この世界は「ものごと」で出来ている。
しかしてすべては一体で繋がっている。
それはそも分けられない。
でも均質ではなくすこぶる多様であり、
そのうえ留まることなく変化している。
命はその中で生まれそれを捉えて在る。
人はそこにある違いに目を付ける。
人はそこにある違いに印を付ける。
そして分別する、敢えて分別する。
違いと雖もその境は実に曖昧だが。
その違いの大きな枠の一つに、
「もの」と「こと」がある。
私はずっとそれを言ってきた。
これは私の思いの柱の一つである。
うん!
・・・・・
私は以前から徹底的に糾弾していることがある。
例のアレ、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
である。
てか電気自動車は後で付け加えたもの、
どうにも胡散臭く思ってしまって、
地球温暖化脱炭素の付録だが。
これが今回の主題である。
それはこれが分かり易く目の前にあるから。
てかその理非が捉え易いのだ。
昨今それが表に現われている。
私が言っていたこと。
電気とはエネルギーでありすぐれて「こと」である。
これは本来貯められない。
これは流れるもので変化を常在とする。
比べて石油はすぐれて「もの」である。
これは長く留まるもので、
勿論変化はするが短期的には無きに等しい。
これに条件を与えて急激に変化させる、
それがエネルギーとなり力を発揮する。
これを為すがエンジンである。
対して電気自動車の場合はそれはモーター。
これは力を発する装置ではあっても、
その素になるエネルギーは作らない、
それは外から供給されねばならない、
そこが大きな違いである。
だからそれをどうするか。
私は電池を余り信用していない。
例えば乾電池、
これはすこぶる便利なものだが、
これ実は発電機だと思っている。
常時ゆっくり発電放電していて、
通電すればより大きく発電する、
これを利用しその力を活用する。
ゆえ電池とは言葉の綾であると。
例えば蓄電池、
これは電気を行き場なき所に閉じ込める、
閉じ込めると雖もそれはそも流れるもの、
大量且長期間は難しくしかも漏れやすい。
ハイブリッドのように自前で電気を作り、
少しの時間だけ置けるようにしておいて、
それを順次使用するそれなら素晴らしい。
てか今や自動車は制御に電気が必要です、
そも随分前からハイブリッドなのである、
その電気を動力にも利用するというなら、
これは実に優れモノである。
てか自前で電気を作るなら、
電気自動車にそも疑問なし。
そうでなければ、
それは蓄電池の問題であり、電気供給方途の問題である。
これが解決できるとは思えない。
繰り返すが、
電気は流れるもの貯めるのは不向き。
それに供給と言ってもそれが難しい、
持ち運びは出来ないのです。
それを流すには電線が必要。
それが集住地なら有効かと。
さならば電車方式のように、
常時流しておいて常時使う、
この方式なら有効であり現に成功してる。
何事もやり方であり適材適所なのである。
てか広大かつ人口希薄なところではこれは不向き。
てかそれゆえ発電機を持つ電車の計画もあるとか。
これなら砂漠でも新幹線が走れそう。
それにもうひとつ問題が、
それは家庭で使う電気のこと、
これは消費に見合う発電量を常に準備する必要が。
それが崩れれば停電ということにも。
あまれば捨てれば良いだけだろうが。
要するに発電を柔軟にせよとのこと。
蓄電はその隙間を埋めるだけ。
まあそういうことです。
・・・・・
世界は「ものごと」でなる。
物事は流れるもの、
それを目の前にし、
ゆえその元を想い今を見て先を想う。
しかしてそれをイしてシキすれば分別がつく。
人はその分別を持った。
その大きな始まりの一つが「もの」と「こと」を分けること。
そしてときに「とき」をもシる。
それがさらに現実を次々とシキしていく。
ここに人間世界がなる。
究極に置いては同じと雖も、
物と事とは別物と分別する。
そんなことで「もの」と「こと」は分別しましょう。
電気自動車はやはりそこが疑問。
てかこれは物だから分かり易い。
てかその前の大元のプロパガンダこれはいけない。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素、
さらに最近は多様性とカ持続性とか、
ここには嘘と狂気がてんこ盛り。
分別もクソもない。
嗚呼!
しかしてすべては一体で繋がっている。
それはそも分けられない。
でも均質ではなくすこぶる多様であり、
そのうえ留まることなく変化している。
命はその中で生まれそれを捉えて在る。
人はそこにある違いに目を付ける。
人はそこにある違いに印を付ける。
そして分別する、敢えて分別する。
違いと雖もその境は実に曖昧だが。
その違いの大きな枠の一つに、
「もの」と「こと」がある。
私はずっとそれを言ってきた。
これは私の思いの柱の一つである。
うん!
・・・・・
私は以前から徹底的に糾弾していることがある。
例のアレ、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
である。
てか電気自動車は後で付け加えたもの、
どうにも胡散臭く思ってしまって、
地球温暖化脱炭素の付録だが。
これが今回の主題である。
それはこれが分かり易く目の前にあるから。
てかその理非が捉え易いのだ。
昨今それが表に現われている。
私が言っていたこと。
電気とはエネルギーでありすぐれて「こと」である。
これは本来貯められない。
これは流れるもので変化を常在とする。
比べて石油はすぐれて「もの」である。
これは長く留まるもので、
勿論変化はするが短期的には無きに等しい。
これに条件を与えて急激に変化させる、
それがエネルギーとなり力を発揮する。
これを為すがエンジンである。
対して電気自動車の場合はそれはモーター。
これは力を発する装置ではあっても、
その素になるエネルギーは作らない、
それは外から供給されねばならない、
そこが大きな違いである。
だからそれをどうするか。
私は電池を余り信用していない。
例えば乾電池、
これはすこぶる便利なものだが、
これ実は発電機だと思っている。
常時ゆっくり発電放電していて、
通電すればより大きく発電する、
これを利用しその力を活用する。
ゆえ電池とは言葉の綾であると。
例えば蓄電池、
これは電気を行き場なき所に閉じ込める、
閉じ込めると雖もそれはそも流れるもの、
大量且長期間は難しくしかも漏れやすい。
ハイブリッドのように自前で電気を作り、
少しの時間だけ置けるようにしておいて、
それを順次使用するそれなら素晴らしい。
てか今や自動車は制御に電気が必要です、
そも随分前からハイブリッドなのである、
その電気を動力にも利用するというなら、
これは実に優れモノである。
てか自前で電気を作るなら、
電気自動車にそも疑問なし。
そうでなければ、
それは蓄電池の問題であり、電気供給方途の問題である。
これが解決できるとは思えない。
繰り返すが、
電気は流れるもの貯めるのは不向き。
それに供給と言ってもそれが難しい、
持ち運びは出来ないのです。
それを流すには電線が必要。
それが集住地なら有効かと。
さならば電車方式のように、
常時流しておいて常時使う、
この方式なら有効であり現に成功してる。
何事もやり方であり適材適所なのである。
てか広大かつ人口希薄なところではこれは不向き。
てかそれゆえ発電機を持つ電車の計画もあるとか。
これなら砂漠でも新幹線が走れそう。
それにもうひとつ問題が、
それは家庭で使う電気のこと、
これは消費に見合う発電量を常に準備する必要が。
それが崩れれば停電ということにも。
あまれば捨てれば良いだけだろうが。
要するに発電を柔軟にせよとのこと。
蓄電はその隙間を埋めるだけ。
まあそういうことです。
・・・・・
世界は「ものごと」でなる。
物事は流れるもの、
それを目の前にし、
ゆえその元を想い今を見て先を想う。
しかしてそれをイしてシキすれば分別がつく。
人はその分別を持った。
その大きな始まりの一つが「もの」と「こと」を分けること。
そしてときに「とき」をもシる。
それがさらに現実を次々とシキしていく。
ここに人間世界がなる。
究極に置いては同じと雖も、
物と事とは別物と分別する。
そんなことで「もの」と「こと」は分別しましょう。
電気自動車はやはりそこが疑問。
てかこれは物だから分かり易い。
てかその前の大元のプロパガンダこれはいけない。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素、
さらに最近は多様性とカ持続性とか、
ここには嘘と狂気がてんこ盛り。
分別もクソもない。
嗚呼!
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