ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

政教分離

2024-03-18 20:48:33 | 日記・エッセイ・コラム
この言葉は欧米からの輸入語か?、
安直なカタカナ語ではないのだが。
そも日本には意味不明なものかと。
にもかかわらず、
この手の訴訟が時々顔を出す。
どういう輩かと言えば、
これは言わずもがなか。
裁判所も門前払いは出来ないだろうが、
大方は裁判など必要なきものかと。
神道行事はそも宗教ではなく、
それは生活の中に織り込まれた祈りであり、
生き方の総体としての文化なのだ。
それだけのこと。
てか今の憲法のいかがわしさを思えば、
政教分離と言う屁理屈など朝飯前。
そんな中で持ち出されるのは、
そも訴訟自体に意味などなく、
すること自体が目的なのです。
裁判所もどうかしてる、
・・・・・
欧米は政教一致の世界。
そも宗教社会なのです。
その宗教はキリスト教である。
言わずもがなか。
蛇足だが、
だからこそそこから無神論が出て来る。
既成の秩序への反発として。
それはさておき、
その宗教の根には聖書がある。
そこに神との契約である諫め(十戒)が記されている。
これは法である。
それは聖書の核心部分の一つ。
これが欧米の法の原点にある。
近代法はその延長にあるもの。
であるが、
法を作りそれを施行するのは、
まさに人を仕切ることであり、
政治そのもの。
だからそも政教一致の世界なのだ。
なおこれは欧米だけではない。
中東も同じことかと。
てかこちらは諸に政教一致である。
一寸逸れたが、
例えばだから、
ドイツの主要政党の名称は、
キリスト教民主同盟であり、
キリスト教社会同盟である。
まあ他にもあるのだが。
ちなみに先に言った無神論だが、
これは大方リベラルのこと。
これが出て来たのは何故か、
悲惨な宗教戦争の基にある宗教への反発、
苛烈な階級制度の基である王権への反発、
なお王権神授でこの二つは一体であった。
これがフランス革命の起りに。
これを主導したのは反王権の貴族である。
彼らが言葉巧みに民衆を扇動したのです。
内実は王侯貴族らの内部争い利権争いであった。
そこに民衆を巻き込んだのである。
言葉巧みに民衆を誘導することで。
だからその武器は「言葉」である。
それを以って民衆を「力」とする。
ここに「民主主義」というウソが。
だから革命はなったのです。
そのゆえの結果が政教分離があり、
この言葉にはその故があるのです。
そしてついにリベラルが表に出る。
だから標題のことを問うのはいつも彼らである。
冒頭の「言わずもがな」とはこのこと。
それにしても、
政教分離に限らず、
現下の状況はすべてこの流れ。
まったくもっての相似象で瓜二つ。
言葉巧みではあっても、
言葉自体に意味はなく、
それは専ら手段であり、
目的は他にあるのです。
言葉はマジックの道具にされてるだけ。
してもこれがよく効くのです。
おつむてんてんの偽善者には。
ハイ!
・・・・・
リベラル出現のその根は別にある。
それは聖書の「楽園追放」である。
楽園ではいつでもどこでも神は居ます。
それを私は「かたわら」と言っている。
そこから追放されたら、
神から遠ざかるは必然。
ゆえ遠くに見ることに。
そしてそれは集約する。
だから神は一つになる。
一神教の欠点はゆえ人が争うこと。
我が神だけが神であるとか言って。
そして収拾がつかなくなる。
挙句の果てに、
ついには退けることに。
ここに無神論が起こり、
リベラルが姿を現わす。
そのリベラルの癖が唯物論。
これを取り敢えずの方便とすればいいのだが、
それができないのです。
ここに矛盾が発生する。
世界は「ものごと」で出来ている。
それが根本でありすべてなのだが、
くわえて更なる矛盾がある
彼らの武器は言葉です。
言葉とは「ものごと」の「こと」であり、
これはまさに「こと」の代表なのだ。
なのに唯物論を立てて憚らない。
嘘は一度吐いたら戻れない。
そういう質のものです。
そして今は嘘の闇。
もう戻れまい。
合掌!

コメントを投稿