ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

日本人の発想

2015-08-21 13:14:57 | 日記・エッセイ・コラム
日本語に主語はない、と言った学者がいた。
たしか、三上章という名前だったと思う。
もっとも、それを知ったのは金谷という人の本であったが。
実に興味深い話であった。
以来ずっと信奉している。
以下は私の解釈である。
・・・・・
日本人は余り自分を出さない。
それは場を意識するからである。
当然のことなのだが、
自分は場の内に在るのであり、
場の外に在るのではない。
場に生きており、
場に生かされているのである。
場とは自分と対峙するものではないのだ。
自分も場の一部であるから、
場に影響を与えてはいるが、
それは微々たるものである。
場はそれを超えている。
場とは身の周りの世間であり、自然であり、
そして大きくは宇宙である。
その絶対的な場をまんま認めて、
その場に生かされているという、
そういう思い方をするのである。
その現れとしての言葉は、
自分を出さないことを旨とする。
出し過ぎると場が歪むのである。
できるだけ押し付けを少なくし、
その中で過不足なく見せる。
それで良いのである。
それが良いのである。
だから主語は要らない。
場の中の自分という主題があればいい。
そいうことだと思っている。
・・・・・
英語は必ず主語を置く。
場の状況として分かっていても主語を置く。
例えば、
「彼はどこへ行ったのですか」の答えは
「学校(へ行った)」で十分である。
多分実際はこれでも通じるとは思う。
でも省略しない。
「彼は学校へ行った」と必ず主語を置く。
それは人を主としているからである。
人を表示しなければ修まらないのだ。
日本語は人が主ではない。
その人を置かれた状況と共に主題として捉える。
だから誰かのことを問われたとき、
誰彼という主語は必ずしも要らないのだ。
場という主題として扱うから。
だから省略ではないのだ。
・・・・・
ともかくである。
日本人である故は日本語にある。
日本人の心は日本語で出来ているのだ。
ということだが、
もとをただせば、
日本人の心が日本語を創ってきた、
とも言える。
はてさて?
鶏が先か、卵が先か。