欧米の文明は自然を克服する文明だと言われる。
そのままでは厳しすぎるのである。
だから、変えようとする。
自然はそこで生きる者にとっては、大切なものに違いない。
それはそうだが、そのままの自然を良しとはしない。
あくまで対峙する。
それが欧米人の根っこである。
・・・・・
対峙する主体は誰かといえば、
それは私である。
私がどう立ち向かうかを問う、または問われる。
どこまでも私(=人間)なのである。
それが言葉に現れる。
他の言語は余り知らないが、英語なら少しは分かる。
英語には必ず主語がある。
それも人称が主である。
私があるいは彼がなどの人称代名詞である。
しかも分かりきってる場合でも省略しない。
どこまでも表示する。
どこまでも人(の行動)を明示しようとする。
まれに主語があいまいな時は、「It」などを使うこともある。
ともかく主語は絶対にある。
・・・・・
誤解を恐れずに言えば、
欧米の言語は主体者である私(=人間)を表現しようとする、
ものだといえる。
そういう言葉なのである。
だから、自己主張が得意なのだ。
というか、自己主張することを旨とするのである。
主張するからには言葉は明確でなければならない。
でなければ伝わらないから。
いきおい言葉は表層的になる。
軽薄ということではない。
言葉そのものに余り色や陰影を付けないのである。
あいまいにならないように。
その代わり、その伝え方はしっかりしている。
論理的なのである。
論理的であることを何より大切にする。
欧米文明が近代文明の基となったの所以である。
・・・・・
日本語の世界とはちょっと違う。
というか、真逆なほど違う。
それでも近頃は漫画・アニメなどクールジャパンの影響か、
日本のことを理解してる人が増えている。
まことに結構なことである。
そのままでは厳しすぎるのである。
だから、変えようとする。
自然はそこで生きる者にとっては、大切なものに違いない。
それはそうだが、そのままの自然を良しとはしない。
あくまで対峙する。
それが欧米人の根っこである。
・・・・・
対峙する主体は誰かといえば、
それは私である。
私がどう立ち向かうかを問う、または問われる。
どこまでも私(=人間)なのである。
それが言葉に現れる。
他の言語は余り知らないが、英語なら少しは分かる。
英語には必ず主語がある。
それも人称が主である。
私があるいは彼がなどの人称代名詞である。
しかも分かりきってる場合でも省略しない。
どこまでも表示する。
どこまでも人(の行動)を明示しようとする。
まれに主語があいまいな時は、「It」などを使うこともある。
ともかく主語は絶対にある。
・・・・・
誤解を恐れずに言えば、
欧米の言語は主体者である私(=人間)を表現しようとする、
ものだといえる。
そういう言葉なのである。
だから、自己主張が得意なのだ。
というか、自己主張することを旨とするのである。
主張するからには言葉は明確でなければならない。
でなければ伝わらないから。
いきおい言葉は表層的になる。
軽薄ということではない。
言葉そのものに余り色や陰影を付けないのである。
あいまいにならないように。
その代わり、その伝え方はしっかりしている。
論理的なのである。
論理的であることを何より大切にする。
欧米文明が近代文明の基となったの所以である。
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日本語の世界とはちょっと違う。
というか、真逆なほど違う。
それでも近頃は漫画・アニメなどクールジャパンの影響か、
日本のことを理解してる人が増えている。
まことに結構なことである。
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