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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

電気自動車

2025-06-02 06:31:37 | 日記・エッセイ・コラム
この世界は「ものごと」で出来ている。
しかしてすべては一体で繋がっている。
それはそも分けられない。
でも均質ではなくすこぶる多様であり、
そのうえ留まることなく変化している。
命はその中で生まれそれを捉えて在る。
人はそこにある違いに目を付ける。
人はそこにある違いに印を付ける。
そして分別する、敢えて分別する。
違いと雖もその境は実に曖昧だが。
その違いの大きな枠の一つに、
「もの」と「こと」がある。
私はずっとそれを言ってきた。
これは私の思いの柱の一つである。
うん!
・・・・・
私は以前から徹底的に糾弾していることがある。
例のアレ、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
である。
てか電気自動車は後で付け加えたもの、
どうにも胡散臭く思ってしまって、
地球温暖化脱炭素の付録だが。
これが今回の主題である。
それはこれが分かり易く目の前にあるから。
てかその理非が捉え易いのだ。
昨今それが表に現われている。
私が言っていたこと。
電気とはエネルギーでありすぐれて「こと」である。
これは本来貯められない。
これは流れるもので変化を常在とする。
比べて石油はすぐれて「もの」である。
これは長く留まるもので、
勿論変化はするが短期的には無きに等しい。
これに条件を与えて急激に変化させる、
それがエネルギーとなり力を発揮する。
これを為すがエンジンである。
対して電気自動車の場合はそれはモーター。
これは力を発する装置ではあっても、
その素になるエネルギーは作らない、
それは外から供給されねばならない、
そこが大きな違いである。
だからそれをどうするか。
私は電池を余り信用していない。
例えば乾電池、
これはすこぶる便利なものだが、
これ実は発電機だと思っている。
常時ゆっくり発電放電していて、
通電すればより大きく発電する、
これを利用しその力を活用する。
ゆえ電池とは言葉の綾であると。
例えば蓄電池、
これは電気を行き場なき所に閉じ込める、
閉じ込めると雖もそれはそも流れるもの、
大量且長期間は難しくしかも漏れやすい。
ハイブリッドのように自前で電気を作り、
少しの時間だけ置けるようにしておいて、
それを順次使用するそれなら素晴らしい。
てか今や自動車は制御に電気が必要です、
そも随分前からハイブリッドなのである、
その電気を動力にも利用するというなら、
これは実に優れモノである。
てか自前で電気を作るなら、
電気自動車にそも疑問なし。
そうでなければ、
それは蓄電池の問題であり、電気供給方途の問題である。
これが解決できるとは思えない。
繰り返すが、
電気は流れるもの貯めるのは不向き。
それに供給と言ってもそれが難しい、
持ち運びは出来ないのです。
それを流すには電線が必要。
それが集住地なら有効かと。
さならば電車方式のように、
常時流しておいて常時使う、
この方式なら有効であり現に成功してる。
何事もやり方であり適材適所なのである。
てか広大かつ人口希薄なところではこれは不向き。
てかそれゆえ発電機を持つ電車の計画もあるとか。
これなら砂漠でも新幹線が走れそう。
それにもうひとつ問題が、
それは家庭で使う電気のこと、
これは消費に見合う発電量を常に準備する必要が。
それが崩れれば停電ということにも。
あまれば捨てれば良いだけだろうが。
要するに発電を柔軟にせよとのこと。
蓄電はその隙間を埋めるだけ。
まあそういうことです。
・・・・・
世界は「ものごと」でなる。
物事は流れるもの、
それを目の前にし、
ゆえその元を想い今を見て先を想う。
しかしてそれをイしてシキすれば分別がつく。
人はその分別を持った。
その大きな始まりの一つが「もの」と「こと」を分けること。
そしてときに「とき」をもシる。
それがさらに現実を次々とシキしていく。
ここに人間世界がなる。
究極に置いては同じと雖も、
物と事とは別物と分別する。
そんなことで「もの」と「こと」は分別しましょう。
電気自動車はやはりそこが疑問。
てかこれは物だから分かり易い。
てかその前の大元のプロパガンダこれはいけない。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素、
さらに最近は多様性とカ持続性とか、
ここには嘘と狂気がてんこ盛り。
分別もクソもない。
嗚呼!

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