読書日記

いろいろな本のレビュー

物語としてのアパート 近藤 祐  彩流社

2009-03-29 09:32:51 | Weblog

物語としてのアパート 近藤 祐  彩流社



 本書はアパートの歴史を作家の作品と結びつけて論じたものである。最初に登場するのは、詩人萩原朔太郎が住んだアパート「乃木坂倶楽部」である。彼はここに一月半仮寓しただけだが、詩の中に歌いこんでいる。このときの朔太郎は父の重病、妻との離婚問題、長男としての責任等々、精神的物質的な危機のピークであった。彼にとってここはシェルターであった。詩集『氷島』に「乃木坂倶楽部」を「坂を上がる崖上」と書いた。実際には急な坂を下っていく中間点にあったのだが、そうは書きたくない意識があったのだろう。そして二階に住みながら「五階」と書いた。著者曰く、おそらく朔太郎が「アパートの五階ーーー」と書いたとき、彼の脳裏には、『御茶ノ水文化アパート』や『同潤会アパート』など建築史上の名品が浮かんでいたのではないか。『乃木坂倶楽部』とは比較のしようもないほどの風格があり、時代の羨望を一身に集めた名建築である。(中略)仮寓から一年半、やっとのことでその苛酷な日々を一編の詩に封じ込めようとしたとき、現実の木造二階建てのアパートを時代の先端を行く名建築に重ね合わせてみる。『乃木坂倶楽部』を「坂を上がる崖上」の「五階」と書くことで、朔太郎は自らの悲痛な体験を、詩という虚構世界に昇華させたかったのではないかと。昭和初期の「アパート」という語感には新しい希望のようなものが孕まれており、朔太郎はそれを敏感に感じ取っていたのだ。以上が第一章の中味だが、つかみとしてはなかなか面白い。以下、中原中也、辻潤、萩原葉子、太宰治、阪口安吾、寺山修司、森茉莉、古井由吉らの作家とアパートの関わりを作品をまじえて、文学史の講義のように展開させていて、読んでいて大変面白い。
 このアパートの持つ「アジール性」と「アウラ性」はその後、時代とともに変化する。60年代の公団住宅、70年代のマンションと、その中で営まれる生活は大家族から解放された、核家族といわれる小人数の家族単位になった。しかしその家族性は歴史性の欠如によってもろく、壊れやすいものだった。公団住宅やマンションの住人も高齢化を迎え、限界集落になろうとしている。今はワンルームマンションという個人が雨露を凌ぐパターンが出現した。そしてルームシェアリングという形式も確実に増えている。古い家族関係の崩壊と新しい個人主義の登場。今後どうなっていくのでしょう。
 著者は経済学部出身で、アパレル会社を退社後、建築事務所に勤めた後、一級建築士になり、独立という異色の経歴を持つ。第六章、第七章の集合住宅の歴史と今後の展開を予測した部分は読み応えがある。時代はもうマンションか一戸建てかという二者択一の時代ではない。なぜなら、そこに住むべき家族が壊れているのだから。

 

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