このところ、
よく使われる言葉に「責任」というのがある。
何か問題が起きれば、すぐに責任という言葉が出てくる。
そして責任の追及が始まる。
うんざりである。
責任より大事なことがある。
それは問題の実相を明らかにし、
如何に終息させるかであり、
さらに今後の対応にどう活かすかである。
肝腎なのはそこであり、
単に責任を問うだけなら何の意味もない。
と思っている。
・・・・・
私は責任という言葉が好きではない。
特に責任の追及という場面では、
第三者からの罵倒の嵐になる、
関係者の非難の応酬になる、
当事者のつまらない弁解になる、
などが世の常である。
そんなものは要らない。
それに日本人は場の人である。
責任の所在がはっきりしないことも多い。
皆の思いを結集して動くことが多いのである。
組織上の責任者は当然いるだろう。
だが自分の意思だけでは動かないのだ。
それでももちろん責任はある。
最後に決断する人は必要であり、
たとえ皆の思いとしての断であっても、
断そのものが責任であるから。
でも何しろ独裁を嫌う国柄である。
曖昧になることが多いのだ。
・・・・・
責任を問うことも必要だが、
責任というなじめない言葉よりも、
もっと使いたい言葉がある。
それは「けじめ」である。
けじめを付ける。
これが日本人本来の、問題が起きた時の言葉である。
どう「けじめ」をつけるかが大事なのである。
けじめとは人を追求するものではない。
結末をどう付けるかということである。
結末を上手く付けることができれば、それは未来への糧にもなる。
日本人には「責任」より「けじめ」がよく似合う。
そう思うのである。
よく使われる言葉に「責任」というのがある。
何か問題が起きれば、すぐに責任という言葉が出てくる。
そして責任の追及が始まる。
うんざりである。
責任より大事なことがある。
それは問題の実相を明らかにし、
如何に終息させるかであり、
さらに今後の対応にどう活かすかである。
肝腎なのはそこであり、
単に責任を問うだけなら何の意味もない。
と思っている。
・・・・・
私は責任という言葉が好きではない。
特に責任の追及という場面では、
第三者からの罵倒の嵐になる、
関係者の非難の応酬になる、
当事者のつまらない弁解になる、
などが世の常である。
そんなものは要らない。
それに日本人は場の人である。
責任の所在がはっきりしないことも多い。
皆の思いを結集して動くことが多いのである。
組織上の責任者は当然いるだろう。
だが自分の意思だけでは動かないのだ。
それでももちろん責任はある。
最後に決断する人は必要であり、
たとえ皆の思いとしての断であっても、
断そのものが責任であるから。
でも何しろ独裁を嫌う国柄である。
曖昧になることが多いのだ。
・・・・・
責任を問うことも必要だが、
責任というなじめない言葉よりも、
もっと使いたい言葉がある。
それは「けじめ」である。
けじめを付ける。
これが日本人本来の、問題が起きた時の言葉である。
どう「けじめ」をつけるかが大事なのである。
けじめとは人を追求するものではない。
結末をどう付けるかということである。
結末を上手く付けることができれば、それは未来への糧にもなる。
日本人には「責任」より「けじめ」がよく似合う。
そう思うのである。