罪が神への背きなら、
恥とは何だろう。
日本は神国である、
というのは私の持論である。
なら恥も神への背きなのか。
たぶんそうだろう。
・・・・・
日本は多神教である。
八百万(やおよろず)の神様がおられる。
八百万とは多いということの表現だが、
単に多いと言うのではない。
無数・無限ということだ。
つまり神様はいつでもどこにでもおられるのだ。
この世界はそもそも神的なのである。
なにしろ神が創った世界なのだから。
とはいえ、すべてを神的とすれば居心地が悪い。
取り敢えずは俗として扱う。
その上で、時と場所を選んで聖とするのだ。
そしてそこで祈り祀る。
これが安定をもたらす。
この思いが、
神国日本と言う所以である。
・・・・・
古事記・日本書紀は、
神代の時代から神人一体の時代さらに人(天皇)の時代、
と分けて記されている。
分けてはいるが、そこに切れ目はない。
すべて繋がっているのだ。
つまりどこまでも神人一体なのである。
それは何も人だけではない。
すべてのものに当てはまる。
そういう思想である。
日本では死者はすべて神様である。
生きてる者は存在自体は神的なのだが、
そのまま神様とするのではその扱いに困ってしまう。
だからあくまでも人である。
人なのだがその内奥には神が宿っている、
と考える。
生まれる前は正に神の世界に在り、
すべての人がそこからやって来る。
だから生まれた時は神に最も近いところにいる。
三歳の稚児には神が宿る、とはこの故である。
しかして成長するほどに神から遠ざかる。
さりながらまた老いるほどに神に近づく。
そして最後は神のもとに返り、神となる。
まあ、そんなとこである。
・・・・・
日本では、
神は外に在るだけではない。
自身の内奥にも在るのだ。
だから神に問われるとしても、
先ず自身の内奥に問われる。
それはつまり、
問われるというより、
問うということになる。
この「問う」というのがミソである。
ゆえに罪ではなく恥と言う。
キリスト教は自殺を禁じている。
自殺は逃げでしかなく、
神から与えられた命の放棄である。
だから罪なのだ。
武士の切腹は違う。
逃げではなく、証(あかし)である。
放棄ではなく、返却である。
という訳で、
日本は恥の文化であると言うは真に然りであり、
当を得ている。
恥とは何だろう。
日本は神国である、
というのは私の持論である。
なら恥も神への背きなのか。
たぶんそうだろう。
・・・・・
日本は多神教である。
八百万(やおよろず)の神様がおられる。
八百万とは多いということの表現だが、
単に多いと言うのではない。
無数・無限ということだ。
つまり神様はいつでもどこにでもおられるのだ。
この世界はそもそも神的なのである。
なにしろ神が創った世界なのだから。
とはいえ、すべてを神的とすれば居心地が悪い。
取り敢えずは俗として扱う。
その上で、時と場所を選んで聖とするのだ。
そしてそこで祈り祀る。
これが安定をもたらす。
この思いが、
神国日本と言う所以である。
・・・・・
古事記・日本書紀は、
神代の時代から神人一体の時代さらに人(天皇)の時代、
と分けて記されている。
分けてはいるが、そこに切れ目はない。
すべて繋がっているのだ。
つまりどこまでも神人一体なのである。
それは何も人だけではない。
すべてのものに当てはまる。
そういう思想である。
日本では死者はすべて神様である。
生きてる者は存在自体は神的なのだが、
そのまま神様とするのではその扱いに困ってしまう。
だからあくまでも人である。
人なのだがその内奥には神が宿っている、
と考える。
生まれる前は正に神の世界に在り、
すべての人がそこからやって来る。
だから生まれた時は神に最も近いところにいる。
三歳の稚児には神が宿る、とはこの故である。
しかして成長するほどに神から遠ざかる。
さりながらまた老いるほどに神に近づく。
そして最後は神のもとに返り、神となる。
まあ、そんなとこである。
・・・・・
日本では、
神は外に在るだけではない。
自身の内奥にも在るのだ。
だから神に問われるとしても、
先ず自身の内奥に問われる。
それはつまり、
問われるというより、
問うということになる。
この「問う」というのがミソである。
ゆえに罪ではなく恥と言う。
キリスト教は自殺を禁じている。
自殺は逃げでしかなく、
神から与えられた命の放棄である。
だから罪なのだ。
武士の切腹は違う。
逃げではなく、証(あかし)である。
放棄ではなく、返却である。
という訳で、
日本は恥の文化であると言うは真に然りであり、
当を得ている。