ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

罪とは…

2016-08-08 09:58:23 | 日記・エッセイ・コラム
罪という字は目の下に非がある。
目とは神の目であり、
その下に非があるということは、
神に背くということである。
それが罪である。
・・・・・
これは聖書的発想である。
人(アダムとイヴ)は神の禁忌を犯し、楽園を追われたという。
それが罪の原点である。
だから原罪という。
欧米はギリシャ・ローマ以前は多神教であった。
それがローマ帝国の時代に一神教のキリスト教に改宗した。
当時のローマはヨーロッパ全域を支配していた。
当然その全域に広がった。
ということで、
キリスト教国となった欧米はその根に聖書がある。
聖書的発想でいえば、人はそもそも罪人である。
欧米は性悪説だと言われるが、
これが一番大きな理由だろう。
だが、この罪は神と人との関係である。
人と人との関係ではどうだろう。
神を抜きにして、その関係性(罪の有無)が論じられるのだろうか。
そこはよく分からない。
すべてを神を絡めているとも言われる。
そのように説明されることが多い。
特に契約の概念がそうだろう。
神との契約の延長で、人との契約も捉えている。
人同士だけでは成り立たないという。
つまり人を信用していないのである。
余談だが、この点はシナ・朝鮮と同様である。
裁判でもそのようだ。
アメリカでは聖書に手を置いて証言をする。
神に誓って嘘はないと。
形だけかも知れないが、そういう形を取らなければならないのだ。
ともかく人を信用しない社会である。
繰り返すが、これはシナ・朝鮮と同じである。
なお余談だが、シナ・朝鮮には契約という概念もない。
彼らは神を持たない者だから。
と言う訳でともかく、
欧米は罪の文化である。
・・・・・
キリスト教は一神教である。
一神教というのは、
私にとっても、彼方にとっても、はたまた他の人にとっても、
神は同じでなければならない。
誰にとっても同じでなければならないのです。
それはつまり、神は外に在るということです。
だからこそ唯一無二を求める。
外に在って唯一無二でなければ、それは最早神とは言えない。
何を言いたいかといえば、
外に在るということです。
あくまで外なのです。
だから人が祈りを通じて問うのは外に対してであり、
結果外から問われることになる。
しかして問われるから罪という。
それが欧米の所謂法治社会の原点です。
つまり、
神を一時的に人にかぶせて、
人が人を問う、
人が人に問われる、
そういう社会なのです。
その時のルールが法律なのです。
罪の文化の欧米人は、
だから法の民である。




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