末光道正のブログ  八尾から日本の政治を変えよう

労働者・市民・学生の団結を強めるコーナーです

新型コロナウイルスパンデミックと地域医療(その3)

2020-05-31 12:33:34 | 新型コロナウイルスパンデミック
今後の展開のためにタイトルの変更を行います。

 1947年といえば戦後革命の真っただ中。ロシア革命の影響を受けていちはやくを結成した西郡地区住民・労働者は、資本主義の最底辺で差別分断と闘いました。
 診療所を建設するなかで団結し、ここを闘いの拠点として、仕事や住宅、保育や教育など、生きるために必要なもの、奪われたあらゆるものを取り戻してきました。
 当時西郡の乳幼児の死亡率は全国平均の2・5倍で、平均寿命は
32、33歳でした。
 1960年まで、この地区だけ上下水道がおきざりにされ、井戸と共同便所が隣り合わせだったのです。東大阪と八尾市の境界にある第二寝屋川が、大雨がふればたちまち氾濫し、西郡に流れ込みました。そのため「ぽったん便所」の汚水が井戸に流れ込み感染症がくりかえし流行していたのです。
 そればかりか、貧しいため(現在に至るも生活保護受給率は八尾市平均の10倍)、新鮮な野菜や果物がとれず、高カロリーの食事に偏っていました。糖尿病にかかるひとが多く(八尾市平均の3倍)免疫力も低下していました。このことが平均寿命を低くしていたのです。
 これはアメリカの新型コロナの死者が貧困層の住む地区に多いことと似ています。
 また世界の60%にあたる40億人が水道がないため手洗いさえできないこともです。

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新型コロナウイルスパンデミックと地域医療(その2)

2020-05-30 20:23:45 | 新型コロナウイルスパンデミック

週一くらいに考えていましたが、ドラマと同じく間延びしそうなので、連続で行きます。

武漢とダイアモンドプリンセス号の封鎖、この二つのニュースを見て、私は1947年の天然痘の大流行と、西郡に対する隔離政策を思い出しました。
当時の八尾市と保健所は、周辺に感染が拡大しないように、住民を村の外に出さず地域を隔離(封鎖)したため、住民は治療をうけられずに200人もの人が亡くなりました。ほとんどが子どもでした。
その悲しみと悔しさから、先達はお金や資材を出しあって、医者も呼んで来て、1951年に西郡平和診療所を建てました。それが現在の八尾北医療センターの前身です。


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新型コロナウイルスパンデミックと地域医療(その1)

2020-05-29 21:27:54 | 新型コロナウイルスパンデミック


私たち医師には、医師会(日本医師会、大阪府医師会、八尾市医師会)から医療に関する通知がFAXされて来ます。「新型コロナウイルスに関連した肺炎の患者の発生について」が送られてきたのが1月9日。その後ほぼ毎日のように数枚のコロナ関係FAXが届き、本日までにざっと350枚。これは例年の約12倍の量です。特別に作り直したファイルも写真のようにはちきれそうになっています。
 

武漢とクルーズ船がマスコミで毎日報道され、ウイルス感染の拡大のあまりの早さに驚きました。私の人生を変える何回目かのできごとです。
普段中国ドラマしかテレビを観ない私ですが、ドラマをやめて(⇒減らして)、報道から情報収集し、即現場の医療に生かすようになりました。

また2月8日に八尾医師会が開いた学術講演会「呼吸器感染症の最近の話題」《関西医科大学内科学第一講座 呼吸器感染症・アレルギー科教授宮下修行先生》にも、「これだけは出ておかないと」と参加。元々のテーマは「インフルエンザ」だったのを、急遽変更されたそうで、思わず「ラッキー」とつぶやきました。
今回のパンデミックを考える上で非常に役に立ちました。


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八尾北医療センターの新しいホームページ

2020-05-28 11:39:17 | 生きる寄る辺・八尾北守り抜こう

写真は今朝の八尾の空。バックに鳥のさえずりがあるのですが、時間がなくて動画をYOUTUBEに載せることはできませんでした。

 久しぶりの文章投稿です。
 若い職員を中心に新しいホームページに挑戦しています。
SNSの話にはなかなかついていけなくて年代の差を感じます。
 
 ブログを始めたときは「毎日更新」を決意したものですが、議員を辞めてからは診療にかかりきりとなってしまいました。 
 「短くても書かないと見てもらえない」とアドバイスがあって、八尾北のことを知ってもらうため、少しずつ書くことにしました。週一回くらいかな!?


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