ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

似合わない言葉

2015-08-24 12:51:36 | 日記・エッセイ・コラム
このところ、
よく使われる言葉に「責任」というのがある。
何か問題が起きれば、すぐに責任という言葉が出てくる。
そして責任の追及が始まる。
うんざりである。
責任より大事なことがある。
それは問題の実相を明らかにし、
如何に終息させるかであり、
さらに今後の対応にどう活かすかである。
肝腎なのはそこであり、
単に責任を問うだけなら何の意味もない。
と思っている。
・・・・・
私は責任という言葉が好きではない。
特に責任の追及という場面では、
第三者からの罵倒の嵐になる、
関係者の非難の応酬になる、
当事者のつまらない弁解になる、
などが世の常である。
そんなものは要らない。
それに日本人は場の人である。
責任の所在がはっきりしないことも多い。
皆の思いを結集して動くことが多いのである。
組織上の責任者は当然いるだろう。
だが自分の意思だけでは動かないのだ。
それでももちろん責任はある。
最後に決断する人は必要であり、
たとえ皆の思いとしての断であっても、
断そのものが責任であるから。
でも何しろ独裁を嫌う国柄である。
曖昧になることが多いのだ。
・・・・・
責任を問うことも必要だが、
責任というなじめない言葉よりも、
もっと使いたい言葉がある。
それは「けじめ」である。
けじめを付ける。
これが日本人本来の、問題が起きた時の言葉である。
どう「けじめ」をつけるかが大事なのである。
けじめとは人を追求するものではない。
結末をどう付けるかということである。
結末を上手く付けることができれば、それは未来への糧にもなる。
日本人には「責任」より「けじめ」がよく似合う。
そう思うのである。