欧米人は無宗教というのが分からないらしい。
そんな人はいないと思っているようで。
てか宗教は皆持っているものと。
最近はでもないようだが。
てかそこにそも勘違いがあった。
彼らは無宗教=無神論と捉えている節がある。
てか無宗教と無神論は別物なのにです。
でもそうは考えてないようです。
そも宗教とは教(言葉)を宗(尊ぶ)とするもの。
彼らはその教を神の言葉とする。
でも現にあるのは人の言葉です。
元は神の言葉としても現にあるのは人の言葉です。
それを思うのです。
てか私は神の言葉を聞いたことがない。
それがあるとすれば、
(てかそれはある)
それは現に現れた実にこそある。
人がイをシキして現実を見た時、
最初にそれ(神≒言葉)を見る。
ときにあるのは無条件の信仰か、
現実に潜む大いなるその力への。
その力を聖書は(神の)言葉としたのです。
この譬えはいろんな意味で素晴らしい。
それが日本語の「ことば」なら尚。
そのことがよく分かるのです。
であるがそこでである。
宗教の基としての神の言葉だが、
なのに神を捨てる或いは神を忘れるのです、
てかもう一つ、閉じ込めると謂うのもある。
ときに宗教が変質する。
宗の教が神の言葉から人の言葉にかわるのです。
そしてゆえその言葉が暴走する。
このこと現下の世界が示す通り。
・・・・・
そこで勝手ながらに思うのです、
宗教は神への信仰から始まると。
しても人はその神に名を付ける。
ここから実際の宗教が始まるが、
同時にこれが混迷の種にもなる。
宗教はこの因果から出られない。
それはそも言葉の因果なのだが。
思うに「かみ」はすべてである。
なのにそれに名を付ける。
ときにそれは全てではなくなる。
ここに矛盾がある。
そこは一神教も二神教も多神教も同じ。
多神教は多いというだけでなく無数と言うなら、
それはすべてに繋がらるからまだしも。
なら神道はどうか。
これは宗教だとは思っていない。
でも宗教とするならどうだろう。
一般的には多神教と言われてる。
これに異論はない。
でもその多神が有限なら一神二神とかわらない。
てかその多神は無限です。
ゆえ神道を宗教とすれば、
それは多神教ではなく全神教とでも言うべきか。
てかこの言は馴染みがないから多神教でもいいかと。
ということです。
現実の神道はそのようにあるし。
それを想う。
全神教である神道はゆえ一々の言葉には捉われない。
てか言葉に捉われることを嫌う。
だからか教義がない。
だから宗教ではない。
それは生き方の総体である文化と言ってもいい。
てかそれも一寸違う。
てかそれ以前のこと、
それは在り方の根本とでも。
ゆえ人を差別しない、
どころかすべての生き物と対等に在ろうとする。
世に自由平等友愛ってのがある。
これはあくまで人の間でのこと。
てか欧米人には友の間でのこと。
でも神道ではすべてに通じると。
てか自由とは既に言ったとおり。
てか平等はてかてかそのまんま。
友愛とは繋がっているとの認識。
ゆえ日本ではそれを博愛とする。
その心で生きるのが神道である。
そういうものだと思っています。
補足、平等について。
平等とは究極の存在の在り方である。
でも現実は無限の違いでなっている。
そこに「同じ」はないのである。
と思うのだが、
今物理学の最先端では語られている。
もし究極の粒子があるとすれば、
その粒子は完全にフリーかつ自由なもの。
その粒子は皆同じであり、そこから何にでもなれる、
そういう存在であるとか。
存在するものを「もの」と「こと」に分けるが、
それすら最早分けられないもの。
イメージとしては光がその様である。
物理学に無知な私が勝手なことを言ってるようだが、
言いたいことは一つ、
平等とは「同じ」ということではない、ということ。
究極を想定して想像はできても、
決してそれは現実にはならない、
それは現実の奥から出て来ない。
・・・・・
標題に戻る。
ヒトは現実から今そこにある気を受け取る。
それを全細胞の気を結集して対応する。
その気の総体のことを心魂という。
つまり心魂にうつすのである。
しかしてそれに応えて口から声として出す。
その過程で脳に「念(今の心)」がつくられる。
この念(波動)は自己の中で何度も何度も反復する。
それがときに私を表舞台に出す。
思うに最初に出す声は受け取った気(波動)へのまこと。
ときの声はまことにまことで返すもの。
ときの心魂を鏡に譬えれば、
歪みの無いフラットなもの。
これがあの祀られている鑑、
明鏡止水あかるくもフラットに写すあの鑑です。
天照大神が天下る孫の瓊瓊杵尊に与えたもので、
この鏡を我を見るように拝めと。
この我とは天照大神であるが同時に私でもある。
ときのその心魂には「まこと」がうつるのです。
その鑑(心魂)を祀って拝めと。
てか勝手ながら私はそう思っている。
てかここでも日本語の素晴らしさが。
うつす、とはオトであるが、
それは写すとも映すとも移すとも書けるのです。
音は音として絵は絵としてそのイのシキをする。
いつものことだが、それを又思うのです。
てかこの項の初めのつづき、、
最初にイをシキして現実を見たときの心、
ときの心で応答すれば、それはまこととまことの応酬となる。
だからです、
その心で木や花に向えば、木や花とも会話ができる。
そこにある自然のすべてと会話ができる。
でも神の事の場を見失えば、
人の言葉に絡めとられれば、
そこは陰影もイロも消えた無機質な世界となる。
今そんな世界になろうとしてる。
宗教を信仰を守る盾とするなら、
宗教が本来の盾に戻るなら、
世界はまた開かれる。
それも新たな世界が。
うん!
そんな人はいないと思っているようで。
てか宗教は皆持っているものと。
最近はでもないようだが。
てかそこにそも勘違いがあった。
彼らは無宗教=無神論と捉えている節がある。
てか無宗教と無神論は別物なのにです。
でもそうは考えてないようです。
そも宗教とは教(言葉)を宗(尊ぶ)とするもの。
彼らはその教を神の言葉とする。
でも現にあるのは人の言葉です。
元は神の言葉としても現にあるのは人の言葉です。
それを思うのです。
てか私は神の言葉を聞いたことがない。
それがあるとすれば、
(てかそれはある)
それは現に現れた実にこそある。
人がイをシキして現実を見た時、
最初にそれ(神≒言葉)を見る。
ときにあるのは無条件の信仰か、
現実に潜む大いなるその力への。
その力を聖書は(神の)言葉としたのです。
この譬えはいろんな意味で素晴らしい。
それが日本語の「ことば」なら尚。
そのことがよく分かるのです。
であるがそこでである。
宗教の基としての神の言葉だが、
なのに神を捨てる或いは神を忘れるのです、
てかもう一つ、閉じ込めると謂うのもある。
ときに宗教が変質する。
宗の教が神の言葉から人の言葉にかわるのです。
そしてゆえその言葉が暴走する。
このこと現下の世界が示す通り。
・・・・・
そこで勝手ながらに思うのです、
宗教は神への信仰から始まると。
しても人はその神に名を付ける。
ここから実際の宗教が始まるが、
同時にこれが混迷の種にもなる。
宗教はこの因果から出られない。
それはそも言葉の因果なのだが。
思うに「かみ」はすべてである。
なのにそれに名を付ける。
ときにそれは全てではなくなる。
ここに矛盾がある。
そこは一神教も二神教も多神教も同じ。
多神教は多いというだけでなく無数と言うなら、
それはすべてに繋がらるからまだしも。
なら神道はどうか。
これは宗教だとは思っていない。
でも宗教とするならどうだろう。
一般的には多神教と言われてる。
これに異論はない。
でもその多神が有限なら一神二神とかわらない。
てかその多神は無限です。
ゆえ神道を宗教とすれば、
それは多神教ではなく全神教とでも言うべきか。
てかこの言は馴染みがないから多神教でもいいかと。
ということです。
現実の神道はそのようにあるし。
それを想う。
全神教である神道はゆえ一々の言葉には捉われない。
てか言葉に捉われることを嫌う。
だからか教義がない。
だから宗教ではない。
それは生き方の総体である文化と言ってもいい。
てかそれも一寸違う。
てかそれ以前のこと、
それは在り方の根本とでも。
ゆえ人を差別しない、
どころかすべての生き物と対等に在ろうとする。
世に自由平等友愛ってのがある。
これはあくまで人の間でのこと。
てか欧米人には友の間でのこと。
でも神道ではすべてに通じると。
てか自由とは既に言ったとおり。
てか平等はてかてかそのまんま。
友愛とは繋がっているとの認識。
ゆえ日本ではそれを博愛とする。
その心で生きるのが神道である。
そういうものだと思っています。
補足、平等について。
平等とは究極の存在の在り方である。
でも現実は無限の違いでなっている。
そこに「同じ」はないのである。
と思うのだが、
今物理学の最先端では語られている。
もし究極の粒子があるとすれば、
その粒子は完全にフリーかつ自由なもの。
その粒子は皆同じであり、そこから何にでもなれる、
そういう存在であるとか。
存在するものを「もの」と「こと」に分けるが、
それすら最早分けられないもの。
イメージとしては光がその様である。
物理学に無知な私が勝手なことを言ってるようだが、
言いたいことは一つ、
平等とは「同じ」ということではない、ということ。
究極を想定して想像はできても、
決してそれは現実にはならない、
それは現実の奥から出て来ない。
・・・・・
標題に戻る。
ヒトは現実から今そこにある気を受け取る。
それを全細胞の気を結集して対応する。
その気の総体のことを心魂という。
つまり心魂にうつすのである。
しかしてそれに応えて口から声として出す。
その過程で脳に「念(今の心)」がつくられる。
この念(波動)は自己の中で何度も何度も反復する。
それがときに私を表舞台に出す。
思うに最初に出す声は受け取った気(波動)へのまこと。
ときの声はまことにまことで返すもの。
ときの心魂を鏡に譬えれば、
歪みの無いフラットなもの。
これがあの祀られている鑑、
明鏡止水あかるくもフラットに写すあの鑑です。
天照大神が天下る孫の瓊瓊杵尊に与えたもので、
この鏡を我を見るように拝めと。
この我とは天照大神であるが同時に私でもある。
ときのその心魂には「まこと」がうつるのです。
その鑑(心魂)を祀って拝めと。
てか勝手ながら私はそう思っている。
てかここでも日本語の素晴らしさが。
うつす、とはオトであるが、
それは写すとも映すとも移すとも書けるのです。
音は音として絵は絵としてそのイのシキをする。
いつものことだが、それを又思うのです。
てかこの項の初めのつづき、、
最初にイをシキして現実を見たときの心、
ときの心で応答すれば、それはまこととまことの応酬となる。
だからです、
その心で木や花に向えば、木や花とも会話ができる。
そこにある自然のすべてと会話ができる。
でも神の事の場を見失えば、
人の言葉に絡めとられれば、
そこは陰影もイロも消えた無機質な世界となる。
今そんな世界になろうとしてる。
宗教を信仰を守る盾とするなら、
宗教が本来の盾に戻るなら、
世界はまた開かれる。
それも新たな世界が。
うん!