人間は神に出会っている。
種としても、個としても。
それはその種の登場直後、
それはその個の誕生直後。
ときにヒトは人類になり人間になった。
それは言葉を持つ直前直後の狭間にて。
その短くもあり長くもあるそのときに。
そもヒトは神の事の場に現れたイのチ。
他のイのチと共にまんまにそこに在る。
でもなにゆえか神に出会ってしまった。
これがヒトに言葉を持たせた。
てかでもこれ鶏か卵かの話し。
正にミステリーの最たるもの。
そもイのチはその時と所に生きる。
ゆえ時と所の場の空気を一身に浴びる。
生きるとはその空気を全身全霊で捉えるもの。
生きるとはその空気を體と魂とで捉えること。
それを言葉を持った人間は空気を読むと言う。
言葉は詠むもの歌うもの語るもの。
ここに人間の所以がある。
表向きは人間の所以は言葉である。
しても本当の所以は言葉ではない。
言葉はその結果なのです。
その所以は體と魂の振るえにある。
それが言葉を創るのです。
存在の基底にあるエネルギーによって。
これは存在の如何に関わらずあるもの。
それを気という。
・・・・・
言葉は人間の人間たる所以だが、
それは表向きであるとも言った。
ゆえにか言葉には大きな陥穽が潜む。
ひとつ、それは我を突出させる。
ひとつ、それは現実の後を追うだけ。
場の空気を読むのは命の倣いである。
そもそれは全身全霊で行うもの。
ときに人間はそれを脳に任せる。
てか言葉に頼り言葉で問うのだ。
ときに問う自分が前面且全面に出る。
ゆえ我が突出するのです。
てか言葉が後追いなのは自明のこと。
結果として脳に貼り付けられるゆえ。
これらが陥穽となる。
てか言葉は本来波動(オト)である。
これは事実上同時でその場限り。
ときの言葉は後追いではないと。
でもそれは脳に刻まれるのです。
そこから本当の後追いが始まる。
てか後追いが悪い訳ではありません。
てかそれが人類の文化文明を育てる。
要は使いようなのである。
人の事の場は神の事の場の影を捉えるが、
しても何処まで行っても影は影、
ゆえに不安と困惑がはなれない。
これは鎮めねばならない。
ための方途が必要になる。
そのひとつが祈りである。
そのひとつが悟りである。
でも本命は祈りであろう。
悟りは難しいのです。
問題はイをシキしたことから始まったのです。
祈りは人の事の場を神の事の場に重ねるもの、
言葉を神の事の場に奉じて委ねる所作である。
これは囚われの心を開放するもの。
悟りはそこが難しい。
悟ろうとすればするほどシキが離れない。
ゆえこれは専ら體に問うものかと。
それを修行と言っている。
ときに生死の狭間を彷徨うほどの荒行に。
てか特に修業でなくともあり得るか。
生死の境を見たならばね。
ときに執着が薄まって悟りが開くか。
てかそこまでしなくとも出来るかも。
それは虫(無私)の心で生きればね。
坦々とムシの心でね。
お坊さんはこれも修業らしい。
日々の生活の習いを坦々とこなすことが。
にしても言うは易し行なうは難し。
まあ凡人には難しい。
てか祈りの方がいい。
折に触れそこかしこで祈るのがいい。
てか日々を祈りの中ですごすなら、それが一番か。
大きな声では言えないが、
日本文明にはてか日本語には、
このエッセンスが詰まっています、
言語そのものがそも宗教書の如くある。
これはここだけの話、
てか話はあのねのね。
・・・・・
私は宗教には毒がある、とずっと言ってきた。
でもこれはむしろ言葉にある陥穽のこと、
宗教は教であるからこれを回避できない。
思えば祈りや悟りは言葉以前に戻ること。
ゆえそこには陥穽はない。
でもこれを人間は言葉にする。
祈りや悟りを高めようとして。
思えばこれが矛盾なのである、
これが人間には避けられない。
でもこれだけなら問題はない。
これを時と所に留めればだが。
てか絶対化するのが危険なのです。
しても所謂宗教はこれを免れない。
それは教だから宗の教だから。
ということだが、
なかでも一神教が危うい。(原理主義に陥りやすい)
神を捨てた一神教も同じ。(これをリベラルと謂う)
てか神を捨ててるからなおのこと危うい。
神を忘れた宗教も危うい。(これを中華思想と謂う)
てかこれは神を捨てた一神教と同じようだが、
まあ同じですが、
そこにイのシキすらなく、
箸にも棒にも掛からない、
最悪のものです。
という訳で宗教は取扱注意である。
してもこれは実は言葉だからだが。
てかここに言葉を盾に鉾にしないものがある。
在るがまま成るがままを良しとしての生き方。
それがここにある。
ずっとここにある。
それを知ろう。
うん、
種としても、個としても。
それはその種の登場直後、
それはその個の誕生直後。
ときにヒトは人類になり人間になった。
それは言葉を持つ直前直後の狭間にて。
その短くもあり長くもあるそのときに。
そもヒトは神の事の場に現れたイのチ。
他のイのチと共にまんまにそこに在る。
でもなにゆえか神に出会ってしまった。
これがヒトに言葉を持たせた。
てかでもこれ鶏か卵かの話し。
正にミステリーの最たるもの。
そもイのチはその時と所に生きる。
ゆえ時と所の場の空気を一身に浴びる。
生きるとはその空気を全身全霊で捉えるもの。
生きるとはその空気を體と魂とで捉えること。
それを言葉を持った人間は空気を読むと言う。
言葉は詠むもの歌うもの語るもの。
ここに人間の所以がある。
表向きは人間の所以は言葉である。
しても本当の所以は言葉ではない。
言葉はその結果なのです。
その所以は體と魂の振るえにある。
それが言葉を創るのです。
存在の基底にあるエネルギーによって。
これは存在の如何に関わらずあるもの。
それを気という。
・・・・・
言葉は人間の人間たる所以だが、
それは表向きであるとも言った。
ゆえにか言葉には大きな陥穽が潜む。
ひとつ、それは我を突出させる。
ひとつ、それは現実の後を追うだけ。
場の空気を読むのは命の倣いである。
そもそれは全身全霊で行うもの。
ときに人間はそれを脳に任せる。
てか言葉に頼り言葉で問うのだ。
ときに問う自分が前面且全面に出る。
ゆえ我が突出するのです。
てか言葉が後追いなのは自明のこと。
結果として脳に貼り付けられるゆえ。
これらが陥穽となる。
てか言葉は本来波動(オト)である。
これは事実上同時でその場限り。
ときの言葉は後追いではないと。
でもそれは脳に刻まれるのです。
そこから本当の後追いが始まる。
てか後追いが悪い訳ではありません。
てかそれが人類の文化文明を育てる。
要は使いようなのである。
人の事の場は神の事の場の影を捉えるが、
しても何処まで行っても影は影、
ゆえに不安と困惑がはなれない。
これは鎮めねばならない。
ための方途が必要になる。
そのひとつが祈りである。
そのひとつが悟りである。
でも本命は祈りであろう。
悟りは難しいのです。
問題はイをシキしたことから始まったのです。
祈りは人の事の場を神の事の場に重ねるもの、
言葉を神の事の場に奉じて委ねる所作である。
これは囚われの心を開放するもの。
悟りはそこが難しい。
悟ろうとすればするほどシキが離れない。
ゆえこれは専ら體に問うものかと。
それを修行と言っている。
ときに生死の狭間を彷徨うほどの荒行に。
てか特に修業でなくともあり得るか。
生死の境を見たならばね。
ときに執着が薄まって悟りが開くか。
てかそこまでしなくとも出来るかも。
それは虫(無私)の心で生きればね。
坦々とムシの心でね。
お坊さんはこれも修業らしい。
日々の生活の習いを坦々とこなすことが。
にしても言うは易し行なうは難し。
まあ凡人には難しい。
てか祈りの方がいい。
折に触れそこかしこで祈るのがいい。
てか日々を祈りの中ですごすなら、それが一番か。
大きな声では言えないが、
日本文明にはてか日本語には、
このエッセンスが詰まっています、
言語そのものがそも宗教書の如くある。
これはここだけの話、
てか話はあのねのね。
・・・・・
私は宗教には毒がある、とずっと言ってきた。
でもこれはむしろ言葉にある陥穽のこと、
宗教は教であるからこれを回避できない。
思えば祈りや悟りは言葉以前に戻ること。
ゆえそこには陥穽はない。
でもこれを人間は言葉にする。
祈りや悟りを高めようとして。
思えばこれが矛盾なのである、
これが人間には避けられない。
でもこれだけなら問題はない。
これを時と所に留めればだが。
てか絶対化するのが危険なのです。
しても所謂宗教はこれを免れない。
それは教だから宗の教だから。
ということだが、
なかでも一神教が危うい。(原理主義に陥りやすい)
神を捨てた一神教も同じ。(これをリベラルと謂う)
てか神を捨ててるからなおのこと危うい。
神を忘れた宗教も危うい。(これを中華思想と謂う)
てかこれは神を捨てた一神教と同じようだが、
まあ同じですが、
そこにイのシキすらなく、
箸にも棒にも掛からない、
最悪のものです。
という訳で宗教は取扱注意である。
してもこれは実は言葉だからだが。
てかここに言葉を盾に鉾にしないものがある。
在るがまま成るがままを良しとしての生き方。
それがここにある。
ずっとここにある。
それを知ろう。
うん、
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