読書日記

いろいろな本のレビュー

帰艦セズ 吉村 昭 文春文庫

2023-11-25 15:49:56 | Weblog
 本書は短編集で七編の作品で構成されている。いずれも存在感のある人間の諸相が描かれており、読みごたえがある。私は前から吉村氏の小説の愛読者で、大体の作品は読んだと思う。いずれも綿密な調査に基づいて書かれており、浮ついたところがない。本書の作品は太平洋戦争に従軍した兵士の人間模様を描いたものが多いが、改めて戦争の理不尽さが浮かび上がってくる。

 タイトルになっている『帰艦セズ』は橋爪という男が、戦時中に小樽の山中で死んだ巡洋艦・阿武隈の機関兵・成瀬時夫の消息を追いかけるという話。橋爪も成瀬も逃亡兵だったことが味噌で、当時の軍隊の常識からいえば銃殺相当の犯罪者であるが、橋爪は何とか終戦まで生き延びた。成瀬は巡洋艦・阿武隈の機関兵であったが、小樽に停泊中に外出したが、帰艦するときに官給品の弁当箱を紛失してしまい、懸命に探したが見つからず、乗っていた巡洋艦に戻れず、そのまま小樽の山の中に隠れ住み、ひとり飢えて死んだのだった。弁当箱が人間の命と等価だったのである。官給品は天皇陛下から与えられたものであるから、これを失くせば軍法会議にかけられ重罪が課せられる。そのため成瀬は帰艦できなかったのである。この真相を家族に伝えることの是非も大きな問題としてとらえられている。橋爪が息子の死の真相を母親に告げた時の母親の当惑ぶりが目に浮かぶ。事実を知らせないほうが良かったのではないかと橋爪は悩むのだ。

 戦争の悲劇がここにある。勝ち目のない戦争をアメリカに対して仕掛けた日本は、精神力で勝てと国民を鼓舞したが、それが軍隊にも浸透して弁当箱が一兵士の命と等価であるというゆがんだ思考を作り上げた。兵隊は武士と同じで死んで当たり前という非常にゆがんだ思想を作り上げた。太平洋のあちこちの島で繰り広げられた玉砕戦法をはじめ、神風特攻隊など人命軽視の風はここに極まった感がある。この大日本帝国の軍人が、配属将校となって旧制中学に赴任した話が、第四話の「果物籠」である。

 これは吉村氏の体験に基づいていると思われるが、彼が中学生の時、配属将校として赴任してきた井波中尉が厳しい軍事教練で生徒たちを震え上がらせるという話。中尉は生徒に妥協することなく教練を続け離任するが、戦後同窓会に招待される。その時もあの教育は間違っていなかったと反省するところがない。井波中尉にとってあれは間違っていたといえば、自分のアイデンティティーがなくなるので、できなかったのであろう。これが正しいと信じる、一種の宗教のようなものだ。その後、生徒たちに井波の訃報が入る。心臓麻痺で亡くなったのだ。そして生徒の代表が果物籠を持って弔問に駆けつけるという話。大日本帝国を支えた元軍人のあっけない死。何かむなしさだけが残る。

 他の五編も佳作ぞろいで、吉村氏の力量がいかんなく発揮されている。一読をお勧めする。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。