海軍兵学校は戦前、陸軍士官学校と並ぶエリート校であった。当時の秀才は旧制中学で国のために戦うという教育を受けており、彼らはこぞって海兵・陸士を目指した。この二校は軍国主義教育の精華と言えるが、陸士は東條英機を始め戦争指導者を輩出し、日本を誤った方向に導いたという負の歴史を有しているのに対して、海兵は連合艦隊司令長官山本五十六を始め当初は対米戦争に反対の意志を表明していたことなどから、陸士よりもその教育内容が喧伝されることが多い。本書も海兵OBが自分たちが受けた教育の内容について回想したもので、中には戦死した者の遺書もある。
一体にエリート教育は将来の国の繁栄を図るべく、人材を育てあげる目的で為されるものだが、平和な時代は旧制高校・帝国大学というコースがエリートの養成機関になり、戦時に於いては陸士・海兵のような軍人養成機関が第一義的な役割を果たすことになる。目の前の戦争にいかにして勝つかという至上命題に対して答えを出さなければならないのだ。その意味で、彼らは太平洋戦争中は何よりも国の宝として大切にされ、存在感も非常に大きかった。エリートであるがゆえにいわゆるノブレス・オブリージュの精神も叩き込まれて、国(天皇陛下)のために死ぬことをほぼ義務づけられていたと言っても過言ではない。中には部下に死を強制して、自分はのうのうと生き残った軍人もいたが、まあそれは結果論であって、成り行き上そうなったこともあったであろう。
戦争はない方がいいに決まっている。人が人を殺すのだから。それでも、歴史上戦争が無くなったことはない。クラウゼビッツは戦争は外交手段の一つだと言っているが、武器をちらつかせて相手を威嚇して外交を有利に展開するのは個人のレベルでもよくあることなので、わかりやすい。よってエリートがその役目を担うことは憚られるというメンタリティーは確かにある。「鉄は刀にしたくない」ということわざがそれを言い当てている。本来エリートは軍人としてではなく政治家・官僚などで国の繁栄を目指すのが本道なのだ。しかし昭和という時代は戦争の世紀になってしまった。その中で海兵は如何なる教育をしてきたのかということは、少しく興味のある話題である。
海兵62期のH氏は「日本海軍の伝統について」という文章を寄せているが、その中で、日本海軍は世界最強の海軍国英国の海軍を範として制度、組織、教育訓練、各所の名称、部署、内規、日課など、すべて英国式を導入し、ジェントルマン教育がなされたと言っている。また海軍軍人は軍人勅諭を守り、忠節を尽くすを本分とし、政治に関わらないように諭されている。これは陸軍が武装集団としての力を背景に政治に容喙したのとは対蹠的であると悖言う。有名な五省は軍人勅諭を敷衍したものらしい。一、至誠に悖るなかりしか 二、言行に恥づるなかりしか 三、気力に缺くるなかりしか 四、努力に憾みなかりしか 五、無精に亘るなかりしか これを毎日の自習時間の最後に瞑目して黙誦し、一日の行為を反省自戒したという。今どこかの私立高校でやっていそうな題目だ。いろいろ自戒するものがあるなかで、「金銭に恬淡なれ」「公私の別をつけるべし」というのもあったという。これなどは現代人の欠けている徳目なので、教え込む値打ちがある。しかし今学校は腫れものを触るような教育しかできないので、難しいかもしれない。「鉄は熱いうちに打て」ができないのが今ごろの学校だ。
海兵はこのようにジェントルマン教育を施してきたのだが、敗戦濃厚になった時、人間魚雷回天を生みだし、起死回生を目論んだ生徒を生みだしたのも事実だ。結果として優秀な頭脳を自爆のために使ったことになる。返す返すも残念なことである。「もしも彼ら生きてありせば」と思うのは私だけではあるまい。
天皇陛下が誕生日の記者会見で、先の大戦で死んだ人々を悼み、平成という時代が戦争の惨禍に巻き込まれなかったことに安堵しますというメッセージを読まれていたが、陛下の人間性がにじみ出た内容で、感動した人は多かったと思う。それに比べて政権担当の政治家のレベルの低さよ。もっと人間修養に努めたまえ。
一体にエリート教育は将来の国の繁栄を図るべく、人材を育てあげる目的で為されるものだが、平和な時代は旧制高校・帝国大学というコースがエリートの養成機関になり、戦時に於いては陸士・海兵のような軍人養成機関が第一義的な役割を果たすことになる。目の前の戦争にいかにして勝つかという至上命題に対して答えを出さなければならないのだ。その意味で、彼らは太平洋戦争中は何よりも国の宝として大切にされ、存在感も非常に大きかった。エリートであるがゆえにいわゆるノブレス・オブリージュの精神も叩き込まれて、国(天皇陛下)のために死ぬことをほぼ義務づけられていたと言っても過言ではない。中には部下に死を強制して、自分はのうのうと生き残った軍人もいたが、まあそれは結果論であって、成り行き上そうなったこともあったであろう。
戦争はない方がいいに決まっている。人が人を殺すのだから。それでも、歴史上戦争が無くなったことはない。クラウゼビッツは戦争は外交手段の一つだと言っているが、武器をちらつかせて相手を威嚇して外交を有利に展開するのは個人のレベルでもよくあることなので、わかりやすい。よってエリートがその役目を担うことは憚られるというメンタリティーは確かにある。「鉄は刀にしたくない」ということわざがそれを言い当てている。本来エリートは軍人としてではなく政治家・官僚などで国の繁栄を目指すのが本道なのだ。しかし昭和という時代は戦争の世紀になってしまった。その中で海兵は如何なる教育をしてきたのかということは、少しく興味のある話題である。
海兵62期のH氏は「日本海軍の伝統について」という文章を寄せているが、その中で、日本海軍は世界最強の海軍国英国の海軍を範として制度、組織、教育訓練、各所の名称、部署、内規、日課など、すべて英国式を導入し、ジェントルマン教育がなされたと言っている。また海軍軍人は軍人勅諭を守り、忠節を尽くすを本分とし、政治に関わらないように諭されている。これは陸軍が武装集団としての力を背景に政治に容喙したのとは対蹠的であると悖言う。有名な五省は軍人勅諭を敷衍したものらしい。一、至誠に悖るなかりしか 二、言行に恥づるなかりしか 三、気力に缺くるなかりしか 四、努力に憾みなかりしか 五、無精に亘るなかりしか これを毎日の自習時間の最後に瞑目して黙誦し、一日の行為を反省自戒したという。今どこかの私立高校でやっていそうな題目だ。いろいろ自戒するものがあるなかで、「金銭に恬淡なれ」「公私の別をつけるべし」というのもあったという。これなどは現代人の欠けている徳目なので、教え込む値打ちがある。しかし今学校は腫れものを触るような教育しかできないので、難しいかもしれない。「鉄は熱いうちに打て」ができないのが今ごろの学校だ。
海兵はこのようにジェントルマン教育を施してきたのだが、敗戦濃厚になった時、人間魚雷回天を生みだし、起死回生を目論んだ生徒を生みだしたのも事実だ。結果として優秀な頭脳を自爆のために使ったことになる。返す返すも残念なことである。「もしも彼ら生きてありせば」と思うのは私だけではあるまい。
天皇陛下が誕生日の記者会見で、先の大戦で死んだ人々を悼み、平成という時代が戦争の惨禍に巻き込まれなかったことに安堵しますというメッセージを読まれていたが、陛下の人間性がにじみ出た内容で、感動した人は多かったと思う。それに比べて政権担当の政治家のレベルの低さよ。もっと人間修養に努めたまえ。