がすぐに
ひっかき傷だらけになってしまいました。

最初に導入したD-70のプリセットが少なかったため、追加の音源として買ったSC-33
とWindows95ブームがDTMのきっかけとなりました(記事参照)。実はその前には、
キーボーディストたるもの打ち込みの知識も必要、とシーケンサ専用機(MC-50MK2、
記録媒体は2DDのFD)も導入したものの、それこそ使いこなせず、SC-33につないで
せいぜいドラムマシンとして使った程度でした。もっともこのセッティングは、当時
全パートコピーに勤しんでいたベンチャーズ曲の宅録に大活躍しました。また一度だけ
ライブに用いたことがありますが、同期モノなどという大層なものではなく、ビート
ルズを演奏しようとしたものの、曲を知るドラマーがいなくてやむを得ずでしたが、
これも恥ずかしい黒歴史です。(なお同期モノは、比較的近年になってTripping…で
実現しました。まさかGet Back TourのテクノComing Upを再現するとは、当時は想像
もつきませんでした)
そういえば、DTMに移行する過渡期には、リズムだけ打込みで、上モノは手弾きで
多重録音する、なんてこともやったことがあります。たしか最初にやったのはそれこそ
シンコーのスコアを参考に"Martha My Dear"、2曲目は耳コピーで007「ロシアより愛
をこめて」のテーマで、オケ曲の完コピ第2弾でもありました。(後でMIDI化した際、
グワーンと銅鑼を鳴らすところがあって、そのためにドラム用のchが2つ必要となり
面倒でした)

関西移住以降、キーボードはリハとかセッションで臨時で弾くことはあったものの、
ライブでは会社の軽音楽部以来久しく弾いていませんでした。関西での音楽活動復帰
のきっかけの一つとなったイベント「みんなの歌謡show」で、担当曲に「あなた」と
いう大曲があり、本来のキーボードが担当するピアノ弾き語りに加えて、もう一台の
キーボードを他チームから借りてきて、私がストリングスを入れることにしました。
もともとキーボードは原曲の再現度を高めたいという目的でやっていましたが、それ
を実証した形になりました。

「みんなの歌謡show」のリハでは、他チームの知人の女性キーボーディストがJuno-D
を軽々と持ち込んでいるのを見て、私もJuno-Diを導入するきっかけとなりました。
ミナエンに出入りするようになって始めた自分のイベント「デンデケ祭」は実験の場
でもあったので、少しずつJuno-Diの運用範囲を広げ、ビートルズの曲の4人以外の
パートの再現は、他のプレイヤーからも好評だったと思います。
Juno-Diは恐ろしく操作が簡単で、オクターブの上げ下げやスプリット機能を駆使する
などして、初めてキーボードの機能を使いこなせたといえます。操作性に加えて軽量
で取り回しが良いのも特徴ですが、安価なこともあって標準装備するスタジオも多い
ので、さらに楽になりました(笑)

キーボード導入以来ずっと気になっていた、ピアノ曲の演奏時に61鍵では足りない
問題は、散々迷って安価な電子ピアノを導入するいうことであっさり解決し、これ
が想定外にハマりました。悩むくらいなら、早よ買えばよかったという感じ。
昔買ったままになっていた譜面を引っ張り出したり、最近では歌謡曲のピアノソロ
譜を何冊か購入するなど、すっかりハマってしまってます。暇さえあればすぐ弾ける
という環境のおかげで、初見力があがったり、以前ならこんなの無理と思えるような
フレーズが弾けるようになるなど、まだこの年齢になっても、少しでも上達が感じ
られるのは嬉しいです。
昨年~今年にかけては、会社の軽音楽部以来となるキーボード担当の名目で、とある
ユニットに加入することになりました。さてどうなることでしょう。

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たけるんの青春デンデケデケデケ…番外編:鍵盤遍歴(その1)

2020-05-29 | 私のバンド歴
当ブログを始めたての頃、私の「バンド歴」の連載に影響されたのか、知人が同様の
トピックの連載を始めました。その中で、知人はバリバリのギタリストにも関わらず、
最初に楽器に触れたのは実はピアノのお稽古だった、という意外な話を知りました。
ちなみに私が当ブログをgooで始めたきっかけは、その知人のブログだったりします。

実は私も、一番最初に触れ、最も歴が長い楽器は鍵盤ということになります。
物心がついた頃、父の仕事上のつきあいだったのか、家に電気式リードオルガンが
ありました。つきあいがさらに深まったのか?、数年後のある日、突然オルガンは
下取りされ、電子オルガンに代わりました。
今でも後悔していることの一つに、幼少期に鍵盤楽器を習っておけばよかったという
のがあります。16分音符がズラリと並んだフレーズを、初見で華麗にパラパラと弾き
こなせたらと思いますが、そこまでには至っておりません。当時はせっかく楽器が
あるにも関わらず、ねこふんじゃったすら弾けず、せいぜい片手、それも左手でメロ
ディをなぞる程度のことしかできませんでした。少なくても中学校までは、ピアノを
バリバリ弾きこなす男子というのは見たことがなかったです。

それが少し変わったのが、兄が付録目当てで明星を買っており、その付録というのが
ヤンソン(Young Song)という歌本でした。当時の新曲の歌詞とコードはもちろん、
旬のアーチストやアルバムの特集がメロ譜付であったり、コード表も時々巻末の付録
に付いていました。そのコード表を見様見真似して、メロディの進行に合わせコード
さえ押さえれば伴奏になることと、音の並びに法則性があることに気づきました。
よってコードの知識はギターより先に鍵盤で得たことになります。

中学校ではなるべく部活に入るようにとのことで、苦手な運動系を避けて文化系と
いう消極的な理由で、あまり深く考えずに吹奏楽部に入りました。ようやく譜面が
読めるようになったのは1年生の終わり頃で、まずはリズムから、次いで演奏上の
♯や♭の意味を(臨時記号としてではなく調として)理解したことが、既に持って
いたコードの知識と結びつき世界が広がりました。

譜面が読めるようになって間もない頃、昔のヤンソンのビートルズ特集を引っ張り
出して、例えばア・ハード・デイズ・ナイトは原曲を聴く前にそれで曲を知りました。
キーがGの曲なのにFのコードが使われていたり、メロディもGのメジャースケール
から外れるFやB♭が(それこそ臨時記号で)出てくることが不思議でした。今の
語彙で言うならブルーノートで、この曲ではジョンの歌唱部分だけに出てくるのが
興味深いところです。

ビートルズに本格的に興味を持ち初めて買った楽譜は、シンコーのサージェント・
ペパーのピアノ譜でした。サージェント・ペパーに限らず各アルバムありましたが、
ソロピアノ譜で、タイトル曲のサージェント・ペパーに至ってはメロが16分音符
だらけで難し過ぎました。その次に手に入れたのは36曲入りベストの弾き語り譜で、
のちに追加でvol.2を手に入れるほど愛用しました。これでLet It Beのピアノ伴奏を
マスターしたのが大きな収穫で、さらにポールソロのMaybe I'm Amazedもライブ版
で載っていたのが良かったです。

余談ながら、そういった経緯もあってシンコーの楽譜には絶大な信頼を寄せていま
したが、全アルバムのバンドスコアが出た時は、実際に弾いて違和感がある箇所が
けっこうありつつも「楽譜に書いてあるし」と真に受けていました。吹奏楽出身と
いうこともあって、耳コピーは邪道という思いが若干あったのですが、そもそも
作曲家自身によらない譜面は耳コピーによって作成されたものであって、採譜者の
解釈の違いもありうる、いっぽうで耳コピーはミュージシャンとして重要なスキル
の一つである、ということをだいぶ後(大人)になってから理解するに至りました。
身近な方やプロに至るまで、諸先輩プレイヤーのお教えに感謝いたします。

余談が長過ぎましたが、そのうちにベスト弾き語り譜を用いて、電子オルガンで重ね
録りをするようになりました。MTRを導入するはるか以前の話で、両手で弾くスキル
もまだなかったため、左手伴奏、右手伴奏、メロディをバラバラに演奏し、最初に
録音したパートを再生しながら次のパートを弾くという恐ろしく原始的な方法を用い
ました。
その方法を応用し、(またも)ヤンソンの特集のメロディ譜をもとに、オーケストラ
がフィーチャーされた中島みゆきの「縁」という曲(アルバムは名曲「ファイト!」
が入っている「予感」)の完全コピーという行為に初めて挑みました。ただ完コピと
はいっても、楽器は電子オルガンだけで、わずか4種類のプリセットのリズムにない
打楽器等の再現のすべはなく、試しにシンバル代わりに鍋の蓋を叩いてみたりしたも
のの、ポコンと余韻のない鈍い音を立てるだけで話になりませんでした。後年MIDIで
オーケストラを雇わずして脳内スコアをほぼ完全に再現した時は、「すごい時代に
なったものだ」と感動しましたが、まさかそういったテクノロジーが実際の業界の
仕組みにまで影響を及ぼし、プロの世界でも今日のカラオケ全盛・生オケ衰退を招く
とまでは考え及びませんでした。
そういった意味では、某所の歌謡曲イベントでいまだに赤本を用いて、ショボイなが
らも生バンド演奏をやっているのは、貴重かつ意義があることだと思います。

さて、進学した学校には、教養系の科目を複数クラスが受講するための「合併教室」
なる大きな教室があり、鍵がかかっていないグランドピアノがあったので、ほぼ毎日
といっていい程弾いていました。ネタにしていたのは例のビートルズベスト弾き語り
譜で、Maybe I'm Amazedもめっちゃシャウト&ファルセットしていたので、キ〇ガイ
と思われたのではないかと、今になってゾッとします。マジで黒歴史です。

弾き語りのコード弾きから脱却したきっかけは、NHK教育の「ピアノでポップスをⅡ」
という番組を見てでした。講師は作曲家の服部克久で、生徒は4人家族全員(父母姉弟)
という設定でした。そのNHKテキストにあったLove Me Tenderを件の合併教室で弾いて
いたら、フィリピン人の留学生がやってきて「テンポはもっとゆっくりだよ」と言われ
たり、他の曲をリクエストされて一緒に歌ったり、シンコーのとても古いビートルズ曲
集をもらったりしました。そういえばラジオ体操の耳コピーにチャレンジしたのもこの
頃でした。(記事参照。念願の譜面が載ってたNHKテキストを入手したのは、丸一年後
の確か企業実習の間だったか、行く途中だったと思います)

ギターを始めて少し経って、ビートルズのサージェントペパーと同じことができると
いう理由でMTRを導入しましたが、そのMTRを友人に貸す代わりに、友人の不調の
Roland D-10を修理に出すという名目で長期借用しました。一時的にMTRを返して
もらった合間には、BCCのコピーバンド大会のデモテープを作成したり(記事参照)、
Martha My Dearを手弾きで多重録音したりといったこともしました。借用があまりに
長期に渡ったのと、D-10の修理代が意外と安くついたこともあり、修理代はレンタル
料代わりにこちらで持ちました。

(その2に続く)
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たけるんの青春デンデケデケデケ: 2010年代・その4

2020-02-12 | 私のバンド歴
3. ビートルズバンド関連(続き)

(4)SM氏との出会い

①Scarabeats(2015-2016、たけるん on Drs)
 N山君とSilver Cricketsで活動していた当時、彼が真面目に取り組んでいるという
 (こういう遠慮のない発言が彼らしい)別バンドの音源を聞かせてもらったところ、
 演奏のみならず、コーラスの完璧さに驚かされました。2014年4月にN山君の誘い
 でそのバンドを実際に見に行ったところ、特にポール役が歌うMy Loveの圧倒的な
 歌唱力に驚き、狭い神戸でまだ未知のこんな凄いプレイヤーがいたのかと衝撃を
 受けました。(その時の気持ちを例えるなら、原田巧の剛速球を初めて目にした
 永倉豪のよう。…何のこっちゃ分からない方、すみません)
 私のイベントのデンデケVol.3への出演を熱望しましたが、都合が合わなかったこと
 に加え、直後にそのバンドが解散してしまい断念。しかしそれから半年程経って、
 件のポール役SM氏からScarabeatsに誘われたときはマジで嬉しかったです。ところ
 が、2015-16年にかけて私は、年間の半分が海外出張だったこともあり、Scarabeats
 で十分な活動ができなかったのが心残りです。なお、デンデケには、念願のSM氏に
 Vol.4以降全て出演頂きました。
・余談ながら、Scarabeatsのジョン役A氏とは非バンド関係で共通の知人がいること
 が偶然分かり、さらに、私が香川在住時だった15年以上も前に、私とA氏がその知人
 の結婚式二次会で一度顔を合わせていたことが奇跡的に判明しました。当時A氏が
 ギター持参で来ていたことでビートルズ好きと知り、二次会のカラオケでは知人を
 含めた3人でShe Loves You他をハモリ、周囲から「レコードみたい」と褒められた、
 という昔話が鍵でした。

②ビートルズ de ランデヴー
 セラミックけいたバンドで一緒だったTP氏と上記SM氏が、スキスキより、もう
 少し楽器プレイヤー志向のビートルズセッションを行いたいということで始めた
 もの。
 SM氏はそのためのホストバンドを作る(あるいはScarabeatsをホストにする)
 構想があったようですがが、メンバー不足であえなく頓挫。私はその要員として
 呼ばれて以来、参加継続中です。
 当セッションでは、東京在住時に知り合った方や、関西ながら疎遠になった方
 との再会があったり、新しいつながりもできました。また、私がたまにヘルプ
 で入るTable Dogのメンバーは当セッションつながりで、のちに初(私自身は14
 年ぶり)の新開地音楽祭出場につながりました。

③東門街C
 あの英キャバーンクラブとも姉妹店で、Dog Stepsでもお世話になっている、
 東門街Cが開店したのは2016年7月のことでした。オーナーY氏とSM氏が先
 に面識があり(M楽器店のコピーバンド大会等で顔は知っていたようですが、
 面識を持ったのはなんとスキスキでらしいです)、SM氏、N山君、私がC開店
 前の物件確認にお呼ばれしたことがあります。内装施工前のスケルトンの状態
 で実際に音出しをして、音漏れの状況をビルオーナーにも確認頂き了承を得ま
 した。また上記メンバー+Y氏の盟友T氏で、プレオープンのイベントでも演奏
 させて頂きました。

(5)Tripping the Live Fantatics/Paul is Lives(2016-継続中、たけるん on Drs)
 909で活動当時のジョージ役TM氏が、私と同じく89年のポールの傑作アルバム
 Flowers in the Dirt好きであることが判明。彼曰く(そのシングル曲である)My
 Brave Faceごっこ(笑)をやりたいということで、2012年8月に旧知のJ氏と彼経由
 でポール役としてAR氏を呼び、ポールの89-90年のGet Back Tourの曲目をセッ
 ションしました。
 その後AR氏とTM氏は一緒にバンド活動を行っていたようですが、しばらくして
 2016年5月に両氏が発起人となりGet Back Tourの曲を再現するユニット、Tripping
 the Live Fantastics(ライブアルバム名から拝借)として具現化に至りました。
 Get Back Tour全曲完了後は円満活動終了としながらも、メンバーはそのままPaul
 is Lives(これもライブアルバム名からまんま拝借)に改称、93年New World Tour
 の楽曲に移行し、現在も活動継続中です。
 私にとってポールのGet Back Tourは学生時代に初めて見たプロのライブで、リアル
 タイムで再現したかったのですが、技量的にもメンバー集めも無理でした。私が
 大人になり大分経ってから、当時まだ若かったJ氏やAR氏が、Flying Horsesという
 バンドで易々と再現しているのを客席から羨望の眼差しで見ていましたが、今では
 そのポール役AR氏と同じステージ上に立てていることは感慨深く、また大変光栄に
 思っております。

-連載終わり。未来に続くー
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たけるんの青春デンデケデケデケ: 2010年代・その3

2020-02-10 | 私のバンド歴
3. ビートルズバンド関連

(1)909(2011/9-2012/9、たけるん on Drs)
 神戸復帰以降、固定のビートルズバンドは久しくご無沙汰していたため、with9の
 メン募にDrsで応募したところ、リハ1回で、翌月のライブに来てくれと即決され
 ました。
 それから約1年間、マンスリーで北野O(既に閉店)でハコバン的なものを務めた
 のは、香川在住時のベンチャーズバンド以来の貴重な経験でしたが、残念ながら
 動員が芳しくなくてモチベーションが上がらず、その割にはセットリストは毎回
 30曲以上で、正直なところ苦行でした。その時の若手のジョージ役はTM氏という
 方で、だいぶ後に別のバンドで再会することになります。
 数少ない貴重なお客さんとして、ミナエンを教えてくれたTSさん夫妻の他、常連
 として旧知のNKTさん(旧Blackbirds)とともにR女史がほぼ毎回来てくれました。
 業界通のR女史を通じて因縁の?現Blackbirdsや、プロのビートルズプレイヤー
 Mさん(ジョン役かつマルチプレイヤー)と共演する機会もあって面識を持てた
 のが、北野Oでの数少ない収穫でした。
 そういえば、のちに(現)Blackbirdsが北野Oに定期出演するようになり、TM氏が
 ヘルプのジョージ役として加入したのも、何かの因縁かも?

(2)Moneyhours(2012-2018、たけるん on Ds)
 Moneyhoursと書いて読みは「まにあわず」。909からの卒業と前後して旧知のJ氏
 に誘われました。
 気楽な中にも経験者揃いで、特にコーラスを得意とし、当時経験したいくつかの
 ビートルズバンドの中でベストでした。当初のレパートリーはベスト盤的でしたが、
 のちに全アルバムコンプリートを目指し、律儀にPlease, please meからスタートし、
 私がいた間はRevolverまで進捗しました。

 なお、Moneyhoursのジョージ役・職人Neu氏とは、現在別ジャンルでのコラボを
 目論んでおります。(これはティーザー笑)

(3)N川氏との出会い
 スキスキに顔を出すようになって以来、ミナエン常連のジョンN川氏からバンド
 のお誘いを受けました。N川氏はジョン役の他、リードギターもキーボードも
 こなすマルチプレイヤーで、さらに彼のオリジナル曲はとてもポップです。
 当時ミナエンではビートルズ専門のバンドは珍しがられ、2012-13年にかけては
 「セラミックけいたバンド」でTS氏(on Ds)とともに精力的に活動しました。
 スキスキを通じて、ジョンN川氏によりさらに、当時20代の若きジョージ役N山君
 がスカウトされ、私はBaからDrsに異動し、The Silver Cricketsとして活動。2013
 年6月に宇治F4で初(シークレット)ライブ、2013年12月にはM楽器店主催のコピー
 バンド大会に初めてエントリーし、N川氏の知名度からか、あるいはN山パパの
 差し金か、トリでキャバンクラブ大阪のステージに立ちました。
 またN川氏は、神戸のインディーズバンドシーンの重鎮K下氏とも昔から懇意で、
 ビートルズ好きであるK下氏主催のイベントにも何度かお呼ばれしました。
 (ちなみにJ氏やNKT氏とともに旧Blackbirdsで新開地音楽祭初出演の前夜に腕試し
 で出演したビートルズナイトも、実はK下氏のイベントだったという偶然の出来事
 があります。直前にリハした隣のスタジオも系列で、若いホールマネージャーさん
 に「あっ、さきほどリハされてた」と言われました(笑))

 なお、ジョンN川バンドには、現在もヘルプでお呼ばれすることがあります。

その4につづく
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たけるんの青春デンデケデケデケ: 2010年代・その2

2020-02-10 | 私のバンド歴
2. ミナエンを知る(2011- )

神戸復帰以降、私の音楽関係の出来事としては、恐らく最大です。
かつて私は兵庫区在住でミナエンタウンは近所、I食堂などの存在は知っていま
したが、外から中の様子は気になりつつ、ビビリで中に入ることができません
でした。
2011月8月に、ネット上だけの知人であったTS氏とリアルで出会い、同じビル
内のカフェSを紹介してもらいました。TS氏は新開地音楽祭でオーナー夫妻+
当時のM店長が演奏するDog Stepsを見て同店を知ったとのこと。
カフェSでは毎月ビートルズセッションが行われていることを聞き、まずは月1
通うようになりました。

(1)定期・不定期イベントへの参加(いずれも継続中)
①スキスキビートルズ(毎月第3日曜@カフェS)
 当初はもちろん客としての参加でしたが、正直なところ、ホストの演者より
 曲を知っていました。
 もっとも当時の客層は、ビートルズのコアなファンは少数派で、多様かつ入れ
 替わりも激しく、リクエストも定番曲もあれば、かえって思い込みのない突飛
 な曲もあって随分鍛えられました。パート穴埋め要員として、出来はともかく、
 楽器・コーラスともに全パートチャレンジさせてもらえたのが、後年役に立って
 いるかも。
 当初よりホストを務めたIさんが引退し、ホストはD店長に交代、そのサポート役に。
②ビートルズdeランデブー(毎月第4土曜@Aガーデン)
 後述
③Sの歌謡日(不定期(概ね3ケ月毎)日曜@カフェS)
 いわゆる生バンドをバックにお客さんに歌って頂くイベント。
 赤本を使って基本的には初見(ですが、常連さんの十八番はだいたい決まって
 くる)という、かつて会社の軽音時代に経験していたことが復活しました。
 会社の軽音の時は「こなんおっさんげな曲を」とイヤイヤやっていましたが、
 演者的にはド演歌のほうが曲構成やコード進行が読めてむしろ気楽で、今や
 不測の事故も含めてすっかり楽しんでます(笑)
 当初、Dog Stepsがホストバンドで、それに勝手に(笑)Keyで加わっていました
 が、のちにホストバンドをお願いされ、パートはKey→Drs→Baと変遷。

(2)自主イベント開催(2012-2018)
 主催側の持ち出しが全くないのがありがたく、カフェSで7回に渡り自主イベント
 (デンデケ祭Vol.1~7)を開催しました。
 最初のきっかけは、結成したての自分のバンドの発表の機会がなく、よそから対バン
 に呼んでもらう伝手もなかったので、やむなく自主イベントを開催したというのが
 真相です。しかし、回を重ねるごとに、その時々で私が関与していた旬なユニット
 に出演頂くとともに、特別ユニットでちょっとチャレンジングな要素を加える、と
 いうスタイルに変化していきました。もっとも第1回目でも、Lovely Ritaを演って
 みたり、私がジョージ役をやったり、出来はともかくチャレンジングな要素の片鱗
 は既にあったみたいです。

(3)Dog Stepsとの関係
 当初は観るほうでしたが、歌謡日の手伝いをする頃から、時々Drsのヘルプとして
 呼ばれるようになりました。彼らのレパートリーの一つであるベンチャーズ好きで
 あることも理由かもしれません。
 東門街Cでの定期・金曜演奏がビートルズの曲を中心とすることから、私は2017年
 4月から最終金曜のDrsを担当しており継続中です。
 また、Dog Stepsの地方巡業?にも定期・不定期で混ぜて頂き、私にとってはよそ
 の地方での演奏は初めての経験で、新鮮に感じます。

その3に続く
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たけるんの青春デンデケデケデケ: 2010年代・その1

2020-02-10 | 私のバンド歴
「バンド歴」を見ると、神戸復帰以降のまとめが、2012年を除き欠落していることに
気付きました。実はその後の話も書こう書こうと思いつつ、現実の出来事は年の区切り
でキリよく進むわけではないので、書くタイミングを逸していました。
2020年を迎えて、以下あらためて過去10年間を振り返ります。10年も経って時系列が
曖昧になっていた部分がありましたが、今回よい整理になりました。

1. 歌謡曲(2010-2016, たけるん on Ba)

神戸復帰以来しばらくは固定のバンドに入ら(れ)ず、2010年代の音楽活動は意外にも
歌謡曲から始まりました。
旧知のTsu氏が映画のブルースブラザーズ好きなことからだったと思いますが、2009
年に氏からソウルバンドのBaとしてお誘いを受け、ある時リハの後飲み@天六で、
歌謡曲をやりたいねという話で盛り上がりました。その時のメンバーを中心に、知り
合いのミュージシャン総勢40名が集結し、2010年4月に「みんなの歌謡show」を開催、
ほぼ同様のスキームで翌2011年3月には「第2回みんなの歌謡show」を開催しました。
その後も、「みんなの歌謡show」出演メンバーの一部と新規メンバーで、スピンオフ
的に「甲谷ヒロユキとザ・ビューティフル・チョメチョメイツ」を結成し、2012年
8月と12月にライブを開催。
2016年6月には、私のイベント「デンデケ祭」第5回記念の「キラーコンテンツ」と
して、再びTsu氏の助力により「たけるん歌謡曲バンド」を披露、10月にはTsu氏の
イベント「つちフェスその9」にも出演しました。

一連の歌謡曲ユニットではそうそうたるメンバーが集まったということもあり、技量
的にも観客ウケも史上最強と密かに自負しております。最近このジャンルはごぶさた
していますが、いずれはビートルズに次ぐ柱にしたいと目論んでいる次第です(と常
に公言しているのですが、なかなか難しく…)

その2に続く
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一期一会

2014-12-08 | 私のバンド歴
私のイベント(第3回デンデケ祭)の計画が概ね固まった頃、いつも
ライブを見に来て下さる会社の女性から、Yさんという方がイベント
を是非見たいとのことで紹介されました。聞けば彼はビートルズが
好きで、ご自身もかつてバンド活動をしていたとのこと。何となく彼
の顔は知っていたのですが、プレイヤーであることはお互い知らず、
灯台下暗しで社内に同年齢のビートルズプレイヤーがいたことに意外
さと嬉しさを感じました。彼には、イベントでセッションコーナーを
設けるので、ぜひ演奏もして頂くようお願いしました。

セッションコーナーは、イベントの予定場所であり懇意にしている
セッションバーのビートルズセッションデーのアイデアから拝借して
います。失礼ながら彼がどんな実力の持ち主か見てみたく、イベントの
前段として5月のセッションデーに誘いました。
彼はなかなかステージに出ようとしませんでしたが、帰り際に1曲だけ
"Money"を披露してくれました。全然ブランクを感じさせない堂々とした
演奏振りで、ジョンをよく研究しているのが分かるボーカルとギター
でした。ちなみにこの日は、我がThe Silver Cricketsのジョージ役+
父親が、かつて彼と一緒にバンドをやっていたとのことで、約10年ぶり
の奇跡的な再会を果たしております。(ここでもビートルマジックです)

この時彼は明らかにバンド活動再開に意欲を持っていたようです。
ところが、それから程なくして、彼からはセッションのお礼とともに、
唐突な話を聞かされました。6月一杯で会社を辞めて、しばらく病気
療養をすると。
彼は6/29のイベントを大変楽しみにしていたようですが、当日体調が
思わしくなくどうしても来られないと、とてもすまなそうな電話があり、
願いは叶いませんでした。そしてそれから1ヶ月も経たぬうちに、彼の
訃報を聞きました。聞くところによると、6/末に退職して1週間ほどで
容態が悪化したそうです。
結局、私が彼とセッションをしたのは、5月のセッションデーでの"Money"
が唯一となってしまいました。療養中の彼の状況が掴めず、つい連絡を
取るのを躊躇してしまい、無理にでもスタジオに誘い出せば良かったか
と、後悔することばかりです。

上記の話をここで明らかにすべきか正直迷いましたが、1人のビートルズ
プレイヤーがいたということを知って頂きたく、彼が敬愛していたジョン
の命日にあえて記させて頂きました。
我々が当たり前のように、いつでも好きな音楽を聴いたり、弾いたりできる
ことに感謝しつつ、道半ばでそれが叶わなかった仲間のためにも、後悔
することがないよう前に進んでいきたいと思います。
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ア・メモリー・オブ・レディオ・エクササイズ・No1

2008-08-06 | 私のバンド歴
日本で誰もが知っている最も有名なピアノの曲といえば、ベートーベン
やショパンではなく、実は「ラジオ体操第1」ではないかと思います(笑)

私の知人でしたら、私が好んでピアノでこの曲を弾くのをご存知の方も
多いと思いますが、実はピアノの曲で初めて耳コピーにチャレンジした
曲だったりします。

高校の時に、見よう見まねで学校のピアノで「レット・イット・ビー」に
悪戦苦闘していたところ、同級生に何気なく、「ねえ、ピアノ弾けるん
だったら『ラジオ体操』弾いてみてよ」などと言われたのがきっかけで、
高3の夏休みはその耳コピー一色でした(笑) まさか「ラジオ体操」の
市販の楽譜が存在したり、NHKが譲ってくれる(笑)とは思えなかった
のです。

何とか苦労して、ひと夏でそれなりに格好にしたのですが、丁度その
1年後ぐらいに、本屋で何気なく「ラジオ体操」のNHKテキストをパラ
パラとめくったところ、あれほど欲しかった「ラジオ体操第1・第2」の
譜面があっさりと載っているではありませんか! しかも耳コピーに
よる解釈とえらく違っていたのは、大ショックでした!(笑)

でも結果的には、単純なコード弾きとは一味違うピアノの伴奏の仕組み
が勉強できたり、後々ピアノが弾けるフリができたりと、得るものも
多かったです。

そんな私にとって、大変思い入れのある「ラジオ体操第1」を作曲された
服部正氏が、100才で大往生されたそうです。合掌。
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たけるんの青春デンデケデケデケ: in Tokyo…2006~2007年

2007-12-29 | 私のバンド歴
あちこちのブログで、今年の総括が行われてますが、皆さん考えることは
一緒ですね(^^; 私はこのブログのサブテーマであるバンド関係の総括を
します。(2005年以前については、カテゴリー「私のバンド歴」をクリック)

2006年

前年の10月に東京に突然転勤となり、全くつてがない中で手探りでのメン
募は本当に苦労させられました。

この年のライブ実績
5/7 「ツチモトバンド」にサポート参加(on Ba)in "One Night Guiter Hero"
    @サンホール

GW中、北海道旅行の後でわざわざ大阪に飛ぶ行程を加えての出演で、
自分が加わってのリハは、本番直前の1回だけだったので、ホント冷汗モノ
でした(^^;
実はこのイベント、3月下旬にわざわざ埼玉にストーンズのライブを見に来た
ツチモト氏(大阪在住)に誘われたものです。

この年は、バンドが固まらなかったことや、長期の海外出張が続いたことも
あり、ライブの実績としては結局これ1本のみとなりました。

2007年

ビートルズコピーバンド"The Lonely Hearts Cover Band"に参加。
こちらはメン募の過程で一度Baとして入って抜け、のちにDrとして出戻って
おります(^^; 
今だから話せることですが、実は最初に抜けた時、後任としてやって来たBa
を自分のバンドに引き抜こうとしたところ、逆に彼からDrとしてスカウトされて
の再加入だったりします(笑)
いずれにしても、東京で充実したバンド活動ができたのは彼らのおかげです。
感謝してます。

この年のライブ実績
1/14 LHCB Live@国分寺RUBBER SOUL(on Dr)
5/20 LHCB Live@国分寺RUBBER SOUL(on Dr)
6/17 LHCB Live@国分寺RUBBER SOUL(on Dr & Kb)
7/29 知人のビートルズバンド「タッチビート」さんへサポート参加(on Dr)
    @稲城フェスティバル(東京での初野外!)
9/23 LHCB Live@永山フェスティバル(on Dr) これも野外!
9/23 LHCB Live@国分寺RUBBER SOUL(on Dr)
    東京でのラストライブ。意外なお客様にも来て頂き嬉しかったです。

(10月に神戸復帰)
12/22 「ツチガエル」にサポート参加(on Ba)in おとむすび@北浜・雲州堂

振り返ってみると、結果としては例年以上に演っていますね~

東京でのメン募の過程においては、「アントンスタジオ」、「レノンハウス」、
「赤坂ジャカズ」といったセッションバーなども色々教えて頂き、セッション
関係については上記の実績から割愛せざるを得ないほど沢山行いました。
特に「アントン」のビートルズデーには足繁く通って、バンド絡みの交友関係
も大きく広がったと思います。関東組の皆様、お世話になりました。
コメント (6)
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たけるんの青春デンデケデケデケ…番外編4:S君のこと

2007-08-21 | 私のバンド歴
S君は私が初めて組んだバンドのドラマーでした。彼のDrは、オカズ
を入れればリズムが乱れるといった調子で、正直プレイヤー的才能に
は疑問符が付きましたが、私とは唯一ウマが合ったメンバーで、バンド
の自然消滅後も付き合いがありました。

ドラムの腕はほどほどでしたが、彼がタダ者ではないと思ったのは、
いわゆる電気ヲタの少年であったこと。真空管のオーディオアンプを
自作して結構イイ音で鳴らしてみせたり、ギターエフェクターのファズ
なんかもいとも簡単に作ってみせたり、彼には驚かされる事ばかり
でした。そう、彼は「青春デンデケ」でいうところの「しーさん」を、まさ
に地で行くようなヤツだったのです。(良家のお坊っちゃんではありま
せんでしたが)

彼が音楽に興味を持ったきっかけはYMOとのことで、彼はまだ世の中
にGeneral MIDI規格とかGUIのシーケンスソフトといったものが広まる
前(15年以上も昔)に既に、MS-DOSのPCと自作I/FによってRolandの
D-10に自動演奏させていたりしました。当時はこのように、ハードの
セッティングが気軽ではなく、しかもオール数値入力が必要だったこと
もあって、アマチュアにおける打ち込み音楽とは、ミュージシャンという
よりPCマニアがたしなむもの、というイメージが強かったと思います。
彼に私のMTRを貸してやったところ、打込みと自身のDr&Voで、高橋
幸宏の曲を吹き込んでいたようでした。なお、私はMTRを貸した代わり
に、D-10を長期借用し、以来すっかりRoland党員になってしまいました。

そんな彼に私が、「The Whoの”Live at Leeds”ってアルバム、すごく
イイよ」とすすめたところ、彼はハマッてしまったのか、ほどなくして
全アルバムを揃え、私よりもよっぽどWhoに詳しくなったりしました。
ちなみに、Whoを彼にすすめた当の私は、今もってアルバムを全て
持っているわけではありません(笑)

実は我々は工業系の学校の同級生でしたが、彼は材料工学科で、
なぜ電気工学科に行かなかったのか?とたずねたところ、第一志望
に受からなかったとのこと。そんな彼は、卒業後趣味と実益そのまま
に何と某有名音響機器メーカーに就職しました。しかも、本人の希望
通りにオーディオの設計に配属されたのは、材料工学科の出身として
は恐らく異例なことかと思います。
最近、その会社は経営不振で、他社との統合話が出るなど少々心配
でもありますが、ま、彼ならうまいことやっているものと信じております。
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