ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

恥とは…

2016-08-10 10:25:12 | 日記・エッセイ・コラム
罪が神への背きなら、
恥とは何だろう。
日本は神国である、
というのは私の持論である。
なら恥も神への背きなのか。
たぶんそうだろう。
・・・・・
日本は多神教である。
八百万(やおよろず)の神様がおられる。
八百万とは多いということの表現だが、
単に多いと言うのではない。
無数・無限ということだ。
つまり神様はいつでもどこにでもおられるのだ。
この世界はそもそも神的なのである。
なにしろ神が創った世界なのだから。
とはいえ、すべてを神的とすれば居心地が悪い。
取り敢えずは俗として扱う。
その上で、時と場所を選んで聖とするのだ。
そしてそこで祈り祀る。
これが安定をもたらす。
この思いが、
神国日本と言う所以である。
・・・・・
古事記・日本書紀は、
神代の時代から神人一体の時代さらに人(天皇)の時代、
と分けて記されている。
分けてはいるが、そこに切れ目はない。
すべて繋がっているのだ。
つまりどこまでも神人一体なのである。
それは何も人だけではない。
すべてのものに当てはまる。
そういう思想である。
日本では死者はすべて神様である。
生きてる者は存在自体は神的なのだが、
そのまま神様とするのではその扱いに困ってしまう。
だからあくまでも人である。
人なのだがその内奥には神が宿っている、
と考える。
生まれる前は正に神の世界に在り、
すべての人がそこからやって来る。
だから生まれた時は神に最も近いところにいる。
三歳の稚児には神が宿る、とはこの故である。
しかして成長するほどに神から遠ざかる。
さりながらまた老いるほどに神に近づく。
そして最後は神のもとに返り、神となる。
まあ、そんなとこである。
・・・・・
日本では、
神は外に在るだけではない。
自身の内奥にも在るのだ。
だから神に問われるとしても、
先ず自身の内奥に問われる。
それはつまり、
問われるというより、
問うということになる。
この「問う」というのがミソである。
ゆえに罪ではなく恥と言う。
キリスト教は自殺を禁じている。
自殺は逃げでしかなく、
神から与えられた命の放棄である。
だから罪なのだ。
武士の切腹は違う。
逃げではなく、証(あかし)である。
放棄ではなく、返却である。
という訳で、
日本は恥の文化であると言うは真に然りであり、
当を得ている。






罪とは…

2016-08-08 09:58:23 | 日記・エッセイ・コラム
罪という字は目の下に非がある。
目とは神の目であり、
その下に非があるということは、
神に背くということである。
それが罪である。
・・・・・
これは聖書的発想である。
人(アダムとイヴ)は神の禁忌を犯し、楽園を追われたという。
それが罪の原点である。
だから原罪という。
欧米はギリシャ・ローマ以前は多神教であった。
それがローマ帝国の時代に一神教のキリスト教に改宗した。
当時のローマはヨーロッパ全域を支配していた。
当然その全域に広がった。
ということで、
キリスト教国となった欧米はその根に聖書がある。
聖書的発想でいえば、人はそもそも罪人である。
欧米は性悪説だと言われるが、
これが一番大きな理由だろう。
だが、この罪は神と人との関係である。
人と人との関係ではどうだろう。
神を抜きにして、その関係性(罪の有無)が論じられるのだろうか。
そこはよく分からない。
すべてを神を絡めているとも言われる。
そのように説明されることが多い。
特に契約の概念がそうだろう。
神との契約の延長で、人との契約も捉えている。
人同士だけでは成り立たないという。
つまり人を信用していないのである。
余談だが、この点はシナ・朝鮮と同様である。
裁判でもそのようだ。
アメリカでは聖書に手を置いて証言をする。
神に誓って嘘はないと。
形だけかも知れないが、そういう形を取らなければならないのだ。
ともかく人を信用しない社会である。
繰り返すが、これはシナ・朝鮮と同じである。
なお余談だが、シナ・朝鮮には契約という概念もない。
彼らは神を持たない者だから。
と言う訳でともかく、
欧米は罪の文化である。
・・・・・
キリスト教は一神教である。
一神教というのは、
私にとっても、彼方にとっても、はたまた他の人にとっても、
神は同じでなければならない。
誰にとっても同じでなければならないのです。
それはつまり、神は外に在るということです。
だからこそ唯一無二を求める。
外に在って唯一無二でなければ、それは最早神とは言えない。
何を言いたいかといえば、
外に在るということです。
あくまで外なのです。
だから人が祈りを通じて問うのは外に対してであり、
結果外から問われることになる。
しかして問われるから罪という。
それが欧米の所謂法治社会の原点です。
つまり、
神を一時的に人にかぶせて、
人が人を問う、
人が人に問われる、
そういう社会なのです。
その時のルールが法律なのです。
罪の文化の欧米人は、
だから法の民である。




菊と刀

2016-08-02 12:45:33 | 日記・エッセイ・コラム
これは本の題名である。
アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトの著作である。
彼女は対日戦に際し、政府から日本研究を委託された。
日本へは来たことがなく、
文献や日本人移民を調査研究し著したものである。
戦争に活かされたかどうかは知らないが、
日本でも戦後に出版された。
・・・・・
その内容をひと言で言えば、
日本は「恥の文化」であり、
欧米は「罪の文化」である、
ということのようだ。
一般的にはそのように流布されている。
もちろん文化のような大きな枠組みを一言で表現するのは難しい。
それに著作に対していろんな意見があるのは世の常だ。
この本にも好意的な意見もあるが批判もある。
私はもともと歴史や文化に興味があったのだが、
この本の内容を知ったとき、
なるほどと感心もし、
外からはそんな風に見えるのかと思った。
どちらにしても、
それほど気には止めなかった。
・・・・・
だが最近なぜか気になっている。
先のフレーズが気になっている。
今の思いに大いに繋がるところがあるのだ。
その鍵は祈りである。
最近なぜか祈りについて考えることが多い。
よく神社に行くせいなのか。
迷いごとが多いせいなのか。
単に歳のせいなのか。
それはともかく、
祈りという鍵で捉えれば、
分かることがある。
なぜなら恥というも罪というも、
その根底にあるのは祈りである。
祈りがあってこそなのだ。
その祈りの向きにより、
罪を意識するか、
恥を意識するか、
に分かれるのだと思う。
・・・・・
彼女も言っていたのだが、
恥を意識するのはどうも少ないらしい。
私の知る限り、
今のところ日本だけである。
だからと言って、
日本が異質だとか、
日本が特別だとは、
思わないが。




8月

2016-08-01 10:22:51 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよ8月である。
原爆投下から終戦に向かった暑い日々である。
お盆という行事と重なっているのも因縁か。
鎮魂の8月である。
とは言え学校は夏休みであり、
子供たちにとっては行動と解放の日々である。
それも大いに結構。
・・・・・
私の親戚には靖国神社に祀られている者はいない。
それでも参拝には何度も行った。
ただ参拝の為だけに行ったことも数回あり。
経済的にも苦しく、
昨今の宿泊事情もあり、
今は行っていない。
その代わりでもあるが終身会員になっている。
それに近所の護国神社にお参りしている。
まあそんなとこです。
・・・・・
靖国神社の由来は少しは知っている。
いわゆる賊軍の人は祀られていない。
官軍であれ賊軍であれ、
日本の為に死んだのなら、
祀られていいと思うのだが。
そうもいかないらしい。
そこは残念である。
さはさりながら、
日本の為に亡くなった武人を祀っているのが、
この神社である。
大東亜戦争では武人といえども、
その多くは庶民であった。
欧米の理不尽に対する怒りはあったろうが、
それは憎悪などではない。
憎悪を持って人を殺すのは殺人である。
それは武人の戦いではない。
覚悟を持って戦うのが武人である。
その典型は硫黄島の戦いだ。
そこには覚悟と祈りがある。
神風特別攻撃隊と同じだ。
まったく変わらない。
・・・・・
にしても、戦争はしてはならない。
言わずもがなである。
靖国に参拝するのは亡くなった方々への鎮魂であるが、
それは彼らの覚悟・祈りへの応答であり、
国を守る覚悟でもってする返礼でもある。
その最良の方法は戦争をしないことです。
だからこそ不戦の誓いでもある。
ことわっても平和ボケの誓いではない。
その底には徹底した覚悟がある。
それが靖国神社への参拝である。
と私は思っている。