ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

明治維新の完了

2015-08-13 14:22:03 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新は完了している。
大東亜戦争終了後の幾数年を経過して。
これは別の言い方をすれば、
尊皇攘夷が完了したということである。
明治維新とは尊皇攘夷であるのだから。
表向きは尊皇攘夷から開国に変わったのだが、
その実は変わっていない。
その精神は何も変わっていない。
・・・・・
もとより尊皇は古来のものである。
そして今も変わらない。
問題は攘夷である。
攘夷とは欧米白人を打ち破ることである。
これは単に白人を討つということではない。
欧米の一方的支配を破るということである。
独立自尊を求めたのである。
一国では心もとないので、隣国の協力も得てである。
しかるに隣国は頼りなし。
半島および大陸である。
大陸はむしろ足をひっぱた。
結局一人で立つことになったのである。
それが大東亜戦争である。
・・・・・
日本の為には南進するより北進の方が良かった。
さすれば敗戦は無かったかもしれない。
彼の石原莞爾もそう言っている。
しかしである。
それでは歴史は転換しない。
植民地各国は未だ植民地のままであったかもしれない。
ともかく紆余曲折の末、南進したのである。
東南アジアへの進出である。
第一に資源を求めたのだが、
同時に攘夷のための策も施した。
現地における軍隊の創設である。
日本人が支配しようとしたのではない。
それなら現地軍隊は創らない。
その地はその地の人が治めればいい、
これがもともとの精神である。
明治いらいの精神である。
何も変わっていないのである。
・・・・・
しかし道半ばで倒れた。
日本は叩きのめされて見る影もない。
再び植民地支配に戻るのか、
と思われたが、
各国が立ち上がった。
戦争で疲弊していた欧米各国にはもはや対抗できなかった。
結果、次々と独立していった。
東南アジアだけでなく、
広くアジア・アフリカも。
ここに明治維新が完了したのである。










ドイツとの違い

2015-08-09 18:21:39 | 日記・エッセイ・コラム
歴史認識でドイツのことがよく持ち出される。
ドイツはしっかり謝罪してる、
日本はちゃんと謝罪してない、
とか。
言ってるのは主として中韓である。
アメリカや欧州でも時々出てくる。
ドイツでもである。
先の大戦では同盟国であったのに。
・・・・・
ドイツは相当酷いことをしたらしい。
ナチスのユダヤ人に対するホロコースト等である。
どこまで本当かは分からないが。
それにしても、酷いことをしたのは間違いないだろう。
ともかく敗れて、政府は完全に崩壊した。
無条件降伏である、と言うか降伏さえしていないのではと思う。
何しろ政府が無くなったのだから。
だから新しい政府が創られた。
新政府は旧政府(ナチス)を完全に否定し、
自ら進んで彼らを断罪した。
それを土台にして政治が進められた。
今もそれは続いている。
にしても、所詮ドイツの戦争は白人同士の内輪揉めであった。
・・・・・
日本はドイツとは違う。
政府は戦前から戦後も続いている。
敗戦したとはいえ、無条件降伏ではない。
ポツダム宣言を受諾することで、戦争を終わらせたのである。
条件はあったのである。
それはちゃんと履行している。
それにドイツのような酷いことはしていない。
いわゆる南京大虐殺や従軍慰安婦強制連行は捏造である。
もちろん戦争だから酷いことはまったくなかったとは言えない。
ともかく負けた者としては、反省や謝罪を求められるのは仕方ない。
求められなくとも、反省や謝罪はすべきだとも思う。
現に日本はそうしてきた。
さながらにドイツとは違うのである。
さらに違うのは日本の戦争は世界の白人支配を終わらせた、
ということである。
これは事実である。
・・・・・
ドイツと日本は違うのである。
まったく違うのである。
中韓はほっとくとしても、ドイツにとやかく言われる筋合いはない。
もちろんドイツ政府はあからさまには言ってない。
でも、ドイツのマスコミは時々日本を非難する。
誰が書いてるのか、誰に書かされているのか。
日本でもマスコミは信用できないが、欧米も同様である。
それにしても、
ドイツには言われたくない。




浮雲、浮草

2015-08-03 09:07:02 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の思いである。
思想と言ってもいい。
ゆうゆうと流れるのである。
天空・大地の中で、
ゆうゆうと流れるのである。
・・・・・
月日は百代の過客にして行きこう年もまた旅人なり...
松尾芭蕉である。
ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず...
加茂長明である。
時の流れ、水の流れに身を任せる。
大きな流れには逆らえない。
漂うように生きるのである。
たんたんと生きる、それが人生だと。
一喜一憂は世の習いだが、
その中に無情感、諦念がある。
これは日本人の根である。
奪い合いの大地ではどこまでも戦いである。
譲り合いの世界だからこその思いである。
譲り合えばそこに、
たんたんとした人生が成る。
・・・・・
とはいえ、
「流れる」ということは「流される」ということでもある。
昨今のマスコミの酷さに鑑みれば、
流されるばかりでは情けない。
いいように利用されるばかりだ。
どうすればいいのか。
どうもできない。
流されるのなら流されればいい。
どこまでも流されればいい。
要は「流されている」ということを知っていればいい。
それだけのことだ。
流されていると分かっていれば、
流れが緩やかな時は多少は向きを変えられる、
浅瀬に来れば岸に上がることもできる。
そういうことだが、
さすればだ、
時には命を懸けて抗うこともできる。
・・・・・
要は「流されている」ということを、
分かっていればいい。
それだけだ。
それにしても、
自分の周りの流れはさっぱり分からん。
どうしようもない。
嗚呼!