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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

宗教

2025-07-28 09:14:51 | 日記・エッセイ・コラム
欧米人は無宗教というのが分からないらしい。
そんな人はいないと思っているようで。
てか宗教は皆持っているものと。
最近はでもないようだが。
てかそこにそも勘違いがあった。
彼らは無宗教=無神論と捉えている節がある。
てか無宗教と無神論は別物なのにです。
でもそうは考えてないようです。
そも宗教とは教(言葉)を宗(尊ぶ)とするもの。
彼らはその教を神の言葉とする。
でも現にあるのは人の言葉です。
元は神の言葉としても現にあるのは人の言葉です。
それを思うのです。
てか私は神の言葉を聞いたことがない。
それがあるとすれば、
(てかそれはある)
それは現に現れた実にこそある。
人がイをシキして現実を見た時、
最初にそれ(神≒言葉)を見る。
ときにあるのは無条件の信仰か、
現実に潜む大いなるその力への。
その力を聖書は(神の)言葉としたのです。
この譬えはいろんな意味で素晴らしい。
それが日本語の「ことば」なら尚。
そのことがよく分かるのです。
であるがそこでである。
宗教の基としての神の言葉だが、
なのに神を捨てる或いは神を忘れるのです、
てかもう一つ、閉じ込めると謂うのもある。
ときに宗教が変質する。
宗の教が神の言葉から人の言葉にかわるのです。
そしてゆえその言葉が暴走する。
このこと現下の世界が示す通り。
・・・・・
そこで勝手ながらに思うのです、
宗教は神への信仰から始まると。
しても人はその神に名を付ける。
ここから実際の宗教が始まるが、
同時にこれが混迷の種にもなる。
宗教はこの因果から出られない。
それはそも言葉の因果なのだが。
思うに「かみ」はすべてである。
なのにそれに名を付ける。
ときにそれは全てではなくなる。
ここに矛盾がある。
そこは一神教も二神教も多神教も同じ。
多神教は多いというだけでなく無数と言うなら、
それはすべてに繋がらるからまだしも。
なら神道はどうか。
これは宗教だとは思っていない。
でも宗教とするならどうだろう。
一般的には多神教と言われてる。
これに異論はない。
でもその多神が有限なら一神二神とかわらない。
てかその多神は無限です。
ゆえ神道を宗教とすれば、
それは多神教ではなく全神教とでも言うべきか。
てかこの言は馴染みがないから多神教でもいいかと。
ということです。
現実の神道はそのようにあるし。
それを想う。
全神教である神道はゆえ一々の言葉には捉われない。
てか言葉に捉われることを嫌う。
だからか教義がない。
だから宗教ではない。
それは生き方の総体である文化と言ってもいい。
てかそれも一寸違う。
てかそれ以前のこと、
それは在り方の根本とでも。
ゆえ人を差別しない、
どころかすべての生き物と対等に在ろうとする。
世に自由平等友愛ってのがある。
これはあくまで人の間でのこと。
てか欧米人には友の間でのこと。
でも神道ではすべてに通じると。
てか自由とは既に言ったとおり。
てか平等はてかてかそのまんま。
友愛とは繋がっているとの認識。
ゆえ日本ではそれを博愛とする。
その心で生きるのが神道である。
そういうものだと思っています。
補足、平等について。
平等とは究極の存在の在り方である。
でも現実は無限の違いでなっている。
そこに「同じ」はないのである。
と思うのだが、
今物理学の最先端では語られている。
もし究極の粒子があるとすれば、
その粒子は完全にフリーかつ自由なもの。
その粒子は皆同じであり、そこから何にでもなれる、
そういう存在であるとか。
存在するものを「もの」と「こと」に分けるが、
それすら最早分けられないもの。
イメージとしては光がその様である。
物理学に無知な私が勝手なことを言ってるようだが、
言いたいことは一つ、
平等とは「同じ」ということではない、ということ。
究極を想定して想像はできても、
決してそれは現実にはならない、
それは現実の奥から出て来ない。
・・・・・
標題に戻る。
ヒトは現実から今そこにある気を受け取る。
それを全細胞の気を結集して対応する。
その気の総体のことを心魂という。
つまり心魂にうつすのである。
しかしてそれに応えて口から声として出す。
その過程で脳に「念(今の心)」がつくられる。
この念(波動)は自己の中で何度も何度も反復する。
それがときに私を表舞台に出す。
思うに最初に出す声は受け取った気(波動)へのまこと。
ときの声はまことにまことで返すもの。
ときの心魂を鏡に譬えれば、
歪みの無いフラットなもの。
これがあの祀られている鑑、
明鏡止水あかるくもフラットに写すあの鑑です。
天照大神が天下る孫の瓊瓊杵尊に与えたもので、
この鏡を我を見るように拝めと。
この我とは天照大神であるが同時に私でもある。
ときのその心魂には「まこと」がうつるのです。
その鑑(心魂)を祀って拝めと。
てか勝手ながら私はそう思っている。
てかここでも日本語の素晴らしさが。
うつす、とはオトであるが、
それは写すとも映すとも移すとも書けるのです。
音は音として絵は絵としてそのイのシキをする。
いつものことだが、それを又思うのです。
てかこの項の初めのつづき、、
最初にイをシキして現実を見たときの心、
ときの心で応答すれば、それはまこととまことの応酬となる。
だからです、
その心で木や花に向えば、木や花とも会話ができる。
そこにある自然のすべてと会話ができる。
でも神の事の場を見失えば、
人の言葉に絡めとられれば、
そこは陰影もイロも消えた無機質な世界となる。
今そんな世界になろうとしてる。
宗教を信仰を守る盾とするなら、
宗教が本来の盾に戻るなら、
世界はまた開かれる。
それも新たな世界が。
うん!

自由

2025-07-21 09:33:14 | 日記・エッセイ・コラム
日本人はフリーダムと言う言葉を自由と訳した。
自由と謂う熟語はときに創られたか、
それとも元々あったのかは知らない。
でもその言葉を訳語としたのである。
私はフリーダムを知らない。
どういう意味であるのかを。
でも自由は分かる。
だからそれを通して知っているつもりだった。
でもちょっと違うような気がしてる。
まあ訳語とはそう謂うものではある。
微妙なところは違うものである。
最近はハッキリそう思っている。
フリーダムを知らないのにです。
しても自由とは分かり易い。
それは「じゆう」であるが、
それが「自由」であるから。
音と絵の両方があるからで、
その意味が取り易いのです。
それにしても、
フリーダムを自由と訳したのは慧眼である。
私はフリーダムは知らないと言ったが、
それはその歴史を知らないからである。
思うにその根本は違っていないと、
そこに至るまでの経緯が異なるが、
てかそれがその違いを生むことに。
ハイ!
・・・・・
フリーとは繋いでいるものから離れること。
その究極はすべてのものから離れることに。
そのとき繋いでいたものがすべて消えてしまう。
そしてそれだけが世界になるの世界。
してもこれは実際の物事の世界ではありえない。
そもすべての物事は繋がっている。
ゆえそれは幻想でしかない。
無いものを有るとする世界。
言葉はそれをも創るのです。
てかフリーを知らないのに何を言っている、
てか知らないから自由なのである。
自由と謂うがなら自由とは。
てか字義の通りで、おのれの由である。
他は知らず、私がそう思うということ。
私がそう思うからそれはそうなのです。
そういう世界である。
フリーとどこが違うのか?
てかフリーとはすべての繋がりを消すこと。
てか自由はすべての繋がりを認めるのです、
そしてその中で自分を見つけて自分を知る、
時と所の現実のなかで。
あるがままなるがままを良しとする心、
ときに心は自由になる。
現実は何も変わらなくとも心は自由になる。
ここまでならこれらは一見似て非なるもの。
でも究極は同じものだとも。
ということだが、
自分で言っておいて何だかよく分からない。
ゆえ違う角度から言い直す。
自由とは自分を認め自分を知ること。
例えば身体(これはもの)、
その構造とゆえの動かし方、
それを熟知しなお鍛えれば、
ときに身体の自由を得ると。
例えば心魂(これはこと)、
全身全霊で心魂の気を発し、
目の前の現実に対峙すれば、
ときに行動への心が定まる。
その在り方が自由そのもの。
てかここに言葉がある。
てか人間は言葉を持ってしまった。
てか言葉は素晴らしいもの、
てか言葉には凄い力がある。
てかゆえ言葉には罠がある。
言葉は心魂が全身全霊で発した気の波動、
その波動は必ず心魂に帰る、
ときにそれが心魂をも縛る、
それが自由を縛ってしまう、
ということがしばしば起る。
でも自由はそれをも心得る。
自由には解毒剤もあるのだ。
それは場の自分を見るから。
ところでフリーのこと。
フリーは縛りを断ち切るものです。
そして私が世界になって動かない。
帰ってきた言葉は実は私でもある。
ゆえそれは断ち切れないのである。
フリーはそこはフリーになれないのです。
なんたる皮肉。
これが今次世界に於ける阿鼻叫喚の因である。
てか大層な物言いではある。
でも何度でも言うが、
これは私の言葉遊び、
ご容赦を。
・・・・・
それにしても日本語は不思議な言語である。
欧米語シナ語あるいは朝鮮語などと違って。
それはすぐれて音霊であり、
同時に絵霊でもあるのです。
ゆえ漢字は日本の文字だと言うのです。
言葉という文字がそれを端的に示している。
言の葉は事の端でもあり、それは事の場にある。
絵や元の音が少し違っていても、
すべて同じ音(ことば)になる。
日本人はその「ことば」に生きている。
このことは日本語でないと分からない。
この「ことば」はまだ宗教や哲学が起こる前の言葉、
その「ことば」に生きている、のです。
てか日本人の信仰がここに始まるなら、
てか日本人が無宗教なのは当然のこと。
ところで、
フリーダムと自由は根本は同じだとも。
量子の世界へ行ったら、なおその奥に行ったら、
それはそうなのだろう、と。
量子論を知らないのにです。
てか言葉自体がそこにあるのかも。
私には私が思うように世界はある、
それは私の體の感覚が捉えたもの、
その目や耳などの器官とその感覚、
それは私がつくったものではない、
それは私を創ったものがつくった、
そのことを思うのです。
それを疑う必要はない、
あるがままなるがまま、
そこに私の自由がある。
それはそうなのですが、
ハテ?

問う

2025-07-14 09:07:43 | 日記・エッセイ・コラム
生物は現実から生まれ現実に生きる。
現実とは現に在る実(ものごと)のこと。
時と所の現に在る実(ものごと)のこと。
初めに現実があり、そこに命が現れる。
この順序は鶏か卵かではない。
言わずもがな、てか念のため。
そしてその體が持つ全身(もの)全霊(こと)を駆使して生きる。
そしてその命はその種を生きその個を生きる。
その命にとって主体(私)はあっても、
私が在って世界があるのではない。
世界が在って私が在るのです。
私もその一部ではあるが。
それを想うのです。
当然てかそう思う。
・・・・・
生物は全身全霊で現実に向き合う。
そこで生きるからには現実をシキしている。
それは当然のこと。
でもイをシキしている訳ではない。
それを無意識というが、
これは無の意識でなく、これは無意の識である。
つまり意識が無いのではなく、
つまり意のない識なのである。
てかいつもの言葉遊び。
ヒトが言葉を持つ経緯はまったく分からないが、
言葉がどういうものかはある程度。
ヒトは言葉を持って人間になった。
それは現実をイをもってシキして生きるがゆえ。
これはこの地では人間だけである。
他の地にはいても不思議はないが。
てか言葉の初めはただの印である。
このことだけなら大したことではない。
でもこれはこれだけでは留まらないのです。
印がどんどん増えていくのである。
これには勿論限界がある。
しても入替は自由である。
それにこれが凄いことなのだが、
それら印は自ずと繋がることで、
その組み合わせがもう変幻自在、
それが際限なきアヤを生み出す。
これが文化文明を育てる。
してもこれは言葉が持つその質による。
言葉はその印を以って意思疎通を諮るもの、
為に言葉は先ずは問いそしてそれに答える。
これは言葉の基本的作法である。
ここに大きな力が生れる。
だからの表題の問うです。
てか意思疎通を諮るとはいえ、
これは一般的には他者との間のことである。
でも思えば分かるだろう、
その前には必ず自分に問うている、
それが無意識であっても。
一般的にはこれを自問自答という。
てかこれが「考える」ということ。
人間は考える葦である、とは何処かの誰かが言った。
考える猿と言ったほうが実相だが、
これでは興趣に欠けるか。
にしても思うのです、
人間は自分に問う生き物であると。
そしてこれが人間たるの決定的な力となる。
でもこれこそが私を突出させるのです。
他者との意思疎通の場合は概ねその場限り。
それがオトとしての言葉の真骨頂。
でも自問自答の場合は際限なく続けられる。
私と私のキャッチボールはね。
そこでまた浮かぶのです。
何処かで誰かが言った言、我思う故に我あり、です。
この言はズバリこのことを指しているのか。
私と私の問答の中で私が私を見てのつぶやきか。
そう言うことだと思うが、
その内どこかで会ったら聞いてみよう、
あのデカルトさんに。
てかもうちょっと先になるが。
・・・・・
ちなみにここで又想うのです、
標題の問うとは少し離れるが、
言葉にあるもうひとつの特徴、
それは現実の後追いであるということ。
音である言葉は波動でありその場限り。
その波動が脳に刻まれて初めて言葉になる、
その場限りのものが脳に留まるのです。
ときの今の心として、それが念である。
人は尚それを盤石にするため、
書き言葉(文字)をつくった。
そんなこんなで言葉は大きな力を持つ。
してもそれは使い方を違えれば災いをもたらす。
ゆえ言葉には陥穽があると言うのです。
だからである、
言葉のその質を知ろうと、
それを知らねばと。
言葉を以ってなお言葉に捉われず、
まことたる現実を捉える人の言葉、
虚構たる言葉のその構えを糺せば、
ときに言葉は「まこと」ととなる。
これが神の言葉ならば、それは無から有を創る。
人の言葉はそこまでは無理だろう。
ちなみに量子論はその辺りのことを言っているのか。
科学的には無作法で、
よく分かりませんが、
私はそう思うのです。

以下は蛇足。
物と事の究極の境いに至れば、
そこでは事は自由になるのか。
てか物は事の側面に縛られず、
てか事は物の側面に縛られず、
てか物事は完全に一体化して、
ときにまったきフリーになる。
多分その向こうに神様がいる。
てか私の體がそう言っている。
うん!

宗教のもとい

2025-07-07 09:30:37 | 日記・エッセイ・コラム
人間は神に出会っている。
種としても、個としても。
それはその種の登場直後、
それはその個の誕生直後。
ときにヒトは人類になり人間になった。
それは言葉を持つ直前直後の狭間にて。
その短くもあり長くもあるそのときに。
そもヒトは神の事の場に現れたイのチ。
他のイのチと共にまんまにそこに在る。
でもなにゆえか神に出会ってしまった。
これがヒトに言葉を持たせた。
てかでもこれ鶏か卵かの話し。
正にミステリーの最たるもの。
そもイのチはその時と所に生きる。
ゆえ時と所の場の空気を一身に浴びる。
生きるとはその空気を全身全霊で捉えるもの。
生きるとはその空気を體と魂とで捉えること。
それを言葉を持った人間は空気を読むと言う。
言葉は詠むもの歌うもの語るもの。
ここに人間の所以がある。
表向きは人間の所以は言葉である。
しても本当の所以は言葉ではない。
言葉はその結果なのです。
その所以は體と魂の振るえにある。
それが言葉を創るのです。
存在の基底にあるエネルギーによって。
これは存在の如何に関わらずあるもの。
それを気という。
・・・・・
言葉は人間の人間たる所以だが、
それは表向きであるとも言った。
ゆえにか言葉には大きな陥穽が潜む。
ひとつ、それは我を突出させる。
ひとつ、それは現実の後を追うだけ。
場の空気を読むのは命の倣いである。
そもそれは全身全霊で行うもの。
ときに人間はそれを脳に任せる。
てか言葉に頼り言葉で問うのだ。
ときに問う自分が前面且全面に出る。
ゆえ我が突出するのです。
てか言葉が後追いなのは自明のこと。
結果として脳に貼り付けられるゆえ。
これらが陥穽となる。
てか言葉は本来波動(オト)である。
これは事実上同時でその場限り。
ときの言葉は後追いではないと。
でもそれは脳に刻まれるのです。
そこから本当の後追いが始まる。
てか後追いが悪い訳ではありません。
てかそれが人類の文化文明を育てる。
要は使いようなのである。
人の事の場は神の事の場の影を捉えるが、
しても何処まで行っても影は影、
ゆえに不安と困惑がはなれない。
これは鎮めねばならない。
ための方途が必要になる。
そのひとつが祈りである。
そのひとつが悟りである。
でも本命は祈りであろう。
悟りは難しいのです。
問題はイをシキしたことから始まったのです。
祈りは人の事の場を神の事の場に重ねるもの、
言葉を神の事の場に奉じて委ねる所作である。
これは囚われの心を開放するもの。
悟りはそこが難しい。
悟ろうとすればするほどシキが離れない。
ゆえこれは専ら體に問うものかと。
それを修行と言っている。
ときに生死の狭間を彷徨うほどの荒行に。
てか特に修業でなくともあり得るか。
生死の境を見たならばね。
ときに執着が薄まって悟りが開くか。
てかそこまでしなくとも出来るかも。
それは虫(無私)の心で生きればね。
坦々とムシの心でね。
お坊さんはこれも修業らしい。
日々の生活の習いを坦々とこなすことが。
にしても言うは易し行なうは難し。
まあ凡人には難しい。
てか祈りの方がいい。
折に触れそこかしこで祈るのがいい。
てか日々を祈りの中ですごすなら、それが一番か。
大きな声では言えないが、
日本文明にはてか日本語には、
このエッセンスが詰まっています、
言語そのものがそも宗教書の如くある。
これはここだけの話、
てか話はあのねのね。
・・・・・
私は宗教には毒がある、とずっと言ってきた。
でもこれはむしろ言葉にある陥穽のこと、
宗教は教であるからこれを回避できない。
思えば祈りや悟りは言葉以前に戻ること。
ゆえそこには陥穽はない。
でもこれを人間は言葉にする。
祈りや悟りを高めようとして。
思えばこれが矛盾なのである、
これが人間には避けられない。
でもこれだけなら問題はない。
これを時と所に留めればだが。
てか絶対化するのが危険なのです。
しても所謂宗教はこれを免れない。
それは教だから宗の教だから。
ということだが、
なかでも一神教が危うい。(原理主義に陥りやすい)
神を捨てた一神教も同じ。(これをリベラルと謂う)
てか神を捨ててるからなおのこと危うい。
神を忘れた宗教も危うい。(これを中華思想と謂う)
てかこれは神を捨てた一神教と同じようだが、
まあ同じですが、
そこにイのシキすらなく、
箸にも棒にも掛からない、
最悪のものです。
という訳で宗教は取扱注意である。
してもこれは実は言葉だからだが。
てかここに言葉を盾に鉾にしないものがある。
在るがまま成るがままを良しとしての生き方。
それがここにある。
ずっとここにある。
それを知ろう。
うん、