中身は東京名所案内だが、地下に眠る死者の慰霊を兼ねているところが類書にはない特徴だ.最初は総武線両国駅を降りて両国国技館と江戸東京博物館を見ながら南口の回向院へと向かう。ここら辺には芥川龍之介の生家跡や吉良屋敷跡などが点在し、江戸の雰囲気が濃厚に残る場所だ。この回向院には明暦の大火で亡くなった人の慰霊碑が建っている。この火事は明暦三年(1640年)一月十八日本郷菊坂上の丸山本妙寺より出火し湯島、神田、日本橋と燃え広がり、最後は江戸城が西の丸を残して焼けてしまうというすさまじいものだった。死者は十万人余り。実はこれは「牢人の代表的放火計画のうち、初めて成功した火事だった」というエピソードが紹介されている。江戸幕府の不安定さを示す話題である。このように死者を媒介にして江戸の歴史と地理を蘊蓄を傾けて紹介してくれるその名ガイドぶりは著者ならではのもので、感服する。
両国から始まり日本橋、千住、築地、谷中、多磨、新宿、そしてまた両国に帰るという構成で、吉原の遊女の無残な死や、戦災の犠牲者の死が淡々とした語り口で紹介される。その中で時折挟み込まれる鋭い為政者批判は本書の最大の読みどころだ。築地で東京大空襲に触れて曰く「ノモンハンこのかた軍部は敵をあなどり、おのれに驕り、いよいよ本土空襲への対策はバケツリレーに、火叩きに、防空頭巾に、備蓄食糧はポケットにあぶり豆と烏賊の足があれば上等だった。こんないでたちで一夜に十万人が焼け死んだ。およそこの国に払底したもの、先見の明。有り余るもの、短慮。」なんと見事ではないか、今の政治家に聞かせたい言葉だ。また多磨霊園で曰く、「皇国の興廃この一戦にあり(1905)から、各員奮励努力した挙句のはての無条件降伏(1945)まで、わずか四十年間。われらはなんとせっぱつまった時代を、生き急ぎ死に急ぎしてきたことでしょう。この二十世紀前半に、より責任があるべき綺羅星屑のごとき将軍や大臣や博士や富豪たちが、軒を並べてお眠りらしいこのうっとうしさ。云々」これぞ庶民の目線でとらえた昭和史の総括だ。
最後の両国で、関東大震災の犠牲者に思いをはせて曰く、「三十階や二十五階の高層ビルたちも、その死屍累々をこそ礎石として、そびえたっているのですね。単に二十一世紀の新品的景観のみであるのならば、所詮は100メートルや200メートルや600メートルにも立ちのぼる陽炎のごときものに過ぎないのではなかろうか」と。歴史に学ぶという姿勢を欠いた繁栄は砂上の楼閣であるということを現代日本人は肝に銘ずるべきだ。形あるものは壊れ、命あるののは死ぬ、このニヒリズムを意識した上での生というものを認識させられた一冊だった。
両国から始まり日本橋、千住、築地、谷中、多磨、新宿、そしてまた両国に帰るという構成で、吉原の遊女の無残な死や、戦災の犠牲者の死が淡々とした語り口で紹介される。その中で時折挟み込まれる鋭い為政者批判は本書の最大の読みどころだ。築地で東京大空襲に触れて曰く「ノモンハンこのかた軍部は敵をあなどり、おのれに驕り、いよいよ本土空襲への対策はバケツリレーに、火叩きに、防空頭巾に、備蓄食糧はポケットにあぶり豆と烏賊の足があれば上等だった。こんないでたちで一夜に十万人が焼け死んだ。およそこの国に払底したもの、先見の明。有り余るもの、短慮。」なんと見事ではないか、今の政治家に聞かせたい言葉だ。また多磨霊園で曰く、「皇国の興廃この一戦にあり(1905)から、各員奮励努力した挙句のはての無条件降伏(1945)まで、わずか四十年間。われらはなんとせっぱつまった時代を、生き急ぎ死に急ぎしてきたことでしょう。この二十世紀前半に、より責任があるべき綺羅星屑のごとき将軍や大臣や博士や富豪たちが、軒を並べてお眠りらしいこのうっとうしさ。云々」これぞ庶民の目線でとらえた昭和史の総括だ。
最後の両国で、関東大震災の犠牲者に思いをはせて曰く、「三十階や二十五階の高層ビルたちも、その死屍累々をこそ礎石として、そびえたっているのですね。単に二十一世紀の新品的景観のみであるのならば、所詮は100メートルや200メートルや600メートルにも立ちのぼる陽炎のごときものに過ぎないのではなかろうか」と。歴史に学ぶという姿勢を欠いた繁栄は砂上の楼閣であるということを現代日本人は肝に銘ずるべきだ。形あるものは壊れ、命あるののは死ぬ、このニヒリズムを意識した上での生というものを認識させられた一冊だった。