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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

どう違うのか

2016-08-19 10:10:17 | 日記・エッセイ・コラム
日本と欧米は対照的な面がある。
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欧米はキリスト教国であり、聖書の民である。
聖書によれば、人は神の禁忌を犯し罪を背負った。
それでも神とは絶えず交信する。
預言者が現れるのである。
預言者は予言者(占い師)ではない。
神から言葉を預かる者である。
そしてそれを人々に伝える。
それが預言者である。
聖書とはその預言者達の言行録だともいえる。
特に有名なのはモーセである。
シナイ山で神から十戒を授かった。
神との契約である。
その契約を守っている限り、神の加護があるのだ。
契約違反はもちろん罪である。
原罪の上にさらに罪を重ねる。
まったき罪であり、破綻・破滅である。
地獄に落ちるしかない。
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このように欧米では人は神と向き合う。
向き合うとはすなわち、神は我の外に在るということだ。
これが欧米の発想である。
人と人との関係も同様である。
どこまでも向き合い、対峙するのである。
協調とか同調とか、所謂和という発想が余りないのだ。
その原点は十戒(神との契約)である。
法律の原点はそこにあり、だから十戒は憲法のようなものだ。
だが、これは神の言葉だから変えられない。
現実の事象に当たっては解釈するしかない。
では誰が解釈するのか。
それはもっぱら聖職者である。
新約聖書ではそれを律法学者と言っていた。
つまり神に仕える者である。
絶対王制もここから来る。
王権は神に属し、それを与えられた者が王なのだと。
しかして、聖職者(ローマ法王)がそれを与える。
だから仕切れるのである。
しかし、これも倒され今は民主主義とかいう。
民の中から知恵ある者が集まり解釈する。
すなわち法律を創るのである。
もちろん根は十戒であり、それは神との契約である。
だから彼ら聖書の民は「法の民」なのである。
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欧米人は原理原則(神との契約)を大事にする。
それに外に問う文化だから論理を重視する。
しかも問うのは人だから、どこまでも人間中心なのだ。
ちなみにだからこそ、
文章には主語が欠かせなく、しかもほとんどが人称である。
常に人が起点にあるということだ。
とはいえ、欧米人は小さな法律は結構無視する。
仕方ない面もある。
人の創る法律は余りに多過ぎるのだ。
だから完璧に守るのは難しい。
たとえ知っていても、
原理原則に基づいて勝手解釈し、
それも良しとする。
むしろ日本人の方が杓子定規である。
それはたぶん自分に問う者だからだろう。
自分に問うて認めたら、もう嘘が付けなくなる。
だから杓子定規になるのだ。
「道の民」である日本人ならではだ。
もちろん日本は歴とした法治社会である。
でもそれは神との契約ではなく、道の思想の上にある。
そこでは神を持ち出す必要はなく、
ただもっぱらに約束を守るのみ。
道とは神の道なのだから。
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対照的と言ったが、共通していることがある。
それは神への祈りである。