ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

8月

2016-08-01 10:22:51 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよ8月である。
原爆投下から終戦に向かった暑い日々である。
お盆という行事と重なっているのも因縁か。
鎮魂の8月である。
とは言え学校は夏休みであり、
子供たちにとっては行動と解放の日々である。
それも大いに結構。
・・・・・
私の親戚には靖国神社に祀られている者はいない。
それでも参拝には何度も行った。
ただ参拝の為だけに行ったことも数回あり。
経済的にも苦しく、
昨今の宿泊事情もあり、
今は行っていない。
その代わりでもあるが終身会員になっている。
それに近所の護国神社にお参りしている。
まあそんなとこです。
・・・・・
靖国神社の由来は少しは知っている。
いわゆる賊軍の人は祀られていない。
官軍であれ賊軍であれ、
日本の為に死んだのなら、
祀られていいと思うのだが。
そうもいかないらしい。
そこは残念である。
さはさりながら、
日本の為に亡くなった武人を祀っているのが、
この神社である。
大東亜戦争では武人といえども、
その多くは庶民であった。
欧米の理不尽に対する怒りはあったろうが、
それは憎悪などではない。
憎悪を持って人を殺すのは殺人である。
それは武人の戦いではない。
覚悟を持って戦うのが武人である。
その典型は硫黄島の戦いだ。
そこには覚悟と祈りがある。
神風特別攻撃隊と同じだ。
まったく変わらない。
・・・・・
にしても、戦争はしてはならない。
言わずもがなである。
靖国に参拝するのは亡くなった方々への鎮魂であるが、
それは彼らの覚悟・祈りへの応答であり、
国を守る覚悟でもってする返礼でもある。
その最良の方法は戦争をしないことです。
だからこそ不戦の誓いでもある。
ことわっても平和ボケの誓いではない。
その底には徹底した覚悟がある。
それが靖国神社への参拝である。
と私は思っている。






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