ヤマトは大和と記す。
これがよく分からない。
倭とも記すが、これは蔑称である。
とはいえ特に抵抗はない。
漢字の半分は当て字である。
訓読みがそうである。
大和も当て字に違いない。
その意味は「大いに和する」ということか。
それをヤマトと読んでいる。
倭もヤマトと読む。
ワとも読む。
ワは音読みである。
ということは、
そもそも自分の国をワと言ってたのか。
だから倭という字を当てられたのか。
これもよく分からない。
でも倭と和は音は一緒である。
ということは、
日本人が倭という字を嫌って和に替えたのか。
たぶんそうだろう。
和だけでもヤマトだろうが、
その前に大を付けてヤマトとしたのだ。
なら、音としてのワとヤマトの関係は?
さっぱり分からない。
日本と記して、ヤマトとも読む。
これも当て字だが。
・・・・・
大和心はワに通じるのだろう。
聖徳太子の十七条の憲法にも記されている。
「和をもって尊しとなす」、
「何事も一人で決めない」とか。
ワの訓読みなら輪という字がある。
これなら辻褄が合う。
輪になって和やかに話し合う、ということで。
だから合議制なのか。
とはいっても勿論一般民衆は埒外であり、
それは主たる者(長)の寄合ではある。
それにしても非常に民主主義的なのである。
なぜこのようなことができたのか。
当時は今のような言葉(概念)はない。
例えば民主主義や人権等々。
なら、やはり和という言葉が鍵なのだろう。
日本人の心といえば、所謂大和心である。
本居宣長も和歌で詠っている。
だから知りたい、
和という言葉に対する当時の思いを。
でも今の感覚でしか分からない。
それがもどかしい。
・・・・・
私なりに思うところはある。
あくまでも今の感覚でだが。
本居宣長は「もののあわれ」と言っている。
茶の湯では「わび」「さび」という言葉が有名である。
これは千利休である。
私にはこれらは神道の精神のように思える。
すなわち「神ながらの道」「自然(じねん)の道」である。
ここで、道という言葉に注目する。
道という言葉が鍵だと思っている。
道とは自分の目の前に延びている。
線ではあるが、幅があるのである。
そこを通って行く。
それが生きるということだと。
道を行くということは、
その心は、
自分に問うことであり、
自分の内奥を通して神と向き合うことであり、
神への祈りである。
しかして道を外さず生きていく、
それが道の義(道義)、道の理(道理)、道の徳(道徳)であり、
人の道(人道)である。
道を外れれば、それを外道という。
さりながら外道も道である。
道の外にも道があるのだ。
日本は懐が深い。
そんなことを思う。
これがよく分からない。
倭とも記すが、これは蔑称である。
とはいえ特に抵抗はない。
漢字の半分は当て字である。
訓読みがそうである。
大和も当て字に違いない。
その意味は「大いに和する」ということか。
それをヤマトと読んでいる。
倭もヤマトと読む。
ワとも読む。
ワは音読みである。
ということは、
そもそも自分の国をワと言ってたのか。
だから倭という字を当てられたのか。
これもよく分からない。
でも倭と和は音は一緒である。
ということは、
日本人が倭という字を嫌って和に替えたのか。
たぶんそうだろう。
和だけでもヤマトだろうが、
その前に大を付けてヤマトとしたのだ。
なら、音としてのワとヤマトの関係は?
さっぱり分からない。
日本と記して、ヤマトとも読む。
これも当て字だが。
・・・・・
大和心はワに通じるのだろう。
聖徳太子の十七条の憲法にも記されている。
「和をもって尊しとなす」、
「何事も一人で決めない」とか。
ワの訓読みなら輪という字がある。
これなら辻褄が合う。
輪になって和やかに話し合う、ということで。
だから合議制なのか。
とはいっても勿論一般民衆は埒外であり、
それは主たる者(長)の寄合ではある。
それにしても非常に民主主義的なのである。
なぜこのようなことができたのか。
当時は今のような言葉(概念)はない。
例えば民主主義や人権等々。
なら、やはり和という言葉が鍵なのだろう。
日本人の心といえば、所謂大和心である。
本居宣長も和歌で詠っている。
だから知りたい、
和という言葉に対する当時の思いを。
でも今の感覚でしか分からない。
それがもどかしい。
・・・・・
私なりに思うところはある。
あくまでも今の感覚でだが。
本居宣長は「もののあわれ」と言っている。
茶の湯では「わび」「さび」という言葉が有名である。
これは千利休である。
私にはこれらは神道の精神のように思える。
すなわち「神ながらの道」「自然(じねん)の道」である。
ここで、道という言葉に注目する。
道という言葉が鍵だと思っている。
道とは自分の目の前に延びている。
線ではあるが、幅があるのである。
そこを通って行く。
それが生きるということだと。
道を行くということは、
その心は、
自分に問うことであり、
自分の内奥を通して神と向き合うことであり、
神への祈りである。
しかして道を外さず生きていく、
それが道の義(道義)、道の理(道理)、道の徳(道徳)であり、
人の道(人道)である。
道を外れれば、それを外道という。
さりながら外道も道である。
道の外にも道があるのだ。
日本は懐が深い。
そんなことを思う。