創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

創価学会側の苦しい言い訳

2006年01月08日 | Weblog
仏教文献学を専門に勉強した経験が無い者でも、「スッタ・ニパータ」や「ダンマ・パダ」などの原始仏典を少しでも読めば、法華経が釈迦の説法ではないであろうことは、簡単に想像がつくのである。

だが、もし、法華経が釈迦の説法ではないとするならば、日蓮の論拠、そのものが崩壊してしまう。
日蓮の論拠が崩壊すれば、日蓮を尊ぶ創価学会の立場も崩れ去るので、創価学会としては法華経が、何としても釈迦の教えでなければ困る。
そこで、創価学会では、大乗非仏説(※)を証明しつつある、仏教文献学への反論として、かなり苦しい釈明をする。

たしかに、最近の仏教学の傾向は、そうした実証的な研究を重視するようになっていますね。今後、仏教が更に世界的な宗教として発展していくためにも、客観的な歴史的解明がなされていくのは、大いに喜ばしいことであると思う。
しかし、法華経をはじめとする大乗経典が、まったくの歴史的所産であって、釈尊自身の教えにはなかったという考えは、あまりに独断的にすぎると思う。つまり、人間の思惟、宗教心といった、かけがえのないものを、すべて歴史的・社会的背景に還元する方法論、すなわち宗教を研究する近代的な学問論に問題があるといえます。むしろ最近は、そうした学問的態度を反省する傾向も強まっていることは、やはり当然といえますね。したがって、法華経や他の大乗経典に盛り込まれたような内容の教えを、やはり釈尊自身、すでに説いていたものとみるのが妥当でしょう。(池田大作「私の仏教観」)


創価学会では、当然のように、法華経を釈迦の説いた最高の説法であると主張し、会員には、そう信じさせていた。
ところが、仏教文献学によって、法華経が釈迦の法門ではないことが定説化されて行くと、「妥当」という言葉でお茶を濁すことになったのである。
もちろん、「妥当」とする根拠など、どこにも無い。

さらに付言すれば、もしこの考古学的見地から、大乗教典が仏説でないとするならば、釈迦が在世中に、法華経をはじめとする大乗教典のなかに含まれているような教えを説かなかったという有力な証拠を、他に見いださなければならないでしょう。(「創価学会入門」創価学会教学部編)
 
法華経とは、釈迦が説いたものだと主張しているのが創価学会なのだから、釈迦が説いたと証明する責任があるのは、創価学会の側である。
「説明責任」とは、常に主張した側にある。
 
それは釈迦が説いたから偉大だというのではないのです。すべての人間の現実生活を力強く革命していく、根本の生命の法則性を看破した教えであるがゆえに最高なのです。(「創価学会入門」創価学会教学部編)
 
ここでは、法華経が釈迦の説法ではないという事を、半分、認めてしまっている。
法華経が、釈迦の説法でなくても、法華経の思想そのものが最高だから、法華経が最高の経典なのだ、という主張をしている。
だが、「内容が尊いから最高」というのでは、客観的説得力に欠けてしまう。
なぜならば、法華経を読んで、尊いと感じる人もいれば、そう感じない人間もいるからである。



※大乗非仏説:大乗経典が、釈迦の説法を反映したものではない、という説。近代仏教学以前より、江戸時代の富永仲基という学者が、これを指摘していた。