読書日記

いろいろな本のレビュー

映画には「動機」がある 町山智浩 インターナショナル新書

2020-07-04 09:21:18 | Weblog
『「最前線映画」を読む』 の続編で、一本の映画が参考にした先行の映画、監督の人生、宗教を絡めて解説したもの。確かにこれで理解が深まった。前著では、「ブレードランナー 2049」「エイリアンコヴェナント」「イット・フオローズ」など11本、今回は「シェイプ・オブ・ウオーター」「スリー・ビルボード」など、12本が紹介されている。そのうち私が見たのは「シェイプ・オブ・ウオーター」「スリー・ビルボード」「パターソン」の三本で、わかりにくかったのは「パターソン」だ。これはジム・ジャームッシュ監督が2016年に発表したもので、ニュージャージーに実在する町パターソンに住む、バス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)という男の一週間を描いている。バス運転手にドライバーという名の俳優を使うこと自体こだわりがある。普通じゃない。

 彼は毎日6時過ぎに起きて、シリアルの朝食を摂り、歩いて市バスの会社に行き、仕事が終わると家に帰り、妻と夕食を食べてから犬の散歩に出かける。その途中で同じバーに寄って、ビールを一杯だけ飲んで、家に帰って寝る。その繰り返しだ。その日常の中で彼は詩をノートに書き溜めている。特にランチタイムには必ず滝の見える公園に行って、そこで滝を見ながら詩を書くのが彼の日課だ。なんとも風変りな映画だが、著者によると、この映画は、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズという詩人が、自分の住む町パターソンについて書いた『パタソン』(邦訳題・沖積舎)という長編詩を基にしているとのこと。『パタソン』という詩は、パターソンという町自体を「パタソン氏」という名の巨人になぞらえ、その地形や歴史を描いている。映画ではそのパタソン氏をアダム・ドライバーが演じている。

 それではなぜ主人公がバス運転手なのかというと、『パタソン』で、「パタソン氏は引き下がって書く。バスの中にパタソン氏の想念がすわっている、立っている。氏の想念たちがバスを降り、散っていくーーー」ウイリアムズは乗り合いバスの乗客たちをパタソン氏の「想念」としてスケッチしている」という一節があるからだ。そして『パタソン』はウイリアムズ(1883年生まれ)が1946年から63年に亡くなるまで17年間書き続けた長編詩で、E・E・カミングスの詩、T・S・エリオットの「荒地」、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の影響を受けた。「ユリシーズ」はダブリンに住む一人の中年男が、家を出てから帰るまでの一日を書いた小説だが、主人公が読む新聞の記事や広告、音楽の楽譜、収支報告書まで引用されている。『パタソン』も同様の事柄が引用されており、映画ではパターソンという町のすべてを描こうとする。

 主人公は詩作ノートをコピーを残す前に、飼い犬に噛みちぎられてしまう。打ちひしがれたパターソンは落胆していつもの公園に行く。そこに永瀬正敏が日本から来た『パタソン』のフアンとして登場し、会話を交わす。彼もパターソン同様自分のノートに詩を書いているという。二人はジャン・デュビュッフエ(1901~85)というフランスの画家について会話をする。著者によると、デュビュッフエは「生の芸術」を提唱した人で、認められたい、カネを儲けたい、有名になりたいなどという気持ちを持たないことが芸術には必要だという。最後に永瀬はパターソンに白いノートをプレゼントし、「何も書かれていないページのほうが可能性があるんだよ」と言う。

 私は最後になぜ永瀬が出てくるのかよく分からなかったが、著者は彼を詩の神の化身だという。そして、見返りを求めない詩作(芸術)は愛だという。以上、この中身を初見で読み解いた人はいないんじゃないか。「変人のバス運転手の平凡な日常」ぐらいが関の山かもしれない。これだけ高踏的な映画をよく作ったものだ。まさに「ヒットする」そして「カネを儲ける」という見返りを求めない芸術映画というべきか。

 

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