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本日朝6時14分に母は死去しました。息子としては1月8日の父の命日を越えるか、3月1日の米寿の誕生日を迎えて欲しいと思いながらも、医師としては14日の入院で「あと1週間」と判断していました。会うべき人にはこの1週間にお別れをしてもらいました。病院に向かうときに母が父に言ったのは、もしかして「1週間したら行くから待ってて」だったのでしょうか。
胸水を抜いてもらった翌日はかなり元気になり、食事も少しとれるようになっていました。毎日二回のぞきに行ってマッサージして帰るのですが、ひょっとしたら年を越せるかも・・・。しかし急変したのは木曜日です。意思の疎通がなくなりました。酸素が5L必要になっています。金曜日一度元気になったものの土日は苦しそうで、こちらを見て酸素マスクの下で何か言っていますが聞き取れません。父が最後に言った言葉を思い出しました。「ここまでがんばったからもういいな」
丁度10年前に父も他界しましたが、なんとその経過の似ている事でしょう。二人とも膵臓癌で肺へ転移し、癌性胸膜炎で水を抜きました。いくら仲がいいといってもここまで似なくても・・。
またいっしょになれたね。ほんとにごくろうさま。最大の理解者であった二人に感謝しています。
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土曜日、福万寺の町内会が終わってから、母の所へ。着いたのが午後10時。電気が明々とついたままで、「しんどい。背中がだるい」と母がベッドの上に座って
肩で息をしています。血中酸素は95%もあります。でも足がむくんで、歩くのもふらふらしています。せっかくポータブルトイレを置いてもらったのに、「トイレでする」と頑固です。戻って来たとき酸素は88%に。1.5L/分を2Lに上げて95%になるのに3分もかかりました。意識も混迷しています。
更に筋肉がなくなってマッサージもさするようにしかできません。それでも
「気持ちがいい。ありがとう」と喜んでくれます。なんとか12時位に寝ました。 ところが夜中の2時ごろです。トイレに行って戻って来たときに酸素がはずれていたらしく、濃度は83%。吐き気がして”からえずき”しています。座ったまま1時間くらい「しんどい。しんどい」の連続でした。
朝に1時間説得してやっと入院を決心してくれました。よほどしんどいのでしょう。父の写真に「父ちゃん。一週間入院することになったよ。さびしいやろけど待っててね」と別れを告げて、正午に家を出ました。
診察予約が13時でしたが、緊急の手術が入ったと待たされました。どこも医者が足りなのです。待合室には5人くらいの患者さんが座っています。みんな自分の順番を看護師さんに何度も聞きに行っています。母も私に「しんどい。早く横になりたい」と言いいます。その間救急車が3回来ました。若い医師達がストレッチャーを押しながら「大丈夫ですか。もうすぐですよ。がんばって」と手術室に急ぎます。医師が少ないためにトリアージ(重症度に合わせて治療の順番を決める)が行われています。国の医療費抑制策が医師に過重労働を強い、患者さんを苦しめ、死に追いやっています。政府の官僚達はこの現場を自分の目で見に来るべきだ。つくづく思います。
1時間後に医師が帰ってきて「すみません。救急に追われて遅くなりました。午前の担当がまだ続いているんですよ」と診察です。すぐ撮ったレントゲンを見せてもらいました。左肺が真っ白で胸膜炎と分かりました。水を抜いたら400mlも貯まっていました。全部検査が終わったのは4時頃でしょう。部屋に荷物を運び、枕元には両親のスナップ写真を置きました。看護師さんたちに「また戻ってきました。よろしくお願いします」と挨拶。母は持続点滴が始まっていますがまだ「しんどい。背中がだるい」は変わりません。マッサージをして、「もう帰るの?さびしいなぁ」の声を振り切って8時に帰宅。私もほとんど寝ていないのでバタンキューでした。
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足の力がなくなって、二階に行くことは無理になりました。マッサージをしていて筋肉がどんどんなくなっていくのが分かります。
昨日からポータブルトイレを置いています。ベッドは電動にしてもらいました。
ほとんど食事がとれなくなっています。何を見ても食欲がわかないらしいです。エンシュアリキッド(液体栄養食品)は少し飲めますので、薬をのむときは必ず半分飲もうと勧めました。毎日訪問看護で点滴も始まりました。
昼間の体制は、いろいろな組み合わせをしていただいて見守りも十分にできるようになっています。ヘルパーさんは午前、午後2回。先生も時々往診に来てもらい、リハビリは週1回。薬剤師さんも薬を届けて説明をしてもらます。
母の一番の不安は夜です。東京や京都から妹、義妹、次男夫婦が代わる代わる来て、泊まってくれました。「いもうと達(妹、義妹)が姉孝行してくれたよ。一緒に食事したり寝たりするのはいいもんやね」 そのせいか最近意識ははっきりしています。夜、家族が一緒に寝るのがほんとに安心なのでしょう。夜間の転倒の心配もあり、毎日誰かが泊まることにしました。いずれ入院する必要が出てきますが、本人の希望でもうしばらく自宅でがんばります。
Kさんに頂いた補聴器(聴太郎)で良く聞こえるようになりました。母からありがとうと伝言です。
しばらく画像はFさんの作品です。
わたしの写真の師匠です。
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夕食を済ませて高槻に行きました。8時なのに「まだ食べていないよ」と。薬の副作用で相変わらず食欲がないのかな?それとも私が来るまで食べずに待っていたのかな?案の定「一緒なら食べられる」と言われてもう一度食べる事になりました。すき焼きは少し多めに作ってもらったようです。
玄関には、簡易式の新しい手すりが天井と床を支えてつけられていました。「こんなのつけられると手に頼ってしまう」とやや不満そうです。日曜日にわざわざ父のベッドを降ろしたのに、「足が弱るから二階で寝てる」とは。こちらは転倒や転落が心配なのに。。。
血圧は正常。酸素が88%に下がっていました。じっとしているとなんともないけど、動いたり階段を昇降すると酸素が下がります。常に酸素をつけることにしました。
「携帯の使い方が分からない」 何でもまだできるという気力はありがたいのですが、わたしも母に合わせて変更したばかりで、マニュアルを持ち歩いているくらいです。難しくて当たり前です。
難聴が急速に進行して携帯は一方通行です。パソコンのメールでカバーしてます。薬で集中力が低下しているのでしょう、前日の返信が送信されずに残っていました。「いろんなことができなくなっていますが、あせらない事にしました。神のみむねにまかせて過ごします」 私が言いすぎているのでしょう。今日から言わないようにします。。。
寝る前にマッサージ。「これが待ち遠しかったわ」
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日比谷公園 2008年11月2日
入院していた母が昨日退院しました。食事がとれないための検査入院でしたが、すっかりやせてしまいました。せめてもの親孝行と、毎日15分、一緒に廊下を歩き、足のリハビリをして肩や腰をもんでいましたが、ほとんど筋肉がないのです。
それでも、高槻で一人でがんばるというので、昨日朝から在宅の体制をとってきました。
①二階のベッドを下ろし、緊急通報システムをつけました。
②毎日なんらかのケアがあるようプランを組んでいただきました。
③近くの診療所に往診と訪問看護をお願いしました。
④最後に、携帯電話を契約してホット回線を引きました。
介護保険を使える枠が少ないので、一人暮らしの老人が自宅で生活するのは大変なことです。でもスタッフのみなさんにはほんとに頭が下がります。毎年2200億円の社会保障費を減らす今の国、力を合わせて早急に変えなければいけません。
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母はこの3月で86歳になりました。高槻で一人暮らしです。週3回ヘルパーさんに来てもらって元気にやっています。今日は「お誕生日」と「母の日」を兼ねて両親のお気に入りのお店に食べに行きました。写真は母とお店のママさんです。
10年前に父が他界するまで、二人とも保育士として働いていました。父と同じ膵臓がんが見つかって4年前に八尾の徳洲会病院で手術して退職。昨年肺への転移が見つかって再手術。父が85で亡くなったので「その年まで生きたい」という希望はクリアできました。村上先生をはじめスタッフのみなさんのおかげです。両親の遺伝子を受け継いで私もお世話になる可能性が高いです。
最近耳が遠いのでメールでのやり取りが多くなりました。父の写真に向かって「おいしいもの食べてきたよ」といつまでも仲のいい二人です。