創価学会の信仰に功徳はあるか?

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100.創価教育と道。教祖と信徒。伝言ゲーム。

2006年06月15日 22時09分13秒 | 創価学会
創価学会の信仰に功徳はあるか?:日蓮の優しさと厳しさ なんともさんのコメント「言葉が届かない。 (なんとも…) 2006-06-03 02:48:40」から。
●創価教育と道
>恐ろしいと思うのはやはり教育です。
>切り捨てる思考にはとてももって行けませんが、信じる道が、生きる道が、違うというのでしょうか。

 そうです。道が違います。これは創価がはっきりとそう言いますし、教えます(創価教育)し、歌にもします。創価学会の中部地方の歌には
http://noboru_shirai.at.infoseek.co.jp/new_page_96.htm
こんな歌があります。どの歌もこんな軍歌のような感じです。
「我らの」「道」です。
http://noboru_shirai.at.infoseek.co.jp/new_page_11.htm

>悪とか正義とかそんなもののない世界

 これはですね。創価思考だと創価学会員は皆、正義、幸福ってのがあります。最近創価学園と池田氏の話題をとあるブログの人に書いたんですが、在籍しているだけで守られるとか、創価学園生は先生に守られているとか、受験しただけで「池田先生は受験して落ちた人もみんな学園生だ」とか、の美談があります。

グーグルで「創価 学園生 池田 JR 先生」で検索してキャッシュページにあるけど「アタシの知ってる「創価学会」」を探してクリックしてください。
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「学園生は誰も事故に巻き込まれなかったから護られたってみんなや先生とも話したの。そうしたら先生も学園生は池田先生から護られているから当然なんだよ。って話してて~。私もそうだな~って思って感激しちゃった。」と。
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 あの事故でも創価の人が亡くなっているし、その想像力に欠ける発言は子供とは言えお気楽すぎます。創価の人は良くも悪くも、楽観主義者です。実際に池田氏は「楽観主義でいけ」と教えますので都合の良い解釈しかしないのです。周りからどのように見られてもね。見られていても恥ずかしくないってのが創価です。未入信かもしれなくても創価学会員の家族だっていたでしょう。

>悪とか正義とかそんなもののない世界
つまり、創価にとっては創価以外は悪で創価は正義。そんな世界。(笑)創価学会の理論からすると、人間全員かあるいは人類の1/3が学会員になる事です。

>恐ろしいと思うのはやはり教育です。
もう一度引用しますか、それが創価教育です。「我らの」「道」です。

●相互理解
>理解できるけれど、同化できない。人の考え方、思考回路が悲しくて怖い

 上記は創価学会員もそう思っています。これは創価もアンチもお互い様です。(笑)世間では罪を憎んで人を憎まずと言うのがありますが、日蓮も基本的には「人生の不幸は誤った考え方、宗教が原因である。(人そのものが悪いわけでは無い)」と言っています。日蓮は御書の中で法華経以外の経文も引用しています。敬虔な仏教徒と言えると思います。
インド学・仏教学
ここの
私は「日蓮本仏論」を信じない 日蓮は真剣な「仏教徒」であった を読んで下さい。

 ただし、特に創価学会に限っては創価以外の教えはすべて、日蓮正宗(日顕宗)邪宗教である。と言う概念です。創価学会員とそれ以外の人には幸福になれるから願いが叶うからという接点しかありません。

>「日蓮系」の本望といえる「正義のために」とか「悪を討つ」とかと解釈
 仏敵を倒す、悪を倒す、という意気込みは創価学会独特の物でしょう。過去の既成仏教にもあったのですが現在ではなくなっています。

●教祖、一般宗教者
>多様な宗教者本人が死んでもなお、それに巻き添えになっている

 まずここの「巻き添えになっている」という考えの出発点が違います。開宗の時点で教祖本人自身はキリストも釈迦も日蓮もある程度自分が正しいと思っていたでしょう。さらに、自分自身で人を救って(救ったと思っている)人が付いてきているわけですから「正しいと確信」しちゃうわけです。

池田大作氏も創価学会員もキリストも釈迦も日蓮もオーム真理教もアーレフもどの宗教も「信徒や一般の人を巻き添えにしている」なんて思ってません。「助けた。救った。(酷いと助けてやった?救ってやった?)」なので、むしろ自分(特に教祖は)の教えは正しいので積極的に広めろ、というのが遺言です。

(引用続き)>~死んでもなお、それに巻き添えになっているもの達がどういう道を進むことになるのか考えたことはあるのか。その責任もてますか。もてるはずがないでしょう。

 だから自分自身と同じ道を進んで欲しいので弟子を残しますし、責任という意味では未来も責任はとれないので教義の形で残して未来も永遠にも通用するし責任を持ったつもりになっているのでしょう。教義もこれが絶対だとか言いながら仏教でも四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)と言って法華経がホントだよ、といってそれまでの教えは真実でないことになってます。仏教は特にコロコロ変化する、していくのが特徴かもしれません。時代に合わせている、という都合の良い解釈をするのです。

>造りかけ、皆途中で死んでしまうから完成されたものではない

 これも違います。どの宗教も教義が変わっていくのに、その「時々の今」の時点で完璧!絶対!この宗教は正しい!です。(笑)少なくとも日蓮は「完成した」と思っていたようです。特に創価は普遍性、完璧性、絶対性などを強調しますね。日蓮は仏教の原点回帰したはずなんですけどね。先の記事通り創価は「師弟不二」という御書(日蓮の遺文)に無い単語を強調しています。

 なんともさんには分からないと思いますが、創価シンパ、アンチ、日蓮正宗、どの系統のHPでも宗教教義の変化について大問題になっています。創価も日蓮正宗も罵りあっています。創価学会員、宗教家は皆さん、問題点がある事だけは(笑)よく分かっていると思います。

「造りかけ、完成されたものではない」は、宗教が変わっていく。いかない。の善悪、是非ですね。申し訳ないがこれだけで更に記事が2つ3つ書けるのでここでは勘弁。wコメントはOKですが、創価、日蓮宗、仏法に絞って出来るだけ曖昧にしないで下さいね。>皆さん。(今回に限っては暴言とかでなくても削除対象かも。管理の為です。)

>過去の人(日蓮とかキリストとか仏陀など)がその時代の社会の中で持った意思を伝えていくことが後世にどう伝わるか考えが及んでいたか、またその危険性を意識できなかったのか?つまり、「人間」というものを理解していたのか。

 正しく伝わらない可能性があったことを「特に日蓮は」予想も出来なかったし、気が付かなかったのですね。(五老僧ごろうそう【日蓮宗】 日昭、日朗、日向、日頂、日持の退転など気が付く事が出来ませんでした。)他にも釈迦一人が唱えた仏教自体がたくさんの宗派になっていますし、人があちこちで考え方を追加しています。そこに疑問を持ったのが日蓮だったのですが、長い歴史や他教であるキリスト教などをみても分裂分派は避けられないのかもしれません。それどころか現代の研究から法華経の非仏説まで出てきています。
創価学会に悩むすべての人へ:五時八教の教判
創価学会に悩むすべての人へ:創価学会側の苦しい言い訳

 上に書いたとおり、自分が正しいと思ってるわけですから、考えも及んでいないし危険とも思ってないです。「二箇相承」(にかそうじょう、詳しくはウィキペディアかgoogleで検索の事。)という遺文も残していますが、日蓮系だけでも分離分派し日蓮の思惑通りにはなっていません。日蓮、日興がもっと強調すべきだったのか、曖昧になってしまった理由がどこかにあったのは不明ですが。「二箇相承 偽物」で検索すると偽物という人がいます。(私は「二箇相承」は否定しません。寧ろ死にゆく者が後を託すのは自然だと思います。曖昧さを嫌う日蓮の性格からもそう思います。日興遺戒置文(にっこうゆいかいおきぶん)もありますからね。)

 ね?宗教ってこんな「危険な物」なのかも。池田博正氏が跡を継いだら、私が書いた宗教の曖昧さもご理解頂けるかも。今だって何の功績もないのに大幹部ですから。(笑)

 日蓮は色々な経文を読んで原点回帰して仏教の分離分派を否定し、正しいのは一つだけ。としたのに日蓮系だけでもたくさん分離分派して激しく罵り合ってます。「二箇相承」(にかそうじょう)という遺文の真筆は失われた?とされています。大石寺に無いそうな(笑)。これだけでもいかに人間がいい加減か?と言う事の証ですかね?遺文の真筆を無くしてしまうというのは日蓮系の僧侶は不誠実の固まりなのかも。日蓮が原因か?、教義が原因か?元学会本部職員の弓谷氏、数々の創価のリーダーも不誠実と言えるかも。

 池田氏は息子を会長にしないと言う以前の約束を守るんでしょうかね?遺言して欲しいです。あ、遺言なんて出来ないか。(笑)もう決まりだから(笑)。「二箇相承」ならぬ「池田相承」ですかね?生きている今やっておかないと混乱を招きますよ?>学会本部。

>永久に未完成な伝言ゲームを「完成」するものだと疑わず、過去の人、創始者らの研究・実験に、今を生きている人達がとらわれることを予想できただろうか?

 未来の事は予想なんか出来ないでしょうね。日蓮系だけでもたくさん分離分派して激しく罵り合っているのが証拠です。晩年の日蓮には教えが広まって人が幸福になれるという希望、願望、期待があるだけです。ですが、仏教もその他宗教も後の「人間」が一面を強調したり、作り変えているのは仏教でも日蓮正宗でも創価でも同じです。今はむしろ、ちゃんと伝わっているか否かの方が歴史的にも宗教学的にも問題です。創価、日蓮正宗、日蓮宗に限っても大御本尊、御書の偽物扱いは決着が付きません。

●文化
>彼らや、その他の神格化・もしくは信仰の対象化されているもの・人・習慣・風習・尽きるところは「文化」になってしまいます。
>そういう「文化」間の摩擦について、
その文化以外の、他人を理解することにおいて、
その文化以外の人に、共感することにおいて、
その文化以外の、自分の考えをもつことにおいて、
「文化」という行く末を考えていたか。

 仏教は他国(インド以外)の文化を否定していません。いろいろな風習や文化を取り込んで広まっています。創価学会においても草創期から、家庭や地域の風俗や習慣との摩擦に悩みがありましたが、第2代会長の戸田城聖氏は、『随方毘尼』(ずいほうびに)という言葉を引用して会員の悩みに答えています。『随方毘尼』(ずいほうびに)とは,「仏法の本義に違わない限り各地域の風俗,習慣や時代の風習に従うべきである」ということ。この文言については,御書の中にも出てきます。

●一般論。
>「己の信ずるまま」とよくいいますが。全ての宗教・宗教にはあまり関わらないという全ての人が、答えはこれに尽きると思ったら、人生は全て己だけで事が足りてしまうのではないだろうか。自分さえいればいいということ・他人の考えは自分には関係ないということです。他人と関われないということです。それは自分が「信じている」ということだけが、外界と内界(自分であったり、組織であったり)の情報を計る基準になるということではないだろうか。そういう内容を「己の信じるところ」という言葉には含まれてしまうことに何か感じたりはしませんか。それを踏まえた上で、己を通すこと(自分を曲げないこと)はそんなに立派なことだろうか。

 宗教者への批判として文だとは思いますが、自分が「正しいと思う」考えを人に「押しつける、布教する」のが宗教です。たぶん、一般の人と同じ「宗教は押しつける物じゃない、特に創価。」という批判だと思うのですが、こんな答えてすいません。TELでここはお話したいくらいです。意味不明だったらゴメン。私もあなた言うことを100%理解していないかも。

>「宗教者」にはさらに疑問がある。そして、疑問をもっている私も無宗教という宗教者ではないだろうか。社会という宗教に影響されているとも考えられる。そのように、私は宗教をとらえている。だれしも自分の考えが唯一・オリジナルではないかもしれない。その考えを持つようになったのは、どこで。その環境はなぜ。少なくとも、一人一人の人間に全ての原因は押し付けられるものでもないし、押し付けるものでもなく、一緒に背負えるものでもない。

宗教一般論として同意します。

>一本道を歩くことになった人達の行く末に、どうか救いがありますように。もう、祈りみたいなものになってしまいますが。

 あなたの疑問の果てに結果として「宗教」なのですよ。(笑)。皮肉っぽいですが開祖も信者もあなたと同感だから「宗教」するんでしょう。(笑)この考えを突き詰めていくと宗教にはまる可能性が出てきますよ???(笑)ホントに。

●その他
>宗教者達は「宗教」という概念をどのようにもっていたか?
>伝言ゲームの発信者を絶対だと思うのか?
>「人間」に感情があり、一人一人受け方が違うということにおいて、そのままのものを誰も間違いもせずに伝える?

 私が一番正しい。(笑)絶対だ。w私の教えで幸せになれるから。私というのはキリストや日蓮の教祖、池田氏、日顕氏、弓谷氏など、一般の宗教者も指します。皆さんのそばにいる創価の人も。w

>もしくは、発信者はゲームしろといったか?
答えはもちろんNo。上記にて回答済み。

>間違わないように考え方の基盤をその宗教「文化」(国という言葉でも表せる。)でコンプリートすること。そうすれば間違わない?
質問が意味不明。宗教否定?肯定?創価否定?肯定?

以上、まとめました。時間かかりました。考えが纏まらなくて大変でした。w遅くなってすいませんでした。

コメント (2)
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